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作品名:生命のキャンドルが燃え尽きぬうちに 作者:花城咲一郎

第11回   癌の峠
〇 ICUの中
  絹子を載せた移動式ベッドを押しながらナースがはいってくる。
  花城はICUにおけるマニュアルにしたがい靴を脱いで専用のスリッパに履き替え、マスクをくちに宛がい、白衣を羽織って絹子のベッドに近づく。
 照明度をダウンしたICUでは、自動血圧監視装置、その他の監視装置など新鋭医療機器が絹子のからだに連動され、いっせいに稼動をはじめる。
 花城は、絹子のベッドからやや離れた位置で椅子に腰をおろし、監視装置の赤ランによるデジタル表示をじっと凝視する。
花城「照明度をダウンしたICUのなかで、わたしが腕時計をたしかめると午後6時25分でした。赤ランプのデジタル表示によれば、絹子の最高血圧は135、最低血圧は91、平均血圧は112となっていました。絹子のふだんの血圧は、たしか最高血圧126、最低血圧65程度のはずでした。だから絹子のいまの血圧は異常の状態になっていることだけはたしかでした。心拍表示装置の赤ランプを見ると、心拍が97から100の間をアップダウンしていました。点滴スタンドに吊るされた点滴ボトルの薬液をたしかめてみました。フィシオソール、プラスアミー、ラテックスなどのほか食塩水も用いられていました。これらの薬液は砂時計のようにぽとりぽとりと垂れ落ち、絹子の静脈に注入されてゆきました。わたしは、デジタル表示の赤ランプの数字がアップダウンするたびに、緊張と不安の波に揺れ動かされていました」
 酸素マスクを嵌められた絹子はまだ麻酔から醒めていない。
 絹子の脳細胞では、ひとりの裸女が夢ともうつつともつかない幻想の広野を彷徨っている。

   ー花城絹子の幻想ー

 〇 冷たい井戸の中
  絹子は、暗黒で底深く冷たい井戸の中に突き落とされている。
  井戸の周壁には石造りの突起がでている。
  絹子は必死でその突起にしがみつく。ぬるぬるして手が滑りはしないかと絹子は不安になる。
絹子はかっと目を開く。
「あら、この突起は石造りではなく鉄製の把手なんだわ。これならしがみついてもだいじょうぶかもね。この突起は井戸の周りの壁に固定された梯子型の把手らしい」
 絹子はその突起を握り締める。右手で突起を握り締めからだをもちあげる。こんどは左手で突起を握り締めからだをもちあげる。絹子は喘ぎながら鉄の梯子を昇りつづる。
「これなら、なんとか井戸の底から這いあがることができそうだ」 
 絹子には希望が湧いてくる。
 必死で絹子は、鉄の梯子を昇りつづける。絹子の息遣いがしだいに荒くなってくる。
 絹子は喘ぎながら左手を伸ばそうとするが、もはや力はでない。
「小休止するしかない」
 絹子は、じいっと天井を見あげる。
「なにも見えないわ。あたい、暗黒の重い圧力に押しつぶされそう。けど、いまここで死ぬわけにはいかない。
なんとか生き延びなければならない」
 絹子はふたたび鉄の梯子を昇りはじめる。
 息苦しくなって小休止する。
「苦しくとも時間をかけて、忍耐強く、ありったけの力を振り絞れば、かならず天井に光が見えてくるはずだ」
 ありったけの力を振り絞って絹子はからだをもちあげる。
「なんとしても、この暗黒の世界から脱出しなければならない」
 絹子は突起にしがみつき、からだをもちあげる。
「あ !! 光が見えてきた」
  絹子の頭上には、一条の光明が煌きはじめる。
 〇 花城邸の庭
  樅の木の根っこの穴から絹子が這いあがってくる。
「あ、あたい、助かったみたい。あたい、生き延びることができたんだわ」
 放し飼いの鶏が鬨の声をあげる。

                ー花城絹子の幻想・了ー

 〇 ICUの中
  壁時計の長針がぴくりとうごき夜の9時になる。
  椅子にかけた花城は、真剣なまなざしで赤ランプの点滅するデジタル表示の数字と睨めっこをつづける。
