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作品名:生命のキャンドルが燃え尽きぬうちに 作者:花城咲一郎

第12回   待望の退院
〇 桜門大学多摩病院・地下室の花売り場
  売り場は色とりどりの花で埋め尽くされている。
  菊の花など色とりどりの花の香りがふんわりと嗅覚を刺激する。
  一階の階段から花城がおりてくる。
  花城は、好みの花を物色する。
「いらっしゃいませ」
 愛くるしいまなざしの若い店員が応対にでる。
「ええと。デンファーレとカーネーション、それにカスミソウをあしらってください」
「かしこまりました」
 香水の香りを振り撒きながら店員は慣れた手つきで花を組み合わせ花束をつくる。
「お待ちどうさまでした」
 女は花束をさしだす。
「おいくらですか」
「はい。1550円になります」
「はい。どうも」
 花束と代金を引き換えた花城は階段をのぼってゆく。
 〇 外科病棟246号室
  絹子のベッドにだけアイボリーのカーテンが張られている。
  透明なガラスの花瓶に活けた花をささげるようにして花城がはいってくる。
  花城はカーテンを捲りそのなかにはいる。
 〇 カーテンの中
  花城はデンファーレ、カーネーション、カスミソウを活けた花瓶を絹子の枕もとのサイドボードに載せる。
  花の香りがカーテンのなかにふんわりと漂よってくる。
「まあ。きれい」
 うわ目づかいに花を見て絹子はにこりと微笑む。
花城「わたしは、術後はじめて絹子の笑顔を見てほっとしました。癌との激しい戦闘がおわり、平和をとりもどしたようなうれしさで胸がいっぱいになりました。けど、癌ということばだけはオクビにもだしませんでした」
 〇 外科病棟の246号室
  黒い縁取りをした円い壁時計の長針がぴくりとうごき正午になる。
  5人のクランケは自分のベッドに臥せっており、森閑と鎮まりかえっている。
  廊下から配膳車を配置するらしいもの音が伝わってくる。
アナウンス「みなさま。昼食の時間になりました。歩ける方は廊下までお膳を取りにきてください」
 かんだかいナースのアナウンスが病棟の静寂をやぶる。
 病棟はにわかに活気づいてくる。
  5人のクランケはベッドのうえに起きあがり、お膳を取りに廊下へでてゆく。
 〇 外科病棟の廊下
  長い廊下には、数台の配膳車が配置されている。
  どの配膳車にも、その周りにはたちまち人だかりがする。
  名札のついた自分のお膳を探すために腰をかがめ、鵜の目鷹の目で配膳車の棚を覗き込む。
  そのなかに混じってナースはお膳探しのアドバイスで忙しくうごきまわる。
  閑静だった病棟ではしばらく喧騒の波がたちつづける。
 〇 カーテンの中
  絹子はベッドで仰向けになり、周りの喧騒からエスケープするように目を閉じて、じいっと堪えている。
  花城は絹子の枕元で椅子に腰をおろし目を瞑っている。
花城「一日に三度のお食事の時間になると、配膳車が廊下に配置され、ナースのアナウンスが聞こえてきます。けど、絹子のお膳はどこにもありません。体内の5箇所を切断し吻合した内臓の部位が治癒するまでは禁食になっていました。絹子には水一滴すら与えることができません。ですから絹子の栄養は、すべて点滴にたよっています。点滴による栄養補給は理想的に設定されています。しかし、それは口径食ではないから、絹子には食べたという感覚はいっさい湧きません。だから心理学的には空腹という絹子の欲求はなにも充たされていないことになります。食べたいという欲求を理性により押さえ込み、じいっと耐えるしかありませんでした。お食事のアナウンスがあるたびに、わたしは絹子の耳を厚いタオルで覆ってやるしかありませんでした。一般病棟にもどってからは、そんなまいにちがつづきました」
                                     

