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作品名:いまはゆき、ふるものがたり 作者:飛中漸

最終回   4
 今は雪。北風が入り込む駅のホームの屋根の下、混雑の中で電車を待つ男がいた。

 多くの線が乗り入れる大きな駅で、朝のラッシュはごった返す。
 平行に走る幾本もの線路とホームの、一番端で駅の外に続くコンクリ色を眺めれば
 外気が通る道を示すように、舞い落ちる白い結晶が視界に入ってくる。
 男は買ったばかりのコートを着こんで、頬に当たる寒さに身を縮めながらも
 一日が再び始まることへの喜びが体の奥底から湧き出ているのを感じていた。

 木枯らしが吹き始めてしばらくしたその日は、起きたらなぜかすでに外が明るかった。
 結構早めに目が覚めたつもりだったが、ガラスの向こう側が白く輝いている。
 布団をどかしてみると、いつもよりも部屋が冷えているのに気付く。
 もしや、と思い当たってカーテンを開ければ、その冬最初の天からの贈り物が
 街じゅうに降って、降って、降って・・・きれいだった。
 男はその光景を見れたことに喜び上がった。世界に雪が降る。
 また冬が来た。その前の秋を知ることができなかったから、
 この季節の移り変わりの貴さが心の中に染み渡るように分かったのだった。

 雪。大好きな雪。思い出の詰まった雪。幼い頃の楽しさがよみがえる雪。
 その雪が眼の前で降っている。降り始めている。
 また、始まるのだ、新たな冬が、新たな年が、新たな物語が。
 心が揺れる、嬉しくて、子供みたいにはしゃぎたくて、ただ感動を伝えたくて、
 携帯電話でメールを好きな人に送ったのだった。

 「おはよーっ、雪だよっっっ!」


 男は、数日前まで病で床に伏せっていた。
 動くことのできない、心の内側を表すこともできない、
 なにもすることができない状態がずっと続いていた。
 その年の初夏から調子が悪化し、秋口には完全に参っていた。

 心配してくれた友人たちが、携帯電話のほうにメールをよこしてくれた。
 だが、男は返信することができなかった。返信する力が無かったのだ。
 メールを出しても戻ってこないブラックホールに近付こうとする人は少ない。
 やがて携帯電話に届くメールの件数は激減していった。そしてほぼゼロとなった。
 だが、返信も何もまったく送られてこない状況にあっても、
 あきらめずにメールを出し続けた人が一人いた。半年と少し前に知り合った女性だった。

 男はその人のことが好きだった。出会って一ヶ月も経たないうちに早くも惚れていた。
 なぜにそんなにも急に好きになってしまったのかはそのときは分からなかったが、
 とにかく好きで好きでしかたなくなってしまった。しかし想いを伝えることはなかった。

 好きな気持ちを伝えるわけにはいかなかったのだ。
 男は自分の想いを相手には受け入れてもらえないと分かっていた。
 その人の言葉の端々から漏れ出る悲しみに男は気がついてしまっていた。
 女性の表情、視線、態度から、彼女が悩みを抱えていることを理解したのだ。
 それは自分にも彼女にもどうすることもできない悩み。どうすることもできなくて、
 しまいには男まで彼女の悩みに悩み始めてしまった。相談くらいは乗りたくて、
 携帯メールでやりとりをするところまではこぎつけたが、悲しみが募るだけだった。
 でも、せめてそばにいて相談を聞いていたかった。
 だから、自分の想いをさらけ出して友達という地位を脅かすことなど到底できなかった。

 それからしばらくして、男は病に倒れたのだった。男は悲しみに暮れていた。
 自分が何もすることができない状況が続いて、全てをあきらめる気持ちさえ生まれた。
 一人、ただ一人、闇の中を寝続ける。孤独に心が蝕まれる。
 友人からメールが届く。それに返信ができないで、そのままでいると、
 本当にそのままの状態が続く。そして連絡が途絶えていくのだ。
 それから一ヶ月、二ヶ月と連絡が無い時期がつづいていく。
 笑うしかなかった。もはや笑う以外にできることはなかった。

 その中で、携帯電話がメールの着信を知らせた。
 男にとって、送信者の名前は意外以外のなにものでもなかった。
 好きな人からメールが届いたのだ。まだ前のメールの返事を出していないのに。
 心配してくれているのがよく分かる。そしてまたなるべくそんな感じを出さないように
 気配りがされていた丁寧なメールだった。
 「今日はいい天気だよ。空が晴れていて、気持ちいい風が吹いていて・・・」

