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作品名:いしこづめ 作者:花城咲一郎

第12回   罪刑法定主義
 夜の更けた椿家の邸内は、ひっそりと鎮まりかえっていた。
 生垣として植え込まれた、黒緑色のツバキの葉に白く積もった雪の
笠が蒼い月光に浮かびあがった。
 重厚な茅葺屋根の母屋は、分厚い木製の雨戸も締めきられ、寝静
まっていた。
 蒼い月光と白い雪明りで、椿家の邸内に浮かびあがった離れ家だ
けは、鎧戸もおろさないで煌々と電灯が輝いている。
 
 離れ家の日本間では、掘り炬燵をかこんで4人の男女がかたり
あっている。
「生命身体に対する刑の執行というものは、そのぉ」
 林太郎は山形検事に視線をうつした。
「目を覆いたくなるほど厳しいものなんですな。聞いているだけでも
残酷な光景というしかない。ねえ。山形検事」
「まあね。わしもなんどか」
 山形検事は腕を組んで天井を見あげる。
「死刑の執行に立ち会った経験があるが。刑の執行、とりわけ人の
生命を剥奪する死刑としての絞首刑とか『石子詰』とかいう『生命刑』
の現実の執行というものは、執行官にとっても身の毛が弥立つもん
ですよ。刑罰権の発動というものは厳しいものです」
 山形検事は、幅の広い肩を揺すり、ふうっと溜め息を吐く。
 煌々と蛍光ランプが輝く深夜の日本間は鎮まりかえっている。

 しばらく沈黙がつづいた。
「ところで『石子詰』の刑の執行が終わってからも、処刑された者は、
刑の執行後も生き埋めされたままの状態で、かなりの時間は生き
つづけることでしょう。その全身は石子詰めによって圧迫され、時の
経過とともに、しだいに血行も妨げられ、全身が冷え切ってくるし、
そのうえ飢餓に苛まれたあげく、何日かすると息絶えることになるの
でしょうな」
 腕を組んで目を瞑ったまま、林太郎は独り言のように呟いた。
「ハイ。恐ラク、ソウナル事デショウガ。只、処刑サレテモ首ダケア、
地上ニ出テ居アスケイニ。時ニア息絶エル前ニ、鷲ダノ鷹ダノ烏等
ノ格好ノ餌食トシテ、顔ヲ啄バマレテ赤イ血ガ噴出シタリ、其ノ目鼻
モ食イチギラレ、何ントモ哀レナ姿ニ成ッタ例モ有ルソウデ有リアス
ダ。此レア、俺アガ実際ニ見タ訳デア無エデアスガ。母カラソウ聞カ
サレアシタダ」
 小榊賢一はそう話すと、おおきく鋭い目の目頭に零れかかった涙
を骨太く節くれだった右手の拳で拭き取った。
「そうですか」
 腕組みを解いた林太郎は右手で目頭をおさえた。
「なんとも残酷な光景ですな。じいんときてしまいました」
「なんてこった。ほんとにまあ」
 山形検事は、公判廷において論告求刑するときのように、厳しい
表情で憤りを込めて力説しだした。
「郷祭司の大榊儀左衛門は、現人神かなんかしらないけど、小松原
郷における『石子詰』の刑の執行は、日本国刑法のもとでは、明らか
に殺人罪の構成要件に該当する違法な犯罪行為だ。そうした古い
時代の遺物のような私刑は、刑罰権が国家に帰属している現代刑法
のもとでは、絶対に許されない犯罪行為だ」
「検事サン。アノォ」

賢一『山形検事サンア何言ッテンダイ。恐レ多クモ郷祭司サマガ犯罪 
ヲ犯スナンテ。ソンナ事ヲ言ッタラバ、ソレコソ『石子詰』デ処刑サレテ
仕舞ウノア明白ダ』
 
怪訝な顔をした賢一は、たちまち反発する姿勢になった。
「ソモソモ罪人ヲ処刑スル事ガ又、ドウシテ犯罪ニ成ルンデ有リアスカ。
小松原郷御定書第13條ニ基ク刑ノ執行デ有ル以上、先程、椿先生ガ
説明サレタヨウニ、其レア『法令行為』ニ該当シ、法律上、当然ノ行為
トシテ正当化サレル筈ジャ無エンデ有リアスカ」
 賢一は厳しいまなざしで検事を見つめる。
「これは、いささか」
 山形検事は大袈裟に頭を掻いて降参のポーズになった。
「まいったなあ。小松原郷流の剣法でいっぽんとられてしまった」
