小松原郷では、大榊郷祭司の自刃を契機に連鎖反応のように 郷民の小榊たちのなかに自決の津波が巻き起こった。 郷祭司の自刃に対する殉死ともみられる自決の津波は、あっと いう間に郷のすべてを呑み込み、幻の秘境は死の峡谷と変貌した。
死の峡谷と化した小松原郷の終焉を生々しく収録した録画は マスコミにより公開された。 この報道を契機に日本列島にはリアクションの嵐が津々浦々に まで巻き起こった。
信濃川の支流という釜川の上流に小松原郷なんていう秘境があったとさ。 まるでお伽噺のようなはなしだなあ。 機動隊は郷に突入する前日に『無駄な抵抗はしないように』という趣旨の ビラをヘリコプターで郷の上空からばら撒いたらしい。 なるほど。それで『もうこれまで』と覚悟した郷祭司は山神大社の本殿で 白装束のまま割腹したのかもしれない。 郷祭司さまが昇天なさったからもはや生きてはいられないと。 それで各人各様の遣り方で自決したんだろうな。 死の峡谷と変貌した郷の『国民学校』の校庭の桜はことしも見事に花開き 満開になったそうな。 まさに『国敗れて山河あり』という心境だなあ。 それにしても、どうしてまたそんな山奥にまるで王朝時代のような君主主義 の邦(ラント)が創設されたんかね。 それがね。終戦直前に日本陸軍の高田第30連隊で将校が首班となり数十人 の下士官・兵士などを従軍させ軍用トラックに武器弾薬・食料を積載して 脱走し、某上等兵の故郷の村落の山奥へ逃げ込み住み着いたらしい。 その将校が郷祭司になったんか。 脱走兵の中に女はいないはずだが。 それでも郷に女がいて子孫をのこしたわけだが、その理由はこうだ。 どんな理由かね。 そりゃ、きまってるでしょう。女の誘拐だよ。 ああ。終戦直後に、熊の峠に隣接した村落で若い女がさらわれるという事件 が多発したそうだが。 それで、その女に男が種付けをして子供を産ませたというわけか。 そうなんだ。小学校の女先生まで誘拐されてる。 ああ。その女先生が『国民学校』の校長先生になったというわけか。 それに終戦直後には農業倉庫などが荒らされ米などの食料品が盗み だされていたらしい。 なるほどな。脱走兵軍団が盗賊集団になってしまったか。 それらの事件は未解決事件として地元の警察署に記録がのこされてる。 そうした歴史を経て小松原郷帝国が形成されたというわけなんだな。 その帝国では『お定書』という時代遅れの規範が鼎立(ていりつ)され 郷の『基本法』つまり『憲法』として通用し、郷民の『基本的人権』は無視され てきたわけなんだ。 まったく酷いはなしだね。 2000年の時代になって、ようやく郷民は専制政治の支配から解放される はずだったが、解放されるまえに、こぞって自決してしまったんだ。 実に悲惨なはなしだな。 まるで太平洋戦争時代にみられた『沖縄の集団自決』みたいだね。 市民に適用される『規範』というものはおそろしいもんだ。 立法権は郷祭司に専属していたんだから。 郷祭司の独裁政治がよくまあつづいたもんだなあ。 なにしろ軍国主義時代の教科書を用いた教育をしてたんだからな。 一億皇国民の総白痴いや郷民すべてのマインドコントロールのせいだ。 教育とはおそろしいもんだな。
これから小松原郷はどうなるんか。 なんでも地元の行政は郷を観光地として再開発するらしい。 温泉でも湧くといいんだがな。 ひょっとしたら、そのうち温泉が噴きだすかも。 そうなるといいね。 ところで死の峡谷と化した郷では唯一の生き残り郷民として テレビでも放映されたあのカップル小榊賢一とその許婚の 小榊幸恵はどうしてるの。 あのね。そのカップルは熊の峠の山頂に店を開いたそうだ。 そのお店ってのあ土産物かなんかの。 そうなんだ。『小榊商店』という店で観光客も日増しに増えて、店は 繁盛してるらしい。 こんどの休暇には一度、あの『いしこづめ』の処刑場を見学したい。 まるで時代劇映画のセットみたいなものかもしれない。 まあね。とにかく一度、小松原郷を散策してみよう。
