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作品名:いしこづめ 作者:花城咲一郎

第15回   秘湯の里
 その年の桜前線は、しだいに日本列島を北上していった。
 越後平野と関東を隔てる越後山脈から三国峠に連なる上信越国立
公園の一帯では、融雪の季節も過ぎ去り、緑風の爽やかな初夏を迎え
ていた。
 積雪3メートルという豪雪地帯では春の訪れも遅かった。
 それだけに春の季節は短く、自然の歯車は急速に回転し、あっという
まに初夏を迎えるのだった。

 上越新幹線越後湯沢駅から峠を超える越路自動車道の周辺でも、
緑一色の樹海が波打つ季節になっていた。
 その峠を超えた谷底には、秘湯の里といわれる清津峡温泉郷に連な
る清津川が豊かな水量で流れくだり、信濃川に合流している。
 豊かな清流が流れくだる清津川は、上流の山岳地帯の融雪で雪解け水
により水嵩が増していた。

 上越新幹線越後湯沢駅の高架式プラットホームに、大蛸の頭のよう
な流線型をしたハイテク電車が滑り込んできた。

 駅長室では、壁に掛けられた大型の『日捲りカレンダー』が水色の
太い文字で2000年5月27日になっている。

 高架式プラットホームでは、屋根下に吊るされたグリーンの縁取り
をした『吊るし時計』の長針がぴくりとうごき午後3時になった。
 新幹線の下り線高架式ップラットホームの待合室から山形検事が
あらわれた。

 検事の山形は、背広の胸に『白銀の胸章』といわれる検事バッジを
佩用している。
 この角型の胸章は、『秋霜烈日』を意味しているのだった。『秋霜』は
晩秋の厳しい寒冷の霜をいい、『烈日』は真夏の烈しい日差しをいう。
この『秋霜烈日』を意味する検事バッジは、刑罰や権威・志操の厳しさ
という検事の検察機関としての地位と職責を象ったものである。
 黒緑色のスーツを纏い黒いカバンを提げた山形検事はプラットホーム
に降りてくる乗客をこまめにチェックしてゆく。
 するとグリーン車のなから椿林太郎がプラットホームに降りたった。
 林太郎は茶系統の背広の胸に『黄金の胸章』といわれる弁護士バッジ
を佩用し、チョコレート色のおおきなカバンをさげている。
 林太郎の胸に輝くこの花型の胸章は、その中心部に天秤のデザイン
が彫刻されている。
 向日葵の花のようなこの弁護士バッジは、『公平』を旨として人権を
擁護すべき弁護士の地位と職責をシンボライズしたものだった。

「やあ。椿 ! ここだ」
 山形検事は叫ぶように太い声を張りあげ、右手を高く挙げた。
「やあ。山形。お待たせ」
 林太郎は左手を挙げながら急ぎ足になった。
「これで、一泊二日の旅のための合流に成功したわけだ」
「まあね。新幹線の開通で東京も近くなったもんだ」
 山形検事は椿弁護士と肩をならべた。
 揉み上げや項(うなじ)に白髪がちらつきはじめた、ふたりの友は肩を
ならべ、高架式プラットホームをあるきはじめた。
 やがてエスカレーターで一階の駅舎に降りていった。

