今は雪。半年間学校に通っていない大学生がパソコンの前に座っていた。
家の外を見れば、白いものがガラスの向こうに散らついては落ちていく。 幅の小さな庭には混じりけの無い真綿の結晶が一面に重ね積もる。
色の無い、ただ明るくまぶしいだけの光が差し込んでくる。 わずかに室内灯の乳白色が、人の手による温かさを作るようで ただ一人、ただ独りで黒く薄っぺらい機械の前の、椅子に腰かけた男は ただそっと、ただ静かに機械の蓋を開いて、電源をつけるのだった。
初夏に調子を崩し、夏の終わりに病を発し、それをきっかけに男は大学を休んでいた。 健康を損なったことは本当にきっかけに過ぎない。前から男は考えていた。 このままでは、大学院に進んで研究するか、就職するかどちらかの道を歩む。 いま大学でやっていることは本当に自分のやりたいことなのだろうか。 果たして自分のやりたい職業に自分は就けるんだろうか。そもそもやりたい仕事とは? その前年、大学三年生に上がる前の春休みに、彼はラオスに行った。 教授の研究調査の手伝いを兼ねて、学習を兼ねた手伝いの募集が学生に対して行われた。 その企画が始まって三年目で、その年に応募した十数人のうちに、男がいたのだ。 そのとき彼は、その教授に学んで学問を修め、研究の道に進もうかと思っていた。 だが、ラオスの南部チャンパサック州に赴いて、現地の人と交流を結ぶうちに 彼の考えは変わったのだった。自分のやりたいことはこの学問と違う、と。
また三年生に上がる前、卒論が近付いてくるのを意識して、己の知識の不足を感じて 男は本を読み始めたのだった。その中に、より彼のやりたいことに近いものがあった。 もはや三年生が始まる前に、その学年の終わりに下される判断は決まっていたのだ。 病をきっかけに学校に行かなってから、彼は自分の進路について悩みに悩んだ。 そして、今の大学をやめ、別の大学に入りなおすことに決めたのだった。
ただ心残りがあった。男には想いを寄せる人がいた。二年生の秋からの片想いだった。 二年生から学科ごとの授業に分かれ、専門の授業が始まる。その専門の授業の教室で いつも後ろのほうに座っていた男は、前方左側にどこか惹かれる横顔の女性を見つけた。 ただべつに、そのときは、ああそんな人もいるのだな、と思うだけだった。 しかし、その年の秋、その授業が演習形式に変わってグループ活動が始まると 偶然にも男はその女性と同じグループになって、話を交わす機会を得たのだった。 彼女の声を聴いたのは、グループを作って自己紹介をした日が最初だったが、 その第一声で男は彼女のことが好きになり始めてしまった。二目惚れといったところか。 明るく、冗談でときどき笑わせてくれる、全く飾り気の無い、上下ジーンズの女の子。 それでいて三味線同好会と競技ダンス部に属している、活発な人だった。 普段は女友達とばかり一緒にいて、ときにすれ違う男の知り合いと冗談を交わす、 とてもあっさりした性格が魅力的だった。 だが、あっさりし過ぎていて、彼は相手にまったくされていなかった。
三年生でも一緒の授業はあったのだが、いかんせん男のほうがその授業をよく休む。 また、なんとか授業中にその女性の隣に座ろうと思うのだが、ドキドキして仕方ない。 ついには隣に座ることも大変な勇気を要するようになってしまった。 だが、ラオスに行ったメンバーで仲がよい男女の友人二人とともにグループを作って、 その中に混じって時々一緒に大学付近を行動することくらいはできた。 友人二人は男の気持ちを知っていた。そして応援してくれていた。
しかし男は、その女性と親しくなれないでいた。話しかけられないのだから当たり前だ。 それでも男はなんとかしようとしていた。たとえば、その男にしては思い切ったことに、 彼女をデートに誘ったのだった。まさか、直接誘えなんてしない。そんな大胆ではない。 グループ活動のときに知った連絡先のPHS番号を使って、Pメールを送ったのだ。 もう携帯電話が勢力を伸ばして、それまでのPHSのシェアは狭まる一方だったが、 なぜか偶然にも彼も彼女も同じ会社のPHSだったのだ。それなら、番号さえ分かれば Pメールという、カタカナだけのメールが送れた。彼はそれを使ったのだった。
三年生の夏休み。それまでのサークル活動の人間模様と仕事に疲れきっていた男は、 調子を崩している中、自分一人だけのわずかな自由時間を楽しんでいた。 男は本が好きだった。本を眺めているだけでも、想像や思考がどこまでも膨らみ、 自分の知らない世界がどんどん開けていくようで、その意識に没頭できた。 だから、男が日本一の古書店街である神田神保町に足を運んだのは自然のことだった。
