20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:いしこづめ 作者:花城咲一郎

第1回   逆さ吹雪
越後平野と関東を隔てる三国峠に連なる上信越国立公園の一帯では、横殴りの猛吹雪がつづいていた。
 気象庁によれば、この冬いちばんという強烈な寒気が南下したうえ、低気圧も接近し、日本列島を厳寒の嵐に巻き込んだものだという。
 上越新幹線越後湯沢駅から峠を超える越路自動車道でも、雪が足元の下から噴きあげる逆さ吹雪になっていた。雪崩避けの鉄柵の下を潜り抜けて十二峠を超える。すると越路自動車道は急勾配で下降してゆく。
 この辺り一帯は猛吹雪で視界ゼロの夜になっていた。
 十二峠を降りきった谷底には、秘湯の里といわれる清津峡温泉郷から峡谷を縫って流れ降る清津川の清流が信濃川に合流する。清津川の清流も豪雪で川幅が狭くなり雪に埋もれている。
 清津川に架けられた万年橋を渡り、ふたたび山麓を辿れば清風山自然公園に登りつめる。清風山自然公園からさらに10キロほど越後山脈に向かって山道を辿れば、地元では深山と呼ばれる山岳地帯にはいる。この深山は信濃川の支流のひとつである釜川の水源地帯になっている。
 その山岳地帯も積雪3メートルを超える豪雪であった。
 深山の一角には猛吹雪のなかに茅葺で緩やかな合掌造りの山小屋が建っていた。その脇には炭焼き釜が雪に埋もれている。
 猛吹雪のなかに炭焼き釜と隣接して山小屋が建っている。杉丸太を組み立て茅葺で素朴な山小屋のなかでは囲炉裏の焚火で楢の薪が燃える火の香りと温もりが漂っている。
 とろとろと楢の薪が燃える炉辺で胡坐をかいた二人の男が酒を酌み交わしている。
 山小屋のなかには赤土で踏み固められた土間のほか10畳ほどの板の間があった。板の間には古びた筵が敷かれ、囲炉裏の真上には黒く煤けた火棚が吊るされている。火棚のうえには、藁縄と竹で造られた二組のカンジキが乾かされていた。カンジキは、深い積雪を漕ぎ分けて前進するときに足が沈まないように工夫した豪雪地帯の履物で、スキーのように両足に履き縛り付ける器具なのだ。直径50センチほどの楕円形の竹の輪に縄をかけ、紐で足首に結びつけるのである。もっと大型のカンジキはスカリという。スカリは楕円形の竹の輪の尖端に紐を付け、その紐を腕で引き上げながら深い雪を掻き分けて前進するのである。
 風雪に曝されて罅割れのしかかった荒壁には二挺の猟銃がたてかけられている。囲炉裏の火に擦りつけられたおおきな五徳のうえでは、黒く錆ついた茶釜がしゅんしゅんと湯気をたてている。白い湯気がたちのぼる茶釜のなかでは、白い肌に蒼い菊模様を焼きこんだ徳利で酒の燗がつけられている。
 セピアの彩りをした皮のジャンパーを着込み、炉辺に胡坐をかいていた男は徳利を摘みあげ、
「熱燗で一杯いくか」
 と、炉辺で胡坐をかいている中年の男のさしだす盃に酌をする。
 その酌をうけた男は、白い丸首セーターのうえに、黒っぽい皮のジャンパーを纏っている。
「山形検事。越路地方検察庁雪丘支部に着任して何年になりましたか」
 セピアのッ革ジャンパーの男は自分の盃に酒をそそぐ。
「あと3ヶ月で2年になる」
「千葉にいたのはつい昨日のようにおもっていたが、越路地検に転勤してからもう2年になるか」
「速いもんだね。千葉地検にいたときは、椿弁護士ともちょくちょく逢っていたが、いまは新幹線でも2時間近くかかるからな。今回は君の故郷に案内してもらい、ほんとに
うれしかった」
「そろそろ東都地検あたりに栄転の時期かも。山形検事」
「いやいや。そうはいかないよ。よほど成績をあげないと東都地検にはもどれない」
「君は司法試験の成績が上位だったから、検事としての振出が東都地検だったからな」
「まあね。研修所の教官からは裁判官への任官を勧められたんだが、自信がなかったんでね。それで検事に任官したんだ」
「ええと、徳利に酒を追加すか」
 椿弁護士は空になった徳利2本を摘み、小屋の奥の流し台に向かう。
