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作品名:生命のキャンドルが燃え尽きぬうちに 作者:花城咲一郎

第10回   オペの決行
〇 桜門大学多摩病院外科病棟246号室
花城「その翌日の朝、わたしは早めに大学病院に顔をだしました。きょうは、絹子の生死を賭けた、7人の医師団による7時間にわたるオペが決行される日でした」
 6人のクランケは、それぞれ自分のベッドに臥せっている。病室は震撼と鎮まりかえっている。
 チョコレート色のショルダーバッグを担いだ花城がはいってくる。患者は花城に気づかない。
 花城は靴音をたてないようにそっと絹子のベッドに近づき、その周りにアイボリーのカーテンを曳きなかに入る。
 〇 カーテンの中
  オリエンテーションのマニュアルどおり、すでに絹子の点滴ははじめられている。
花城「わたしは、カーテンのなかにはいると、すぐに点滴ボトルから垂れ落ちる薬液の種類をたしかめました。フィシオゾールとか、アルファミン、ラテックスなど数種類の薬液がカテーテルをとおして、ぽとりぽとりと垂れ落ち、絹子の静脈に注入されてゆきます。すべてオリエンテーションのマニュアルにしたがい、オペの準備はすすめらてゆ
きました」
よく熟れたリンゴのような赤ら顔の若いナースが便器を抱えてカーテンのなかへはいってくる。
 カーテンが曳かれたベッドの周辺はワンルームのようなエリアになっている。
「花城さま。オマルしますからね」
 若いナースは花城に目配せをする。
 花城は、反射的にカーテンを捲り外へ消える。
  毛布を剥いだナースは、慣れた手つきで絹子の下腹部に便器をあてがう。
 〇 カーテンの外
  花城がカーテンのなかからあらわれる。
  身の置き所がなくなった花城は、窓辺に寄り窓越しに武蔵野の風景を展望する。
花城「これで絹子が最後の排便をおえると、絹子のお腹のなかは、きれいになるはだ。
いよいよ絹子の生命を賭けた最新の医術による開腹の時刻が迫ってきました」
 花城は武蔵野の風景を遠く追いつづける。
「おすみになりましたか。それでは」
 カーテン超しにナースの声が伝わってくる。
 まもなくカーテンを捲り便器を抱えたナースがあらわれる。
「ありがとう」
 花城はナースに微笑みかける。
  ナースは微笑をかえし、足早に立ち去る。
 〇 カーテンの中
  花城がカーテンを捲り、はいってくる。
「それじゃ、浴衣に着替えるか」
 花城は慣れない手つきで絹子のネグリジェを脱がせ、ソフトなガーゼの浴衣に着替えさせる。