無人となった小松原郷『国民学校』の校庭に桜が満開となった。 真夏の太陽が処刑場にじりじり照りつけている。 楢の幹で油蝉がじいじい啼いている。
小松原郷の山々が紅葉し夕陽に照り映えている。
小松原郷一帯に津々(しんしん)と粉雪が舞いおりている。 校庭の桜の枝に白雪が舞降り、校舎の屋根に雪が積もっている。 校庭の桜が満開になっている。
真夏の陽光が郷の雑木林にじりじり照りつけている。 ブナの幹で蜩がもの哀しく啼いている。
小松原郷の山々の紅葉が夕陽に照り映えている。 山神大社の境内近くの欅が美しく紅葉している。
風雪はとめどなくながれ去った。
椿家の書斎では、椿弁護士がどっしりとしたデスクに向かい分厚い判例集を 捲っている。 書斎の壁に掛けられた日捲りカレンダーは2004年5月19日になっている。
東都地検の山形検事室では、山形検事がデスクに向かい書類を点検している。 『コーヒーを炒れました』 女の検察事務官がコーヒーを検事デスクにさしだす。 『どうも』 山形検事は熱いコーヒーをすする。 小松原郷に通じる関門としての熊の峠周辺は燃えるような新緑の樹海が波うつ シーズンになった。 熊の峠の頂上には、ささやかなトタン葺き平屋建ての店舗が建っている。 お土産の店 『小榊商店』という白い看板が初夏の陽光に煌(きら)めく。 広さ10畳ほどの売り場には、干し柿、山独活(やまうど)、薇(ぜんまい)などの ほか蕗の薹(ふきのとう)、蕨(わらび)などの山菜が並べられている。 魚沼産コシヒカリを炊きあげた海苔巻きのおにぎり弁当の脇にはサツマイモに 蒟蒻(こんにゃく)、蕨や薇、栗、揚げ豆腐などを煮込んだお惣菜もならべられている。 若い男女の観光客が坂道を登りつめる。 ふたりは珍しそうに店を覗きこむ。 「ごめんください」 若い男が奥に向かって叫ぶ。 「いらっしゃいませ」 ピンクの手拭で姉さんかぶりをした小榊幸恵が店の奥からあらわれる。 「なんになさいますか」 幸恵はにこりとして愛想よく応対する。 「このオムスビ、コシヒカリですか」 「はい。100%のコシヒカリを薪の釜で炊きあげたものです」 「そりゃ、すばらしい。オムスビ4つ」 「はい。かしこまりました」 幸恵はオムスビをラップに包みかかる。 「それに、この煮物もいただきます」 「ありがとうございます」 幸恵は煮物入りの容器をとりあげ、角底袋にいれる。 「おまたせしました」 若者は代金を支払い、坂道を降ってゆく。 幸恵は坂道を降ってゆく観光客をみおろす。 うっと背伸びをした幸恵は店の奥へ消えてゆく。 山頂からかなり離れた崖っぷちで、小榊賢一が山菜採りをしている。 岩場に角を覗かせた山独活を見つけた賢一は、足場を踏み締めながら 独活のねっこにぐさりと鎌をさし込む。左手では若い独活を握り締める。 ふんわりと独活の新鮮な香りが漂(ただよ)う。
椿弁護士の声『無残な終焉を迎えた小松原郷は、マスコミにより報道され て以来、秘境の邦として日本列島に知れわたった。行政当局は郷を観光地 として開発することになり、温泉の掘削もすすめられていた。 小榊幸恵と賢一は、生き残りの郷民として熊の峠の山頂にお土産店を はじめていた。賢一が山菜を採り、それを幸恵が売りさばくという平和な 暮らしがつづいているのだった』
岩場から賢一が狭い山道に降りてくる。 山菜の入った籠を背負い、賢一は帰途につく。 爽やかな緑風が汗ばんだ賢一の頬を撫でる。 澄み渡った天空には、白い塊の雲がゆっくり西の空から東へうごいてゆく。
【了】
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