 返信はずっとすることはできなかったが、それでも何度かその人からメールが届いた。
 男は申し訳ない想いでいっぱいだった。その人だって大変なことは分かっていたから。
 なんとかして、どうにかして、この状況から脱したかった。方法はどうでもよかった。
 無理をしてでも元気を取り戻して、その人に姿を見せたかった。
 そしてお礼を言いたかった。悲しみと感謝の気持ちが混ざって、強まって、
 そのまま外に出せない気持ちが発酵して、腐っていって・・・力となった。
 外に出る機会が訪れた。そのまま療養するべきとの薦めを断って、
 男は元いた場所に戻ろうとした。そして彼女の力になりたかった。

 病む前は夏の暑い日が続いていたのに、いつの間にかに半袖は長袖になり、
 二枚重ねになり、コートが必要になり・・・男は季節感のズレに驚いた。
 それほど時が経っていたとは思っていなかった。男の周りは何も変化が無かったのだ。

 力を得て、男は女性にすぐ携帯のメールを送った。彼女は驚いた。そして喜んだ。
 しかも男が元いたところへ戻りやすいように、手助けをしてくれた。
 ともにその場に行けるように、朝の駅のホームで待ち合わせまでしてくれたのだ。

 男はなんとか、元いた場所に戻ってきた。
 大きな不安を抱えているのに、まるで何も無かったかのように元気に振舞いながら。
 無理を承知で戻ってきているのに、まさにその無理を力の源泉にして
 男は笑っていた。少しでも周りに元気を与えられるように。元気を返せるように。

 復帰初日目が怒涛のように過ぎていって、少し静かな二日目がやってきた。
 “普通通り”朝の電車に乗って、向かっていく先で“普通通り”過ごす。
 青々としていたはずの木々がすで色づき、枯れはじめている中を歩いていって、
 まだ慣れない肌寒さに、戸惑いと喜びを噛み締めていた。

 昼が過ぎた。しばらく後にやってくる用事の前に少し遅い昼食を取ろうと、
 男は食堂を訪れた。すると、彼女が一人でテーブルについていた。
 周りを見渡すと、他に知っている人はいなさそうだった。
 男は緊張しながら、テーブルの向こう側、女性の座る椅子の斜め前の椅子に着いた。

 「・・・何をしているんだい?」
 「資料の整理。いまのうちにしておかないと間に合わなくて。・・・元気なの?」
 「うん。おかげさまでね、なんとか。」

 そう言って男はしばらく黙った後、まじめな顔をして彼女を見つめた。

 「本当にありがとう」
 「・・・戻ってこれてよかったね」

 そっけなく彼女は答えた。言葉以上でも以下でもない気持ちがこもっていた。
 不思議な感じがした。今なら、彼女にならなんでも言えそうな気がした。

 「なぁ、話してもいいかな、なにがあったのか、聞いてくれるかい・・・?」

 彼女は黙ったまま、聞く姿勢をとる。声にならない言葉。なにがあったの? 
 男は過去に遡って、病に至るすべてのことを話し始めた。
 彼女にだけは伝えるまいと思っていた、昔からの悩みまで打ち明けてしまった。
 自分の内に閉まっていた思い出。封印したくても暴れて抑えられなかった記憶。
 不覚にも話している声が詰まり始めた。うつむき加減になって、視界がぼやける。
 すると、彼女が立ち上がって、男の隣に席を移動し、座って語りかけた。

 「・・・大変だったんだね」

 男の頬に涙が伝う。本当につらかったのだ。
 そして、かけられたい一言をかけられて、彼女の優しさに
 人前では見せまいと我慢していた分だけ泣けてきて、どうしようもなかった。

 「本当に、本当にありがとう」
 「え、なんのこと? わたしはべつに特に何も」
 「メールを出してくれたよ。返事を出さなかったのに、何度もメールをくれた」
 「・・・メールを出さなきゃいけない気がしたから。それだけだよ」

 彼女は気負うこともなく、恩着せがましくもなく、ただ答えた。

 「返事が来ない相手にメールを出さないのは疲れるだろうに」
 「たしかに・・・何度もあきらめかけたよ」

 何度もあきらめかけられたのか。男はいかに情けなくて、いかに幸運だったのだろう。

 「本当に、ありがと」

 男は、病の中でずっと伝えたくて伝えられなかった感謝の念を連ね続けていた。
 彼女は自分のしたことの影響に少し驚いていたようだった。
 男はその様子を見て、そして心の中を吐き出し続けていて、
 言葉の流れがとどまるところを見失い始めていたことに、もはや気付かなくなっていた。

 「あのメールが心の支えになっていたんだ。本当に感謝してるよ」
 「そんな感謝されても・・・所詮わたしなんかからのメールなんて」
 「いや、君からのメールだったから心強かったんだ。君のことが好きだったから」