 越後湯沢駅の駅舎からでてきた林太郎と山形は、駅前のタクシー乗り
場に向かってあるきだした。
 タクシー乗り場に待機していた越路交通の車に林太郎が先に乗り込ん
だ。山形検事もからだを屈めて乗り込む。
「ええと。清津峡温泉郷を目標におねがいします」
 林太郎はドライバーに命じた。
「はい。わかりました」
 ドライバーは車を発進させた。タクシーはゆっくり滑りだした。
「小松原郷への」
 林太郎は山形検事の顔を覗き込んだ。
「突入の情報は、君から電話でしらされただけで、マスコミではなにも報道
されなかったが。いったい、どういうわけかね」
「ああ。それはね。なにしろ」
 山形検事は人目を憚るように小声になった。
「前代未聞の事件だっただけに」
「それはそうだが」
「検察側の方針としては、極秘のうちに捜査をすすめることになった」
「なるほど。検察の気持ちはわかる」
「そこでまず、なによりもマスコミに素っ破抜かれないように細心の
配慮をすることになったんだ」
「ほう。それで」
「まず記者クラブの記者連中をシャットアウトして、厳重な報道管制を
しいたんだ」
「なるほど。突入のときの状況は一刻もはやくしりたいんだが」
「そのときの状況は、ビデオ撮影してるから、あとで極秘に見てもらい
ます。それは宿泊先の温泉旅館に着いてからになるけど」
「わかった。未公開の情報なら、そうするしかないな」
 林太郎は緑滴る窓外の風景に視線をながした。
「今夜の宿は、ええと」
 山形検事は走り去る窓外の風景に目線を向ける。
「清津峡温泉郷の清津館でしたかね。わしは清津峡の峡谷にはまだ
足を踏み入れたことがないんだ。わしにとっては、こんかいが初の峡谷
入りということだ」
 田園風景のつらなる自動車道をタクシーは走りつづける。
 林太郎は車窓をわずかに開ける。
 爽やかな緑風が頬を撫でる。
 やがてタクシーは、田園風景から抜け、登攀のコースにさしかかる。
緩やかな坂道はしだいに急勾配になり峠を攀じ登る登攀になった。
「そろそろ峠超しになるから」
 林太郎はシートベルトを締めなおした。
「ベルトをしっかりと締めてくれないか」
「峠超しは、かなりの急勾配だからな。ベルトを締めなおすとするか」
 山形検事は呟きながらシートベルトを締めなおした。
 タクシーは、雪崩避けの鉄柵のしたをスローテンポで登りはじめる。
 やがてタクシーは螺旋状の急坂にさしかかる。
「あれ ! 窓の外の景色が斜めになった」
 山形検事が子供染みて嬌声をあげた。
「ああ。人間の視覚は、自分を基準にして外界を認知するようになって
いるから、タクシーとおなじく自分の姿勢が斜めになっているのに、実は
垂直なはずの外景が斜めになって見えるんだ。それだけこの自動車道
は急坂になってる証拠だ」
「そうなんだ。そのことは、たしか心理学の『視覚』の章でまなんだね」
「まあね。事件の目撃者の目撃証言の信憑性を判断するときにも視覚
の法理は大切になってくる」
「たしかに。そうだ」
 動画のようにあとへあとへと走り去る斜めの風景が急に正常にもどった。
「あ ! 山頂に登りつめたらしい」
 林太郎はうっと背伸びをした。
「こんどは、降りのコースになるわけだ」
 山形検事は屈めていた膝をのばした
「こんどは、坂を下るから、足元を掬われるような感覚になるんだ」
 椿弁護士も膝をのばした。
「ほんとだ。足元を掬われる感じがしてきた」
 山形検事は窓外の樹海に視線をながした。
 タクシーは軽快に降り坂を滑りだした。
 眼下に清津川の清流が視野にはいってきた。
 峠を降りきったところは舗装された車道になっていた。その車道を
左折すると道幅の狭い道路がつづいている。
 川に沿った狭い道をすすみ、清津川に架橋された『万年橋』の袂に
着いた。その橋を渡り、清津川を横切って対岸にでる。
 狭い道路を左折すると清津峡谷に通じる一本道になっていた。
 道路の左右は屋根瓦を敷き詰めたような段々の田園になっている。
 やがて田園はなくなり、峡谷に添ってつづく一本道だけになった。

 左右に絶壁が連なる清津峡谷を縫うようにタクシーはすすんでゆく。
グレーに舗装された道路をゆっくりと走りつづける。
 眼下には豊かな水量でごうごうと清津川が流れくだっている。

 細い舗装道路の尽きたところが、秘湯の里といわれる静かな佇まい
の清津峡温泉郷になっていた。
 川幅の狭い谷間をごうごうと流れ砕ける清流の水音だけが、緑一色の
谷間に木霊している。

 清津館の正面でタクシーは停った。
 山形検事がタクシーから降りた。
 料金を清算して椿弁護士もタクシーから降りる。
 山形はぐるりと周辺をみまわした。
 古風なデザインで三階建ての清津館は背後の岩にしがみつくように、
ひっそりと建っている。
 清津館の周辺には数軒の旅館や民宿がひっそりとした佇まいをみせ
ているのだった。
 
 ふたりの友は、肩をならべて清津館のフロントにはいる。
 カウンターから和服姿の女将がでてきた。
「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」
 瓜実顔をした女将は笑顔で迎えてくれた。
「予約してました椿ですが」
 椿弁護士は女将と視線をあわせた。
「お部屋にご案内いたします。特等室はお二階でございます」
 女将は先にたって小刻みにあるきだした。
 椿弁護士は女将のあとに寄り添った。
 山形検事もそのあとにつづいた。

 清津館の大浴場では、椿弁護士と山形検事が首だけだしてお湯の
溢れるおおきな湯船に浸かっている。
 壁際の湯口からは、摂氏50度の熱い温泉がふんだんに流れつづける。
 大浴場の北側と西側は分厚い透明なガラス張りになっている。北側の
ガラス壁超しには、燃えるような新緑の絶景が展望される。西側のガラス壁
超しには地肌を丸出しにした堅い絶壁がそそりたつ。 
 峡谷ならではの絶景であった。