また男は散歩好きでもあった。歩いていくと街街が開けていくのが面白かった。 特に自分の知らない場所を歩いていくのがよかった。 そこにいる人の息づかいを間近に感じたかったのである。 彼は、神田神保町から、隣町の九段下のほうに向かっていった。 九段下の周りはまだ散策したことが無かったのだ。 たしか、武道館がある、と男は思った。ライブで有名な、玉ねぎの乗っかった武道館。 とりあえずそこに行ってみようと思った。逍遥こそ彼のモットーであった。
田安門から北の丸公園へ。もとは江戸城の北の丸、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の間の橋を渡り、 御三卿の田安家の屋敷跡の門の前、木々が脇に立ち並ぶ石畳の上で、男は 一斉に鳴き続けては止まない蝉の歓声に囲まれて、わんわんと耳鳴りがする音響の中で ふと思い立ってしまった。彼女は今どうしているのだろうか、と。
車止めの短い柱に腰をかけ、彼はPメールを打った。これからデートしませんか、と。 何の脈絡も無く突然に。彼は小細工ができるほど器用ではなかった。直接的だった。 Pメールならば返事がなくても仕方が無い。蝉は甲高くずっと叫んでいた。
しばらくして、思いの外早く、返事が戻ってきた。今、神戸の実家に戻っていると。 予想外の返事に男は面食らった。また、事実として断れたのだが、返事は来てしまった。 男はそのまま神戸の話でメールのやりとりをした。彼女のことなら何でも、知ることは 嬉しかったのだ。ただ、神戸にいるならこれ以上誘おうとしても無駄なのは確かだった。 片想い一年目が終わろうとしていた夏だった。直接会わなくて早数ヶ月の頃である。
それ以降、男は大学に行くことは無かったので、その女性に会う機会も全く無かった。 彼は自分のことで手一杯だった。三年生の秋、就職活動を始める友人も出始めたとき、 自分のする仕事はこれだろうとようやく思い立って、そして徐々にそちらに向かって 動き始めたのだった。全く畑違いの分野へ、彼は足を踏み出し始めようとしていた。 卒論のテーマを出し、担当となる先生もラオスのときの教授と決めたのに関わらず。 全く別の学問領域の本を読み漁って、受験勉強も一からやりはじめたのだった。
当然、そのうち大学の呼び出し掲示板に名前が載るようになった。 友人たちが連絡してくれたおかげで、彼はそれを知ることになった。 が、もはや彼には大学の用事には関心が無い。ただ少しだけ、やったことは 大学の事務所に行って退学手続きを尋ね、卒論指導教授に断りのメールを入れたこと。 教授から返信は無かった。だが伝えたのだから、と男は自分を納得させようとした。 大学の事務所に行ったとき、彼女に会えれば、と万が一の希望を胸に抱いてはいたが まさかそんな奇跡が起こるはずも無かった。そのときはすでにテスト期間で人はまばら。
年明け、そうして大学と縁を切ろうとしたとき、一通のメールがやってきたのだった。
ラオスに一緒に行った女の子からだった。片想いの彼女と一緒に遊んでいた人だった。 本文には、このままあなたが遠くへ行ってしまうような気がして、とあった。 確かにそのとおりだった。男は遠くへ行くつもりだったのだ。それを言われるとつらい。 しかし、だからといって、メールの中で好きだと告白されたのは、正直とまどった。 その女の子は男の気持ちを知っているのだ。メールの文面にもそう書いてあった。 またか、と男は思った。昔の、小学生の頃の記憶がよみがえる。どうしてこうなるんだ。
思い当たることはあった。その子とは仲は普通によかった。もしやと思うこともあった。 でも、まさかね、と男は考えないようにした。自分が人に好かれる?信じられなかった。 そして何よりも、男には一年半ずっと想い続けてきた人がいたのだった。 どうして他の人のことを考えられるだろう?男はその人のことが本当に大好きだった。 また、ラオスに同行した先輩の女性から、メンバーの中に好きな人はいないか、 付き合うことはと楽しいことだよ、と意味深長なことを言われたことがあった。 しかも、たとえばその女の子はどうか、とまで訊かれた覚えまであった。 そうですか、でも自分は片想いの人がいるから、とそのときは軽く話を流したのだった。 思い返して、もしやそのことを言われていただったのかと、気が遠くなる思いをした。