 低い天井から吊るされた石油ランプにライターで点灯する。囲炉裏の火の灯りとは違ったほんのりとした灯りの漣が小屋のなかにひろがってゆく。
 椿弁護士は流し台の脇のダンボール箱のなかから一升瓶をもちあげ、ランプのしたで徳利に清酒をそそぐ。
 炉辺にもどった彼は徳利を茶釜のなかにいれ燗をつける。山形は炉辺に積んであった
楢の薪を囲炉裏火にくべ足す。薪が燻りかけたのをみて、山形は尺八のような火吹竹で
ふうふうと酸素をおくりこむ。
 緩やかな合掌造りで天井もなく、屋根裏の低い小屋の黒く煤けた鴨居には、紅い鶏冠をした艶のいい二羽の山鳥が逆さまに吊るされている。その脇には、純白の毛皮に真っ
赤な目をした四羽の山ウサギがぶらさげられていた。この山鳥と山ウサギは、狩猟初日
の収穫だった。
 ふたりのハンターは、年末年始の休暇を利用して、椿弁護士の故郷の深山に滞在していたのであった。
 薪に絡んで囲炉裏火にくべられた細い笹竹が火に炙られ、どかんと銃声のように撥ね響いた。
 椿弁護士は左手を翳してカレンダーのついた腕時計を見つめた。ゴールドの縁取りをした時計のアイボリーの文字盤は1999年12月31日午後11時をしめしていた。
「ああ。もう」
 椿弁護士は、黒く錆ついた火箸で燃え崩れた楢の薪を繕った。
「こんな時間か。ことしも、あと1時間で除夜の鐘か」
「そうだね」
 山形検事は椿弁護士の盃に酌をする。
「いよいよ2000年まで、あと1時間しかないんだな」
 山形は自分の盃にも熱燗をそそいだ。
 そのとき、山小屋の外でがさりと物音がした。
 反射的にふたりは、小屋の入り口に視線をながした。小屋の入り口の腐れかかった白木造りの戸がわずかにうごいたような気がした。
 ふたりは小屋の入り口を凝視する。すでに冬眠にはいっているはずの黒い毛なみのいい熊の頭が小屋を覗きこんだ。だが熊はすぐ吹雪のなかに姿を消してしまった。
 ふたりのハンターは、咄嗟の機転で反射的に起ちあがり、罅割れのしかかった粗壁に
たてかけてあった猟銃をとりあげ警戒態勢にはいった。
山小屋の外は猛吹雪になっていた。
 ひゅうひゅうという烈しい風雪の唸りが小屋のなかにも跳びこんできた。
 ふたりのハンターは猟銃を構え、固唾をのみ、山小屋の入り口を凝視した。
椿「たしかに小屋の外では、がさりと物音がしたし、白木造りの古びた木戸がわずかに開いて黒い頭の熊は小屋のなかを覗き込んだはずだ」
山形「熊の奴、いちど姿をみせただけで、小屋にははいらず姿を消してしまった。けど、いつ引き返してくるかわからない。ここは警戒するしかない」
 銃を構えたふたりは、胸のうちで呟いた。
 いつまで経っても熊は姿をあらわさない。痺れをきらした椿は、銃を構えたまま、土間に脱ぎ捨てられていた藁沓を突っかけ小屋の入り口へ近づいていった。彼は猟銃の砲
身で白木造りの木戸を開けようとする。だが、古びて建てつけが悪くなった小屋の入り
口の木戸は開かない。
「山形。オレを護衛してくれ」
 と、椿は猟銃を左手に提げたまま、右手を延ばして白木造りの木戸を開けた。
 途端に冷たい風が粉雪を舞いあがらせながら噴きこんできた。
 山形も起ちあがり、土間に放置されていた古草履を突っかけ、銃を構えて椿を護衛する姿勢になった。
 椿弁護士はふたたび銃を構えて小屋の外へでた。
 小屋の近くに熊の気配はなかった。
 山小屋のまえでは、谷底から足元に強烈な風雪が噴きあげている。足元から顔にむけて殴りつけるような逆さ吹雪だった。
 視界の効かない小屋の周辺を椿弁護士はぐるりと見まわした。
 白一色の視界のなかにひと握りの黒点を発見した。
椿「あれは熊かもしれない」
 椿弁護士はどきりとした。
椿「オレは、これまで熊と対決したことがない」
 椿の胸は高鳴った。
「ここは慎重に対応しなければ」
 気を鎮めて猟銃を構えたまま、足元を踏み締めながら椿はひと握りの黒点に接近していった。
 その黒点はしだいに重量感を増していった。
椿「あれは、まさしく熊だ。それも二匹らしい」
 起ち止って椿は黒点を確認する。
椿「たしかに二匹の熊が逆さ吹雪のなかに蹲っている」
 銃を構えた手が震えた。
