山小屋のなかでは、ひとりの女と3人の男が、とろとろと燃える 囲炉裏火に手を翳している。 楢の薪が燃える匂いが天井裏に吊るされた火棚にまで陽炎の ようにたちのぼる。 椿林太郎は、炉端に積み重ねられていた楢の薪を囲炉裏火に くべたす。囲炉裏火は燻りはじめる。 山形検事は尺八のような火噴き竹でふうふう酸素を送り込む。 酸素を吸い込んだ囲炉裏火はしだいに燃え盛ってゆく。 「たしかに、そのォ」 椿弁護士は小松原郷における御定書の法解釈をはじめた。 「民主主義が定着し、個人の基本的人権が憲法上も保障された 現代国家における法理論としては、山形検事のいうとおりだ。 しかし、嘗て歴史的には慣習法上の権利とされていた『初夜の 権利』が、小松原郷御定書では、慣習法ではなく、『実定法』と して、その第11条で明文化されているのだ」 「アッ ! 先生。其ノ、ジッテイホウ、云ウノア何ノ事デ有リアスカ」 「あ、失礼。『実定法』というのは、現実に法として定律された法 を意味する。これに対し,て望ましいがまだ制定されていない法 を『理想法』という。話しが堅くなりすぎたかな」 「イイエ。其ノ意味ア判リアシタダ」 「それでは、さきほどのはなしだが。『初夜の権利』が基本法で 明文化されている以上、その『規範』の適用を受ける郷民として は、その規定に服従するしかないでしょう」 椿『この解釈は、規範の本質には深入りしない当面のありきたり の法解釈にすぎない』 椿弁護士は胸のなかで呟いた。 「小松原郷の御定書は、たしかに」 山形検事が椿弁護士のコメントをバトンタッチした。 「それは明文化されたのだから、その意味では『実定法』と言えな くもない。だが、わしは検察官の立場から、もう少し云わせてもら おう。そもそも小松原郷の御定書なんてものは、日本国に通用す る『法』とはいえない。小松原郷の始祖かどうか識らないけど、とに かく小松原郷の創設時代に、当初、権力を掌握した郷の支配者が、 その権力の保持に都合のいいような決まりを、御定書なんていう 江戸時代の遺物のような名称をつけて、郷民を拘束しようとしただ けのななしだ。そんなものは、国民の行為準則たる『規範』とはいえ ない。それは小松原郷という一種の『部分社会』における、ひと握り の権力者によって創作された一遍の文書にすぎない。もしも御定書 の規範的な性格が裁判上の争いになったとしても、そんな規定は、 日本国法体系のもとにおいては、憲法の精神に悖る違憲の『規範』 だから無効だとして、裁判所の判決によって葬りさられるだけだ」 山形検事は公判廷において起訴状でも朗読するときのように、 滔々と述べたてた。 「まあ、そう」 椿弁護士は山形検事を嗜める姿勢になった。 「向きになるな。ここは山小屋の炉端であって、法廷でもなければ、 法学研究室のゼミナールの場でもない。小松原郷から脱郷したば かりだという、このおふたりを前にして、抽象的な議論をしてみても 埒があかない。とにかく、御定書の規範的性格については、あとで ゆっくり吟味しましょう。ここでは、さっきのはなしの続きを聞かせて もらうことにしよう。わしは、お雑煮を造るから、その間、山形検事 がリスナーになってくれないか」 炉端に起ちあがった林太郎は、小屋の奥の流し台に向かった。 「ええと。