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作品名:生命のキャンドルが燃え尽きぬうちに 作者:花城咲一郎

第9回   賭けた決断
 〇 花城邸の庭
  天空に寒月が浮かんでいる。
  おおきな樅の木に造りつけられた鶏の鳥小屋では、数羽の鶏が鶏冠を弛ませ眠りこけている。
花城「桜門大学多摩病院に転入院してから原野教授は、絹子のオペに向けて急テンポで準備をすすめてくれました。
各種の基礎検査をこなし、エコー、心電図、肺機能テスト、CT、アンギオなどオペとして必要な検査は、短期間にすべて完了しました」
 〇 花城の書斎
  どっしりとしたおおきなデスクに向かい花城はワープロのキーをたたきつづける。
花城「それは3月も雛祭りの前夜のことでした。わたしは土地明渡し請求訴訟の答弁書を作成していました。
  グリーンで8角形の縁取りをした壁時計の長身がぴくりとうごき夜の8時になる。
  震撼と鎮まりかえった書斎の机上で電話のベルが鳴り響く。
  花城は受話器をとりあげる。
「弁護士の花城ですが」
  いつもの決まり文句がくちをついてでてくる。
「あたし絹子です。原野教授がお目にかかりたいそうですから、あすの午後4時にかならず病院にいらしてください」
「ああ、わかった。そうだなあ。あしたの午後3時までにはそちらに顔をだすから」
「それでは、あすまた。お寝みなさい」
 受話器をおいた花城は、ライターでタバコをつけ天井に向けて紫の煙を噴きあげる。
花城「原野教授が面接したいという。すでにこれまでインフォームドコンセントはスムーズにすすめられ、基本的なことは完了しているはずだ。そうだとすればいよいよ外科にバトンタッチするのかもしれない。消化器外科にゆけばオペの
承諾を求められることになろう。そうなれば、危険率はかなり高いかもしれないが、絹子の生命のキャンドルが燃え尽きぬうちに、絹子の命を賭けてオペを決行するしかない。いよいよ決断のときが来たのだ」
 花城はタバコの吸いさしを灰皿に磨り潰し、ワープロのキーをたたきはじめる。

 〇 桜門大学多摩病院・内科病棟の病室
  黒い縁取りをした円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後3時50分になる。
  6人の婦人患者がベッドに臥せっている。
  絹子のベッドにはカーテンが張られていない。
  チョコレート色のおおきなショルダーバッグを担いだ花城がはいってくる。
  花城は絹子のベッドに近づき、折り畳み式椅子をひろげる。
花城「そのとき、病室の入り口にあらわれた高山ドクターが、わたしと目線が合った瞬間に右手をあげサインをおくってきました。『絹子に気づかれないように病室をでてこい』というサインらしかった。原野教授とともに絹子の主治医だった
高山ドクターからのサインだから無視することはできない。ここはひとつパフォーマンスで絹子のベッドを離れよう。わたしはそう決めました」
「きょうは、手製のミカンジュースの差し入れだから飲んでみて。なんでもアメリカの症例では、内臓の病気にはビタミンCの大量投与が奨励されてるらしい。ビタミンCは健康の基本なのかもしれない」
 花城は、ショルダーバッグのなかから透明なウイスキーの空き瓶に詰めたオレンジ色のオリジナルジュースをとりだし
枕もとのサイドテーブルに載せる。
 即興のパフォーマンスをおえた花城は絹子のベッドを離れ、病室の入り口に向かう。
 〇 内科病棟の廊下
  廊下にでてきた花城は、絹子のベッドから死角になっているかをたしかめ、高山ドクターに接近してゆく。
「いつもありがとうございます」
 花城は、低姿勢になり、白い面長で短髪の青年ドクターに微笑みかける。
「こちらへどうぞ」
 先にたって足早に歩きだした高山ドクターに花城も歩調をあわせる。
  ドクターはナースステーションから右折する。花城も右折する。
 〇 特別接見室
  ドアを押しのけて高山ドクターがはいってくる。
「どうぞ。おかけください」
  高山ドクターは中央の白い椅子にかける。
「はい。失礼します」
 花城はドクターと差し向かいにかける。
「これまでの検査結果を手掛かりにして、いまから」
 高山ドクターは、検査資料の集積で分厚くなった絹子のカルテをひろげる。
「奥さんの現在の症状について説明します」