 清津館の三階では、浴衣姿の椿弁護士が特等室の『桔梗の間』に
はいっていった。
 すこし遅れて山形検事も『桔梗の間』にはいってゆく。
 この『桔梗の間』は峡谷の絶景を一望にすることができる特等室
になっていた。
 椿弁護士が『桔梗の間』にはってくる。
 部屋の中央には紫檀のテーブルが配置されている。
そのテーブルのうえには山菜料理など盛りだくさんな献立で料理が
ならべられている。
「おお。これは」
 椿弁護士はテーブルの脇におかれた座椅子に凭れる。
「懐かしい郷土料理だ」
「ほう。これが越後魚沼の郷土料理か。すばらしい」
 すこし遅れて、はいってきた山形検事は椿弁護士と差し向かいで
座椅子に座りながら感服する。
「お待たせしました」
 和服姿の若い仲居が数本のビールと日本酒をはこんできた。
 仲居はビールの栓を抜いた。
「椿先生。どうぞ」
 椿弁護士がさしだしたグラスに仲居は酌をする。
「山形先生もどうぞ」
 微笑みながら仲居は山形検事のグラスにビールをそそいだ。
「どうぞ。ごゆっくり」
 畳に三つ指をついた仲居は『桔梗の間』から消えていった。
「それでは、再会を祝して」
 椿弁護士はグラスを翳した。
「乾杯 ! 」
 山形検事もグラスをもちあげた。
「乾杯」
 林太郎はビールをすすりあげた。
 山形もビールをひとくちすすった。
「早速だが。ええと」
 林太郎は『鯉こく』のおおきな黒いお椀の蓋に手をかける。
「小松原郷の捜査状況をはなしてくれないか。もちろん、捜査上の
秘密は厳守するから」
「あのね。機動隊が出動したのは」
 山形は黒紫色をした山菜に箸をつけた。
「実は5月14日の深夜だったんだ」
「そう。あ ! その黒紫色の山菜は『木の芽』とういんだ。魚沼地方
ではね。これは木通(アケビ)の柔らかい若芽を摘み取って熱湯で
茹であげたもんなんだ。これは越路独特の山菜なんだが、その皿
の脇にある生卵に塗して食べるとまた格別の味がするんだ」
「なるほど。アケビの若芽ね。都会育ちのわしにとっては」
 山形は黒紫色の『木の芽』を箸の先で摘みあげた。
「文字どおりの珍味といえる。生卵で食べるんか。そういう食べ方も
あるんだね。その昔、修学旅行で地方に出かけたとき、桑の実は
食べたことがあるけど、そのほかの山菜には縁がないんだ」
 山形は、摘み上げた『木の芽』をガラスの容器に溶いた生卵に
塗してくちにいれる。
「おお ! これは。ほろ苦さが格別だね」
「まあね。今夜は無礼講でいこう。手酌でぐいぐい飲んでくれ。それ
にしても」
 林太郎は自分のグラスにビールをそそいだ。
「よりによって深夜の出動になったとは、どういうわけかね」
「それがね。そもそも」
 山形は自分のグラスにビールをなみなみとそそいだ。
「小松原郷の捜査は、極秘に遂行する建前だった。それでまずなに
よりもマスコミに素っ破抜かれないように、細心の配慮をなして、ひそ
かに深夜の出動となったわけだ」
「それで。装甲車はどこまではいれたんですか」
「君の生まれ故郷の清風山部落に通じる潅漑用の水路に沿ってすす
み、その水源地帯までは車がはいれる道路が開通していたからな。
ええと、信濃川の支流のひとつかな。大蛇退治の伝説があるという
七ツ釜から流れくだる釜川の上流あたりかな」
「なるほど。それで、賢一君と幸恵さんが滞在していたはずの山小屋
には立ち寄らなかったんですか」
「それがね。用水路の水源地帯から山奥は車が効かないから、歩行
で前進するしかなかった。その道案内をしてもらうため、山小屋の下方
の谷川の近くで部隊を小休止させ、夜明けを待つことになった。その間
に自分が2人の機動隊員を同伴して山小屋に立ち寄った」
「ほう。それであの2人の若者は元気でしたか」
「実はね。山小屋を覗いたのは午前4時ころだったんだが。小屋のなか
にはだれの姿もなかった」
「ということは、賢一君たちふたりは郷からの追っ手に捕まり、小松原郷
に連れ戻されたんかな」
「それがね。わしもはじめは、そう判断したんだが。それは誤りだった」
「誤りだったということは」
「部屋のなかのようすからみて、食器は流し台に洗い残してあったし、
寝具も使っていたもようでした」
「ほう。そうするとふたりはどこへ消えたんかね」
「3人で手分けして小屋の周辺を探索したら、小屋から50メートルほど