椿「しっかりしろ」
 と自分を叱咤した。
 気を取り直した椿は、足元を踏み締め、引き金に指を掛け、警戒しながら熊に近づいてゆく。
 熊は蹲ったままで襲いかかる気配はない。
「ごほん ! 」
 椿は故意に咳払いをしてみた。
 それまで蹲っていた一匹の熊が起ちあがった。 
 椿はその熊に照準をあわせた。
椿「誤射をしてはならない」
「だれか ! だれか !! 」
 と椿は誰何する。
 前肢を挙げて直立した熊は襲いかかってこなかった。
「撃タナイデ。助ケテ !」
 黒熊は朴訥な太い声で意外な反応をした。
「助ケテクダサイ !! 」
 もう一匹の熊も起ちあがりざま細い声で叫んだ。
 細い声の熊は、その前脚から深紅 の袂を覗かせ、か細く白い手をだし合掌した。
椿「この二匹は、どうやら熊ではなさそうだ。熊の毛皮を被った人間らしい。撃たないでよかった」
「そんなところに」
 椿弁護士は銃の構えを解いた。
「蹲っていたんでは凍え死んでしまう。こちらに早く来なさい。さあ ! 」
 椿弁護士は銃を左手に提げ、右手で手招きをする。
 谷底から噴きあげる逆さ吹雪は、凍えかけた二匹の熊を容赦なく痛めつけた。
 二匹の熊は恐るおそる椿に近づいてきた。
「さあ。わしに」
 椿は踵をかえし小屋に向かって歩きだした。二匹の熊もそのあとにしたがう。
「ついてきなさい。小屋のなかなら凍え死ぬこともあるまい」
 椿を護衛していた山形検事は、銃を自分の胴体に立て掛けるようにして途を開ける。
「こりゃ」
 椿は山形と擦れちがった。
「たいへんなお客さんだ」
 山形は無言のまま二匹の熊の後姿を逆さ吹雪の中に見送った。
「さあ。はやく」
 椿弁護士は、古びて建て付けがわるくなった木戸をがたごとと目いっぱい開いた。
「おはいり。見てのとおり襤褸屋だが、逆さ吹雪の外よりまだ増しだ」
 おどおどしながらついてきた二匹の熊を椿は赤土を踏み固めた土間に案内した。
「ホントニ」
 朴訥な太い声の熊は、黒い毛皮の前肢から節くれ立ったごつい手を覗かせた。
「済イアセン。ゴ迷惑オカケシアス」
 牡の熊はぺこりと頭をさげる。
 熊の毛皮の前肢から深紅の袂を覗かせ、白くか細い手をだした雌熊も鼻水をすすりながら頭を深く垂れる。
「おおお ! 」
 いちばん最後にはいってきた山形検事はがたごとと小屋の入り口の木戸を閉める。
「熊の毛皮にツララがさがりかけてる。毛皮の外套は早く脱いだほうがいいかも」
 山形検事は二匹の熊の頭から肢の先までじろじろ眺めた。
 身震いしながら二匹の熊は、いわれたとおり素直に外套を脱ぎ捨てた。
「ええと」
 熊の毛皮を受け取った山形は、鴨居の辺りを見あげる。
「どこにするかな・・・。そうだ。ここがいいかも」
 杉丸太で造られた鴨居に打ち込まれた五寸釘に山形はツララのさがった熊の毛皮を吊るした。
 筵を敷いた炉辺にあがった椿弁護士は、囲炉裏の焚き火に楢の薪をくべ足す。
 楢の薪は燻り白い煙をあげる。椿は尺八のような火噴き竹で囲炉裏火にふうふう酸素をおくりこむ。 
 残り火を火種にして楢の薪はとろとろと燃えはじめる。
 椿弁護士は、火吹き竹を握ったまま右ひざをたてた半腰の姿勢でしみじみと珍客を見つめる。
椿「一匹の牡熊は、無地の絹織物らしきものを紺色に染め抜いた着物姿である。男は下半身に無地の麻織物らしきものを紺色に染め抜いたモンペを履いている。男の黒い髪は
伸び放題で肩まで垂れている。もう一匹の雌熊は無地の絹織物らしきもので縫いあげた
純白な着物姿だ。両袖の袖裏は深紅の生地で縫いこまれている。女は下半身に無地の麻
織物らしきものを深紅に染め抜いたモンペを纏っている。女の黒髪は長く背中にまで垂れている」
 珍客は、ふたりとも豪雪地帯ではスッポンと呼ばれる藁長靴を履いていた。
椿「スッポンは雪国で考案された豪雪地帯特有の文化遺産だ。オレも少年時代によく履いていた」
「さあ。そんところに」
 椿弁護士は炉辺に積みあげられた楢の薪のうえに火吹き竹を載せた。
「突っ立ていないで、はやく炉辺にあがりなさい」
 椿は炉辺に起ちあがった。
