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作品名:生命のキャンドルが燃え尽きぬうちに 作者:花城咲一郎

第3回  
〇 多摩医科大学南多摩病院のキャンパス
  大学病院の正門脇にはピンクの彩りをしたコスモスの花が咲き乱れている。
  天空は抜けるように蒼く澄みわたっている。
チョコレート色のおおきなショルダーバックを担いだ花城が正門から大学病院のキャンパスに入ってゆく。
花城「それは絹子が大学病院に入院してから2ヶ月経った10月上旬のことでした。わたしは絹子のサポートに専念するため法律事務所を一時閉鎖し、事務所のシャッターをおろしました。ハンドルを握ることを避けてバスと電車を乗り継ぎ、大学病院の職員のように通院することになりました。心理的に不安定な状態でハンドルを握ることは危険だと考えたからでした」
 〇 内科病棟の病室
  チョコレート色のおおきなショルダーバッグを担いだ花城がはいってくる。
  絹子のベッドの周りだけアイボリーのカーテンが張られている。
  周りのベッドに微笑みながら花城は絹子のベッドに近づきカーテンを捲る。
 〇 カーテンの中
  絹子の枕元に起った花城はぎくりとする。絹子には酸素マスクがあてがわれ、点滴スタンドには輸血用の赤い点滴袋が吊るされている。ショルダーバッグを床においた花城は絹子のベッドを一周する。
花城「その日は絹子に輸血がはじまっていました。癌細胞が増殖して毛細血管まで食い散らすようになると、じぶじぶ出血し貧血状態になると船山教授のコメントがありましたが、絹子はその状態になったにちがいありません。よく見ると絹子にはカテーテルのホースが装着され、そのホースの尖端のビニール袋にはコーヒー色の
体液が溜まりかけていました。これは『総胆管』に鬱積した胆汁をカテーテルによって体外に誘導したのかもしれません。カテーテルは体内から体液を誘いだしたり、管状器官の内容物の排出または注入をはかるために用いる導管だそうです。たとえばオペのときに装着する排尿管はカテーテルの代表といわれます。カテーテルについてはすでに医学辞典でたしかめておきました」
 ベッドを一周した花城は絹子の脇の下に体温計を挿入し、折り畳み式椅子に座り絹子の寝顔に見いる。
 やがて花城は絹子の脇の下から体温計を抜き取り、どきりとする。なんと体温は38度になっている。
 花城が右手で体温計を振ったとき、カーテンを捲って川村ナースがはいってくる。
「師長。点滴取り替えますますからね」
 川村は、ちらっと花城に視線をながし、にんまりとしながら点滴袋を交換すると白い指先でカテーテルの調整リングを摘まみ、垂れ落ちる点滴量の微調整をする。
「花城先生。ミーテングルームまでいらしてください。清川先生がお待ちしています」
  川村は、白い手をメガホンにして花城の耳元で囁きカーテンの外へ消えてゆく。
 〇 内科病棟の接見室
  白いスリムなテーブルを六脚の白い椅子が取り囲んでいる。
  人気のしない接見室に花城がはいってくる。花城はテーブルの脇に起ち清川ドクターを待つ姿勢になる。
  すると白衣の清川ドクターがあらわれる。
「お待たせしました。まあ、どうぞ。おかけください」
 清川ドクターは、白くスリムなテーブルをぐるりと周り、奥の真ん中の椅子に腰をおろす。
「失礼します」
 前屈みになった花城は手揉みをしながら清川ドクターと差し向かいに腰をおろす。
「実はその。昨夜遅く、師長の容態が急変しまして、ひきつけの状態になりました」
「ほう。絹子は、これまでひきつけたことはないんですが」
「ところが、昨夜は師長が突然ベッドの上に起きあがり『おうっ』と叫んだまま、ぱたんと倒れこんだそうです。隣のベッドのクランケの方がそれに気づきナースコールしてくださいました」
「そうでしたか。それは助かりました」