 〇 多摩川の水源地・羽村堰
  玉川兄弟で知られる東京都の水源地になっている羽村堰では、延々とつづく堤に沿って桜が満開になっている。羽村堰は花見客でにぎわっている。その一角では、黒山の人だかりがしている。猿回しのサルの演技が人気をあつめているのだった。
 〇 桜門大学多摩病院外科病棟246号室 
  絹子のベッドにもカーテンは張られていない。
  ルームメートの5人のクランケはそぞれ自分のベッドに臥せっており、森閑と鎮まりかえっている。
  黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後2時になる。
  チョコレート色の大きなショルダーバッグを担いだ花城がはいってくる。
  花城は周囲のベッドに微笑みかけながら絹子のベッドに近づいてゆく。
  珍しく絹子は目を開き天井を見あげている。
  花城は急にアイボリーのカーテンを曳きなかへはいる。
 〇 カーテンの中
  花城がいきなりカーテンを曳いたので絹子は驚き、顎を突きだし、うわ目づかいで夫を見あげる。
「あなた、どうしたの。急にまたなあに」
 絹子は怪訝な顔で目をぱちくりさせる。
「まだ、チュウなんかしちゃだめよ。カテーテル抜けちゃうから」
「ばかいえ。そんなんじゃないよ。実はなあ。いまからオママゴトするんだよ。だれにも見られないで絹子とふたりだけでね」
「オママゴトするって ! 子供じゃあるまいし」
 花城は絹子にはおかまえなしで、枕もとのサイドテーブルのうえにオママゴトの七つ道具をならべる。
 蓋のついた湯飲み茶碗、ガーゼ、箸入れ、竹の箸などオママゴトの七つ道具が揃えられている。
「ほんとにオママゴトするつもりなんだね。あんたあ」
 胃に垂らし込んだカテーテルの尖端を絆創膏で固定した鼻の脇に小皺を寄せ絹子はにたりとする。
「頭はたしかかね。ひょっとして気がふれたんじゃない?」
「ああ、そうかもね。とにかくオママゴトやってみよう」
 花城はサイドテーフルのうえにあったグリーンの魔法瓶から湯飲み茶碗に熱いお湯をそそぎ、小さく折り畳んだガーゼを箸で摘み、茶碗のなかでよくかきまわす。
「いったい、なにがはじまるのかしら。うちのひと、ほんとにおかしくなったのかもしれない。あたい心配になってきたわ。うちの先生、あたしの看病で疲れきってノイローゼになったにちがいない」
 不安な表情で絹子は、だいのおとなにしては奇異としかみられない夫の仕草を見まもる。
 花城は湯のみ茶碗のなかのガーゼを竹の箸でよく掻きまわし、湯気のたち加減で適温かをたしかめる。
「さあ。ごはんですよ。白湯のスープができました」
 音程をたかくした子供のような声で、おどけたポーズをとりながら花城は、いくらかお湯を含んだガーゼを竹の箸で摘みあげ、かさかさに乾ききった絹子の唇にあてがう。
 7人の医師団による7時間のオペがおわってから長期間の禁食で水一滴すら与えられなかった絹子は、唇の刺激を敏感に受け止め、ただ反射的に微温湯をわずかに含んだガーゼにしゃぶりいつく。
「絶対に飲みくだしてはいけないから」
 花城のくちからおおきな声で厳しい命令口調がほどばしる。
 絹子は、ツバメの雛が親ツバメから餌をくちうつしされるときのように、乾ききった唇を尖らせる。
 花城はなんどもなんども絹子の乾ききった唇に微温湯をわずかに含んだガーゼをあてがう。
 そのたびに絹子は子供じみてガーゼにしゃぶりつく。
  病みついた弱々しい絹子の目から大粒の涙が零れおちる。
 
 〇 花城の書斎
  寝室兼用の書斎になっている。
  壁時計の長針がぴくりとうごき夜の9時になる。
  花城は、どっしりとしたデスクに向かい、ブランデーを嘗めながら大型の大学ノートに日記を書いている。

     ー花城の日記ー

 7人の医師団による7時間にわたる絹子のオペがぶじに成功してから1ヶ月が経ちました。この間、絹子の体内から体外に導かれていたカテーテルは、切断し吻合した内蔵の治癒した部位のものから1本ずつ撤去されてゆきました。もともと絹子の体には6本のカテーテルが植え込まれていました。胃に垂らし込み、絹子の鼻の頭に絆創膏で固定したカテーテルのほか、絹子の腹部には5本のカテーテルが装着されていました。そのカテーテルは、患部の治癒したものから順次に撤去され、日が経つにつれ、その本数はすくなくなってゆきました。
 やがて最後の1本が抜き取られる日がやってきました。こうしてすべてのカテーテルが撤去された絹子には、癌患者としての暗い陰はまったくみられなくなりました。その外見上からは健常者とまったくかわったところがなくなりました。
 絹子は、日常の立ち居振る舞いにも迫力がでてきました。絹子の健康の快復は予想以上に急テンポでした。
 植村教授でさえも舌を巻くほどでした。あと20日もすれば退院することができるでしょうとも仰言いました。