「はい。よろしくおねがいします」
 立ちあがったドクターは、うしろの壁側に設置された小型の医療用テレビの電源をいれる。するとテレビの画面には、絹子の内臓らしいドキュメンタリーな映像が浮かびあがる。
「これは奥さんのものですが。この箇所が十二指腸の乳頭部になっています。あかくなってる部分が癌細胞なんです」
高山ドクターは、あかくなっている十二指腸の乳頭部を銀色をしたパーカーのボールペンでなぞる。
「ほうオ。これが絹子のものなんですか」
「ええ。いまからこのメーンの部分を拡大してみます」
 高山ドクターがマシンを操作するとあかく充血したような患部の中心部がテレビの画面にクローズアップされる。その画面には、癌細胞が絹子の毛細血管までも食い散らし、じぶじぶ出血している生々しい現状が鮮明に映写されている。
 花城は身慄えするのをじっと堪える。
「まえの病院で最初の内視鏡により癌細胞を発見したのが昨年の9月といいますから、まだ半年足らずですが。いまで
ではこんなに悪性細胞が増殖しました。現在もかなりのテンポで癌細胞は増殖をつづけています」
「高山先生。素人の目にはよくわかりませんが。これはかなり酷い状態なんでしょうか」
「ええ。癌細胞がかなり急テンポで増殖をつづけていることはたしかですから、もはや一刻も猶予は許されません」
 高山ドクターに警告されて花城が固唾を呑みテレビの画面をじいっと凝視していると3人の白衣があらわれる。
 不意打ちをくらわされた花城は反射的に起ちあがる。
「ご紹介します。こちらは」
 ロマンスグレーの原野教授は、花城にふたりの白衣をひきあわせるポーズをとる。
「消化器部長の植村教授です。そしてこちらはアシスタントの石沢君です外科にバトンタッチしてからは、この先生方が主治医になります」
「はじめまして。花城ともうします。よろしくおねがいします」
 花城は低姿勢になって深く頭を垂れる。
 あたまをあげたとき花城は4人の白衣に包囲されており、引け目を覚えながら白い椅子に浅くかける。
花城「そんなわけで4人の白衣に包囲されてしまったわたしは、刑事法廷に起たされた被告人のような負い目を感じてしまいました」
「いまから植村教授がオペの手順について説明されます」
 温厚な風格の原野教授は植村教授に一目おいて、いくらか低姿勢で植村教授を促す。
「それでは、わしからオペの手順について説明します」
 高名な俳優生き写しの風貌をした植村教授は、エネルギッシュなムードを醸しだしながら、テーブルのうえにあったメモ用紙に、銀色をしたパーカーのボールペンで内臓マップのデッサンをはじめる。
「これは、まずい略図にすぎませんが、消化器系統の内臓は、こういう配置になっております。癌細胞は当初この膵臓
の乳頭部に過剰形成されました」
 植村教授は十二指腸の乳頭部にあたる部分をボールペンでくるくるなぞる。
「現在の患部の状態については、すでに高山君から映像でご説明もうしあげたはずですが」
 植村教授はエネルギッシュな鋭い眼光を花城に浴びせる。
「はい。さきほど拝見しました」
 花城は植村教授の鋭い眼光をそのまま受けとめる。
「いまのところ悪性細胞に侵食されているのは、膵臓と十二指腸の部分でして、胃や腸には異常がみられません。ですからオペのメーンは膵臓と十二指腸のあたまということになりますが。胃も3分の2をカットします。また『総胆管』も全部そして胆嚢もまるごと切除することになります」
「胃は健全と仰言いましたが。なんでまた健全なものまで切除してしまうのですか」
 花城は怪訝な顔をして首をかしげる。
「ええ。たしかに健全なものまでカットしてしまうのは、いかにも惜しいようにもおもわれますが。しかし癌細胞の転移の危険性をすくなくするため、胃の発病しやすい部分を切除するのが定石になっております。胆嚢や『総胆管』も念のためカットしたほうが安全です」
「なるほど。そういうわけですか。よくわかりました」
「要するに、いまコメントしたとおり、それぞれの内臓の5箇所を切断するわけですが。それぞれの切断箇所を個別的
に縫合するという従来の方式ではなく、5箇所を切断したら、その臓器の全体を最も合理的に、いわば全体的に縫合するというアメリカ方式による画期的な手法をとることになります」
「はああ。5箇所をカットして、個別的に縫合するのではなく、全体的に縫合すると」