それでは」 山形検事は、椿弁護士からバトンを受けてリスナーになった。 「選手交替で、お雑煮ができるまで、わしがリスナーになりましょう」 「アノォ。リスナーニナルッテ、先生が栗鼠ニナルンデアスカ」 目を白黒させて小榊賢一が山形検事の顔を覗き込んだ。 「賢チャン。頓珍漢ナ事云ワナイデヨ」 瓜実顔で狐のような細い目をした幸恵が賢一を嗜めた。 「ああ。リスナーってのは、コリコリと栗を食べるあの栗鼠ではなくて、 はなしの聞き手の意味だよ。わしが君たちのはなしの聞き手になる」 「ハア。失礼バ致シアシタ」 「ええと。さきほどのお話しは、どこまででしたかな」 「ハイ。其ノォ」 白い瓜実顔の幸恵は、細い狐目で山形の顔を覗き込んだ。 「エエト。郷祭司サマニ命ジラレタ12月30日の日ニ『オ籠リノ館』ニ ア出頭シナカッタトイウ所迄、オ話シアシタノデゴゼエアスダ」 「そうでしたね。それで小松原郷を脱出する直前のことを教えてくだ さい。どのようにして小松原郷から脱出なさったのか。その脱出の 途中で、なにかこうトラブルは起こらなかったか。その辺のことをお はなしください」 「ハイ。今度ア、オラアガ、オ話シアスケエ」 とろとろと燃える囲炉裏火を見つめながら賢一は語りだした。 賢一『実ア、12月29日ノ夜、ウチノ物置デ、幸恵ト打チ合ワセヲシ アシタダ。12月30日ノ午後ニ、幸恵ア山神大社ニ出頭スルト云ッ テ、幸恵ノ父母ヲ安心サセル事ニシアシタダ。12月30日ノ午後2時 45分頃、幸恵ノ父母ア山神大社ノ境内デ鳥居ノ所迄、幸恵ヲ見送リ アシタガ、父母ア其処デ帰宅シアシタダ。父母ノ姿ガ見エナクナッテ カラ、幸恵ア踵ヲ返シ、熊ノ峠ニ通ジル郷ノ外レデ待ッテ居タオラア ノ所ヘ遣ッテ来アシタダ。二人ア必死デ熊ノ峠ノ雪ノ坂道ヲ攀ジ登リ アシタダ。峠ノ山頂ニア監視番ガ見張ットル関所ガ有リアスケエニ。 其処ヲ通過スルノガ難題デアシタ。ケド、監視番ガ恰度、オラアノ幼 ナ友達デアシタデ、其ノ場ア、見逃シテ貰エアシタダ。其ノ後ア、モウ 一目散ニ峠ヲ翔ケ降リアシタダ。其レアモウ必死デアシタダ』 そこまで語った賢一は、肩まで垂れた長髪を波打たせ、とろとろと 燃える囲炉裏火を見つめたまま、ふうっと溜め息を吐いた。 「なるほど。それは」 山形検事は燃え崩れた楢の薪を黒く錆付いた火箸で繕った。 「たいへんでしたね。それで熊の峠を超えてから、どうされましたか」 「ハイ。小松原郷ニ生レテ此ノ方、一度モ郷ノ外ヘア出タ事ア、有リ アセンデシタガ、兎ニ角、雪ノ中ヲ彷徨ッテ居ルウチニ猛吹雪トナリ アシタダ。ソコデ大キナ欅ノ根ッコヲ掘ッテ穴倉ヲ造リ、二人デ抱擁 シ合ッテ寒サヲ凌ギアシタダ」 「あの猛吹雪のなかで、よくまあ」 山形検事は、賢一と幸恵の顔を見比べた。 粗削りの杉板で造った白木のお盆に、お雑煮の丼を載せ、林太郎 が炉端にはこんできた。 「お待ちどうさま」 林太郎は幸恵の前にお盆をさしだした。 「おなかが空いたでしょう。さあ。お雑煮をどうぞ」 「澄イアセン」 幸恵は、微笑みながら丼のひとつを押し戴き賢一に手渡し、もう ひとつの丼を白い両手で挟むようにして、囲炉裏の縁角に造りつけ られた簡易テーブルのうえに載せた。 「山形検事もどうぞ」 冗句紛いのイントネーションで林太郎は丼を勧めた。 林太郎はお盆を炉端の筵のうえにおいて胡坐をかいた。 「お雑煮といっても」 林太郎は自分の丼をもちあげた。 「兎汁の残りで造ったあり合わせですが。いただきましょう」 椿弁護士はお雑煮に箸をつける。 「戴キアス」 賢一はお雑煮の丼を両手で捧げた。 「其レデア、戴キアス」 幸恵も賢一に見習って丼を押し戴いた。 「わしも戴くとするか」 山形検事は、ふうふう吹きながら熱いお雑煮に箸をつける。