「別ニ、ソウイウ心算デア、有リアセンガ。一本取ラレタナンテ。
ソンナア」
 賢一は、肩まで垂れさがる黒い長髪を両手で梳りながら、おお
きく鋭い目をしろくろさせた。
「実はですね。仮に、そのぉ」
 山形検事は、爛々と輝く賢一の目を見つめながら講義の口調
でコメントしだした。
「小松原郷が日本国から独立した国家であるならば、賢一君の
いうような帰結になる余地もなくはない。しかし動かしがたい歴史
的な現実としては小松原郷は日本国から独立した、ひとつの国家
と見ることにはむりがあります。そうだとすれば『石子詰』の刑の
執行は、国家権力たる刑罰権の発動とはいえず、嘗て古い時代
に見られたような『私刑』つまり私的な刑罰といわざるをえません。
そうだとすれば郷祭司による『石子詰』の刑の執行は、単なる私刑
としてのリンチにすぎません。したがって郷祭司の行為は、日本国
刑法に照らせば、りっぱな犯罪行為という帰結になります」
「然様デ御座エアスカ。ソウスルト」

賢一『此ノ場合、両方トモ刑ノ執行ナノニ、異ル評価ガ為サレルノ
ア、一体、何故ナンダロウカ』
 胸のうちで、そう考えた賢一は、山形検事に対していっそう食い
さがる姿勢になった。
「国家ガ刑ノ執行ヲ為ルノア犯罪ニナラネエノニ対シ、国家トア言エ
ネエ小松原郷ノ郷祭司サマガ『石子詰』ノ刑ヲ執行スル事ア犯罪ニ
成ルトイウノア、矢張リ矛盾シテ居ルンジャネエデアスカ。山形先生、
其ノ違イア、一体、何処カラドウ言ウ理由デ生ズルンデ有リアスカ」
「ええ。いまの賢一君の疑問は素晴らしい質問です。しかし」
 山形検事は逃げ腰になり、林太郎のグラスにご機嫌とりのように
ビールをそそいだ。
「この問題を賢一君に理解してもらうことは、かなり難しい。さてどの
ようにコメントしたらば、賢一君に理解してもらえるかな。この点に
ついては、椿弁護士に説明していただきましょう」
「其レデア」
 長髪を肩まで靡かせた賢一は、爛々と輝く鋭いまなざしで林太郎
を見つめた。
「椿先生、オ願エシアスダ。俺ア、学ガ無エデスケエ、難シイ事ア、
判リアセンダガ。ソンナ俺アニモ理解出来ルヨウニオ願エシアスダ」
「そうだね。実はその」
 山形検事からバトンタッチした林太郎は、ビールをひとくち啜った。
「そこんとこの解説はなかなかむずかしんだ。たとえば司法試験の
準備段階で、かなり法解釈について実力がついた学生からも、そう
いう質問がでるくらいだからな」
「ソモソモ何ノ事デ有リアスカ。俺アニア、サッパリ判リアセンダ」
 賢一はビールの催促でもするように飲み干したグラスをなめる。
「あ、山形検事、賢一君にビールをついでやってくれないか」
 山形検事は、にやにやしながら賢一のグラスにビールをそそぐ。
「澄イアセン」
 賢一は素直にビールの酌をうける。
「アタイニモ、オビール頂戴イ」
 幸恵は愛狂しいウインクをしながら林太郎のまえにグラスを
さしだした。
「これは失礼。こちらでばかり飲んでいて。さあ、どうぞ」
 林太郎は幸恵のグラスにビールをそそぐ。
「椿先生。先程ノ話ニアッタ『シホウシケン』ト言ウノア、何ノ事デ
有リアスカ」
 賢一は林太郎と視線をあわせた。
「あのね。司法試験という制度は、日本国で実施されている国家
試験のなかでは最高レベルの難関とされているんだ。この試験は
法律実務家への登竜門でしてね。司法試験に合格した者は、司法
研修所という国立では最高レベルの法律学校で、法律実務の修習
をします。その修習を終えて、司法研修所の卒業試験ともいうべき
試験にパスすると、裁判官、検察官に任官されたり、弁護士になる
ことができることになります」
「然様デ有リアスダカ」
 賢一はおおきく強い目を輝かせ純粋なまなざしを林太郎に向ける。
「エエト。『シホウシケン』ア、何トナク判リアシタダガ。『サイバンカン』
ダノ『ケンサツカン』ト言ウモンア、ド偉イ役人ノヨウデアスガ。其レア