「ええまあ。ことばはよくないんですが、5箇所を切断し、全体を捏ねくりまわして縫合するというわけですな」
「なるほど。そういう手法もあるんですか。よくわかりました」
 植村教授のコメントは一段落する。
 しばらく沈黙がつづく。
花城「植村教授の説明によれば、胆嚢や総胆管をまるごと、それに胃も3分2をカットするというのだから、絹子のお腹のなかには、これらの臓器がなくなるわけです。そうすると肝管とか残された胃の3分1とかを十二指腸の切開部分と直結するのかもしれません。それでも絹子は生きていられるらしい。絹子のお腹のなかは、いわば交通整理がなされ、胆汁も合理的な通路を流れ、かえってそれだけ絹子の生命のキャンドルは長持ちすることになるかもしれません」
 接見室では壁時計の長針がぴくりとうごき午後5時になる。
「それで具体的な問題点なんですが、奥さんの場合、その」
 植村教授はメモ用紙にデッサンした内臓マップをじいっと見つめながら、ふたたびコメントをはじめる。
「オペに踏み切ることについて問題がなくはありません。十二指腸の近くには腹腔動脈がはしっているため、従来の考え方では腹腔動脈を損傷する危険性が高いからオペは避けるべきだとされてました。このような考え方が通説を占めていた時代もありました」
「そのことを理由に先の病院ではオペ不能の赤マークをつけられてしまいました」
 花城は植村教授の顔を覗き込む。
「そうでしたか。しかし現在では、そうした従来の発想から脱却してオペを決行するようになりました」
「どうしてまた、オペが可能になったのですか」
「それがですね。開腹後にまず十二指腸から腹腔度脈を剥ぎ取り、これを安全な位置に避難させます。こうして腹腔動脈を損傷する危険性を排除してからメスをいれるのですな」
「そうですか。実は先の病院でオペ不能と赤マークをつけられたとき、素人の勘ぐりとして、いま先生が仰言ったような手法はないものかと,歯痒いおもいをしました」
「それができるようになったわけですな。そうすると問題は、患部にメスをいれるまえに十二指腸から腹腔度脈をうまく剥ぎ取れるかどうかということになります。それを剥ぎ取りやすいかどうかは、クランケの体質による個人差の問題がのこります」
「なるほど。そのことについては個人差があると」
「ええ。とにかく腹腔動脈の剥離が容易かどうかは、その場で遣ってみなければわかりません。ただこの剥離作業は指先で遣るわけですから、かなりの時間がかかります。この点について奥さんの場合、検査データからは体力的にみてオペに耐えることができるとみてます」
「うですか。そのことが気がかりでしたが。絹子は耐えられますか」
「ええ。おそらくだいじょうぶでしょう」
 腕を組んだ植村教授は絹子の耐久力について太鼓判を押す。
花城「ひとりの人間の生死にかかわる問題であるだけに、インフォームドコンセントがすすむにつれ、わたしの胸のなかは複雑になりました。ひょっとしたら絹子の生命のキャンドルはオペのさなかに燃え尽きてしまうかもしれないという不安感と、いや絹子はかならず救われるという期待感とが錯綜しました。わたしはオペの所要時間と危険率そして成功率とを比較してみようとおもいました」
「するとオペの所要時間はどのくらいになりますか」
 花城は植村教授の顔を覗き込む。
「そうですね。いちおうオペの所要時間を6時間から7時間と予定しております。この程度の時間ならば、奥さんも十分
に耐えることができるとみています」
「そうですか。そのことが気がかりでしたが耐えられますか。それでその。これまでの症例としてどんなものがありますか」
「そうですね。条件がよく整った場合、7例ほど立派に成功させております。ですから、奥さんについてもかなりの自信はあります。しかし絶対に安全だという保障はできません。医師といえども神様ではありませんから。とにかく遣ってみなけければ断定的なことは云えません。そこで、ことばはよくないんですが、賭けてみるしかありませんな。無責任な云い方ですが、そうとしか云えません」
花城「ひとりの人間の生と死の谷間、いや生死の分水嶺にかかわる問題だけに、真剣な論議がなされるにつれて、暗く重苦しい深刻な空気が接見室の床に沈殿してゆきました。わたしは決断すべきかどうか崖っぷちにたたされました」
 接見室の壁時計の長針がぴくりとうごき午後5時30分になる。
