ー絹子の幻想ー 〇 北越大学のナースステーション 当直だった、若かりし頃の絹子が椅子にかけ仮眠している。 人の気配がして絹子は背後から目隠しをされる。 「いたずらするのだあれ ! 」 絹子は不意打ちを跳ね除けて起ちあがり、くるりと振り向く。すると自分が鏡を覗いたんかと驚くほど絹子と生き写しの女が起っている。 「あらいやだあ。あなた、だあれ?」 「あたし絹子よ」 「とぼけちゃだめ。絹子はあたしよ」 「とぼけてなんかいないわ。あたしがほんとの絹子なんだから」 「人の名前を勝手に使わないでよ。迷惑しちゃうわ」 「でも、あたしが顔をだしたほうが、あんた胸のうちが楽になるんじゃない」 「そりゃ。互いに気持ちが通じあう話し相手がいたほうがいいに決まってるさ」 「だったら、ちょっとの時間だけ、ふたりでお喋りしようよ」 「いいわ。あたしね。きょうは早朝から主人に騙されて不意打ちをくわされ誘拐されてこの病院へ連れ込まれたところなの」 「あなたのご主人、弁護士さんだけど、お芝居お上手ね。あなた、まんまと騙されたんでしょう」 「まあね。寝込みを襲われ、車で走りだしたときには、このまま関越自動車道を突っ走 り、あたしの母校にほど近い日本海の荒波にふたりで入水するのかと不安になったの」 「まさか、そんなあ」 「でも、ほんとの気持ちよ。あたい、まだ死にたくなかったの。なんとかこのピンチを乗り超えて健康を快復して職場に復帰したかったの」 「その気持ちわかるわ。夫婦心中なんて考えないほうがいい」 「そうね。でも、あたしの推量は取り越し苦労におわったの。ほっとしたわ。それに看護学院時代の寮生だった明ちゃんにも再会することができました」 「だから明子さんのおかげでベッドもはやく決まったんじゃないかしら」 「そうなの。持つべきものは友だわ。明ちゃんのおかげであたいほんとに救われたわ」 「よかったね。あなたの前途には、きっと幸運が待ってるわ」 「そうなってほしいけど。これまで多摩医科大学南多摩病院で収集してきた検査資料は、こちらの病院にはバトンタッチされない仕来たりだから、苦しいおもいをしたアンギオも無駄になってしまったわ」 「でも、新たな気分で一から出直せばいいじゃない」 「苦しくても歯をくいしばって一から出直すしかないわ」 「がんばってね。必ず生き残れると信じて。また顔をだしてあげるからね」 「どうもありがとう。あたし、がんばるから」 もう1人の絹子はすうっと消えてしまう。 ー絹子の幻想・了ー
〇 桜門大学多摩病院のキャンパス 時計台の大時計は、午前11時をまわっている。 〇 桜門大学多摩病院・内科病棟515号室 白いナースハットに1本の黒い線がはいった主任のナースが車椅子を押してあらわれる。 車椅子は絹子のベッドに横づけされる。 「さっそくですが、いまからエコーの検査がはじまりますので、ご案内いたします」 ナースが云いおわらないうちに、絹子はベッドのうえにむくっと起きあがり自力で車椅子に乗り移る。 花城は、車椅子を押しはじめたナースのあとにしたがう。 絹子を載せた車椅子は515号室から廊下へでてゆく。 〇 エコー室の前 1階の検査棟に降りてきた車椅子はエコー室の前で停まる。 「こちらでお待ちくっださい」 花城に微笑みかけたナースは、車椅子を押して検査室へはいってゆく。 検査室の前でベンチに腰をおろした花城は、背凭れに寄りかかると睡魔に襲われ、たちまち舟漕ぎ運動をはじめてしまう。 絹子「あたしは、これまでなんどもエコーに立会いましたが、自分自身がエコーを遣るのは、これがはじめてのことでした。エコーは、被験者のからだの検査部位に、ぬるぬるした糊のようなゼリーを塗布し、特殊なセンサーで、アイロンでもかけるように検査部位にぺったんこさせ嘗めずりまわすのです。すると検査の対象とされた内蔵の現状がそのまま医療用テレビの画面に投影されるのです」 〇 エコー室の中 絹子に対するエコーの検査がつづけられている。 