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作品名:生命のキャンドルが燃え尽きぬうちに 作者:花城咲一郎

第4回   アンギオ
多摩医科大学南多摩病院の正門
  大理石の正門に多摩医科大学南病院と刻み込まれた文字が浮かびあがる。プラタナスの葉が風に揺れている。数人の外来患者らしい人影がキャンパスにはいってゆく。そのあとからショルダーバッグを担いだ花城が病院の構内にはいってゆく。
花城「絹子が40度の高熱状態から解放されてから1週間が経ちました。わたしもほっと一息つきました。それまで一時的に棚上げしていた法律事務も少しずつ処理できるようになったのですが、気がかりなのは、胆汁の受け皿としてのビニール袋をぶらさげた絹子の姿は決して見栄えのいいものではなく、哀れな格好だったことです」
 〇 内科病棟の病室
  点滴袋を吊るした点滴スタンドを押しながら絹子が病室から廊下へでてゆく。
花城「絹子は洗面やトイレに起つときには、点滴スタンドとの二人三脚でうごきまわるしかありませんでした」
 病室の壁時計は午後1時をまわっている。
 点滴スタンドを押しながら絹子がもどってくる。絹子は窓側まで歩き自分のベッドにあがると、ふうっと溜め息をつき、じっと天井を見つめる。
絹子「あたしは高熱から解放され食欲もでてきました。でもうごきまわるときは点滴スタンドとの二人三脚なので、お膳をはこぶことができません。昼食のときは、お膳は部下の川村さんにはこんでいただきました。主人が見えているときは、お膳はこびも主人の役割になっています。もう、間もなく船山教授の回診の時間になります」
 大名行列のような船山教授らの回診グループが病室へはいってくる。
「みなさま。いまから回診の時間ですので、ご自分のベッドで静かにおまちください」
 佐野師長代行のかん高い声が病室にひびきわたる。
 6人部屋の入り口に近いベッドから回診がはじまり、しだいに奥のベッドへとすすんでゆく。絹子のベッドはいちばん最後の回診だった。
 船山教授が絹子のベッドに寄ってきた。
「花城師長。すっかり明るくなったね」
 船山教授は絹子に微笑みかける。
「はい。ありがとうございます。みんな先生方のおかげです」
 絹子は澄んだ眼差しで船山教授を見あげる。
「君の健康が快復するまで佐野主任に師長代行を命じました。ですから安心して静養し、一日も早く元気になってほしい」
「はい。わかりました。すみません。佐野さん、よろしくおねがいします」
 絹子は、佐野主任と信頼の眼差しを交換する。
「責任をもって代行させていただきます」
 佐野主任は、絹子に微笑みかける。
「それでね。突然だが、ひとつアンギオ遣ってみないかね」
 船山教授は、絹子と視線をあわせる。
「なんですって ! あたしがアンギオするんですか。教授」
「まあね。ドレーンの袋を提げた君の姿が哀れでね。その袋を撤去するためには,開腹して適切な措置をしなければならない。だから念ためアンギオしたほうがいい」
「けど、できれば開腹したくありません。教授。あたしの真の病名はなんですか」
「それがね。これまでの検査だけでは胆汁が正常に流れない原因がすっきりしないんだ。開腹すれば真相がはっきりするはずだ」
「そうですか。必要ならば、いやでもアンギオつまり血管造影をするしかありません」
「そいうことだから、花城先生ともよく話し合ってアンギオの承諾書にサインしてくれないかね。遣れる準備はできるだけ早いほうがいい」
「わかりました。考えてみます」
 船山教授らは絹子のベッドから離れ、回診グループは病室から消えてゆく。
 絹子は、ふうっと溜め息を吐き目を閉じてしまう。
 壁時計の長針がぴくりとうごき午後2時になる。
 ショルダーバッグを担いだ花城がはいってくる。
「体温はかってみようか」
 と、云いながら花城はショルダーバッグを床のうえにおいて絹子を見おろす。
「検温はもういい。ナースの定時検温だけで足りるから」
 絹子は澄んだ目で夫を見あげる。
「そうか。いまリンゴを剥くから」
 花城は、クリーニングがよく効いた絹子の肌着類をバッグから取り出しベッドのうえにひろげる。バッグのいち
ばん底から透明なビニール袋にはいったリンゴを持ちあげ、絹子の目のうえに吊るしてみせる。