赤土で踏み固められた土間のほか、広さ10畳ほどの板の間に なっている山小屋のなかに、兎汁で造られたお雑煮の香りが陽炎 のようにたちのぼっていった。 山小屋の外では、厳寒の低気圧は過ぎ去り、越路一帯はかんと 冴えた冬の夜空になって、ちかちか星が瞬いている。 豪雪に埋もれ、わずかに水音がする小川の周辺では艶のいい 貂が姿を見せたかとおもうと、あっというまに銀世界へ溶け込む。 深雪に埋もれ潅木のように背が低くなった欅の根っこから顔を覗 かせた山兎は一瞬、周辺を見まわし、ほんのりとした月明かりの銀 世界へ跳びだしてゆく。純白な新雪にすっぽりと埋まった山小屋が 月明かりに浮かびあがる。
とろとろと囲炉裏火が燃える小屋のなかには、ふんわりとコーヒー の香りが漂っている。 「お雑煮のあとですが、コーヒーがはいました」 粗削りの杉板で造ったお盆にコーヒーを載せて林太郎が炉端には こんできた。 「どうぞ。幸恵さん」 林太郎は幸恵のまえにお盆をさしだした。 「澄イアセン」 幸恵はにこりとして茶碗のひとつを賢一に渡し、自分の茶碗は簡易 テーブルのうえに載せる。 「山形のはここに」 林太郎は茶碗が2個残されたお盆を筵のうえにおいた。 「コーヒーカップがないので湯飲み茶碗になった。どうぞ」 椿弁護士はコーヒー入りの湯飲み茶碗をもちあげる。 「君がさっき、お雑煮を造ってるとき」 山形は炉端の角の簡易テーブルのうえに湯飲み茶碗をおいた。 「小松原郷からの脱郷のはなしはすすみ、婚約者だったおふたりは、 無事に熊の峠を超え、雪道を彷徨ったあげく、欅の木の根っこを掘って 穴倉を造り、その穴倉でふたりが抱擁しあい、寒さを凌いだというところ まできたんだ。ここから先のリスナーは君にバトンタッチするから」 「ああ。わかった。それで」 椿弁護士は賢一と幸恵を見比べた。 「その後、おふたりは、どうなされましたか。賢一さんからどうぞ」 「アノォ」 幸恵が林太郎と視線をあわせた。 「賢チャンア、大分、喋リアシタンデ。今度ア、アタシカラオ話致シアス。 椿先生、其レデ宜シイデ御座エアスカ」 「ええ。結構ですよ。それでは、幸恵さんからはなしのつづきを」 「ハイ。其レデア」 幸恵は、瓜実顔の細い狐目で囲炉裏火を見つめながら語りだした。
幸恵『其ノ後ノオ話ヲ続ケル事ニ致シアス。欅ノ木ノ根ッコニ穴倉ヲ 堀ッタノデ、其ノ穴倉デ一夜ヲ明カス事ニシアシタダ。眠ルト凍エ死ン デシマイアスンデ、二人ア互イニ相手ノ頬ヲ抓リ合ッテ、眠ラナイヨウ ニシアシタダ。ソシテ夜ガ明ケルト、人家ヲ捜シテ彷徨イ歩キアシタダ。 何処ヲドウ歩イタノカ、全ク判リアセンデアシタダ。昼間ア、良ク晴レテ 居アシタガ、夕方カラ猛吹雪ニナリアシタダ。宛モ無ク歩キ続ケテ居ル ウチニ此ノ山小屋ニ辿リ着キアシタダ。賢チャンガ小屋ノ戸ヲ少シ開ケ 小屋ノ中ヲ覗キ込ミアシタガ、賢チャンア、アタシノ手ヲ引ッ張ッテ逃ゲ 出シアシタダ。