 花城が腕時計をたしかめると午前8時15分になっている。
 カーテンを捲り白いナースハットに黒い1本の線がはいったナース主任があらわる。
「排尿管にさせていただきますから」
 ナース主任は、毛布を剥いで絹子の下腹部に排尿管を装着する。
「まもなく植村教授が見えられますから」
 花城に微笑みかけてナース主任はカーテンのそとへ消えてゆく。
 絹子の枕もとに折畳式椅子をひろげた花城は絹子を見おろす。
花城「これで絹子の排尿作用は自動化されてしまいました。この排尿管こそカテーテルの代表といわれる『導管』としての治療器具なんです。絹子の緊張はしだいにたかまってくるにちがいありません。わたしは絹子の精神状態をリラックスさせたほうがよいと考えました。そこで絹子になにかはなしかけることにしました」
「あのね。うちの勝手口の紅梅も満開をすぎたんだ」
 花城は絹子にはなしかけはじめる。
「そう。早いわね。もう春がきたんだわ」
「ことしは鶯も、いつもの年より早く山から里へ降りてきたんだ。ことしはいい年になるという前兆かもしれない」
「そう。もう鶯が啼きだしたの」
「そうなんだ。朝早くから梅の小枝で啼いてる」
「あたしも鶯の啼声を聞いてみたいわ」
「ああ。来年の春には、鶯の啼声が聞けるさ。それにうちの北側の垣根の脇に蕗の薹が芽を噴きだしたんだ」
「ほんと。もう蕗の薹が芽を噴きだしたの」
 夫の顔を見あげて絹子はきらりと瞳を輝かせる。
「ああ。黄緑のふっくらとした新芽が顔を覗かせたんだ」
「酢味噌で和えて食べるといいわ」
「そうねえ。あのなんともいえない香りとほろ苦さは格別だな」
「ちょっと、あたしの」
 絹子は夫に甘える表情になる。
「背中拭いてちょうだい。なんだか汗ばんだみたい」
 花城はガーゼの浴衣の脇の下から手をいれ、乾いたタオルで絹子の背中をソフトに拭いてやる。
花城「すると、わたしの手に絹子の温もりがつたわってきました。絹子の乳房の周は、
いくらか汗ばんでいました。絹子の乳房に触れた瞬間、閃光のような危機感がわたしの全身をはしり抜けました。絹子の肌に触れられるのもこれが最後かもしれない。しし、
そんなことがあってたまるか。そういうおもいでわたしは動悸がたかまりました。この動揺は自分の胸の奥深く閉じ込めておくしかありませんでした」
「おはようございます」
 信頼感に溢れる張りのある植村教授の美声がカーテン超しに伝わってくる。
 植村教授と佐伯師長がカーテンのなかへはいってくる。
「カテーテルを挿入しますから。ちょっと我慢してください」
 絹子に云い含めた植村教授は佐伯師長の手を借りながら、絹子の胃の中にカテーテルの細管を垂らし込み、そのホースの尖端を絆創膏で絹子の鼻のあたまに固定する。
 白衣の植村教授は自分の手でカーテンを捲りそとへでる。佐伯師長も教授のあとを追いカーテンのそとへでる。
 〇 カーテンの外・外科病棟の246号室
  カーテンのなかからでてきた植村教授は、病室をぐるりと見まわし246号室から消えてゆく。佐伯師長も教授のあとにしたがい病室から消えてゆく。
 佐伯師長らと入れ替わりにふたりの若いナースがストレッチャーを押してはいってくる。ストレッチャーは絹子のベッドに横付けされる。ナースはアイボリーのカーテンを開ける。
「花城さま。ストレッチャーに移りましょう」
 ナースは呼吸をあわせ、ちからを込めて『よいしょ』と絹子をもちあげ、ベッドからストレッチャーに載せる。
 眼鏡をかけたナースは絹子の腕に手をかける。
「ちくりとしますからね」
 と、諭しながら絹子の腕に予備麻酔の注射針をさしこむ。
花城「いま絹子に刺し込んだ予備麻酔は、弱い効力の麻酔だろう。その麻酔は時間をかけてじわじわと効いてくるはずだ。すると絹子の頬はしだいに火照り、その火照りにつれて絹子の感覚も、ぼあっとしてきて鈍磨してゆくのだ。そんなとを考えているうに、
わたしは絹子が哀れになって、込みあげてくるのをじっと堪えました」
「さあ。いよいよ出陣だ」
 威勢のいい石沢ドクターの若々しい声が246号室に響きわたる。その掛け声を合図にしたかのようにナースはストレッチャーを押しはじめる。
「花城さん。がんばって !! 」
「絹子さん。がんばるんだよ」
 ルームメートのクランケらがベッドのうえに起きあがり、くちぐちに檄をとばす。
 花城は、その声援に感動して、右指で目頭をおさえる。
花城「外科病棟の患者にしてみればあすは我が身と自分のオペの順番を待ちわびているにちがいありません」
 〇 外科病棟の廊下
  絹子を載せたストレッチャーがゆっくりと押されてゆく。
  その脇に花城が寄り添う。

     ー花城絹子の幻想ー

 〇 花城邸の庭
  芝生のうえを絹子が素足であるいている。
  夫は芝生のうえに白木の祭礼用のテーブルや床机をならべ、祭壇を造っている。
「あなた。なにしてるの」
 絹子にしみれば、夫の所作がふしぎにおもわれてならない。
「絹子の葬式の準備をしているんだよ。こんなところをほつき歩いていないで、ちゃんと棺のなかにはいっていなさい」 
「あら、いやだあ。あたしの葬式だなんて。あたし。まだ、このとおりぴんぴんしてるのよ。葬式だなんてばかばかしい。あたいを死人扱いにしないで。あなた、気がふれたんじゃない。ねえ、あなた。しっかりしてよ」
 絹子は芝生のうえを素足で歩きながらよく見ると、芝生のうえには、インド黒石をぴかぴかに磨きあげた豪華な墓石が建てられている。その墓石には『故花城絹子之御霊』と刻み込まれている。
「あら、いやだあ。これあたしのお墓だわ。あたい、ひょっとしてもう冥土に来ちゃったのかしら。あたい、まだ冥土にゆく準備なんてしてないんだわ。あたしまだ冥土にゆきたくない。あなた、あたいを空蝉の世界に曳きもどしてちょうだい」