離れたアケビ小屋のなかに隠れていたんだ」
「アケビ小屋って。木の枝にアケビの蔓が絡んで屋根のようになった小屋
のことですか」
「ええ。そうなんです。アケビ小屋という天然の小屋を見たのは、はじめて
でした。なんだかロマンに満ちた住まいだしたね」
「山小屋から抜けだし、なんでまたアケビ小屋に隠れたんでしょうか」
「その日の午後のことらしかったんですが。郷からの追っ手かもしれない
不審な男が山小屋を覗いているところを発見したんだそうです。山菜取り
に出かけて山小屋に帰ってきたときのことだそうです」
「ほう。それでアケビ小屋に緊急避難したというわけでしたか。その不審な
男も実はただの山菜採りだったのかもしれない。とにかく生きていてほんと
によかった。それでどうしたの」
「周囲を警戒しながら、山小屋に戻り、夜明けまでに腹ごしらえを
して、道案内をしてもらうことになったんだ。山小屋から下の林道
まで降りていって機動隊と合流したんだ。そしてふたりには一行の
先頭をすすんでもらったんだ」
「小松原郷への道案内といっても、まともな道はないはずだが」
 独り言のようにいいながら林太郎は自分のグラスにビールをそそぐ。
「そうなんだ。雑木林がつづく藪の中に、わずかに残る山道の痕跡を
辿りながら、しだいに奥深くすすんでいったんだ」
「そうだね。熊の峠は、小松原郷とこちらの世界との国境だからな」
 山形はライターでタバコをつけた。座椅子の背凭れに寄りかかり
天井に向けふうっと紫の煙を噴きあげた。
「その熊の峠の頂上には、一本杉がたっているというんでね、その
一本杉はかなり遠くからもみえるというんで。その一本杉をターゲット
にして藪を掻き分ながらすすんでいったんだ」
「たいへんな強行軍になりましたね」
「まあね。3時間ほどすすむと雑木林から抜けて川幅2メートルほどの
小川にでた。そこから天空を見上げると遥か彼方に一本杉が視野に
はいってきた。そこで、ひとまず川原で小休止した」
「喉を潤したり、乾パンを食べたりしたわけだ」
「そうなんだ。賢一君と幸恵さんにも乾パンを分配してやって、驚いた」
「なんにおどろいたんかね」
「乾パンを食べるのは初めてだ、といって。警戒してなかなか食べよう
とはしなかった。隊員がみんな食べてるのをたしまめてから、ようやく
食べはじめたんだ。美味しいおいしいといいながら」
「驚くことはないでしょう。小松原郷で生まれ育った賢一君や幸恵さんに
してみれば、その暮らしのなかに『乾パン』という概念はなかったはず
なんだからな。むりもない」
「いわれてみれば、そうなんだが。生活環境がそこに住む人間の人格に
およぼす影響の重大性をあらためて考えさせられた」
「そのあとは、熊の峠までどういうコースを辿りましたか」
「それがね。ふたりの話によれば、熊の峠の山麓には小川が流れている
が。この川がその下流かもしない。というわけで、その小川に添って石ころ
だらけの川原をすすんでいったんだ」
「ほう。それでうまく熊の峠の山麓に辿りつくことができましたか」
「ええ。およそ40分ほど川を遡ると熊の峠の山麓に到着することができた」
「それで熊の峠の頂上を目指して登攀していったと」
「ええ。30分ほどで登り詰められるということだった。その山麓で小休止
することになった」
「ほう。賢一君らが脱郷のときに駆け降りた山道だね」     
「そうなんだ。実はねえ。小松原郷に突入する前日に小松原郷の上空
にヘリコプターを出動させ、その地形を調査するとともに、郷民に読んで
もらい、混乱に伴う犠牲者をださないために。『これから事情を調査する
ため警察隊が郷にはいるが、武器の使用など無駄な抵抗はしないように』と
いうビラを郷の上空から撒いてもらったんだ」
「そのあとは、どうなりましたか」
「山麓から石ころだらけの細い道は螺旋状に山頂へとつづいている
らしかった。その螺旋状の獣道のよう山道を登りつめると、そこが一本杉
の山頂だった」
「そこから先はどうなりましたか」
「そこからの状況はビデオカメラで撮影しているから、じっくりと見てくれない
か。いま、テレビにテープを装着するから」
 山形検事は起ちあがり、壁際におかれていたテレビにビデオテープを
装着した。


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