小屋ノ中デア、銃ヲ持ッタ猟師ラシイ男ノ人ガ炉端デ火 ニ当リナガラ酒ヲ酌ミ交ワシテルト云ウ事デ有リアシタダ。アタシ達ア、 二人共、熊ノ毛皮ノ外套ヲ着テ居アシタスケエニ熊ト間違イラレタラバ、 撃チ殺サレテ仕舞ウカラデアシタダ。仕方ナク二人デ手ヲ握リ合ッテ 雪ノ中ニ蹲ッテ居タラバ、猟銃ヲ構エタ人ガ近ヅイテ来テ、誰カ、誰カ ト呼バレタノデ、助ケテ下サイト、先生方ニ救イヲ求メタノデ御座エアス ダ。其処カラ先ノ事ア、先生方ノ御存知ノ通リデ有リアスダ。ハイ』
小榊幸恵は、そこまで語りおえた。 細い狐目の白い瓜実顔にほろりと涙が零れた。 「ふうむ。なるほど。」 林太郎は左手の指で目頭を押さえた。 「そういうわけでしたか。たいへんな逃避行でしたね。でも生き ていてよかった。とにかく、生きていて、ほんとうによかった」 山形はとろとろと燃える囲炉裏火を見つめたまま肩を揺らせ、 ふうっと溜め息を吐いた。 「これまでの話によれば」 林太郎は、炉端に積みあげられた楢の薪を1本引き抜いて、 囲炉裏火にくべたした。 「あなたがた、おふたりの行為は、まず小松原郷から郷の外へ 脱出したことで、御定書7條の『総テ郷民ハ、郷ノ外ヘ移住スル コトヲ得ズ』という規定に抵触することになりますな。そして次に 郷祭司に命じられたのにも拘わらず、昨年12月30日の午後 3時に山神大社の『お籠りの館』に出頭しなかった不作為は、 郷祭司の『初夜の権利』の行使を不可能にしたのですから郷の 御定書第11條の『新婦ニ対スル初夜の権利ハ郷祭司ニ専属 ス』という規定に抵触し、延いては御定書第13條の『小松原郷 御定書第11條ニ違背シタル者ハ石子詰ニ刑ニ処ス』という処罰 規定の構成要件に該当することになりますね」 林太郎は弁護士の立場から小松原郷御定書の法解釈をした。 椿『この法解釈は、御定書が小松原郷という一種の“部分社会”に 通用する規範であると仮定したうえでの一応のものにすぎない』 林太郎は胸のうちでそう呟いた。 賢一『タッタ今、椿先生ガ仰ッタ“コウセイヨウケン”ト云ウノア、一体 何ノコトカ、オラアニア、サッパリ判ラネエダ。恥ヲ偲ンデ聞イテミル シカ手ア、ネエダ』 「アノォ。タッタ今、其ノォ」 長髪を肩まで垂らした賢一は爛々と輝く目を細めた。 「先生ガ仰ッタ、“コウセイヨウケン”云ウ言葉ア、意味ガ其ノォ」 「ああ。構成要件ね。この」 林太郎は囲炉裏火を黒く錆付いた火箸で繕った。 「タートベスタントつまり構成要件というのはですね。たとえば郷の 御定書第13條のような犯罪を構成する要件のことです。この犯罪 構成要件は、どんな条件を具備した行為がなされたときに、その 犯罪が成立するかという、法が予定している要件を意味します。 けど、このことばは、法の世界における専門語ですから、よく判ら なくても結構です。要するに処罰規定が予定している犯罪が成立 するために必要とされる要件のことですな」 「然様デ御座ゼエアスカ」 「このように、どんな行為をすれば、犯罪行為として、どんな刑罰 によって処断されるか、ということを、あらかじめ法定しておく建前 を『罪刑法定主義』といいます。この建前は、結局、国民の人権を 保護するという機能に結びつくわけです」 「其レア、又ドウシテデ有リアスカ」 賢一は長髪を揺らせて首を傾げる。 