「まあ。素敵なリンゴね」
 絹子は娘染みて目を輝かせる。
「ほら。いつか善光寺参りの案内をしてくれた先生。長野の小野弁護士からなんだ」
 花城はベッド脇のサイドテーブルのうえで、赤紫色によく熟れて香りがたかいおおきな信州リンゴの皮を剥きはじめる。
[あのね。さっきの回診で船山教授からアンギオしてみないかと勧告されたの」
 絹子は夫の手先を見つめる。
「アンギオってなんだい」
「あのね。アンギオってのは医学上の専門語だから、一般にはあまり知れてないけど。血管造影のことなの」
「ああ。血管造影のことか。たしか血管の配列状態を探知する検査でしょう。後輩の石川弁護士が胆石のオペの前にそれを遣ったことがある」
「そうなの。そのアンギオはオペに欠かせない重要な検査なんだけど。被験者にしてみれば避けて通りたいほどに苦痛をともなう厳しい検査なんだわ」
「ほう。アンギオはそんなに苦痛を伴う検査か」
 花城は皮をむいたリンゴを皿に載せ、爪楊枝を刺して絹子の枕元に添えてやる。
「そもそもオペの設計図を作成するためには、そのクランケの血管の配列状態を正確に把握しなければならないの。とりわけ冠状動脈や腹腔動脈の配列状態が重要なんだわ」
「そうね。肝心な動脈を損傷したんでは命取りだからな」
 絹子は、こりこりとリンゴをかじりはじめる。絹子の枕元に折り畳み式椅子をひろげた花城もリンゴの切り身を頬張る。
「オペをする以上、アンギオは避けて通れないステップなんだわ」
 絹子はおもわず溜め息を吐く。
「だったらアンギオするしかないでしょう。承諾書にサインしたほうがいいよ」
 花城は絹子を誘導訊問する。
「でもね。できればアンギオなんか遣りたくないわ」
 絹子は、ふたたび、ふっと溜め息を吐く。
 壁時計の長針がぴくりと動き午後3時になる。
「オレちょっと法律相談の客と逢うことになってるんで、帰るから」
 花城は、衣料収納コーナーから絹子が脱ぎ捨てた肌着類を摘まみ、ショルダーバッグに詰め替える。
「それじゃ。なにかあったらナースコールすりゃいい」
 花城はカーテンを捲り絹子のベッドを離れる。
                                                                              
 〇 多摩医科大学南多摩病院の正門
  花城がショルダーバッグを担いで病院のキャンパスにはいってゆく。
花城「その翌日の午後のことでした。わたしはバスと電車を乗り継いで多摩医科大学病院に顔をだしました」
 〇 内科病棟の病室
  ショルダーバッグを担いだ花城がはいいってくる。
  絹子のベッドでは川村ナースが点滴袋の交換をしている。薬液のはいった点滴ボトルを交換した川村はカテーテルに装着された調整リングを白い指で摘まみ、垂れ落ちる薬液の点滴量を微調整する。
「花城先生。ミーテングルームまでいらしてください。清川先生がお待ちしています」
「わかりました。川村さん。いつもありがとう」
「いいえ。これが仕事ですから」
 川村は愛狂しい眼差しで花城に微笑みかけ、若さを振り撒きながら足早に立ち去る。
「それじゃ。ちょっと行ってくる」
  花城は、ショルダーバッグを衣料収納コーナーに突っ込み病室をでてゆく。
 〇 多摩医科大学病院のキャンパス
  中央ホールの通用口から花城がでてくる。芝生を踏んで花城はプラタナスの梢のしたのベンチに掛け背凭れに寄りかかる。
花城「ミーテングルームでは清川ドクターからアンギオの承諾書の用紙を交付されました。けど、自分の気持ちを整理するため、わたしは病院のキャンパスに出て、自分なりの考えをまとめることにしました。これまでナースとして、なんどもアンギオに立ち会ったことがある絹子はアンギオを嫌っております。そこで絹子にアンギオを承
諾させるためにはオペの必要性を納得させなければなりません。その理由づけをあれこれと模索しました。その結果、絹子の『総胆管』に正体不明の異物が引っかかったから開腹が必要だと説明することにしました。それにしても絹子にアンギオを承諾させるには、機嫌のいいときに話をもちかけるのが得策です。それで今度の土曜日の午後、鰻重の差し入れをして絹子と食事をすることにきめました」
