〇 プロローグ わたしは弁護士の花城ともうします。仕 事の合間をみて趣味として小説やシナリオ を書いております。この新作は「小説」と「シ ナリオ」を交配した「シナリオ小説」になって おります。小説にシナリオの衣を着せた表 現形式になっています。シナリオ形式の小説 は文豪芥川龍之介が晩年に発表された「誘惑」 や「浅草公園」にみられます。 このほか山本有三の「雪」もシナリオ的発想の 作品です。 現代は「電子ブック」の時代ですから、映 像的表現を強調した作品がふさわしいとも いえます。そこでプロットもコンストラクショ ンもシナリオに準じました。その文体もシナリ オふうに「現在形」になっています。 それではドラマの世界にご案内します。
〇内臓の写真 生身の人間の内視鏡写真には、胃の内壁、 膵臓および十二指腸の乳頭部が鮮明に映し だされている。 花城「この内視鏡検査による内臓の写真は 配偶者絹子の内視鏡検査の結果です。内視 鏡の権威として知られる船山教授のコメント を手掛かりによく見ると、膵臓の乳頭部には 明らかに癌細胞が映しだされています。教授 室でこの写真を突きつけられたとき、わたし は高名な映画監督が製作した『生きる』とい う映画のファーストシーンを想い起こしました。 その瞬間、身の毛が弥立ちました。絹子はあ の映画の主人公と同じような立場に追い込ま れてしまいました。けど、絹子が内科病棟看護 師長として勤務する多摩医科大学南多摩病院 の消化器内科部長船山教授の意見を尊重して 絹子にはまだその真相を告げていません」 〇大学病院の全景 緑風の爽やかな多摩丘陵地帯の小高い丘 のうえには、デラックスホテルのようにモダン な5階建ての白いビルが建っている。背景に 連なる多摩連山の新鮮な緑と丘のうえに建つ ビルのホワイトが一幅の名画のように調和し ている。 花城「このモダンなビルは、絹子が勤務する 多摩医科大学南多摩病院であります」 〇 多摩医科大学南多摩病院の正門 大理石で造られた正門には横書きで刻み 込まれた多摩医科大学南多摩病院という艶の ある黒い文字がくっきりと浮かびあがる。数人 の患者らしい人影が正門から大学病院のキャ ンパスにゆっくりとはいってゆく。 〇 多摩医科大学病院内科病棟の病室 スペースにゆとりのある6人部屋はホテル ムードに満ち溢れている。病室のベッドとはお もえないように快適な触感がある。絹子のベッ ドは病室のいちばん奥の窓側になっている。 絹子の後頭部にはおおきな茶色い氷嚢が枕に され、ベッドの縁に固定されたアームから吊 るされた小袋の氷嚢が彼女の額に載せられて いる。 花城「それは、とある夏の8月下旬だった」 絹子の部下である川村ナースが現れ絹子の ベッドに近づいて来る。 「花城師長。点滴袋を取り替えますから」 と川村は点滴スタンドに吊るされた薬液の 残量が少なくなった点滴袋を取りはずし、薬 液が満杯の点滴袋と交換しながら横目で花城 をちらっと見てにんまりとする。 「ごめんね。みんなに負担かけちゃって」 氷嚢の下で目を瞑ったままの絹子の声は病 みついて弱々しく掠れている。 川村ナースはカテーテルに装着された調整リ ングを白い指で摘み、垂れ落ちる点滴量の微 調整を終える。 「花城先生。おだいじに」 絹子の枕元に突っ立ったままナースの仕草を じいっと見つめていた花城に川村はウインクし ながら足早に立ち去る。 「どうも。ありがとう」 花城は川村の白いナースウエアーの背中を じいっと目で追う。 川村が廊下に消えていったとき、花城は我に かえったように絹子のベッドの周囲にアイボリ ーのカーテンを曳き折りたたみ式椅子をひろげ 背凭れに寄りかかり目を瞑る。 カーテンのなかは花城と絹子だけの静寂なエ リアとなる。 花城は腕を組み瞑想する。 ー花城の回想ー 〇 花城邸の全景 燻し銀のような金属製のどっしりとした扉が 閉められた花城邸の正門の左側には「弁護士花城」 という金文字の表札が正門脇に熟したザクロの実と 対照的に浮かびあがる。 〇 樹木のある風景 葉桜になった桜の樹木で油蝉がじいじいと啼き つつける。 焦げつくような熱烈な真昼の陽光が照りつける。 乾ききった畠ではキュウリ、トマト、茄子、スイ カの蔓などが焦げつくように照りつける熱烈な陽光 でげんなりしている。 〇 花城の書斎 広さ20畳ほどでその一隅にはシングルベ ッドが置かれ寝室兼用になっている。