黒い縁取りをした円い壁時計の長針がぴくりとうごき午前11時40分になる。 〇 エコー室の前 ベンチに掛けた花城が船漕ぎ運動をつづけている。 エコー室から絹子を載せた車椅子がでてくる。 「花城さま。お待ちどうさまでした」 耳もとで女の声がすると、半覚半眠だった花城は、すっくと起ちあがる。目の前には車椅子を押すナース主任が起っている。 「こんどはレントゲン室へまいります」 絹子を載せた車椅子は、検査棟の中央廊下へ向かう。花城もその脇に付き添う。 〇 レントゲン室の前 絹子を載せた車椅子がレントゲン室の前で停まる。 「ここでしばらくお待ちください」 花城に微笑みかけたナース主任は、そう云い残し車椅子を押して検査室のなかへ吸い込まれてゆく。 黒い縁取りをした円い壁時計の指針は午前11時55分をまわっている。 花城は、レントゲン室脇の待合コーナーでソファーに凭れる。その途端に花城は、たてつづけに欠伸がでて睡魔に襲われる。もはやプライドも見栄もなく船漕ぎ運動をはじめてしまう。 やがて、待合コーナーの壁時計は午後1時近くになる。 「花城先生。主治医の原野です」 男の太い声がすると、花城はぱっと起ちあがる。花城の目の前では白衣のロマンスグレーが起っている。 花城は反射的に深く頭を垂れる。 「はじめまして。花城ともうします」 「花城先生のお名前は存じあげております」 白衣のロマンスグレーは、洗練された穏やかな表情で花城の広い額に視線を浴びせながらソファーに座る。 「恐縮です。わたしは無名のローヤーにすぎませんが。どうしてまた、どんな機会にお目にかかったのでしょうか」 花城は、白いプラスチックの生地にグリーンの文字で『消化器内科部長』と刻み込まれた原野教授のネームプレートを凝視する。 「実はある刑事事件の弁護人として無罪判決を獲得なさったとテレビで報道されたとき先生のお顔がアップでテレビの画面に浮かびあがったのが印象的でした」 「そうでしたか。穴があったらはいりたいところです」 「ところでその」 白衣の腕を組んだ原野教授は宙をみつめる。 「奥さんのように転入院なさったときには、これまでの検査資料はこちらへはバトンタッチされません。ですから、すべてはじめから遣り直すことになります」 「はい。そのことについては、進歩的であるはずの医学界に中世の遺物のようなギルド意識が温存されているようで、日頃から腹立たしくおもっております」 「ええ。仰言るとおりです。とにかくそんわけですから、さっそく検査をはじめたわけですが、先ほどのエコーの結果によりますと、奥さんの内臓の現状をほぼ把握することができました。それで、とりあえず、いま装着しているドレーン方式のカテーテルを撤去するつもりです。あの格好では奥さんかわいそうですから」 「はああ。でも突然そのような措置をしてもはたして」 あまりにも急激な手法の転換を聞いて花城は驚嘆し聊か動揺する。 「絹子はだいじょうぶでしょうか。いきなりカテーテルを撤去すれば、ふたたび総胆管に胆汁が鬱積することになりませんか」 「ええ。そのご懸念は要りません」 「どうしてですか」 「それはですね。まず十二指腸のあたまの癌細胞で閉塞されている部位に、胆汁の通路としてのパイプをとおします。つまりバイパス方式になりますが。そのパイプを挿入すれば、そのパイプをとおして胆汁もスムーズにながれます。そうなれば、もはや原始的なドレーン方式のカテーテルは要りません。そこでアメリカ製のパイプをバイパスふうに挿入するつもりです」 「なるほど。そうした進歩的な手法もあるんですか」 すこぶる斬新な治療方法に感服した花城は、肩を大きく揺すり深い溜め息を吐く。 「ええ。そこでパイプをとすため、癌細胞で閉塞されている部位に、いまからトンネル工事をはじめます。