又、ドゲエナ役人デ有リアスカ」
「あのね。裁判官という役人は、裁判をする権限を与えられたもの
ですが、裁判官は裁判所の構成員となります。この裁判官は司法権
の担い手なんですよ」
「ダッタラ、郷祭司サマノヨウナモンデ有リアスカ。小松原郷デア郷祭司
サマガ裁判シアスケエニ」
「まあね。どうやら」
 林太郎は自分のグラスにビールをついだ。
「そういうことになりますかな」
「紛レモナク、此ノ事ア」
 賢一は鬼の首を取ったような顔つきになった。
「明白ナ真実デ御座エアスダ。ダッテ小松原郷御定書10条ニヨレア、
『裁判ヲ為スノ権ハ郷祭司ニ専属ス』ト明定サレテ居アスケエ。ハイ」
「ああ、そうでしたね。小松原郷の憲法ともいうべき御定書第10条に
は、裁判権の帰属について明文規定がありましたね」
「ソウスルト『ケンサツカン』ト言ウ役人ア、ドンナ役人デ有リアスカ」
「ええ。検察官というのは、犯罪が発覚した場合に、捜査を開始して
容疑者を突き止め、公訴を提起して有罪判決を求める立場にある
訴追官なんですよ」
「ソウスルト『ケンサツカン』ト言ウ役人ア、容疑者ニトッテア、怖エ
存在ト言ウ事ニナリアスダカ」
「まあね」
 にやにやしながら林太郎は山形検事のグラスにビールをついだ。
「そいうことになりますね。実は、ここに座っていられる山形君が、
その怖いお役人の検察官なんですよ」
「ホウウ。然様デ有リアスカ」
 賢一は肩まで靡かせた長髪を波打たせ首を傾げた。
「ソゲエナ『ケンサツカン』ト言ウオ役人ア、小松原郷ニア居リアセン
ダガ。其レア又、ドウ言ウ訳デ御座エアスダカ」
「その点については検事のわしから説明しましょう。ええと。そのぉ」
 山形検事は腕を組んで天井を見あげながらコメントしだした。
「日本国の訴訟法では『訴えなければ裁判なし』という原則が確立
されています。たとえば殺人事件が発生したとしましょう。そうすると、
まず警察や検察庁が捜査に乗り出し、犯人を見つけて逮捕したり、
訴訟資料を収集したうえで、検察官が裁判所に訴えを提起するの
です。このことを刑事事件における公訴の提起といいます」
「ホウ。然様デ有リアスカ。俺アニア」
 賢一は、おおきな鋭い目をしろくろさせ、唇を尖らせて首を傾げる。
「サッパリ判リアセンダガ。兎ニ角、『ケンサツカン』ガ先ズ『コウソ』を
提起スルトイウ建前ニ成ッテ居ルトデスナ」
「ええ。そのような建前を『訴えなければ裁判なし』の原則といいます。
言い換えれば、検察官によって公訴が提起されていないのに、裁判所
が勝手に訴訟手続を開始することは許されないということですね」
「然様デ有リアスカ。デモ、小松原郷デア」
 賢一は、またしても唇を尖らせおおきく首をかしげた。
「ソウ成ッテ居リアセンダガ。全ク違ッテ居リアスダガ。裁判シタケリャ、
郷祭司サマガ何時デモ裁判スル事ガ出来アスケエ。ハイ。ソウ成ッテ
居リアスダガ」
「そりゃそうでしょう。小松原郷御定書によれば」
 山形検事は賢一のグラスにビールをそそいだ。
「そもそも『裁判ヲ為スノ権ハ郷祭司ニ専属ス』と規定されているのです
から、訴えが提起されていなくても、郷祭司は裁判をすることができるわ
けです。だから訴追官としての検察官という役人は、当初から予定され
ていないのです。要するに小松原郷では、郷祭司が専断的にいつでも
裁判することができる建前なんですな」
「それでは、ええと」
 林太郎は幸恵のグラスにビールを注いだ。
「はなしを元にもどして、さっき賢一君から質問があった問題を考えてみ
ることにしましょう」
「ハイ。成ルベク、学ノ無エ俺ア達ニモ判ルヨウニ、オ話ヲバ願エアスダ」
 賢一は林太郎の顔を覗き込んだ。
「実は、この問題は」
 林太郎は腕を組んで天井を見あげる。
「なかなか理解しがたい文字通りの難問なんですが。まず刑罰という制度