 好きだったから。そう言ってから男は自分が口に出した言葉の意味に気付いた。
 しまった、と思ったときには遅かった。彼女が驚きに目をぱちくりさせている。

 「今なんて・・・私の・・・聞き間違い?」

 ええい、言ってしまったからには開き直れ! 男は覚悟を決めた。

 「君のことが好きだ。そう言ったんだ。おれは君のことが好きなんだよ」
 「・・・」

 彼女は申し訳無さそうにうつむいた。次の言葉は予想がついた。

 「ごめんなさい」
 「いいんだ。フラれることには慣れてるよ」
 「そうかもしれないとは想っていたけど、まさか本当にだなんて」

 男はニコッと微笑んだ。それで少しくらいは彼女の気が紛れたら安いもんだ。

 「わたしは、あなたと付き合えない理由があるから・・・」
 「うん、知ってる」
 「えっ?」

 悩みを抱えているんだろう? そう言うと彼女はとても驚いていた。

 「どうして・・・誰にも言ったことがなかったのに」
 「だってずっと好きだったから。君のことをずっと見ていたから、分かるよ」
 「・・・」

 もうここまで来れば、彼女に隠すものは何も無かった。
 彼女にも何も遠慮するものは無くなったようだった。

 「いつから私のことを?」
 「会った一ヶ月後くらいだよ」
 「そんな前から・・・」

 でも、その後に彼女から、彼女の悩みはその前から始まっていたことを知った。
 そして男はもうそのときには自分にはどうすることもできなかったことが分かって、
 ちょっとした無力感に襲われるのだった。会話はそのまま続いた。

 「でもなんでわたしなの?」
 「君でいいじゃないか! どこが悪いってんだ」
 「・・・わたしのどこがいいっていうの」
 「すっごくかわいいよ。それに、とてもいい人」
 「・・・そんなことないよ」

 男は本心から言っているのに、彼女はその言葉を受け付けてくれない。
 でも、少しくらい彼女に自分が魅力的だという自信を持ってほしいからなのか、
 男がしゃべることに少し熱が帯び始めた。

 「そんなことなくない。病気のときに君がメールをくれて、どれだけ心強かったか」
 「わたしはただメールを出しただけで・・・」
 「メールを出し続けてくれたのは、君だけだったよ」
 「えっ?」
 「返事が来なくても、心配してメールを出し続けてくれたのは君だけだった。」
 「・・・」
 「君は特別な人なんだよ。人一倍、いい人なんだ」

 事実だから、否定のしようがない。彼女はきっと本当に心から気にしてくれていたのだ。
 彼女は本当に思いやりのある優しい人なのだ。ただ彼女は自分を認めたがらない。
 それは昔から知っていた。なぜだかも知っていた。
 だから男はどうにかしてその固くなった心をほぐしてあげたかった。
 しかし、男の言葉に彼女が動転し始めたのが目に見えて分かった。彼女はうろたえた。

 「でも、わたしは寝相が悪い女だよ」
 「べつに構わないよ」
 「いびきだってかくんだよ」
 「全然気にしないよ」
 「食べ過ぎたり、食べられなくなったりを繰り返したりしてるんだよ」
 「でも、君は君のまま変わらない」
 「なんで、なんでわたしなの?」
 「君となら、けんかをしても、何日何ヶ月かかっても、最後には仲直りできる気がする」

 今度は彼女が涙目になっていた。彼女はずっと自分のいろんな悩みを気にし続けていた。
 根本にある悩みもわかっていた。それはどうすることもできないけれども、
 せめて彼女のそばにいてあげることで、少しくらい自分のいい面に自信が持ってくれたら
 それでもっと彼女が元気そうになって、その素敵な笑顔を見る機会が増えたら。
 男はそれだけを願っていた。付き合うことはハナから頭に無かった。

 彼女と、二人で、いろいろと話していた。
 気が着くと、男の用事の時間は過ぎていた。彼女の次の用事の時間も過ぎていた。
 だから、お互い示し合わせたように、それぞれの用事をすっぽかすことにして、
 そのまま電車に乗って、近くの繁華街の喫茶店で、お茶でも飲みながら
 話を続けることにした。フラれたその直後に、なぜか初デートをしたのだった。

 喫茶店では、小さなテーブルを挟んで、彼女が自分の目の前で座っていた。
 温かいコーヒーを、ちょこんと持って、口に近づけて縮こまって飲むその姿が
 いじらしくて、かわいくて守ってあげたくて、大好きな彼女そのままだった。
 いつしか夏前に、二人で電車に乗っていたときに、ふとした話題で
 彼女のことをひまわりに喩えたことを思い出していた。