「実はその。奥さんの場合については、すでにオペの設計図はできあがっております」
 植村教授は真正面から花城と目線をあわせる。
「そうですか。もうオペの設計図まで」
 花城は、植村教授の目線が眩しくて耐えられず、原野教授のほうに救いを求めるように目線を移動させる。
「ええ。オペの担当者も決めてあります。わしが中心になって執刀しますが、石沢君のほか5名の医師がオペに参加し、7人の医師団による7時間のオペということになりますな」
 語呂合わせをしたようなセリフで植村教授は苦笑いの表情になる。
「あ、そうですか。7人の医師団による7時間のオペはわかりましたが、そんなに長い時間にわたるオペに絹子は耐えることができますでしょうか」
「もちろん、耐えることができるからこそ、真剣にオペを検討しているわけです」
 植村教授は花城を真正面から見つめ自信のほどをしめす。
「ようくわかりました」
「花城先生。ここはひとつ」
 植村教授はエネルギッシュな眼差しで花城を凝視する。
「賭けてみませんか。なんといっても人の命にかかわることですから、躊躇なさるのは当然ですが、ここはひとつ迷いを捨て、医師団の腕に賭けてみませんか」
「はい。教授の仰言るとおりです。賭けてみるしかありません」
 その瞬間、石沢ドクターはオペ承諾書の用紙を花城のまえにさしだす。
「ええと。きょうは、印鑑を所持していませんので、承諾書はのちほど作成して提出いたします。植村先生、それでよろしいでしょうか」
「ええ。それで結構です。奥さんともよくご相談なさったほうがいいでしょう」
「絹子には『総胆管』と胆嚢の摘出が必要だと納得させてあります」
「そのほうがいいでしょう。スタッフもその線でいきますから」
 浅黒いエネルギッシュな風貌の植村教授は腰を浮かせる。
  花城は起ちあがり4人の白衣のまえに、深々と頭を垂れる。花城は特別接見室のドアを押し廊下へ消えてゆく。
 〇 桜門大学多摩病院内科病棟の病室
  6人の婦人患者がそれぞれのベッドに臥せっている。
  花城がはいってくる。
花城「意外と神経質な絹子は痺れをきらしてオレを待っているにちがいない。オペの決定を絹子に承知させなければならない。けど、オペの対象の範囲は実際よりも縮小したかたちで説明すしかない。ここはひとつパフォーマンスでゆくしかない。胸のなかではそう決めて、わたしは絹子のベッドに近づくことにしました」
  花城は絹子のベッドに接近し、その周りにアイボリーのカーテンを曳く。
 〇 カーテンの中
「どうなったのかしら」
 絹子は、かあっとおおきく瞳を開いて花城を見あげる。
「なにが、どうしたというのかね」
 花城は、絹子の問いを故意に逸らし折畳み式椅子をひろげ腰をおろす。
「外科の先生とお話しがあったんでしょう。どういうことになったのか、包み隠さずありのままを教えてちょうだい」
 絹子は花城を急き立てる。
「なにも隠すことなんかないよ。高山ドクターに呼ばれてね。オペの承諾書の用紙を交付されたんだ。ほれ」
 見あげる絹子の目のうえで花城は、不動文字で印刷された承諾書をひろげてみせる。
「みんな、あなたにおまかせするわ。あたしの分もサインしてね」
「ああ、わかった」
「それで、あたしのオペの設計図はどうなってんの」
 絹子は夫の顔を見あげ、目をぱちくりさせる。
「それがねえ。オペの所要時間は」
 花城は絹子から目を逸らし腕を組んで天井を見あげる。
「およそ2時間30分の予定になってる」
「そうなの。2時間あまりね。そんならたいしたことないわ」
 病みついて痩せこけた絹子の頬に安堵感がはしる。
花城「パフォーマンスでおしてきたが、これでなんとか切り抜けることができそうだとおもい、わたしはひとまず胸を撫でおろしました」
「それで絹子のオペの担当医だけど。植村教授の執刀で、石沢ドクターのほか、もうひとりのドクターがチームに参加して、結局3人のドクターによる2時間半のチームプレーということになるらしい」
花城「これでオレのパフォーマンスの演技力もたしかなものになりました。これからも絹子のサポーターとして、襤褸を
ださずに、なんとか切り抜けることができると、やんわりとした自信めいたものが湧いてきました」
「そうすると、具体的には、あたしのどこをどうするというのかしら」
「ああ、それはね。まえにもはなしたように、『総胆管』と胆嚢の全部、それに胃の一部をカットし、直接これらの切開部分を十二指腸に結合するらしい」