                   ー花城の日記・了ー

 〇 水源地多摩川の羽村堰
  延々とつづく桜並木の桜の花はとうに散り葉桜になっている。
 〇 多摩丘陵地帯
  多摩連山などの丘陵地帯は、爽やかな新緑一色になっている。
 〇 桜門大学多摩病院のキャンパス
  大学病院のキャンパスでは、植え込みの一角におおきなオオムラサキが列をなして咲誇っている。
  三脚つきの一眼レフを両手で支えた花城が、外来患者の通用口からキャンパスにでてくる。
  赤紫のガウンを羽織った絹子もサンダルを履いて花城のあとを追ってでてくる。
  花城はオオムラサキをバックにして一眼レフのカメラを据える。
「絹子。そのオオムラサキの手前に起ってくれないか」
「はい、あなた。わかったわ」
 絹子はオオムラサキを背にしてカメラに視線をあわせる。
「この辺でいいかしら」
「ああ。そこでいい。いまカメラをマニュアルにするから、そのままにしていて」
 絹子はいくらか緊張気味にカメラのレンズを注視する。
「それではいきますよ」
 花城はがちゃりとシャッターをきる。
「こんどは、オレもそっちへゆくから。セルフにしてから」
 花城は、おなじ位置で絞りをもういちど確認すると、セルフシャッターにセットしボタンを押した途端にはしりだし、カメラに向かって絹子と肩をならべる。
 カメラは、ぱっとフラッシュの閃光を煌めかせ、ぱちりとシャッターはおりる。
花城「これほど和やかなムードに浸るのは、10ヶ月ぶりのことでした。そのあと、ふたりは、エレベーターで屋上にあがり、武蔵野の風景を一望にしました」