「その理由はですね。どんな行為をすれば、どんな刑罰を受けるか ということを、予め法律によって明確に規定しているので、そのよう な規定に抵触しないかぎり、国民は自由に行動できるからです」 「ハア。判ッタヨウナ、判ラナイヨウナ感ジデ有リアスダガ」 「よく判らなくても結構です。とにかく罪刑法定主義というプリン シプルは、国民の人権を擁護するという重要な機能を担ってい るわけですが、それというのも、処罰規定に抵触しないかぎり、 国民は自由に行動ができるわけです。そうだとすれば自由競争 の取引社会において活発な企業活動も可能となるわけですね」 「然様デ有リアスカ.何ントナク、其ノ」 小榊賢一は爛々と輝く鋭い目で林太郎を見つめる。 「少シア判リカケテキアシタダ。ソウスルト、オラアガ幸恵の云イ 成リニナッテ、昨年ノ12月30日午後3時ニ山神大社ノ『オ籠リ ノ館』ニ幸恵ヲ出頭サセナカッタ。其ノ為ニ郷祭司サマノ『初夜 ノ権利』ノ行使ヲ妨ゲタト云ウ行為ガ御定書第13條ニ規定スル 罪ノ“コウセイヨウケン”ニ該当スルト云ウ事デ有リアスカ」 「まあ。そいうことになりますな。ですから、このまま小松原郷に 引き返したならば、郷祭司によって石子詰の刑によって処刑さ れることになります。なんですか。その時代錯誤のような刑に より処刑される可能性は否定することができません」 「ハイ。其ノ事ア、先生ノ仰ル通リデ御座エアスダ」 小榊賢一は、きちんと正座して胸を張ったたまま、納得したと いう表情になった。 「しかしこれまで、そのォ」 腕を組みリスナーになりきっていた山形検事が語気を強めた。 「椿弁護士がコメントされた御定書の法解釈は、小松原郷で何者 かによって制定された、得体の知れない御定書という『規範』が、 その社会に通用する真っ当な『法』としての規範的効力を有する と仮定した場合のはなしだ。けど、わしに云わせれば、小松原郷 御定書なんていう規定は、日本国の法規範としては、なんらの効 力を有しない、ただの紙切れにすぎない。だとしたら、そんなもの を怖がることはない。いざというときには、このわしが命を賭けて でも、君たちをまもってやるから、なにも心配は要らない」 「検事サン。本当ニ。其ノォ」 賢一は爛々と輝く真剣なまなざしで山形検事を見つめる。 「オラア達ヲバ護ッテ下サルンデ有リアスカ」 「ああ。ちゃんと護ってあげるから、心配は要らない」 幸恵『果タシテ、ホントニ護ッテモラエルノカシラ』 小榊幸恵は胸のうちで呟いた。 「兎ニ角、検事サンニ護ッテイタダケルトシテ。一体、ドウヤッテ 郷カラアタシ達ヲ護ッテクダサルンデ有リアスカ」 細い狐目をさらに細めた白い瓜実顔は心許なさそうになった。 「どうやってって。それはその。つまり法律によって擁護すること になる。そもそも郷祭司は、郷民に対して石子詰なんていう処刑 をする刑罰権を有しているわけではない。郷祭司の行為は日本 国の刑法に照らせば、立派な犯罪行為といえるのだ。郷祭司に よる刑の執行は、刑罰権の行使としては正当化されない。ただ のリンチにすぎない。リンチは私的刑罰として犯罪を構成するの だ。日本国の警察や検察庁が捜査に乗りだし、郷祭司を逮捕し て、裁判にかけることになる」 「チョット待ッテ下セイアシ。