「あたしの胃はなにもわるくないのに、なんでまたカットしちゃうの」
「それは、君もナースだから、わかるとおもうが。胆嚢および『総胆管』をカットしてしまうから、胆汁の貯蔵庫もその通路もなくなってしまう。そこで肝臓から派生している肝管を直接胃に繋ぐためには胃にもメスをいれる必要があるからだ」
「いわれてみれば、たしかに」
 絹子は澄んだ目で夫を見あげ納得したという顔になる。
「そうかもね。よくわかった。そうだとすればオペに耐えられるような体力をつけなくてはならない。だから、これからは、
もりもり食べることにするわ」
「ああ。その気構えがたいせつだ。どんな名医がついていても、肝心のクランケがバテていたんでははなしにならない」
 花城は起ちあがり、絹子が脱ぎ捨てた汗と薬の匂いが染み込んだ肌着類をショルダーバッグに詰め込む。
「それじゃ。またあした」
花城「わたしは、パフォーマンスがばれないうちに、そそくさと絹子の病室から退散することにしました」
 花城はカーテンを捲り絹子のベッドをはなれる。

 〇 桜門大学多摩病院・内科病棟のナースステーション前
  内科病棟の廊下からでてきた花城がナースステーションのまえでなかを覗き込む。
花城「その翌日の午後のことでした。わたしが内科病棟の絹子の病室に顔をだしたとき、ベッドのうえには絹子の姿は
なく、見知らぬ婦人のクランケが臥せっていました。慌てたわたしは、ナースステーションで絹子の行方をたしかめることにしました」
「ちょっと、おうかがいしますが」
 受付のカウンター超しで面会人名簿を捲っている若いナースに花城は声をかける。
「花城ですが。いつもお世話になっています。絹子はベッドにいません。どうしたんでしょうか」
「ああ。ナースの大先輩の方ね。絹子さまは外科病棟に移りましたが」
「どうもありがとう」
花城「たしか外科病棟は2階になってるはずだ。エレベーターではまだるっこいから階段を駆け降りることにしよう」
 〇 桜門大学多摩病院・外科病棟のナースステーション前
  外科病棟のフロアに降りてきた花城は、ナースステーションのカウンターを覗き込む。
「すみません。内科病棟から降りてきた花城絹子はどの部屋でしょうか」
「ええと。花城さまは」
 点滴スタンドに点滴ボトルを吊るしはじめていた面長の若いナースが振り向く。
「たしか246号室のはずですが」
「どうもありがとう」
  花城はナースステーションの脇から病棟の廊下へすすんでゆく。
 〇 外科病棟の廊下
  病室ごとに掲げられた左右の病室ナンバーをチェックしながら花城がすすんでゆく。
  廊下の尽きたところが246号室になっている。
 〇 外科病棟の246号室
  病室の入り口に起った花城は、ぐるりと病室を見まわす。すると絹子のベッドはいちばん奥の窓側になっている。
  花城は周囲のベッドに会釈しながら絹子のベッドに近づいててゆく。
  絹子の枕もとの点滴スタンドには、いつもの制癌剤のほかあかく平たい板のような輸血用の点滴ボトルが吊るされ
ていて見るからに痛々しい。
「病室が変わったんで、まごついてしまった」
 花城は絹子の枕元に起ち絹子を見おろす。輸血されながらも絹子は明るい顔をしている。
「ゆうべこちらに移ったの。こんどの主治医は植村教授と石沢先生になったの。石沢先生が早速お逢いしたいそうよ」
「それでは、ちょっといってくるか」
  ショルダーバッグを衣料収納コーナーに突っ込み、花城はベッドを離れそそくさと病室をでてゆく。
 〇 特別接見室
  白いスリムなテーブルを8脚の白い椅子がかこんでいる。
  ノックする音がして花城がはいってくる。
「どうぞ、おかけください」
 テーブルの中央の席で絹子のカルテを捲っていた石沢ドクターが花城に椅子を勧める。
「失礼します」
 花城はドクターと差し向かいに腰をおろす。
「いまからは、先週の復習ということになりますが。オペが迫りましたので、もういちど確認していただきます」
 髪は薄めで額がひろく色白の石沢ドクターは、分厚くなった絹子のカルテを捲る。
「はい。よろしくおねがいします」
「まず胃の3分の2を切除します」
「はい。そのことはすでに絹子も納得しております」
「あ、そうですか。胃はいまのところ異常はみられませんが、比較的発病しやすい部分だけ念のためカットします。これがコンセンサスになっています」