どっしり としたデスクの前には応接セットが配置され、 壁に造りつけられた書棚には判例集のほか、 憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事 訴訟法などの法律専門書がぎっしりと詰め込 まれ、研究室のムードがグリーンの絨毯のう えにまで漂う。 壁にかけられた「日捲りカレンダー」は土曜日 になっており、壁時計の指針は午後2時をす ぎている。書斎の窓は開け放たれ、ときおり 熱気を含んだむうんとした風がドアのほうへ 通り抜けてゆく。 壁にかけられた寒暖計は35度を超えてい る。デスクに向かい分厚い判例集をひろげた 花城は、あちこちページを捲る。 花城「その日は朝から水銀柱はうなぎのぼ りでした。この猛暑では、ひょっとしたら熱中 症患者がでるかもしれない。そうおもってい ると、キッチンの方角でごとりとなにかが倒 れたような音がしたので、勝手口に出てみる ことにしました」 〇 花城邸の勝手口 開け放たれたドアの網戸を押しのける ように絹子がのめりこんでいる。 そこへ足早に花城がはいってくる。 「絹子どうした」 と慌てた花城は屈み込み絹子の肩に手 をかける。 「あたしのベッドにはこんでちょうだい」 絹子は俯いたまま弱々しくこたえる。 花城は軽々と絹子を抱きあげキッチン から廊下へでてゆく。 〇 絹子の部屋 絹子を抱えた花城がはいってくる。 花城はあたふたと絹子をベッドのうえ に載せると反射的にその額に手をあてる。 「こりゃ酷い熱だ」 花城は絹子のスーツを剥ぎ取るとスリッ パを絨毯のうえに投げだすように脱ぎ捨て 素足で廊下へ飛びだしてゆく。 〇 花城邸のキッチン 花城が素足で飛び込んでくる。 戸棚から茶色いゴム製の氷嚢を取りだ した花城は、流し台で氷嚢を洗い、冷凍室 の扉を開けて氷を詰めこみ、蛇口で水道水 をわずかに注ぎ、氷嚢のくちを金具でクリッ プすると急ぎ足でキッチンからでてゆく。 〇 絹子の部屋 花城が素足で跳び込んでくる。彼は氷嚢 を絹子の後頭部にあてがい枕にさせると、腰 に手をあてじっと絹子を見おろす。 「救急車を呼ぼうか」 花城はふうっと溜め息を吐く。 「呼ばなくていい。あしたの朝になったら車で あたしの病院へ連れてってちょうだい」 目を瞑ったままの絹子は独り言のように呟く。 「それでよければそうするか」 花城は絹子のベッドを離れ、鏡台の前で鏡台 用の白い椅子にかける。 〇 花城邸の庭 庭の芝生がぱあっと紅い夕陽に照り映える。 西の空におおきく紅い夕陽が沈んでゆく。 その瞬間、熱気を含んだグレーの静寂が地面を 這いはじめる。 東の空に白い満月が昇ってくる。 庭に放し飼いされた数羽の鶏が鳥小屋には いってゆく。 鳥小屋の棚にあがった鶏が鶏冠を弛ませ眠 りの渕に溶け込んでゆく。 〇 絹子の部屋 絹子のデスクのうえの電気スタンドは照明 度がダウンされ部屋は仄暗く、クーラーはいれ ないで窓が開け放たれている。 壁時計の指針は深夜の2時をまわっている。 絹子の枕元では白い丸椅子に掛けたままの 花城が付き添っている。 やがて壁時計の長針がぴくりとうごき午前4時 になる。 〇 花城邸の庭 庭に放し飼いの鶏が鬨の声をあげる。 花城「むうっとした熱気が地面を這う熱帯夜が 明けて気温の高い朝を迎えました。急に冷や すのはよくないと思い昨夜はクーラーはいれな いで窓を開け放ったままにしておきました。都 心とはちがい室温は24度までさがりました。 絹子の体温は相変わらず40度を超えていま した。今朝は早めに絹子が内科病棟看護師長 として勤務する多摩医科大学南多摩病院へ絹 子を連れてゆくことになりました」 〇 花城邸の勝手口 勝手口には花城の車がまわされている。 開け放たれた勝手口から絹子を抱きあげた 花城が用心深い足取りで出てくる。花城はドア が開いている後部座席に絹子を寄りかからせ シートベルトを締める。 花城は勝手口に戻りドアのロックを確かめて から車に引き返してくる。 運転席に座った花城は車のエンジンをかけク ーラーを弱めにいれて滑りだす。 〇 多摩医科大学南多摩病院のキャンパス 花城の車が滑りこんでくる。通用門近くのプ ラタナスの木陰に駐車する。 絹子を車に残したまま花城は緊急診療室に 向かって歩きだす。 〇 多摩医科大学南多摩病院の緊急診療室 花城が急ぎ足ではいってくる。