は何故に存在するのでしょうか。ここから考えてみましょう」
「ソリャ罪人ヲ野放シニシテオクト、善良ナ民人ノ平穏ナ生活トカ、
生命ヤ身体ノ安全ガ脅サレルカラデ有リアスダガ」
 賢一は、林太郎が予想していたよりも、遥かに正確な考え方を
滔々と述べ立てた。
「まあ。そいうことでしょうな。そうすると刑罰という制度は、賢一君
がいわれたように、犯罪者を野放しにしておくと、善良な国民の平穏
な生活や生命とか身体・自由・財産の安全が脅かされてしまう。そこ
で国家は刑罰権を発動して、ひとまず犯罪者を一般社会から隔離す
るものだといえましょう。そうだとすれば、その刑罰と犯罪を規定する
刑法の存在理由は、善良な国民の法益を保護するためだと、一応は
いえましょう」
「其レジャ、俺アノ」
 賢一は得意満面になった。
「考エ方デ良カッタンデ有リアスダカ」
「そうなんです。このような」
 林太郎は、賢一のおおきく鋭い目と視線をあわせた。
「国民の平穏な生活や生命・身体・自由・財産などの保護法益を刑法
の世界では『個人的法益』といいます。だから刑法にもとづく刑罰という
制度は、まず国民の『個人的法益』を保護するために存在するのだと
一応はいえましょう。そのような刑罰は、犯罪を犯した者を処罰する制度
ですから、刑罰云々をいう前提として、そもそも犯罪とはなにかを明らか
にしなければなりません」
「エエト。椿先生。一寸」
 賢一は肩まで垂れた長髪を波打たせ首を傾げる。
「宜シイデ有リアスカ。小松原郷ジャ、何ガ犯罪カハ、郷祭司サマガ犯罪
ダト言ッタモノガ犯罪ダトサレテ居ルヨウナ気ガシアスダガ。ハイ」
「さあ。どうでしょうか。そのことはよく吟味する必要があります。たしかに
これまでのお話しによれば郷祭司の大榊儀左衛門が犯罪だと決めた行為
が犯罪だとされているような節もありますね。もし、そうだとすれば、特定の
独裁者が権力を保持するために、これも犯罪だ、あれも犯罪だとされるよう
になってしまいます。それでは国民の利益が害されてしまいます。そこでまず
『何が犯罪になるか』を特定の独裁者の意思に委ねるのではなく法律によって
明確に規定しておかなければなりません」
「小松原郷デア、ソウ言ウ仕組ニア成ッテ居リアセンダガ」
「そうかもしれませんね。兎に角『何が犯罪になるか』を法律によっ
て明確に定めておく必要があります。そしてどんな犯罪を犯したら
どんな刑罰によって処罰されるかも、法律によって明確に規定して
おくことが重要です。そこから犯罪と刑罰とは『法律』によって明確に
規定されなければならない、という命題がうまれました。
このように犯罪と刑罰とを法律によって定めておく建前を『罪刑法定
主義』といいます。犯罪も刑罰も法律によって定める建前なのです」

賢一『此ノ話ヲ聞イテルト、俺ア、頭ガ痛クナッテ仕舞ウ。デモ話ノ
筋道ダケア判リカケテキタ。ケド「ザイケイホウテイシュギ」ト言ウ
言葉ア、ホントニ難シイ』
 賢一は胸のかかで呟いた。
「エエト。先生ガ仰ッタ『ザイケイホウテイシュギ』ノ意味ガ良ク
判リアセンダ。モウ一度、噛ミ砕イテ、易シクオ願エシアス」
「これは法制度の専門語だから、ちょっと難しいかもしれないね。
罪刑法定主義のうち『ザイ』は犯罪の『罪』を意味します。そして
『ケイ』は刑罰の『刑』を意味し、『ホウテイ』は『法律で定める』
ことを意味します」
「ホウ。然様デ有リアスカ。一応、判リアシタ。澄イアセン」
「それでは、話をつづけますが」
 林太郎は自分のグラスにビールを注ぎ、ひとくち啜りあげる。
「このように、あらかじめ犯罪と刑罰とを法律で規定しておけば、
国民の側からすれば『遣ってもいい行為』と『遣ってはならない
行為』とを判断し区別することができるようになりますね。です
から刑罰と犯罪をを規定する刑法という法律は、単なる処罰
規定としての性格だけでなく、国民の行為の尺度となるはず