「幸いにも当直だった船山教授が駆けつけ緊急措置を採ることになりました。職員宿舎で就寝していた僕も叩き起こされ、慌ててオペルームに駆けつけました」
「それはどうも。たいへんでしたね。それでその緊急措置というのは」
「はい。その緊急措置は乳房の脇から肝臓に穴を開けカテーテルを挿入して固定し、これまで『総胆管』に鬱積していた胆汁をうえのほうに誘導して、ドレーン方式により体外に流出させたものです」
「なるほど。まるでオペのような措置でしたね」
「ええ。まあ。この措置によって『総胆管』や肝臓の負担も軽減されますから熱もさがりますし、つれて食欲もでてくることでしょう。このレベルまでの外科的措置は内科医でもできることになっています」
「はい。さきほどの検温では体温も38度までさがっていました。ところで絹子は熱がさがり食欲もでてきて体調がよくなればオペの前提条件も充たされ、オペも可能になりますでしょうか」
「いえ。ただちに、そうと断定することはできません」
「どうしてですか。素人の勘ぐりとしてはオペができるようにもおもえますが」
 花城は清川ドクターに厳しい視線を浴びせる。
「これまでのコンセンサスによれば、腹部をはしっている腹腔動脈の周辺にメスをいれることは危険ですから、オペは避けるべきだとされています」
「でも。そうした危険を覚悟のうえで、なおオペを切望したときにはどうしますか」
「その場合、おぺ不能として赤マークをつけている外科部長に執刀させることはむりですから、緊急手段としてほかの大学から執刀医を招くしかありません。これが船山教授の考えです。いずれ時期がくれば教授からおはなしがあるとおもわれます」
 花城は、白い椅子のうえに腰を浮かせながら、
「いろいろと懇切なコメントありがとうございました」
  と、深く頭を垂れてミーテングルームから廊下へでてゆく。
 〇 内科病棟の病室
  絹子のベッドにだけアイボリーのカーテンが張られている。
  絹子を除いたほかの5人のクランケは、それぞれ自分のベッドに臥せっている。軽い寝息をたてているクランケもいる。
  そこへ花城がはってくる。花城は、抜き足差し足で絹子のベッドに近づきカーテンのなかへはいる。
 〇 カーテンの中
  すでに絹子の酸素マスクはとりはずされている。
  花城がはいってくると絹子は、待ち侘びたように澄んだ目で夫を見あげる。
「体温はかってみようか」
 と、花城は絹子の脇の下に体温計を挿入する。
「あたい。なんでまた酸素マスクなんて嵌められたのかしら。それにこんなむさ苦しいものまで装着されて。いったいどうしたというのかしら」
 絹子は毛布を捲り、いかにも不満そうに乳房の脇から垂れさがったカテーテルの細管に手を触れる。
「絹子はなんにも覚えてないの。昨夜は君がおかしくなって、みんな大騒ぎしたんだ。幸いにも船山教授が当直
で、職員宿舎にいた清川先生も叩き起こされ、突然の緊急措置を採り、君のピンチを救ってくださったんだ」
 花城は、高熱だったころとはちがって、澄んだ絹子の目をじいっと見つめる。
「そうだったの。あたし、なんにも記憶がないの。おかしいわねえ。急性肝炎ならば、こんな手当てするはずがな
い。あたしの病名はいったいなんなのかしら。急性肝炎なんかじゃないわ。船山教授あたしを騙してるんだわ、きっと。あなた。あたしの真の病名はなんなの。包み隠さず教えてよ」
 絹子は、じいっと疑いの眼差しを夫に向けた。
「さあ。素人のオレにはよくわからないが。なんといっても教授の所見なんだから、それを信じるしかない」
「そうねえ。教授の所見を信じるしかないか。けど、おかしいことはたしかだわ。このドレーンの袋は胆汁なんでしょう。それを体外に誘導してるんだから、あたしのお腹の中では、どこかで胆汁が閊えてるにちがいない」
「まさか。そんなことはあるまいが」
 花城はベッド脇の衣料収納コーナーから絹子が脱ぎ捨てた肌着類を摘まみバッグに詰め替える。