  花城は、ときおり椅子のうえで腰を浮かせては絹子の枕元に起ち、酸素マスクを嵌められた絹子の顔を覗き込み、ふうっと深い溜め息を吐く。
 ふたたび椅子にもどると赤ランプのデジタル表示を凝視する。
 花城は、おなじパターンの行動を繰り返す。
花城「絹子は今、意識がないまま、暗黒の渕に横たわり、刻々ときざまれる一秒いちびょうを生と死の谷間で彷徨いつづけているにちがいありません。絹子はいま、たったひとりで暗黒の渕で時を刻んでいるんだろう。絹子ははたして生き残ることができるでしょうか。もしかすると、絹子はこのまま眠りつづけ三途の川を渡ってしまうかもしれません」
 疲れはてた花城は椅子のうえで、かっくんかっくんと船漕ぎ運動をはじめてしまう。
「花城さまあ !! 」
 かんだかい女の声が花城の耳の鼓膜を振動させ、はっとして反射的に椅子のうえに起ちあがってしまう。
 花城が目を擦ってよく見ると、絹子の枕元では当直のナース主任が絹子を見おろしながら叫んでいる。
「花城さまあ !! 」
 主任のナースは白い手をメガホンにして絹子の耳元でふたたび叫ぶ。
 花城は絹子のベッドに近づき、絹子のリアクションをたしかめようと、酸素マスクをした絹子の顔を凝視する。
 だが、期待する絹子のリアクションは感知されない。
「花城さまあ !! 」
 主任のナースの3度めの叫びが森閑と鎮まりかえったICUの静寂をやぶる。
 絹子の反応を期待する花城の視線のしたで、酸素マスクをあてがわれた弱々しく白い下顎がわずかにうごく。
花城「ナース主任の呼びかけに反応して、絹子は精一杯の返事をしたにちがいありません。絹子は麻酔がきれてきたようでした。わたしのハートのなかに陰影をおとしていた、絹子は眠ったまま目を覚まさないのではないかという不安は解消されました。ひとまず、わたしはほっと胸を撫でおろしました」
 絹子の枕元から椅子にもどった花城は、ふたたび点滅する赤ランプのデジタル表示と睨めっこをはじめる。
 短い時間の間隔をおいて当直のナースが絹子の血圧、心拍数、呼吸数などを克明に記録してゆく。
「ここはもう」
 当直のナースは検温器を抜き取り絹子の体温を記録する。
「だいじょうぶですから特別接見室にいらしてください。石沢先生がお待ちしてます」
「わかりました。それではここをおねがいします」
 花城はICUの入り口近くにあがり、白衣を脱いでハンガーに掛け、ICU専用のスリッパから自分の靴に履き替え、神妙な足取りでICUから抜けだしてゆく。
 〇 特別接見室
  スリムなテーブルを白い椅子が取り囲み、巷の雑踏から遮断された静寂なエリアになっている。
  テーブルの中央で石沢ドクターが検査資料の集積で分厚くなった絹子のカルテを捲っている。
  ノックする音がして花城がはいってくる。
「まあ。おかけください」
 石沢ドクターに勧められて花城は椅子の背凭れに手をかける。
「失礼します。長時間のオペごくろうさまでした。ありがとうござました」
 花城は石沢ドクターと差し向かいで椅子に浅くかける。
「いまからオペの結果について説明します」
 石沢ドクターは、黄金色で人間の内臓マップが彫刻された解剖皿を手元に引き寄せる。テーブルのうえにおいてあったビニール袋から、石沢ドクターはピンセットでピンクの肉の塊を摘みあげ、そのまま解剖皿の内臓マップにあわせ、本来、あるべき場所にきちんと位置づける。
「実はこれ奥さんのですけど。この臓器を本来あるべき位置にならべてみました。人の
お腹のなでは、消化器系統の臓器はこのように配置されています。尤も実際には、もっと立体的になってるはずですが」
「なるほど。そうなんですか。それにしても」
 いまにもぴくぴくうごきだしそうなピンク色をした絹子の内臓を見て、花城は動悸が高まるのをじいっと堪える。
「人間の内臓って、こんなに美しいんですか」
花城「わたしは、解剖皿のうえに身を乗りだして、じいっと、絹子の臓器の切片を凝視しているうちに、感動のあまり身慄いがしました。胃の3分2、胆嚢に総胆管、そして膵臓および十二指腸の乳頭部が数珠繋ぎになって、ならべられていました。これらの切片はまだ生きていて、いまにもぴくぴくうごきだしそうでした。しかもまるで桜肉のように美しいものでした」