の『国民の行為準則』として重要な意義を有していることになり
ます。これは当然のことのようでありながら、実は重要な意義
を有しているわけです」
賢一『先生ガ言ワレタ「国民ノコウイジュンソク」トイウノア、一体、
何ノ事ダロウカ』
 賢一は胸に手をあててその意味を模索した。
「椿先生。アノ」
 肩まで靡かせた長髪を波打たせて賢一は首を傾げる。
「今ノ話ニ出テキタ『国民ノコウイジュンソク』トハ、一体、何ノ事
デ有リアスカ」
「あのね。そもそも『行為準則』というのは、文字通り行為をする
にあたっての基準ないし尺度のことですね。言い換えれば、刑法
の規定に抵触しないように行動していれば、所罰されることもなく、
やばいことにはならない。そいう意味において刑法の規定は『遣っ
てもいい行為』と『遣ってはならない行為』とを区別するための判断
基準になるわけです。ですから刑法の規定は人がある特定の行為
をするにあたり、その行為を遣ってもいいかどうかを判断する尺度
として機能してくるわけですな。この意味において刑法の規定は、
『国民の行為準則』とされるわけです。お判りでしょうか」
「ホウォ。然様デ御座エアスカ」
 賢一は、よく理解できないまま首を縦にふった。
「正直ニ言エバ、判ッタヨウデモ有リ、判ラナイヨウデモ有リアスガ」
「むりもありません。先程の説明では」
 林太郎は、さらにコメントをつづけた。
「刑法は国民の『個人的法益』を保護するために存在する、といい
ましたが、実は『国家的法益』や『社会的法益』をも保護しているの
です。そもそも人間は誰でも、自分が所属している国家ないし社会
という文化的環境のなかで生存しています。ですから個人を取り巻く
国家社会が乱れたのでは、個人の平穏な生活や生命・身体の安全
まで阻害されてしまいます。そこで刑法は『個人的法益』だけでなく、
『国家的法益』や『社会的法益』をも保護しなければなりません。この
ようにして刑法は全体として国家社会の秩序を維持することによって
国民の法益を保護しようとしているわけですな」
「ホウ。成ル程」
 賢一は林太郎と視線をあわせ、にんまりとした。
「ソウ言ウ訳デ有リアスダカ。今度コソ良ク判リアシタダ」
「要するに、刑法という制度は、国家社会の秩序を維持するための
最も強力な統制手段なのです。それは刑罰規定まで定めて国家社会
の構成員である国民の行動を規制するものだからです。そもそも刑罰
権は、当初から国家に帰属していたわけではありません。嘗て古い時
代においては、刑罰権も家族その他、特定集団の首領に帰属していた
のでした。たとえば家という集団の構成員たる家族に対する刑罰権は、
家長に帰属していましたし、〇〇族という人類学的な特定集団におい
ては、その酋長が刑罰権を保有していたのでした」
「ソウスルト、何ダカ、ソノォ」
 小榊幸恵は白い瓜実顔を林太郎に向けた。
「今ノオ話ノ中ノ『酋長』サンア、小松原郷ノ郷祭司サマト良ク似テ居ル
ヨウナ気ガシテナリアセンガ」
「まあね。そんな気になれなくもないですね。このように刑罰権を特定の
長に与えていたのでは、その長の恣意によって刑罰権が乱用されてし
まう。集団の長の意思だけで無実の者つまりなんら犯罪を犯していない
者まで処罰される危惧があるからです」
「ソンナア。モシ、ソウダトスレア」
 幸恵は威きりたつように白い右手の拳で炬燵板をこつんとたたいた。
「ソリャ、本当ニ酷イ話デ有リアスダガ」
「そんな酷い話では、国民の間に不公平が生ずるし、刑罰権の濫用に
よって国民の人権が侵害されてしまいます。そこで刑罰権は、すべて
国家に帰属するという建前が採られるようになったのです」
 幸恵は、炬燵板のうえに目をおとし、深い溜め息をついた。


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