 ベンチのうえで腰を浮かせ、うっと背伸びした花城は芝生を歩き通用口から中央ホールへはいってゆく。
                                                                   
 〇 多摩医科大学南多摩病院の正門
  ショルダーバッグを担ぎ、おおきな風呂敷包みを両手で支えた花城が正門からキャンパスへはいってゆく。
花城「それは土曜日の午後のことでした。わたしは馴染みのレストラン『菊水』のマスターに事情を説明し、差し入れ用の鰻重セット二人前を用意してもらい病院を訪れました」
 〇 内科病棟の病室
  黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後2時になる。
  6人部屋のベッドは、がら空きになっている。絹子だけが自分のベッドに臥せっている。点滴スタンドにはなにも吊るされていない。
 鎮まり返った病室にショルダーバッグを担ぎ風呂敷包みを抱えた花城がはいってくる。
 病室の入り口で立ち止った花城は、
「絹子。きょうは鰻重の差し入れだからカーデガンを端折って食堂にゆきましょう」
 と絹子に誘いかける。
「わかったわ。先に行ってて」
 絹子は、ベッドのうえにむくっと起き上がる。
 花城は、絹子に背中を向けて廊下へでてゆく。
  カーデガンを羽織った絹子は夫のあとを追う。
 〇 内科病棟の食堂
  人気がしない食堂に黄色く弱々しい秋の陽が差し込んでいる。
  花城がはいってきて窓側のテーブルに座り、風呂敷包みをほどきはじめる。
  はいってきた絹子は、夫と差し向かいで椅子にかける。花城はほどいた風呂敷をたたみ、テーブルのうえに鰻重セットの料理をひろげる。
「わあ ! これは凄い」
 絹子は、娘染みて大げさなポーズをとる。
「船山教授の許可がでたんで鰻重の差し入れになったんだ。冷めないうちに食べよう」
「もう二度とウナギなんて食べられないとおもってた」
「でも、こうしてちゃんと食べられるようになった。ええと。お吸い物はまだ温かそうだから、あたためなくてもよさそうだな」
 花城は肝吸いの汁がはいった白い円筒形の容器に手をかけ、ウナギの肝など具を底にしずめた吸い物椀に汁をそそぐ。白い湯気がたちのぼる。
「いただきます」
 絹子は病みついた白い手で合掌し、粉山椒をふりかけ、貪るように食べはじめる。
「肝吸いも温かいうちに」
 花城は吸い物椀の蓋に手をかける。
 絹子はただ黙りこくって食べつづける。花城は鰻重の蓋を取り、粉山椒をふりかけ食べはじめる。
グリーンの縁取りをした六角形の壁時計は午後2時50分をまわっている。
「ああ美味しかった。ごちそうさま」
 食事のテンポが速い絹子は重箱に蓋をする。
「デザートのメロンもあるよ」
 花城は右手に箸をつかんだままメロンの切り身を載せた果物皿を絹子の前に寄せる。
「そっか。デザートもあったんか」
 絹子はメロンを鷲掴みにして頬張る。
「肝吸い食べたから元気がでるぞオ」
 箸を握ったまま花城は、右手を天井に向けて突きあげ、おどけてみせる。
 絹子は、けらけら笑いこける。花城は、絹子の笑顔を見るのは久しぶりのことだと胸のうちで呟く。
「お腹いっぱい。あたい、なんだか眠くなってきた」
 絹子は両腕を突きあげ背伸びをする。
「それじゃ、絹子は先にベッドへもどるといい。オレはお膳をかたづけてからにする」 「それではお先に」
  絹子は腰を浮かせ、赤紫のガウンのうえに白いカーデガンを羽織り、食堂から廊下へ消えてゆく。
 〇 内科病棟の病室
  絹子がベッドに臥せっている。
  小林ナースが点滴袋を手にしてはいってくる。彼女は点滴スタンドに点滴ボトルを吊るし、カテーテルに装着された調整リングを摘まみ、垂れ落ちる点滴量の微調整をする。
「師長さん。今晩はみんな外泊でお一人ですからネズミに曳かれないように」
 小林ナースは冗句を残し足早に立ち去る。
 ナースとすれちがいに花城がはいってくる。
 絹子は寝息をたてはじめる。花城は絹子の枕元に折り畳み式椅子をひろげ仮眠にはいる。
 壁時計の指針は午後4時15分になっている。
 絹子は、むにゃむにゃと寝言をいい寝返りをうつ。花城も船漕ぎ運動をはじめる。
 やがて壁時計の長針がぴくりと動き午後5時30分になる。
 まだカーテンを曳いていない病室の窓は落日の陽光で一瞬ぱあっとライトアップされる。病室は黄昏れてくる。