「はい。そのことも絹子は理解しています」
「次に胆嚢と『総胆管』をまるごと摘出します」
「はい。その点も絹子は承知しております」
「さらに十二指腸の乳頭部および膵臓の乳頭部を切除します。こんどのオペはこれがメーンとなります」
「はい。この最後の部分について絹子には極秘にしております。まだ癌告知をしていないものですから。この点につい
ては、スタッフのみなさんに徹底をおねがいします」
「ええ。そのことはご心配いりません。ナースも含めスタッフ全員に極秘の指令をだしてありますのでご安心ください」
「ありがとうございます。いろいろご配慮いただき感謝しております」
「要するに、その」
 石沢ドクターは絹子のカルテを閉じると平手でぱんとたたく。
「奥さんの場合、内臓の5箇所を切断し、その全体を捏ねくりまわして縫合するという全体方式をとります。われわれ はこの手法を『まるめ込み方式』と呼んでおります。従来の医学界のコンセンサスでは想像もつかなかった画期的な手法なんですよ。この医術の解説は従来の医学書にはまだ掲載されていません」
「なるほど。そうでしたか。いろいろ懇切なコメントありがとうござました」
花城「わたしが深く頭を垂れて接見室のドアに手をかけたとき、『あ、ちょっと。花城先生』と石沢ドクターに呼びとめられました」
 はっとして花城は、ドアノブに手をかけたまま振り向く。
「あのオ。ナースステーションで、佐伯師長からオペに関するオリエンテーションのパンフを受け取ってください。そのパ
ンフをよくお読みになって、しっかりと理解され、そのマニュアルを実行されるようおねがいします」
「はい。わかりました」
  花城は接見室から消えてゆく。
 〇 外科病棟のナースステーション前
  外科病棟の廊下からでてきた花城は、カウンターから覗き込む。
「すみませんが、佐伯師長さんおねがいします」
「はい。どんなご用件でしょうか」
 はじめて出逢った中年のナースが花城に微笑みかける。
「はい。石沢先生からのご指示ですけど」
「わかりました。ちょっとお待ちください」
 ナースはナースステーションの奥へ消えてゆく。
 まもなく白いナースハットに2本の黒い線がはいった瓜実顔の美女があらわれる。
「佐伯ですけど」
 長い黒髪で理知的な瓜実顔はチャーミングな笑窪を浮かべる。
「はじめまして。246号室の花城ですけど。絹子がお世話になっております。よろしくおねがいします」
 花城はにんまりとした視線をおくり軽く会釈する。
「ああ。花城さまでしたか。ナース歴40年の大先輩として奥様をたいせつにさせていただきます」
「おそれいります。石沢ドクターからの指示なんですが。オペのオリエンテーションのパンフをおねがいします」
「はい。わかりました。こちらですけど」
 佐伯はカウンターの片隅の透明なケースのなかからA4サイズのパンフを摘みあげ花城に差し出す。
「どうもありがとうございました」
 花城は佐伯の白い手からパンフを受け取り軽く頭をさげる。
「奥さま、おだいじに」
  佐伯の声を背中に花城は外科病棟の廊下へすすんでゆく。
 〇 外科病棟の246号室
  6人の婦人ばかりのクランケがベッドに臥せっている。
  はいってきた花城は、絹子のベッドに近づき折り畳み式椅子をひろげる。
「石沢ドクターに逢ってから、佐伯師長にも挨拶してきた」
「佐伯さん、美人でしょう」
 絹子は澄んだ瞳で夫を見あげる。
「ああ。たしかに好感のもてるキャリアウーマンだ。理知的な顔だちでベテランナースの貫禄がある。自信に溢れている
風格が感じられる。信頼できるナースだ」
「みんな、そういってるわ」
「ところで、このパンフは」
 花城はパンフを両手でひろげ絹子が見やすいようにペーパーを裏がえしにする。
「オペに向けてのオリエンテーションなんだ。これをよく読み、オペの準備に向け万全を期さなければならない」
「わかったわ」
「これでオペの基本的な準備はできた。オレはあすの朝、早めに来るからな。あしたこそは、君の運命が決定される正
念場だ。多分、睡眠剤がでるはずだから、それを飲んで十分に睡眠をとってくれないか」
 折り畳み式椅子のうえで腰を浮かせた花城は絹子のベッドを離れ、周りのクランケに会釈しながら病室をでてゆく。


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