このまましばらくお待ちください」 ソファーのうえで腰を浮かせた原野教授は、検査室のなかへ消えてゆく。 花城「まもなく検査室からは、かっちんかっちんという鉄槌音のような響きが伝わってきました。おそらくトンネル工事がはじめられたのでしょう。臓器のトンネル工事といういうことは、はじめて聞くはなしでした。素人のわたしにはよくわかりませんが、絹子はすでに乳房の脇から肝臓に穴を開け、カテーテルを『総胆管』まで挿入しています。ですから体外からの通路としては、すくなくとも『総胆管』までは開通しているはずです。そこでこのカテーテルの通路を活用して、ミニサイズの医療用器具を忍び込ませ、臓器内部の状況を医療用テレビの画面に投影しながら、リモコン操作でトンネルを掘削してゆくのかもしれません。かっちんかっちんという音はときどき止みます。一休みしたあと、ふたたび鉄槌音の響きが伝わってくるのでした。単調な鉄槌音が子守歌になり、疲れきっていたわたしは、蕩けていきました」 〇 レントゲン室の中 原野教授グループによって絹子に対する臓器のトンネル工事がすすめられている。 検査室の壁時計の長針がぴくりとうごき午後1時30分になる。 〇 レントゲン室の前 待合コーナーのソファーに凭れ仮眠の姿勢になった花城が蕩けている。 壁時計の長針がぴくりとうごき午後2時なる。 「お待たせしました」 夢うつつになっている花城の耳元で男の声がする。はっとして花城はすっくと起ちあがる。 目の前には、ロマンスグレーの原野教授がにこやかに起っている。 「臓器の穴掘りも一度にはできません。きょうは、これくらいにしておきます。もうすぐ奥さんでてきますから」 「おつかれさまでした。ありがとうございました」 花城は、深々と頭をさげた。 「それでは」 原野教授は、検査室の廊下を奥へ向かってあるきだす。 花城は、教授が奥に消えてゆくまで白衣の背中に感謝の視線をおくりつづける。 まもなく絹子を載せた車椅子が検査室からでてくる。 「きょうは、これでおしまいです。ベッドにもどりますから」 花城に微笑みかけながらナースは車椅子を押しはじめる。 「どうもりがとう」 花城はそのあとにつづく。 〇 桜門大学多摩病院・内科病棟の515号室 ナースが絹子を載せた車椅子を押してはいってくる。そのあとに花城がつづいてはいってくる。 車椅子は絹子のベッドに横づけされる。絹子は自力でベッドにあがる。 花城「きょうは、早朝から絹子を誘拐し、この病院に転入院しましたが、疲れきっていたのでわたしは、ひとまず帰宅することにしました」 「これでもう」 花城はチョコレート色のおおきなショルダーバッグを肩に担ぐ。 「心配は要らない。この病院は素晴らしい病院だ。この次のパイプの挿入は4日後になるらしい。オレはその間に緊急の仕事を処理するつもりだ。主治医の原野教授は信頼できるドクターだ。もう心配は要らない。なにかあったらナースコールすりゃいい」 花城は絹子のベッドの周りにアイボリーのカーテンを曳き、周囲のクランケに微笑みながら病室をでてゆく。
〇 桜門大学多摩病院・内科病棟のロビー 数組の見舞い客に混じって花城がソファーに凭れている。 壁に掛けられた大時計がロンドンデリーの歌のメロデーで午後2時の面会時間を告げる。 そのメロデーがおわらないうちに花城は腰を浮かせ病棟に向かう。ナースステーショ ンの脇をとおり病棟の廊下へとすすんでゆく。 〇 内科病棟の515号室 絹子のベッドにだけアイボリーのカーテンが張られている。 6人部屋でほかのクランケはベッドに臥せっている。吐く息が聞こえるほど鎮まりかえっている。 おおきなショルダーバッグを提げた花城があらわれ、ショックを受けたように入り口で起ち止ってしまう。 花城「最初のトンネル工事がおわってから3日が経過していました。きょうは、2度めのトンネル工事が予定されていました。