事モ有ロウニ」 賢一は、顔を赤らめ、爛々と輝く鋭い目を皿のようにして身を 乗りだし語気を強めた。 「郷祭司サマヲ逮捕スルナンテ。ソンナ恐レ多イ事ガ出来ルンデ 有リアスカ。ソンナ無法ガ許サレル筈ガ有リアセン。恐レ多クモ 現人神ヲ逮捕スルナンテ、ソレコソ、御定書第1條ノ忠節条項ニ 違背シアスケニ。無茶トイウモンデ有リアスダ」 「まあ。そうカリカリするな。人の話は最後まで聞くもんだ。耳の穴 をかっ穿って、わしの話を最後まで、じっくりと聞いてくれ」 「ハイ。余リニモ」 賢一は肩まで垂れた長髪を波打たせ検事のまえに頭をさげた。 「恐レ多イ話ナンデ。遂、カットナッテ。澄イアセン」 「それでは、さっきの話をつづけます。日本国の警察や検察庁は、 小松原郷に乗り込み、捜査をすすめ、証拠が固まれば郷祭司を逮捕 拘留して、刑事裁判にかけることができます。その公判廷において、 これまで郷祭司が石子詰の刑で郷民を処刑してきた事実が明白にな れば、殺人罪として裁判所から死刑の判決がでることは明らかだ。郷 の外では、そいう法的手続をとおして、君たちを護ることができる仕組 になってるんだ」 「然様デ有リアスカ。郷ノ外デア、ソンナ手立ガ出来ルンデ有リアスカ」 幸恵『アタシ達、此ノ検事サンニ救ッテモラエルカモ知レナイ』 細い狐目をした白い瓜実顔に安堵の色がはしった。 幸恵は胸に手をあてほっと息を吐いた。 「まあね。小松原郷は」 太い声で山形は検事風を吹かせつづける。 「地図にもない幻の里とはいえ、行政区画としては、おそらく新里村に 所属してるはずだ。そうだとすれば、当然の帰結として、日本国の統治 権が及び、日本国の法律がそまま、そっくり適用されることになる。その 日本国刑法によれば、郷祭司の行為は立派な犯罪を構成するはずで すな。そういうことになるんだ」 「ええっと。この辺で、ちょっと」 林太郎は、セピアの彩りをした皮のジャンパーの内ポケットから携帯 電話をとりだした。 「ひとやすみしましょう。この山小屋では、ろくな料理もできない。そこで 一旦、新里村清風山の、わしの実家に身を寄せることにしましょう。女 の足では雪道はたいへんだから、わしの弟の林次郎に機械橇で迎えに来て もらうことにします。いま連絡してみます」 林太郎は携帯電話のボタンを押した。 「ああ。林太郎だが。突然のことで澄まないけど、珍しいお客さんができ てね。女性がひとり居るんで、雪道はきついから、橇で迎えに来てもらえ るかな。・・・。あ、そう。それじゃよろしく頼む。雪崩に気をつけて」 林太郎は携帯電話を内ポケットにしまいこむ。 賢一『椿先生、誰ト話シテ居タンダロウ』 胸のなかで賢一は不思議でならなかった。 「アノォ。椿先生。今ノ」 爛々と輝くおおきな目をいくらか細め、賢一は首を傾げる。 「オ話シ、何処ノ誰トナサレタンデ有リアスカ」 「ああ。いまの電話ね。5キロも離れた実家の弟と喋ったんだが。 それがどうかしましたか」 「5キロモ離レテイテ、顔モ見エネエ人ト話ガ出来ルンデ有リアスカ。 良クマア顔モ見エネエ相手ノ声ガ聞コエテ来ルモンデ有リアスネ。先生 ア千里眼デア無クッテ千里耳デ有リアスカ」 林太郎『この男、なんておかしなこと云ってるんだおう』 椿弁護士は胸のなかで呟いた。 