 花城は椅子のうえで腰を浮かせ、ううっと背伸びをする。
「トイレにでも行ってくるか」
 独り言をいいながら花城は病室をでてゆく。
 花城の声で目覚めた絹子は、じいっと天井を見つめている。
 花城がもどってくる。彼はベッドに近づき絹子の枕元に折り畳み式椅子をひろげ腰をおろし腕を組む。
「あのさあ。絹子にアンギオの知らせがあったかね」
 花城は、やんわりと絹子にはたらきかける。
ーこの機会を逃しては絹子にアンギオを承諾させることはできない。このチャンスを逃してはならない。なんとか絹子を説得しなければならない。
 そう決心した花城は、天井を見あげ、絹子を刺激しないように気遣う。
「ええ。アンギオのことは、きょうの回診のとき船山教授から勧告されましたけど」
「そう。そんならはなしは早いや。それで絹子はアンギオするんでしょう」
「まだ決めていない。だってさあ。あたしオペもしないのに、なんでまたアンギオしなくちゃいけないの」
 絹子は、船山教授からオペの必要性を知らされながらパフオーマンスで拗ねたように甘える。
「それがね。絹子はオペが必要なんだ」
「まさかそんなあ。いったいあたしのどこをどうしようというのかしら」
「あのね。君はドレーン方式でカテーテルを装着して胆汁を体外に誘導してるでしょう。それはただの急性肝炎で
はないからなんだ」
「あたしもおかしいとは思っていたわ。あたしの真の病名はなんなの。包み隠さず話してくださいな。ウソ偽りのない真実をそまま」
「あのね。ほんとは絹子の『総胆管』に何かの異物が引っかかったらしい。それで胆汁の流れがわるくなった。それで肝臓にも負担がかかり肝臓が悲鳴をあげ、教科書どおりの高熱状態で急性肝炎のような状態になった。これが絹子の正体なんだ。ウソ偽りのない真相なんだな」
「そんなら、たしかに自覚症状とぴったりだわ」
「でしょう。けど、今はカテーテルで胆汁の捌けもよくなり、肝臓の負担も解消され熱もさがった。しかしドレーンで
はどうしようもない。そこで『総胆管』を摘出したほうがいいという結論になったわけだ」
「わかったわ。たしかにそうかもしれない」
「そんなわけでオペの準備としてアンギオというはなしになったんだ」
「アンギオってのはね。まるでクランケを苛めるような酷い検査なの。でも安全なオペの設計図には欠かせない
検査なんだから遣るしかないわ。もう覚悟はできたから」
「これで決まった。もうアンギオの承諾書の用紙ももらってきてるんだ」
「だったら、あたしの分もサインしといてね」
「そうと決まったらオレ帰るよ」
 花城は絹子が脱ぎ捨てた汗と薬の匂いが染み込んだ肌着類をベッド脇の衣料収納コーナーからショルダーバッグに詰め替える。
「まいにち洗濯させちゃってごめんね」
「いいえ。どういたしまして」
 花城は他人行儀のセリフでおどけながらバッグを担ぎ、鰻重セットの風呂敷包みを小脇に抱えベッドを離れ、あるきだす。
「なにかあったらナースコールすればいい。部下に遠慮することないよ」
 花城は人気のしない鎮まりかえった病室から消えてゆく。
                                                                  
 〇 内科病棟のロビー
天井の高い内科病棟のロビーでは、見舞い客らしい数組がソファーで談笑している。
花城「久しぶりに絹子と食事をしてから3日が経ちました。きょうは絹子のアンギオが実施されたはずでした」
 花城は、ロビーのソファーに凭れている。
 高い天井下に掛けられた大型の壁時計が扉を左右に開きながらローレライのメロデーで午後2時を告げる。
 腕を組んで目を閉じていた花城は起ちあがり、ショルダーバッグを提げてナースステーションの前をとおり内科
病棟の廊下へはいってゆく。
 〇 内科病棟の病室
  病室に顔を出した花城は入り口で立ち止りぎくりとする。
  絹子のベッドにはアイボリーのカーテンが張られている。
花城「この光景は絹子が高熱に魘されていたころのあの忌まわしいものでした。厳しいアンギオの検査で絹子の
容態に異変が起こったのかもしれないと不安にかられました」
  花城は、ぞくっとして震えながら絹子のベッドに近づき、そっとカーテンを捲る。
 〇 カーテンの中