「ここの部分をご覧ください。この」
 石沢ドクターは、ピンセットで胃の内壁の部分を押さえる。
「ご覧のように、胃の内壁の部分にポリープが一粒ありました」
 花城が目を見張ると、白身がかった粟粒のようなポリープが浮かびあがる。
「この『総胆管』ですが、これもほれ」
 石沢ドクターは、絹子のお腹のなかから摘出された総胆管を摘まむ。
「このとおり、かなり肥大していますね。その壁もこのように厚くなってるんですよ。胆汁が『総胆管』に鬱積し、たいへんな負担になっていた証しですね」
「ほう。膵臓および十二指腸の乳頭部に悪性細胞が過剰形成され、胆汁がどぶ川のように鬱積し『総胆管』に圧力がかかり肥大したという証拠ですか」
「ええ、まあ。そういうことになりますな。実はこれが」
 石沢ドクターは膵臓および十二指腸の乳頭部をピンセットで押さえる。
「癌細胞なんですよ。これから病理検査にまわしますが」
「なるほど。それが犯人の癌細胞でしたか。まだ小さい感じですね」
「ええ。癌細胞は当初、膵臓の乳頭部で発生し、それから十二指腸のあたまにまで増殖してきましたが、癌細胞としては、まだ初期の段階でしたね。奥さんの場合、最初の内視鏡検査で異状を見つけた早期発見が決め手になりました。早期発見が大切だという症例の代表ともいえましょう」
「はい。たしかに先生の仰言るとおりです。絹子の場合、もし高熱がでなかったならば、発見が遅れ命取りになったかもしれません」
「そうですね。高熱状態という急性肝炎のようなサインがでて、ただちに精密検査をしたのがよかったですね」
「いろいろと懇切なコメントありがとうございました」
  花城は深くあたまを垂れ、ドアノブに手をかける。
 〇 ICUの中
  酸素マスクをかけた絹子は、仰向けになってベッドに緊縛されたままの姿勢で目を閉じている。
  血圧監視装置、心拍監視装置など各種の医療機器が作動をつづけている。
花城「絹子のオペの結果を知らされ納得したわたしは、絹子の容態の変化を気にしながら急ぎ足でICUにもどりました」
 花城がはいってくる。
 黒い靴を脱いだ花城は、ICU専用の清潔なスリッパに履き替える。白いマスクをして白衣を羽織る。
 ドクターのような装で立ちで花城は絹子のベッドに近づく。
 椅子に腰をおろした花城は赤ランプの点滅するデジタル表示と睨めっこをはじめる。赤い文字で表示される数値を見るかぎり絹子の容態にはこれといった変化はみられない。
 花城はほっとして溜息をつく。
 すくっと起ちあがった花城は、絹子のベッドを一周する。
花城「絹子のベッドをひとまわりしてみると、絹子の体には5本のカテーテルが挿入されていることがわかりました。オペの直前に植村教授が絹子の胃に垂らし込んだカテーテルとあわせれば、絹子には6本のカテーテルが装着されたことになります」
 絹子のからだの内部から体外に導かれている『導管』としてのカテーテルの尖端にはそれぞれ1個ずつのビニール袋が装着されどの袋にも赤い液体が滞留しはじめている。
花城「オペの設計図によれば、絹子は内臓の5箇所を切断されてるはずだが、その切断され、吻合された部位から滲む体液がカテーテルをとおして絹子の体外に誘導され、その受け皿としてビニール袋が装着されているらしい。その袋に誘導される体液を観察すれば、吻合した部位の状況が判明するというシステムなのであろう」
 ベッドに緊縛されたような姿勢で目を閉じたままの絹子の体内から導かれたカテーテルによって刻々と吻合部の現在の情報がおくられてくる。
花城「この情報を手掛かりにして、必要な措置をとる仕組みになっているのでしょう。植村教授は、カテーテルこそ命綱だと云っていました。その意味が現前のものとして理解することができるようになりました。カテーテルはクランケの生死をわける分水嶺と