人影のない診 療室を花城はぐるりと見まわす。すると『ご用の 方はこのボタンを押してください』という標示板が 彼の目にとびこんでくる。花城は、その白い標示 板脇のボタンをたてつづけに押す。 まもなく中年のナースが診療室の奥のドアを押 しのけはいってくる。 「患者さんはあなたですか」 黒い線が1本はいったナースハットの女は花城 を覗きこむ。 「いいえ。クランケは車に待たせてあります」 「そうですか。すぐ車椅子を用意しますのでお待ち ください」 「車椅子は結構です。クランケは今はこびます」 そういい残した花城は、あたふたと診療室から 消えてゆく。 〇 花城の車の中 絹子が車の窓越しにキャンパスを見まわして いる。 絹子「まあ。あたしとしたことが。なんてこった。 あたしの病院であたしがクランケになるなんて 思ってもみなかったわ。けど、これは夢ではなく 厳しい現実なんだわ。なんて忌々しいことか」 〇 多摩医科大学南多摩病院のキャンパス 車に近づいてきた花城はドアを開け絹子を 抱きあげて緊急診療室へ向かう。 〇 緊急診療室 花城が絹子を抱えてはいってくる。 「あら花城師長! どうなされました。驚いたわ」 ナース主任は絹子に近づく。 花城は絹子を白く堅い診療用のベッドに載せる。 「このまま、ちょっとお待ちください。いま船山 教授を呼びますから」 検温器を絹子の脇の下に挿入するとナース 主任は足早に奥のドアから消えてゆく。 花城は目を瞑ってしまった絹子を見おろす。 彼がふうっと深い溜め息をしたとき、聴診器を ぶらつかせながら、あたふたと船山教授がは いってくる。 「花城師長!! どうした」 「はい。ちょっと。すみません」 船山は絹子の脇の下から検温器を抜き取り、 絹子の胸を肌けて静かに聴診器をあてる。 「すぐベッドを用意させますから。しばらくこのま まお待ちください」 船山は、ちらっと花城に視線をながし奥のドア から消えてゆく。 花城「そのあと、絹子は車椅子で3階の内科病 棟に案内されました。絹子のベッドは6人部屋の いちばん奥の窓側に決まりました。絹子は消化 器内科のクランケになってしまいました。絹子が 落ち着いてから、わたしは入退院事務室の窓口 で絹子の入院手続きをすませました」 ー花城の回想・了ー
〇 多摩医科大学南多摩病院内科病棟の病室 6人部屋のいちばん奥の窓側のベッドに絹子 が臥せっている。 花城は、絹子のベッドの枕元に折畳み式椅子 をひろげ、その背凭れに寄りかかり、目を閉じ て回想に耽っている。 黒い縁取りの円い壁時計の指針は午後2時 30分をまわっている。 「あなた。枕、温くなったわ」 氷嚢に顔を埋めた絹子は弱々しく甘える。 「あっ。氷嚢、温くなったかな。換えてくるから」 起ちあがった花城は絹子の後頭部から氷嚢を抜き 取り、周囲のベッドに微笑みかけながら廊下へ消え てゆく。 〇 大学病院のキャンパス 焦げるような陽光が芝生をじりじり照りつけ ている。むうんと草いきれがする。 プラタナスの梢では、けたたましく油蝉が啼き つづける。 〇 多摩医科大学南多摩病院の病室 氷嚢を抱えた花城がもどってくる。花城は、 氷嚢を絹子の後頭部に差し込み枕にする。 壁時計の長針がぴくりとうごき、午後6時35 分になる。 「もう、だいじょうぶだから、帰ってもいいよ」 絹子は氷嚢のしたから夫を見あげる。 「そうか。それじゃあオレ帰るから。なにかあっ たら遠慮せずにナースコールして部下の手を借り るといい」 花城は折畳み式椅子のうえで腰を浮かせる。 「あなた。気をつけてね」 「ああ。オレのことは心配ない。それじゃ」 花城は絹子のベッドを離れ、周囲のベッドに 愛嬌を振り撒きつつ廊下へ消えてゆく。 〇 大学病院のキャンパス 紅い夕陽が多摩丘陵の山の端に沈む。 花城が白い管理棟から現れ、プラタナスの 木陰に停めておいた車に向かう。 花城「夕方になったので、わたしは帰宅するこ とにしました。西の空に陽が沈んだ大学病院 のキャンパスではもの哀しい蜩の雨が降り注 いでいました」 プラタナスの梢では、蜩のもの哀しい啼き声 がひっきりなしに繰り返され哀愁を誘う。 花城は車に乗り込み、エンジンをかける。車 は発車する。 花城の車は、キャンパスから抜けだし、街道 にでると車のながれに吸い込まれてゆく。
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