                ー花城絹子の幻想・了ー

 〇 手術棟の廊下
  絹子を載せたストレッチャーがゆっくりとすすんでゆく。
  花城が絹子の脇に付き添う。
絹子「あたしの頬は、しだいに火照り、感覚はしだいに朦朧としてきて、夢とも、うつつともつかない状態で自宅の庭の芝生のうえをふらついていました。そのうち突然、真っ暗な底深く冷たい井戸の底に突き落とされてゆきました。あたしは暗黒の世界に沈んでゆきました」
 絹子を載せたストレッチャーは手術室に通じる自動扉のまえでストップする。
「ここから先へはゆけません。ベンチでお待ちください」
 花城に微笑みをのこしてナースは、ふたたびストレッチャーを押しはじめる。すると自動扉が開きストレッチャーはその奥へ吸い込まれてゆく。自動扉が絞まった瞬間、絹子は花城と完全に遮断されたエリアへ消えてしまう。
 花城は腕時計をたしかめる。
「まだ、9時40分か」
 独り言を云って花城はいま来た途を引き返す。
 自動扉から20メートルほどあと戻りした花城は、待合用のベンチに腰をおろし背凭れに寄りかかる。
花城「絹子は、もはやオレの手が届かないエリアに消えていった。あとは7人の医師団に任せるしかない。絹子のオペが設計図どおりにすすめられたとしても、オペが終了するまでには6〜7時間はかかる。オペが終了すれば、絹子はICUに移されよう。そのあと、3日3晩は絹子に付き添うようにと佐伯師長にいわれた。絹子の入院についてはだれにも知らせてないから、付き添いはオレひとりで遣るしかない。そうだとすればエネルギーを蓄えておかなければならない。いまから自宅にもどり、仮眠をとることにしよう。そう決めました。そこで、わたしはタクシーで帰宅することにしました。この自動扉のまえにもどるのは絹子のオペがおわる30分ほどまえでよかろう」
 花城は起ちあがり、長い廊下をゆっくり歩き、一般病棟の方向へすすんでゆく。

 〇 桜門大学多摩病院・手術室の中
  7人の医師と数名の看護師により絹子のオペが実施されている。
  手術台に載せられた絹子には、酸素マスクがあてがわれている。
  絹子の肉体に連動された血圧計のほか各種の監視装置がいっせいに稼動している。
  植村教授が手術台のうえで開腹した絹子の腹部を凝視し、神経を集中させ、指先で腹腔動脈を十二指腸から剥ぎとる作業をつづけている。
 植村教授の額に脂汗が滲む。
  教授の脇に付き添うナースが植村教授の額の汗を拭きとる。
 〇 桜門大学多摩病院のキャンパス
  時計台では大時計の長針がぴくりとうごき午後2時になる。
 〇 手術室の中
  6人の医師が注視する中で、植村教授の執刀によるオペがつづけられている。
  やがて絹子の内臓の5箇所が切断され、胆嚢、総胆管、胃の3分2、十二指腸の乳頭部、膵臓の乳頭部が数珠つなぎになって摘出される。摘出された絹子の臓器は金属製の皿に載せられる。
 壁にかけられた黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後5時になる。
 すでに臓器の摘出がおわった絹子のうえに腹ばいになって若い医師が乳房の間から下腹部にかけて縦に切開された絹子の腹部の縫合に集中している。
 〇 桜門大学多摩病院の正門前
  入院患者の見舞い客らしい人影が出入りしている。
  正門まえでタクシーを乗り捨てた花城が病院のキャンパスにはいってゆく。
  時計台の大時計は午後5時30分をまわっている。
 〇 中央手術室の廊下
  中央手術室に通じる長い廊下は巷の雑踏から遮断され人影もなく静寂な空気が沈殿し鎮まりかえっている。 
  こつこつと靴音をたてて花城があらわれる。
  花城は、手術棟との境界線になっている自動扉から20メートルほど離れたベンチに腰をおろし背凭れに寄りかかる。
花城「わたしは、このベンチで絹子が手術棟からでてくるのを待つことにしました。けど、いつまで経っても絹子はでてきません。オペが設計図どおりに進行すれば、もうでてきてもよいはずだ。ひょっとしたら植村教授さえ予想もしていなかったアクシデントが起こり、絹子は危篤状態になったのかもしれない。そんな不安感の虜になってしまっ
たわたしが痺れをきらし起ちあがったとき、自動扉がするっとうごき、草色の手術着姿の植村教授があらわれました。教授は右腕を高くあげました。わたしはばねで弾かれた
ようにはしりだしました」
「うまくいった。術後の」
 花城の息がとどく距離に教授はにこやかに起っている。
「あとの整理が澄むと、奥さんでてきますから」
「長い時間ほんとにごくろうさまでした」
 無意識のうちに花城は両手をあわせ合掌する。
 長い廊下をあるき右にまがり化粧室の方向に植村教授が消えてゆくまで花城はじいっとその背中を見つめる。
花城「わたしは自動扉の脇に起ち絹子を待ちました。けど、絹子はなかなかでてきません。いらいらして腕時計を見ると6時になっていました。そのとき自動扉がするっとうごき、絹子を載せた移動式ベッがドあらわれました」
 花城はベッドに寄り添う。
  絹子を載せた移動式ベッドはキャスターを自在に回転させながら、ゆっくりとすすみ、やがて右折する。
 〇 桜門大学多摩病院・ICUの前
  絹子を載せた移動式ベッドが近づいてくる。
  酸素マスクのしたで眠っている絹子の顔を見おろしつつ花城がベッドに寄り添う。
  ICUの扉がするっとうごき、絹子は集中治療室に吸い込まれてゆく。


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