 こうして、二人きりでいれることが、男にとっては最高の幸福だった。
 病で果てるかもしれないとあきらめていたところに、
 いきなり彼女の心に近付く機会が訪れていたのだった。
 男はずっと彼女のことを好きでいたかった。
 フラれても、友達として彼女のことを見守っていたかった。
 いつか彼女が幸せになるその日が来るまで、そばにいたかったのだった。
 そんなことまで、その日は思ったことを口に出してしまった。
 べつに彼女は気を悪くした様は無かった。

 ただ、問題があるとしたら、現実がその考えを許さなかったということだけだった。


 次の日が、雪が降った朝の訪れた日だった。
 起きざまに、男は彼女にメールを送ったのだった。

 「おはよーっ、雪だよっっっ!」

 それに対するメールの返事は無かったが、男は特に気にするつもりはなかった。
 べつに返事が出せるような内容ではない。ああそうだね、と返されたところで困る。
 だから、返事はこなくてもいいと思いながら、雪が降る間、眺め続けていた。

 次の日の昼、休日なので外は晴れているのに男は家で寝転んでいた。
 そこへ、彼女からメールが送られてきたのだった。
 彼女が、自分の抱えてきた悩みをどうにかするために、一足、歩を進めたのだ。
 それは彼女にとってとてもつらかったことに違いない。
 でも、メールにはただ明るく、その結果の報告だけが載っていた。

 男は、彼女を慰めたくて、どうにかしたくて、メールの文面を考えに考えた。
 そして、いま男が書ける最良の言葉を綴ったのだった。

 「外を見れば、空は青くて、白い雲が遠くで大きく風に運ばれて
  空の端から端へと動いているよ。冬のひまわりが揺れている・・・」

 彼女が好きな歌に出てくる贈り物、おれは君にはあげることはできないけれど、
 せめてこのメールを届けることで、少しでも気が楽になることができれば――。

 男は彼女が自分に送って励ましてくれたメールの中身を使ったのだった。
 彼女が人に励まそうと送った内容なら、それは彼女がそれで励まされたいのだと、
 そう思って、少しでも気が晴れてくれればと、彼女の好きなものを並べたのだった。
 そうしたら彼女から返事が戻ってきた。彼女は感動したらしかった。
 彼女がメール受信の着メロを、男がメールで使った彼女が好きな歌に設定していたので
 メールの内容と相乗効果を彼女にもたらしたようだったのだ。男は嬉しかった。

 でも、嬉しすぎて少し舞い上がってしまった。そして、少し動転してしまった。
 気がついたときには、体の自由がきかないでいた。病がまた首をもたげたのだった。
 その日の残りも、その次の日も、病のために男は体が動かせないでいた。
 幸い休日だったので、調子を整えて、平日がまた始まったときには元に戻れていた。
 嫌な予感がした。ただ、その予感を信じる気にはなれなかった。

 その一週間も“普通に”過ぎていった。まるで何事もなかったかのように。
 別段、特別彼女と話すことも無く。忙しく平日が過ぎていった。
 問題はまた週末にやってきた。週末になるとなぜか彼女からメールが来るのだった。
 そして、そのメールを受け取ると、男は調子が狂いだして病が再発するのだった。
 二回目になって、さすがに男はその因果関係を認めるようになっていた。

 男は自分が無理をしていることを承知していた。所詮まだ病み上がりだった。
 だから休日は病が出てもおかしくないとは思っていた。
 しかし、彼女からメールが来ると明らかに病の症状が強まるのだ。
 自分がまだ彼女のことを好きで好きでしかたがないから?
 そんな彼女からメールを受け取ると嬉しくて興奮してしまうから?
 そんなことで病は再発してしまうのか? またあの闇の中の日々に戻るのか?

 男は自問自答を繰り返した。結論はなかなか出ない。なにも分からないのだ。
 ただ、彼女への想いは断たねばならなければいけない気がした。
 そして、自分には彼女をそばで見守っていくだけの余裕がないことを悟った。
 どちらも男にはつらいことだった。しかし、再び病むわけにもいかない。
 そして、彼女に全ての事情を書いたメールを送って、
 男が彼女を完全にあきらめられるようなフリかたをしてくれ、
 これを最後にメールを送らないようにしてくれと頼んだのだった。

 「あなたは恋愛対象じゃありません」

 短く、そんなメールが返ってきた。
 指定した条件どおりの、とても痛いメールだった。
 そのメールを頼りに男は彼女をあきらめるようにした。
 それで何とかなると男は思ったのだった。いまのうちはこれで。
 そのうち、病が完治すれば、また。そんな希望をかすかに持っていた。

 しかし、週末の彼女からのメールはやまなかった。
 あれほど頼んだのに・・・男はそう思いつつ、メールが来ることに喜んで、
 そして病の症状が現れて一日を棒に振るのだった。男はとても怖くなった。
 病の日々に戻るのだけは嫌だった。とにかく現状を維持したかった。
 どうにかして彼女からのメールをやめさせなければいけなかった。
 どうして彼女はそのときメールをやめてくれなかったのだろう?