 〇 桜門大学多摩病院の正門
  キャンパスのなかの時計台では、大時計が午前9時40分になっている。
  花城がハンドルを握る車が正門からキャンパスへ滑り込んでくる。車はそのまま駐車場にすすみ、係員の指示にしたがい指定された位置に駐車する。
 車から降りた花城は入退院患者の入り口に向かって歩き、扉の奥へ吸い込まれゆく。
花城「きょうは、絹子が退院する待望の日になりました。その朝は指定された時刻よりも早めに病院に向かいました。絹子が最初に入院してから10ヶ月ぶりのことでした」
 〇 外科病棟の246号室
  5人の婦人患者が自分のベッドのうえに上半身を起こしたり、臥せったりしている。
  絹子のベッドには、アイボリーのカーテンが張られている。
  おおきな旅行かばんを提げた花城がはいってくる。
  周囲のベッドに微笑みかけながら絹子のベッドに近づいた花城はカーテンを捲ってなかにはいる。
 〇 カーテンの中
  絹子はネグリジェを脱ぎ捨てて、紺色のスーツに着替えをおえている。
「ずいぶん手まわしがいいんだね。絹子」
「ええ。ちょっと早めに着替えちゃったの。なんだかうれしくって」
花城「絹子は、オペ不能の重症患者から一転してキャリアウーマンの姿に変身していました。7人の医師団による7時間にわたるオペを受けたクランケの面影はどこにもみられませんでした。ふだんラフな格好で通院していたボクも、その日はきちんとスーツを着込み、その胸には、法廷にでるときのように、黄金の胸章とも呼ばれる、ひまわの花をシンボライズした弁護士バッジを佩用していました」
 〇 外科病棟246号室
  5人のクランケが絹子のベッドのアイボリーのカーテンのなかのうごきを気にしている。
  ふしくれだった男の手が見えて、アイボリーのカーテンがするっと開けられる。
  すると紺のスーツ姿の絹子と弁護士バッジを佩用した花城の姿がクローズアップされる。
「わあ。絹子さん。まるで別人みたい」
 隣のベッドの老婆が歓声をあげる。
 ほかの患者がいっせいに拍手する。
 246号室はたちまち歓送会ムードに溢れる。
「絹子がたいへんおせわになりました」
 花城は深く頭をさげる。
「ながいあいだ、ほんとにありがとうございました」
 絹子の声は涙ごえになっている。
  別れを惜しみながら花城夫妻は246号室から消えてゆく。
〇 外科病棟のナースステーション前
  病棟の廊下から花城夫妻があらわれる。
  花城夫妻はナースステーションを覗き込む。
「花城ですが。おかげさまで退院することになりました」
  居合わせた若い花村ナースに花城は微笑みかける。
「ご退院おめでとうございます」
  顔なじみの花村ナースが微笑みかえす。
「花村さん。たいへんおせわになりました」
  絹子は深く頭をさげる。
「ご退院おめでとうございます」
「みなさんにも、よろしくお伝えください」
  花城はぺこりとあたまをさげる。
「はい。みんなでお見送りすると云ってターミナルにでているはずです」
「それはどうも」
 と云い残して花城は、ロビーからエレベーターホールに向かう。
 絹子もそのあとにつづく。
 〇 エレベーターの前
  花城夫妻はエレベーターに乗り込む。
 〇 エレベーターの中
  花城夫妻っだけのエレベーターは下降してゆく。
 〇 桜門大学多摩病院1階の中央ホール
  エレベーター脇では、草色の手術着姿をした植村教授が待機している。
  エレベーターのドアが開き、花城夫妻がエレベーターから降りてくる。
「あ ! 植村先生。絹子がご指導いただき、ありがとうございました」
 花城は深々と頭をさげる。
 夫に釣られるように絹子も頭をさげる。
「しばらくは、定期的に」
 キャリアウーマンに変身した絹子のスーツ姿に植村教授は目線をおくる。
「外来に来ていただきますが、お気をつけて。いまからオペがはじまりますので、これでごめんこうむります」
 命の恩人である植村教授のまえで絹子はことばにつまり、ただ深くあたまを垂れるばかり。
 有能な外科医にふさわしく、エネルギッシュな風貌の植村教授は、エレベーターに吸い込まれてゆく。
  花城夫妻は中央ホールから病院のキャンパスへでてゆく。
 〇 大学病院のターミナル
  花城夫妻がターミナルにあらわれる。
「いま、車を移動するから、ここで待ってて」
  絹子に云い残し花城は急ぎ足で駐車場に向かう。
  ターミナルに起っている絹子の周りには、たちまち人だかりがする。
  佐伯師長につづいて明子師長ら数人のナースが見送りに駆けつける。
  まもなく花城の車がターミナルに横付けされる。
「ちょっと待って ! 」
 草色の手術着姿をした石沢ドクターがあたふたと駆けつける。
「ああ、まにあってよかった。オペの準備に追われててね」
 絹子を車に乗せかけていた花城は一旦、車から降りる。
「石沢先生。いろいろとご指導いただきありがとうございました」
 花城は深く頭を垂れる。
「花城さんの退院を忘れてたわけではないいんだ。とにかくその」
 石沢ドクターは絹子に最後のアドバイスをはじめる。
「オペでお腹がちいさくなったんだから、当分の間は食事を小刻みにしてください。1日あたり5〜6回にわけてね。一度に食べすぎないように」
「はい。よくわかりました。ほんとうに」
 絹子は目を潤ませ石沢ドクターにアプローチする。
「ながいあいだ、ありがとうございました。先生もお元気で」
「ごめんね。仕事にかまけて、いちども顔をださないで、ほんとにごめんなさい」
 明子師長は絹子の手をしっかりと握り締める。
「あたいもね。哀れな格好で。恥ずかしいおもいでした。哀れな格好を明ちゃんには見られたくなかったの。あたしの気持ち察してくれて顔をださなかったんでしょう。感謝してるわ」
 絹子は明子の手を握りなおす。
「皆様。お見送りありがとうがざいました」
 花城は、みんなの前にすすみ、深々とあたまをさげる。
「それでは」
 花城は絹子を車に押し込み、ドアを閉める。
 運転席にあがった花城はエンジンを起動させる。
 車はしずかに滑りだす。
 みんな手を振って別れを惜しむ。
 絹子を載せた花城の車は、キャンパスから街道に滑り込んでゆく。
 〇 病院前の街道
  絹子を載せた花城の車が大学病院のキャンパスから滑りだしてくる。
  花城の車は、川の流れのように連なる車の流れのなかに吸い込まれてゆく。
 〇 車の中
  花城はしっかりとハンドルを握り先方を直視している。
  絹子は、走り去る窓外の風景に蕩れている。
  花城はハンドルを握りなおす。
 〇 街道
  花城の車はしだいにスピードをあげてゆく。
  街道脇の雑木林では、燃えるような新緑の香りがたちのぼる。