「いまから、熱い味噌汁を造ってあげるから」
 二匹の熊はおずおずと炉辺にあがった。
 山形は炉辺に胡坐をかき、黒く錆びついた鉄の火箸で燃え崩れた楢の薪を繕った。
 椿弁護士は小屋の奥の流し台に向かった。
 石油ランプの灯かりで照らしだされ、小屋の奥はほのぼのとしている。粗削りの杉板で造られた流し台は蒼く苔むしている。
 流し台に造りつけられた調理台で椿弁護士はネギを刻んだ。アルマイトの鍋を携帯用
ガスレンジに載せて、味噌汁を仕立てた。味噌汁を小型の丼によそる。粗削りの杉板で
造った盆に載せ炉辺にはこんだ。
「凍えそうになったときには」
 椿弁護士は熱い味噌汁を二匹の熊のまえにさしだした。
「熱い味噌汁がいちばんなんだ。さあ。はやく召しあがれ」
 ふたりの珍客は丼に手をかけた。
 椿弁護士は炉辺に積みあげられていた楢の薪を囲炉裏火にくべ足した。
 ふたりの珍客は温かい味噌汁の丼を両手で拝むように支えたままである。
「さあ。早く」
 山形検事は憐憫の眼差しを二匹の熊に浴びせた。
「召しあがるといい。腹の底から温ったまるから」
 山形に促されて二匹の熊は視線を椿弁護士から山形検事にながした。
 ただ黙ったまま牡の熊は丼を両手でささげるように味噌汁を啜りあげる。
 雌の熊も牡に見習って丼をおしいただき味噌汁を啜る。
「アア。コレハトッテモ美味シイ」
 雌の熊は目頭に涙を潤わせた。
「昨日カラ、オラア」
 牡の熊はごくりと味噌汁を飲みくだす。
「ナニモクチニシテイネエダスケイ。本当ニ、五臓六腑ニ染ミワタリアシタ。ハイ」
 精悍な目つきをした長髪の青年は、きちんと正座したまま味噌汁を啜りあげる。
「オカゲサマデ、スッカリ」
 肌理のいい白い肌で狐の化身ではないかとおもわれるほどに細い目をした瓜実顔の女は丼を両手で挟んだまま、ほろりと涙を零した。
「温マリアシタダ。カラダノ震イガオサマリアシタダ」
「そう。そりゃよかった」
 椿弁護士は腕時計を見る。
「ああ。もうすぐ除夜の鐘が鳴る時刻だ。まだ年越し蕎麦を食べていなかった。生蕎麦は手元にないから、ありあわせのラーメンで年越し蕎麦にするか」
 椿弁護士は起ちあがり小屋の奥の流し台に向かう。
 携帯用のガスレンジで湯を沸かした。
 ダンボール箱のなかから札幌ラーメンをとりだし沸騰する鍋に割っていれる。
 麺がほぐれるまでの時間にネギを刻む。
「そうだ」
 椿弁護士はダンボール箱のなかから切り餅と餅焼き網をとりだした。
「ただのラーメンではなく『力ラーメン』にしよう。山形 ! 」
 彼は炉辺を振り向いた。
「囲炉裏でこの餅を焼いてくれないか」
「OK ! ]
 山形検事は炉辺に起ちあがった。
「餅焼きなら、お手のもんだ」
 餅と網を受け取った山形は炉辺にもどり、とろとろと燃える囲炉裏火の脇に擦りつけられていた五徳のうえに
餅焼き網を橋渡しにした。その餅焼き網のうえに切り餅を載せる。
 椿弁護士はガスの火を細くした。
 餅が焼きあがるのを見計らい、熱いラーメンを仕上げる。できあがったラーメンを丼によそり、粗削りの杉板で造られた白木の盆に載せ、炉辺にはこぶ。
「おまちどうさまでした」
 椿弁護士は、中腰になってラーメンを載せたお盆を山形のまえにさしだす。
「ラーメンの丼に焼餅をおとせば、たちまち『力ラーメン』のできあがり ! 」
 子供染みて叫ぶと、山形は、ぷうっと膨れあがった焼餅を一個ずつラーメンの丼のなかにおとした。
「さあ。どうぞ」
 右膝をたてて炉辺に座った椿弁護士は、細い狐目の瓜実顔に丼を勧めた。
 山形検事も、
「はい」
 と、隣に正座していた精悍な目つきの男に丼を手渡した。
「それでは丼がゆきわたったところで、一風かわった年越し蕎麦をいただきましょう」
 椿弁護士は丼に箸をつける。
 山形検事は黙ったまま、自分で焼いた餅にかぶりついた。
「イタダキアス」
 と牡の熊は丼に箸をつけた。
「ソレデハ、イタダキアス」
 雌の熊も丼をおしいただいた。


次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 154