もいえるのです。絹子は6本のカテーテルによってまもられながら生と死の谷間を彷徨いつづけています」
 ICUの壁に掛けられた時計の長針がぴくりとうごき午後8時40分になる。
 ナースがキャスターで自在に移動することができる蒸気吸入装置を押しながらはいってくる。
「楽になりますからね」
 絹子に諭すように云いながらナースは、絹子のくちに吸入口をあてがう。
 気持ちよさそうに絹子は蒸気を吸入する。
「絹子は気管支炎にでもなったんですか」
 起ちあがった花城はナースの脇から覗き込む。
「そうじゃないんですけど。かなりの長時間にわたって全身麻酔をかけられたでしょう」
「はい。絹子は9時間近くも眠ったままでした」
「それで麻酔をかけられると内臓もとろっとしてきて、その機能も鈍くなります。ですから麻酔がきれたあとも平常どおりの活動を開始することが困難になるのです」
「なるほど。麻酔をかけられると内臓も半眠の状態になると」
「ええ、まあ。とにかく麻酔をかけられて弛緩した内臓は、オペ後の時間の経過につれ、しだいに活動をを回復してゆきます。でも平常どおりに活動することはできません。そんな状態の肺や気管支をまもるために蒸気吸入をするわけなんです」
「そうでしたか。ありがとうございます」
 蒸気吸入をおえたナースは、蒸気吸入装置を押してICUの隣室へ消えてゆく。
 花城は椅子に腰をおろし、ふたたび赤ランプのデジタル表示の数値と睨めっこをはじめる。
 壁時計の長針がぴくりとうごき夜の9時50分になる。
 石沢ドクターが隣室からはいってくる。
「痛み止めを補給しますから」
 ドクターは絹子に装着されている麻酔薬注入用のカテーテルから痛み止めの鎮静剤を注入してゆく。
「もう麻酔がきれたので、切開した部位にも自然の痛みを感ずるようになりました。その痛みを緩和するため、こ
れからもときおり、薬をいれます。ところで今晩は植村教授とボクが待機していますからご安心ください」
「ありがとうございます」
  花城は起ちあがりあたまをさげる。花城があたまをあげたときには、ドクターは隣室へ消えている。 
 〇 桜門大学多摩病院のキャンパス
  月明かりで病院の建物がほんのりと浮かびああがる。
  キャンパスの正門に面した時計台の大時計は夜の11時をまわっている。
 〇 大学病院のICUの中
  壁時計の長針がぴくりとうごき午後11時15分になる。
  花城が起ちあがり、うっと背伸びをしたとき、隣室のドアがわずかに開いて植村教授が手招きをする。
  花城は起ちあがり、隣室のドアに手をかける。
 〇 ICUの隣の待機室
  植村教授がデスクに向かっている。
  部屋の片隅の調理台ではナースがコーヒーを炒れる準備をしている。
花城「植村教授の手招きに釣られ、わたしはおそるおそる隣室を覗き込みました。部屋の全体をぐるりとみまわして驚きました。この待機室でも赤ランプが点滅する監視装置が作動しているのでした。この待機室に待機して
いるだけでも、絹子の容態の変化は手に取るように、そのままキャッチすることができるシステムになっています」
「まあ。おかけください」
 植村教授に勧められて花城はデスク脇にひろげられていた折畳式椅子に腰をおろす。
「花城先生。コーヒーを炒れました。どうぞ」
 瓜実顔の若いナースがデスクの脇にコーヒーカップを載せる。
「この辺でひと息ついてください。熱いうちにどうぞ」
 植村教授は花城に微笑みかける。
「それでは、いただきます」
 花城は、ややふるえながら、コーヒーカップを引き寄せる。 
 感涙に咽び、花城は慄える手を堪えコーヒーをすする。
「いまのところ奥さん順調ですが。その」
 エネルギッシュな顔立ちで揉み上げが白くなりかけた植村教授は白衣の胸に腕を組む。
「大成功といえるためには、みっつの峠を超えなければなりません」
「はああ。みっつの峠ですか。絹子にとってはハードになりますが」
 ひたいがひろく、いかにも医学者らしい風貌の植村教授の顔を花城は覗き込む。