  おどおどしながら花城がはいってくる。
  目を瞑っている絹子の後頭部には茶色い氷嚢が枕にされ、額には小袋の氷嚢が載せられている。
「絹子。もうおわったんか」
  おどおどしながら花城は絹子を見おろす。
「ええ。おわったわ。けど、お尻に火をつけられたようで、ほんとに苦しかったわ。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだとおもったわ」
 絹子は目を瞑ったままぼやき夫に甘える。
「そう。アンギオの苦しさは経験者でなければわからないのでしょう」
 花城は、バッグから取りだした絹子の肌着類を衣料収納コーナーに移してゆく。
 そこへ川村ナースがはいってくる。
「師長さん。点滴交換しますから」
 川村は薬液を満杯にした点滴袋を点滴スタンドに吊るしながらにんまりとする。
「いつもありがとう」
 ベッドの後部に起ったまま花城がナースに声をかける。
「いいえ。これが仕事ですから」
 川村は白い瓜実顔に笑みを浮かべながら点滴ボトルを交換し、カテーテルに装着された調整リングに白く細い指を触れ、垂れおちる点滴量の微調整をする。
「花城先生。接見室までいらしてください。船山教授がお待ちしていますから」
「わかりました。どうも」
  川村は微笑みを残しカーテンの外へ消えてゆく。
 〇 内科病棟の接見室
  鎮まりかえった接見室にはスリムな白いテーブルを6脚の白い椅子が取り囲んでいる。
  船山教授が奥の真ん中の席でテーブルに向かい、分厚くなった絹子のカルテを捲っている。
  ドアをノックする音がして花城がはいってくる。
「失礼いたします」
 花城は低姿勢になり手揉みをする。
「どうぞ。おかけください」
「よろしくおねがいします」
 花城は船山教授と差し向かいに腰をおろす。
「いまから先ほどのアンギオの結果について報告いたします。結論からいうと動脈の奇形が判明しました」
「動脈の奇形と仰言いますと」
 花城は怪訝な顔をして教授と視線をあわせる。
「それがですね。人間の場合、冠状動脈と腹腔動脈とを比較しますと前者が太くなっているのに対し後者がそれより細くなっているのが通常なんです」
「なるほど。そうなんですか」
「ところが師長の場合、冠状動脈が細く腹腔動脈のほうが太くなっています。つまり通常人とは逆になっているので奇形と云ったわけです」
「そうですか。すると動脈配置の奇形とオペとはどんなかかわりあいがありますか」
「ええ。師長の場合オペになれば、乳房の間から下腹部にかけて縦に開腹しますが、オペの所要時間中は腹腔動脈を結さつしなければなりません.。ですからその間の動脈機能は細い冠状動脈に頼ることになります。しかしその冠状動脈が細いので長時間のオペに耐えられるかどうか問題が残ります」
「なるほど。するとこれは絹子のオペにとって重大な障害になりますね」
「そうなんです。だからこの問題を回避できなければオペは避けるしかありません」
 花城は俯いて肩を揺すりふうっと深い溜め息を吐いてしまう。
 彼は起ちあがりながら、
「わかりました。いろいろと詳しいコメントありがとうございました」
 と、深く頭を垂れ接見室から消えてゆく。
 
〇 多摩医科大学南多摩病院のキャンパス
  中央ホールの通用口から花城があらわれる。
  花城が、ふらふらとした足取りで芝生にでてくる。プラタナスの木陰のベンチに腰をおろし前屈みになり両手で頭を抱え込む。
花城「絹子の冠状動脈は腹腔動脈よりも細く、オペの時間中に腹腔動脈を結さつすれば冠状動脈がもちこたえられなくなり、絹子の生命のキャンドルはその場で燃え尽きてしまう。それでオペは危険だから避けるべきだという。もはや、絹子を救う手立てはありません。万策尽きてしまいました。けど、もしかしたら絹子の前途には奇跡が起こるかもしれない。でも、そんな非科学的なことに頼れるはずがない。しかし、ひょっとしたら、どこか別の病院なら絹子のオペができるかもしれない。とにかくその奇跡に賭けてみよう」
 花城は気持ちの整理がつくとベンチのうえで腰を浮かせる。
 花城は、天空に腕を突きあげて、うっと背伸びをする。
 ふっきれたように花城は歩きだし中央ホールに向かう。


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