「ええと。先ほどの電話のことですか。それがどうかしましたか」 林太郎は賢一の鋭い目と視線をあわせた。 「ハイ。先程、先生ガ話サレタモノハ『デンワ』ト云ウモンデ有リアスカ。 オラア、初メテ聞ク言葉デスケニ。不思議デナラネエダ」 「あ、そう。小松原郷には、いまだに」 林太郎はジャンパーの内ポケットから携帯電話をとりだした。 「電話というものがないんだね。なるほど、そうでしたか。そういう事情を しらなかったもんだから、ごめんなさい」 「イイエ。ドウ致シマシテ」 「この電話という通信用の道具を用いると、電波を利用して、遠く離れた 人と相互にお話しが出来るんです。もともと電話は、ケーブルで繋いで 通話していました。けど最近はコードレス電話につづいて携帯用の無線 電話器が開発され、急速に普及してきたんだ。しかも小型化されポケット に入れて自由に持ち歩きできるようになった。だから携帯っていうんだ」 賢一『アノデンワニ触ッテミタイ』 小榊賢一は幼児のような気持ちになった。 「これがその携帯電話なんだが」 林太郎は携帯電話を賢一にわたした。 「澄イアセン」 賢一は怖々とそれを受け取り耳にあてがった。 「何ンモ、サッパリ」 賢一は一瞬、首を傾げる。 「聞コエアセンデアスガ」 「ああ。そのままでは通話できないんだ。電源をいれて相手方の電話番号 にあわせてボタンを押さなければだめなんだ」 「オラアニア、無理ダスケエニ」 賢一は携帯電話を耳にあてたまま、きょとんとしている。 「先生ニオ返シ致シアス」 「どうも、どうも。そのうち」 林太郎は携帯電話を受け取る。 「林次郎から電話がはいるかもしれないから、電源をいれておこう」 携帯電話の電源をいれ、囲炉裏の縁の簡易テーブルに載せる。 「それでは、さきほどの」 林太郎は炉端に起ちあがりかけた。 「お話しのつづきを聞かせていただきましょう。それにしても、ちょっと、 おなかが空いてきたな。切り餅でも焼いてくるか」 「いや、ちょっと」 山形はすくっと炉端に起ちあがった。 「待ってくれないか。餅焼きなら、わしに任せて、君はつづきを聞いて やってくれないか。餅はどこにあるかな」 「ええと。そのォ」 林太郎は炉端に胡坐をかいた。 「切り餅は、ダンボール箱にはいっている。流し台の脇に小型の五徳 があるから、その五徳をガスレンジの上に載せ、そのうえに餅焼き網 を被せて、細火で焼いてくれないか」 「OK ! 」 山形は小屋の奥の流し台に向かった。 「ええと。さっきの」 黒く錆付いた火箸で林太郎は燃え崩れた楢の薪を繕った。 「小松原郷のおはなしは、どこまですすみましたかな」 「ハイ。此ノ儘、俺ラアガ小松原郷ヘ帰ルト、郷祭司ニ因ッテ石子詰ノ 刑ニ処セラレテシマウ、ト云ウ所迄デ有リアシタダ」 賢一はとろとろと燃える囲炉裏火を見つめ肩を揺らせ溜め息を吐く。 「そうでしたね。石子詰の刑に処せられる理由は、小松原郷御定書第 11條に規定されている郷祭司の初夜の権利の行使を妨げたというこ とでしたね。そうすると、山神大社の境内にある『お籠りの館』で行われ る儀式というものは、どのような形式でなされるセレモニーですか」 炉端できちんと正座していた賢一は囲炉裏火に目をおとし語りだした。