「それはたしかに厳しいですが。まず最初の峠は術後の一夜ですな。あすの朝までに、なにかこう特別のことがおこらなければ、第一の峠はクリアーしたことになります」
「そうですか。そうすると、あすの朝までが勝負ですか」
「ええ。そして第二の峠はオペ後の1週間ということになります。この1週間の間に致命的な変化がおこらなければ、第二の峠も超えたことになります」
「そうですか。第二ラウンドは術後の1週間ですか。そうすると第3の峠はどれくらい先のはなしになりますか」
「そうですな。さらに第3の峠は術後の3週間ということになります。この間におおきな変化がなければ、その後の快復は時の経過にまかせるだけで足りることになります」
「そうですか。よくわかりました。そうすると,これからは天に任せるしかないということでしょうか」
「ええ。仰言るとおりです。現代医学の粋を尽くした最尖端の医術を駆使して万全を期しましたから。ですから人事を尽くして天命を待つという心境ですな」
 植村教授は回転椅子をぐるりとまわしデスクに向き直る。教授のうごきに釣られ花城は起ちあがる。
「ありがとうございました。コーヒーごちそうさま。生き返った心地になりました」
「いやいや。とにかくあすの朝まではボクがおりますから、ご心配はいりません」
「ありがとうございます」
  花城は教授のまえに深くあたまを垂れ、ナースにも微笑みかけICUのドアを押す。
 〇 桜門大学多摩病院・ICUの中
  酸素マスクを嵌められた絹子はベッドに緊縛されたままの姿勢で目を瞑っている。
  隣室のドアが押され花城がもどってくる。
  酸素マスクを嵌めた絹子の顔を覗き込んだ花城は、椅子に腰をおろし、赤ランプのデジタル表示と睨めっこをはじめる。
 〇 桜門大学多摩病院のキャンパス
  天空に瞬く星空のしたで時計台の大時計の指針は午前1時20分になっている。
 〇 ICUの中
  当直のナースが絹子の体温を測定し記録してゆく。
  花城は椅子に掛け、赤ランプのデジタル表示の数値と睨めっこをつづけている。
花城「絹子はオペ後、時間の経過につれ、その容態を告げるデジタル表示の赤い数値にもプラスの方向で変化が見られるようになりました。心拍数や呼吸数はほぼ正常に近づいてゆきました。血圧も絹子のふだんの数値に近い数字にさがってきました。これでどうにか絹子は、第一の癌の峠を超えられるかもしれません」
  花城は椅子のうえで両腕を天井に突きあげ、うっと背伸びをする。
 〇 花城邸の庭
  庭に放し飼いしている数羽の鶏が樅の木に造り付けられた鳥小屋の棚から芝生におりてくる。
  おりてきた雄鶏の一羽が高々と鬨の声をあげる。
  一番鬨からしばらく経って二番鬨がけたたましく早朝の静寂を破る。
 〇 桜門大学多摩病院・ICUの中
  壁時計の長針がぴくりとうごき午前5時になる。
  酸素マスクを嵌められた絹子はベッドに緊縛されたような姿勢で目を閉じている。
  疲れはてた花城は、ベッドの脇で椅子に凭れ、こっくりこっくり船漕ぎ運動をしている。バランス感覚を失い上半身が45度も傾き、はっとして背中を延ばす。
 ICUの壁時計は午前6時をまわっている。
花城「疲れきったわたしは、いつの間に蕩けてしまいました。ほんの数分間やすんだつもりでしたが、かなりの時間蕩けていたようでした。慌てて目を擦りながら赤ランプのデジタル表示をたしかめたところ、絹子の心拍数や呼吸数、血圧は、すべて正常にもどっていました。悪魔にとりつかれたような一夜は明け、絹子は辛うじて第一の癌の峠を超えることができました。わたしのハートの中には、一条の光明がさしてきました」
 〇 桜門大学多摩病院・一般病棟のナースステーション前
  人影はなく、森閑と鎮まりかえっている。
アナウンス「みなさま、おはようございます。いまから検温がはじまりますので、ご自分のベッドで安静にしてお待ちください」
  当直のナースのかんだかいアナウンスが病棟の隅々にまで響きわたる。
 〇 ICUの中
  絹子は、ベッドに緊縛されたままの姿勢でほとんどうごくこともなく朝を迎える。