 〇 花城邸の全景
  住宅街の一角に2階建てのモダンな住宅が浮かびあがる。
 〇 花城邸の勝手口
  垣根で囲まれた花城邸の勝手口では門扉の脇に郵便受函が設置されている。
  その郵便受には『花城( 勝手口)』という文字が刻み込まれている。
  絹子を載せた花城の車が滑り込んでくる。
  門扉の前で車は停車する。
  運転席から花城が降りる。花城は後部座席のドアを開ける。
  絹子は用心深い姿勢で車から降りる。
  門扉を開けて庭に入った花城は勝手口のドアロックを解除しドアノブに手をかける。
  門扉の脇には温室が建っている。
「あら。こんなハウスいつできたの」
  絹子は門扉の脇の温室を覗き込む」
「君が入院してまもなく、組み立てたんだ。君が退院したときに洋ランの花がみられるようにとおもってね」
「そうなの。デンファレやデンドロビュームなどの洋ランは、秋から冬にかけて咲くんでしょう。これで楽しみがひとつ増えたことになるわ」
 絹子は用心深い足取りで勝手口に近づいてゆく。
「オレはランにシリンジするから絹子は先にはいって」
「はい。それにしてもシリンジって、なあに?」
「ああ。シリンジってのは、花や株に霧を拭いてやること。園芸の専門語のひとつなんだ」
「そうなの。ひとつ利口になったわ。ランは湿り気が好きなんだね」
「まあね。ランは熱帯地方が原産地だから、高温多湿、それに通風、つまり摂氏8度以上の適温、適度の湿気、風通しが生存のための基本条件なんだ」
「ランの生命をまもってあげてね」
 絹子は勝手口の靴脱石のうえにあがり靴を脱ぐ。
 網戸の把手に捕まりからだを支えながら、
「よいしょ」
  と、絹子はもの珍しそうにキッチンへあがる。
 〇 温室の中
  3段式の棚には、洋ランの鉢がずらりとならんでいる。
  花城がはいってくる。
  温度計は35度を超え、熱気でむんむんして真夏日のムードになっている。
  花城は、ひと鉢ごとに、ていねいにシリンジをしてゆく。
  茎のバルブにもていねいにシリンジしてゆく。葉の裏にも霧を拭きつける。
 〇 絹子の部屋
  着替えもしないで絹子がベッドにあがり、じいっと天井を見あげている。
絹子「あたしは、10ヶ月ぶりに自分のベッドにもどりました。もう2度と自分のベッドにはもどれないとおもいました。それが、いま、こうして自分のベッドにあがっています。夢ではないかと自分の頬を抓ってみました。ようやく健康色をとりもどした頬がひりっとしました。夢ではないことが証明されました」
 絹子はふうっとおおきな溜め息を吐く。
 廊下で足音がして花城がはいってくる。
「いまからお昼の準備をするんだが、絹子はなにがいいかね」
「あたい。ラーメン食べたいな」
「ラーメンでよければ、インスタントで札幌ラーメンがすぐできるが。こちらへはこぶか」
「いいえ。キチンへゆきますから」
「それじゃ5分ほどしたらキチンにきてくれないか」
 花城は廊下へ消えてゆく。
絹子「夫の足音が遠のくのを耳にして、あたしは自宅にもどったのおだという実感が湧きました」
 〇 花城邸のキッチン
  花城は、アルマイトの鍋に、左側の蛇口からお湯をそそぎガスレンジに載せ点火する。
  桐のまな板のうえで、とんとんとネギを刻む。
  戸棚から中華どんぶりを2個とりだしテーブルに載せる。
  ラーメンを仕立てどんぶりに盛り付ける。刻みネギと刻みのりをふりかける。生タマゴをおとす。
  ネグリジェに着替えた絹子がはいってくる。
  絹子は、花城と差し向かいで、久しぶりに、いつもの主婦座に座る。
「それでは、いただくか。とにかく退院おめでとう」
 花城はどんぶりに手をかける。
「ながいあいだ、ありがとうございました。いただきます」
 絹子は合掌してラーメンに箸をつける。

 〇 花城邸の庭
  天空には満月が蒼く下界を浮かびあがらせている。
  芝生の庭の一角では鳥小屋にはいった数羽の鶏が鶏冠を弛ませ眠りこけている。
 〇 花城の書斎
  壁時計の長針がぴくりとうごき夜の8時30分になる。
  デスクに向かった花城はパソコンのキーをたたいている。
 〇 絹子の部屋
  ベッドにあがった絹子が眠っている。
 〇 花城の書斎
  花城はパソコンのキーをたたきつづけている。
  キーをたたく手をやすめた花城はデスクのうえでライターをひねりタバコをつける。
  花城は天井に向けて 紫の煙を噴きあげる。
花城「絹子が退院してからも、1ヶ月あまり食事の準備は、わたしの役割になっていました。わたしは、書斎で仕事をつづけながら、時間をやりくりしては食事の準備をするのが日課になっていました」
 タバコの吸い差しを灰皿に磨り潰した花城は、ふたたびパソコンのきキーをたたきはじめる。


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