「それじゃオレ帰るから。もう熱もさがったことだし心配ない。あとは時間をかけて回復を待つしかない。絹子はゆっくり眠るといい。あしたは午後2時にくるから」
  花城はショルダーバッグを担ぎ、カーテンのそとへ消えてゆく。
 〇 多摩医科大学南多摩病院の正門前
  ショルダーバッグを担いだ花城が正門からでてくる。
  正門脇のタクシー乗り場で花城はタクシーに乗り込む。
  タクシーは滑りだし、街道の車の流れのなかに吸い込まれてゆく。
 〇 レストラン『菊水』の前
  白い生地に『菊水』という黒い文字の暖簾が風に揺れている。
  タクシーが滑り込んでくる。
  花城がタクシーから降りてくる。タクシーは走り去る。
  花城は暖簾を潜る。
 〇 レストラン『菊水』の中
  自動式のガラス戸がするっと開いて花城がはいってくる。
「いらっしゃいませ」
 客席と調理場を隔てる内暖簾の奥から威勢のいいマスターの声が跳ね返ってくる。
 店内には天然の桜の木をそのまま鴨居にした和風調のムードが漂っている。
 鴨居の奥は日本間で6席ほどのテーブルが配置され、数組の客で塞がっている。鴨居のしたの左側は洋式の客席になっていて、8組ほどのテーブルが並べられている。
 花城は、自分で指定席と決めている奥のテーブルに座る。その脇の出窓に置かれた水槽では熱帯魚が花城に話しかけるように浮遊している。
「いらっしゃいませ。お待ちどうさまでした」
 赤ら顔の若いウエートレスがキリンビールの一番搾りと栓抜きにグラス、鍋物の柳川をテーブルのうえに慎重な手つきでならべる。
「どうも、ありがとう」
 花城をしげしけと見つめたウエートレスは、にこりとして内暖簾の奥へ消えてゆく。
 栓抜きで王冠を撥ねた花城は、七分三分の泡立ちでグラスにビールを仕立て、ぐいとひとくちすすりあげる。
花城「熱帯魚とコミニケーションができるこの席は、わたしにとって安らぎの指定席でした。いつものメニューはマスターにも通じていて、この席に黙って座っていれば、決まったオーダーの料理がでてくるのでした」
 花城は、柳川鍋の蓋に手をかける。両方の手の中指と親指を蓋の両端にあて、そこを支点にしてくるりと蓋を裏返す。すると煮え立つ鍋からもうもうと湯気がたちのぼる。
 花城は、ふうふう吹きながら泥鰌を摘まみあげる。
花城「あした絹子の病室に顔をだしたとき、どんな説明をすべきか迷いました。緊急措置によりドレーンの袋をさげてるのだから、もはや急性肝炎では納得するはずがない。それ以外のなにかこう適切な病名を見つける必要がある。わたしはビールをすすり泥鰌を頬張りながら、適切な病名を模索しました」
「お待ちどうさまでした。こちら肝吸いとフルーツです」
 ウエートレスは肝吸いにフルーツのついた鰻重の特上セットをテーブルのうえに載せる。
「どうも」
 花城はビールをすすりあげる。
 ウエートレスは調理場の内暖簾を潜る。
 鰻の肝を底に沈めた吸い物椀の蓋に花城は手をかける。
花城「絹子は、乳房の脇から肝臓に穴を開けられカテーテルを通して『総胆管』から胆汁を体外に誘導しています。ですから絹子を納得させるためには、この状況とマッチした病名にしなければなりません」
 鰻重の蓋を摘んだ花城は、こってりと焼きあげた蒲焼に粉山椒をふりかけコシヒカリの銀飯に箸をつける。
花城「そのためにはどうしたらよいか。肝吸いのお腕はいつもとちがっていた。これはマスターの発想の転換にちがいない。そうだ。発想の転換が大切だ。その瞬間、閃きました。総胆管になにかの異物がひっかかった。それで胆汁の流れがわるくなった。そう説明すれば、絹子を納得させることができよう」
 花城は、ウエートレスを呼びつけ、ビールを追加する。
 一番搾りの王冠を撥ねた花城は、熱帯魚にはなしかけながらビールをすすりあげる。


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