賢一『其ノ郷祭司サマガ指定サレタ日時ニ、マズ新婦トナルノ処女ノ娘 ガ「オ籠リノ館」ニ出頭致シアスダ。山神大社ノ「オ籠リノ館」ノ前デア、 篝火ガ炊カレテ居アスダ。其ノ篝火ノ近クデア、館番ノ男ガ銃ヲ構エテ 警戒シテ居アスケエニ、誰モ館ニ近ヅク事ア出来アセン。此ノ館ニア、 娘一人デ出頭シナケレバナリアセン。誰モ娘ニ就イテ行ク事ア出来ア セン。ソウダスケエニ、娘ノ両親ヤ身内ノ者ア、山神大社ノ境内ノ鳥居 ノ所デ娘ヲ見送ルシカ有リアセン。新婦トナル筈ノ娘ア、一人デ館ノ中 へ入ッテ行クシカ有リアセン。其処カラ先ノ事ア、男ノ俺アニア、判リア セン。ハイ』
語りおえた賢一は、顔をあげて林太郎と視線をあわせた。 「ソウダスケエ。其処カラ先ノ事ア幸チャンニ話サセアスケエニ。 オ許シ下セエアシ。ソレジャ、雪チャン話シテ」 「なるほど。それでは幸恵さんにおねがいしましょう」 「ハイ。アタシア、未ダ、『オ籠リ』ノ経験ガ有リアセンノデ、此レカ ラ先ノオ話ア、3年前ニ『オ籠リ』ヲ済マセタ姉カラ聞イタ事デ有リ アスダ」 「そうですか。そこから先の話の内容は、伝聞つまり又聞きという ことですね。その又聞きでも結構ですから、そのセレモニーの内容 をできるだけ具体的にお話しいただけますか。興味深い問題ですな」 炉端の簡易テーブルのうえで携帯電話のシグナルが鳴り響いた。 「ちょっと、お待ちください」 林太郎は携帯電話をとりあげた。 「あ、林太郎だが」 「林次郎だ。いまから出発するすけえ。雪道と云っても、吹雪の吹き 溜まりで道と藪の区別がつかねえだ。そうだすけえに、カンジキで雪 を漕ぎわけながらすすむしかねえだ。そうだすけえに、山小屋まであ 2時間以上はかかるだ。そのつもりで待っててくんな」 林太郎『聞き慣れた林次郎の魚沼弁が伝わってきた。ここは故郷な んだ。オレは雪深い故郷に滞在してるという実感が湧いてきた』 「ア、判った。それでは頼みます。むりをしないで、雪崩にも用心して くださいな」 電話はそこできれた。 「迎えの機械橇が来るそうだ。ええと。さっきの話の続きを」 林太郎は携帯電話をセピアの彩りをした皮のジャンパーの内ポケッ トにしまいこんだ。 「お待ちどうさま。餅が焼けました。それでその」 山形は、粗削りの杉板で造った白木のお盆のうえに竹の笹を敷き 詰め、そのうえに焼きあげた餅を載せて炉端にはこんできた。 「お皿がないから流し台にあった竹の笹を敷いてみた。お醤油の小皿 もないから丼の底にお醤油を垂らしてあります。餅を千切ってはその お醤油をつけて食べてもらうしかない。さあ。どうぞ召しあがれ」 山形は賢一の前にお盆をさしだした。 「ソレデア、戴キアス」 丼のひとつを炉端の簡易テーブルのうえに置いた賢一は、焼餅を 左手で摘み、右手でお盆を受けとり、そのまま幸恵にわたした。 「オ先ニ戴キアス」 幸恵は賢一の仕草を見習うかのように、丼のひとつを簡易テーブル のうえに置き、餅を摘み揚げ、お盆を林太郎にまわした。 林太郎はお盆を炉端の筵のうえに置いた。 「それでは検事さんが焼きあげたお餅をいただきましょう」 林太郎は冗句紛いのイントネーションで餅を摘みあげた。 「餅の焼け具合はどうかな」 山形は独り言のように呟きながら餅を引き千切った。
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