 次の週末も、彼女からメールが来た。
 ただ、幸か不幸か、いや不幸なことにも、そのメールには
 「これからはいままでの分を取り戻すくらいに楽しんでね」と書かれていた。
 それは男が嫌いな言葉だった。本当に取り戻せるなら取り戻したかった。
 しかし病で過ごした日々は絶対に戻ってくることは無い。
 それが痛いほどわかっていたから、この「取り戻す」という言葉が大嫌いだった。
 男はわざとこの文面に過剰反応した。そして怒りの返事を返したのだった。

 「うっさい、ほっとけ」

 男はそれから一年間、ずっとこのメールを出したことを後悔した。
 彼女はそのメールを受け取って、とても困惑して、すぐに男に説明を求めて、
 男から返事が無いのに余計にとまどって、友達にもいろいろ相談して、
 ようやく男がしまったと気付いて彼女に謝りのメールを出した頃には
 彼女のほうが男を相手にしなくなってしまっていた。
 クリスマスの前のことだった。完全なケンカ別れだった。

 それからは、普通にすれ違うことはあって、せめて挨拶だけでもと思っても
 彼女は無言で男を避けてどこかへ言ってしまうようになった。
 男は彼女がその後どうなったのか気になって、彼女に最近の調子はどうかと
 声をかけようと思っても、彼女は絶対にそんな隙を見せたりはしなくなった。
 本当に彼女は男と接触を断ったのだった。

 男は、それでもしかたないと思っていた。
 自分のしたことが悪かったのだし、そして自分の病のためでもあったのだと。
 ただ、ずっとケンカ別れをしたままだったのが気がかりだった。
 仲直りだけはしたかった。自分の言葉に嘘はつきたくなかったのだ。

 そして次の年のクリスマスが近付いてくる。
 一年以上、メールもしていない、直接話すことも無い。
 でも、男の中の、彼女に対する感謝の想いは消えたことが無かった。
 それは事実だったから。そしてそのときには男の病も安定し始めていた。
 男は、なんとか彼女のパソコン用メールアドレスを自分のパソコンから見つけ出し
 一年前には出せなかったクリスマスメールを出すことにした。

 「もうあれから一年が経ったんだね。早いもんだよ。
  でも、この年末は、どうしても去年のことが思い出されて仕方がなかった。
  今でも感謝しているんだよ。いろんなことがあったにせよ、
  おれが元に戻れたのは君の力が大きいんだ。
  君がおれのことをどう思おうが、おれのことを嫌っていようが、ね。

  もうそろそろ一切話さなくなって、一年が経つのかな。
  どうやら元気そうなので、それはなによりなんだけど、
  でもときどきは直接話したいときもあるんだよ。
  
  とにかく、はっぴーめりーくりすます☆
  ついでに新年明けるでしょうからおめでとう(笑。
  さよなら、本当に心から好きだった人。
  君が幸せになる日をずっと願っているよ。」

 自分でもバカなメールだと思いながらも、男は返事を期待せずに送信した。
 そうしたら、一言だけ返事が戻ってきた。

 「ありがとう。私は相変わらず。寒いので体には気を付けてください。」

 やれやれ。男はようやく肩の荷が下りたような気がした。
 そして心の奥底では、泣き出したくなるほどに嬉しい気持ちが流れていた。
 彼女からはそれ以来やはり一通もメールは来ないけれども、
 男にとってはその一通だけで充分だった。
 もうすでに、一回だけのデートの風景が心に刻み付けられて残されているのだから。


 これを最後の恋にしよう。男は痛切にそう思った。
 しかし、やがていつかまた雪が降るときが来る。
 そして、それまでに静かに降り積もってきた、今は往き古物語の記憶たちが
 悲しみを凍結させて、世界を幸せ色に輝かし始めてしまう。
 カーテンを開け、外の開かれた空の向こうを望むとき、
 男の心は喜びのあまり誰かに、そのときの特定の誰かに叫び上げてしまうのだ。

 「雪だよっっっ!」

 男の恋の病は未だ癒えない。


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