病室へはいると、絹子のベッドにはアイボリーのカーテンが張られていました。どきりとして、わたしは病室の入り口で起ちどまってしまいました。厳しいトンネル工事で絹子の容態が急変したのだろうか。また高熱状態にもどったのかもしれません」 花城は怯えながら絹子のベッドに近づきアイボリーのカーテンを捲りなかへはいる。 〇 カーテンの中 丸裸になった絹子が着替えをしている。花城はほっとして溜め息をつく。 「きょうは、意外と時間がかかったの」 絹子は着替えの手をはやめる。 「あの処置がおわるまで、じっと耐えていたんで汗だくになってしまったわ。それでうえからしたまでまるごと着替えることにしたの。洗濯物増えちゃってごめんね」 「そりゃ、たいへんだったね」 花城はショルダーバッグのなかからクリーニングがよく効いた絹子の肌着類を摘みだしてベッドの上にならべる。 「ほら。見てごらん。こんなに」 着替えをすませた絹子は娘染みてはしゃぎパジャマを捲ってみせる。 「身軽になったの。あんなにむさ苦しかったドレーンがとれてさっぱりしたわ」 花城「これまで絹子の乳房の脇から下半身に吊るされていたはずのカテーテルは撤去され、絹子のからだの一部になっていた胆汁の受け皿としてのビニール袋も姿を消していました。これで絹子の立ち居振る舞いが以前より遥かに楽になったはずです」 「あたい、今晩は禁食なの」 花城「だれでも禁食にされると無性に食べたくなり欲求不満になりやすいものだ。それなのに絹子は明るい顔でベッドにあがり澄んだ目でオレを見あげている。絹子は、よほど嬉しかったのであろう」 「どうしてまた禁食になったの」 花城は、澄んだ絹子の目と視線をあわせる。 「それがね。臓器のトンネル工事とパイプの装着で内臓をかなり刺激したから、しばらく安静にするんだって」 「なるほど。そういうわけか」 花城は絹子の枕元に折り畳み式椅子をひろげ腰をおろす。 カーテンを捲って童顔の若いナースが点滴袋を提げてはいってくる。 花城「絹子の点滴スタンドには種類の異なる3本の点滴ボトルが吊るされています。吊るされたボトルからのカテーテルの尖端は絹子の肩のカテーテルに接続されて点滴がはじめられる仕組みになっております。制癌剤のほか禁食のため栄養分を補充する薬液が点滴されているのでした」 ナースは点滴ボトルを点滴スタンドに吊るし、ボトルに接続されたカテーテルの尖端を絹子の肩のカテーテルにきちんと接続する。そのカテーテルに装着された調整リングを摘み、垂れ落ちる点滴量の微調整をする。薬液は、砂時計のようにぽとりぽとりと垂れ落ち絹子の静脈に注入されてゆく。 「花城さま。今晩のお食事は点滴ですからね」 童顔のナースは冗句紛いのセリフを残しカーテンの外へでてゆく。 「たいへんな作業がおわったんだから、絹子はゆっくり眠るといい」 「そうさせてもらうわ」 絹子が瞳を閉じたのを見計らい、花城も折り畳み式椅子のうえで仮眠の姿勢になる。 花城「多摩医科大学病院と桜門大学病院とでは、治療の遣り方がまったく異なっていました。ここの病院は、いわばアメリカ方式を積極的に導入した進歩的なものでした。原野教授は、きめ細かいコメントをしてくれる。そのうえでクランケサイドの意思を尊重し、治療をすすめ、診療をしている。これこそ、憲法学における人権論で論議される、いわゆる『インフォームドコンセント』をそのまま徹底させている。これこそ文字通りの『納得診療』といえよう。これで、なんとか絹子は救われそうだ。納得診療の大切さをはじめて体験することができた。インフォームドコンセントつまり納得診療こそ医療の基本であり原点なのだ。これで、絹子の生命のキャンドルが燃え尽きぬうちに、生き抜くための手をうつことができました」
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