  すでに絹子の酸素マスクははずされている。
  花城は椅子に腰をおろし、仮眠したように目を瞑っている。
  心拍表示装置、血圧監視装置など各種医療機器は作動を停止している。赤ランプもすべて消えている。
  ただ静寂そのものがICUの床に沈殿している。
  花城は起ちあがり絹子の枕元に近づく。
花城「絹子は第一の癌の峠を超え、オペがおわって二日目の朝を迎えることができました。ともあれ、わたしはひとまずほっと胸をなでおろしました」
 ICUの隣室のドアが開き、白いナースハットに1本の黒い線がはいったナース主任が蒸気吸入装置を押しながらあらわれる。
「花城さま。蒸気吸入しますからね」
 ナースは手馴れた姿勢で絹子のくちに吸入口をあてがう。
 絹子は幼児がおやつを与えられたときのように、心地よさそうに蒸気を吸入する。
 数分後に蒸気の吸入はおわる。
「今朝はこれでおしまい。花城さま。おだいじに」
 ナース主任は絹子に微笑かけ、蒸気吸入装置を押しながら隣室へ消えてゆく。
「あの蒸気吸入装置は、なんというのかな」
 折畳み式椅子にもどりながら花城は独り言のように呟く。
「それウルトラソニック・ネブライザーって云うんだわ」
 絹子は術後はじめてくちを開いた。花城はぎくりとして振り向く。
「そう。ウルトラソニック・ネブライザーか。なんだか舌を噛みそうなネーミングだね」
 椅子に腰をおろした花城は、しみじみと絹子の横顔を見つめる。
花城「もはや血圧監視装置などの機器は取り外され、絹子の酸素マスクも要らなくなりました。もう赤ランプの
デジタル表示の数値を気にする必要もなくなりました。わたしは、ただ黙って絹子に付き添うだけになりました」
 ナースがはいってきて絹子の検温をする。検温の結果をきちんと記録する。

 〇 花城邸の勝手口
  タクシーが滑り込む。花城が降りてくる。タクシーは走り去る。
  花城は勝手口のドアを開けてキッチンにはいってゆく。
花城「わたしは、佐伯師長の指示にしたがい絹子のオペ後、三日三晩ひとりで絹子に付き添いました。絹子の
快復は順調で植村教授も舌を巻くほどでした。わたしは、疲れきって四日目の朝には一時帰宅を許され、休息することになりました」
 〇 花城邸の庭
  数羽の鶏が芝生のうえで餌を探し、クチバシで芝生をつついている。
  庭に面したガラス戸を開け花城が庭にでてくる。
  鶏は、こっここっこと花城の足元にかけよってくる。花城は餌箱に餌を振り撒く。
  数羽の鶏は先を争って餌を啄ばむ。

 〇 桜門大学多摩病院・ICUの前
  廊下で花城が起っている。
  絹子を載せた移動式ベッドがナースに押されてでてくる。
「花城さま。一般病棟の246号室にもどりますからね」
 絹子にやさしく声をかけながらナース主任ともうひとりの若いナースが、ふたりがかりでベッドを押し始める。
 花城は絹子のベッドに寄り添う。
 移動式ベッドは人気のしない長い廊下をゆっくりとすすんでゆく。
花城「絹子はオペ後の1週間も無事に経過し、第二の癌の峠をクリアーすることができました。きょうはICUから解放され、一般病棟の246号室にもどることになりました」
 絹子を載せた移動式ベッドは、廊下を左折して一般病棟に向かう。
 〇 外科病棟の246号室
  絹子を載せた移動式ベッドが病室の入り口にさしかかる。
  5人のクランケは自分のベッド脇に降り、いっせいに拍手で絹子を迎える。
  いちばん奥の窓側のベッドが取り払われ空きのスペースができている。そこに絹子のベッドがおさまる。
花城「絹子はまるで凱旋将軍のように迎えられました。わたしは、感激して目頭があつくなりました。僚友のみなさんには感謝の気持ちでいっぱいでした」
「花城さま。きょうからは、みなさんとごいっしょですから」
「花城さま。おだいじに」
 ふたりのナースは、絹子に微笑みかけ、病室から足早に立ち去ってゆく。


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