その女の子のことは嫌いではなかった。とても気の合う仲間、いい女友達と思っていた。 でも、それは飽くまで仲間であり、友人だった。恋愛対象としては考えていなかった。 しかし、フルことで彼女を傷付けたくは無かった。大切な友達だったからだ。 どうすれば一番いい答えになるだろう。どう言えば彼女と友達のままいれるのだろうか。 彼はそのメールを受け取ってから、すぐには返事が出せずに、三日三晩文面を考えた。
そんなとき、その女の子からまたメールが送られてきた。返事の督促だった。 蛇の飼い殺しのような真似をしないでくれ、苦しくてたまらない、との内容だった。 そんな、返事について思い悩んでいた矢先に文句を言われて、しかもその人を思って 文面を練っていたときにそんなぶっきらぼうな催促をされて、男は怒ってしまった。 悪いことに、彼は怒ったまま返事を出してしまった。ふざけるな、少しくらいなんだ、 おれは三ヶ月も返事を待ったことがあるんだ、おれの気持ちを知ってるなら、 答えは分かっているんだろう。もうメールをよこさないでくれ。
なんともひどいメールだった。出して、それからその人から本当にメールが来なくなり、 男は後悔をし始めた。確かに向こうの自分勝手さには納得が行かないが、 それでも向こうの早く答えが欲しい気持ちは、自分にも経験があるから分かるのだった。 しかも、これからも友人として長く付き合っていきたかったのに。 その人に申し訳なかった。しかし、謝りのメールを送ることもできなかった。
代わりに、というのも変な話だが、彼は片想いの人にメールを送ることにした。 彼女をフってしまったのだから、自分もフラレなければいけない。 そんな気持ちだった。心のバランスをどこかでとりたくて堪らなかったのかもしれない。 片想いの人のパソコンのメールアドレスは、やはりグループ学習のとき聞いて知っていた。
パソコンに向かうまでに、家の外に見えた景色は真っ白だった。 雪が降っていた。そして積もっていた。彼は、書き始めた。
「雪だね。おれが失恋するときは、いつも雪が降るんだ・・・。」
そして、一年間半の想いを書き綴った。 これで確実に自分の片想いは終わる。そればかり考えていた。それでよかった。
翌日、メールを確認した。が、誰からもメールは来ていない。 当たり前だと自分を責めた。外は相変わらずの雪で、積もる高さは増していた。
その次の日、雪はもう降っていなかった。ただ陽光に溶け始めた結晶がきらめいていた。 一通のメールが来ていた。片想いの彼女からだった。 ごめんなさい、気持ちは嬉しいけど、男の人と付き合うことは考えてない、とあった。 気持ちには気付いていたが、そんな前からだとは知らなかった、ともあった。 彼女は説明を添えるために、自分の生い立ちまで語ってくれた。 神戸の実家には家族がいるのだけど家族は仕事で稼ぐ様子は無いこと。 だからその分、自分が働いて家族を養なっていかなければならないということ。 また、自分は作家になる夢を持っていること。いつかそれを実現したいということ。
どれもこれも初耳だった。そして、普段の彼女からは窺い知れないことばかりだった。 まさかそんな事情が彼女にあったなんて、思ってみもしなかった。 それはとても丁寧な返事で、ただただ数日前に自分がした仕打ちと比べて考えると 彼女の優しさと温かさが文面に滲み出ていて、自分がとても恥ずかしくなった。
その彼女の思いやりがとても嬉しくて、感謝の念が湧き出してきて止まらずに、 フラれたことに対して、ありがとうと書き始めてしまった。気持ちが流れ出てしまった。 そしてそのまま、あまり他人に語ったことのない自分の生い立ちも綴ってしまった。 彼女への想いだけでなく、自分への想いまで話してしまったのだ。 どうして彼女に今まで自分の気持ちを打ち明けることができなかったのか。 そんなことまで書いてしまった。もう、とことんまで書いてしまった。 もう終わりだと思っていたから、次の返事は来ることはないだろうと思っていたから、 もはや何の気兼ねもなく、好きだと言ってフラれたからには、何も隠すこともなかった。 わずかなヒビで決壊したことで、堤防を失った雪解け水は、奔流となって下った。
ただ、男は正直に書きすぎてしまった。 彼女が自分のやりたいことでなく、稼ぐために仕事へと向かわせた彼女の家族に 腹が立って、彼女がそこまで自分の家族に義理だてる必要はないとまで思ってしまった。 そしてそれをそのまま書いてしまった。そのときは、彼女のことだけしか頭になかった。 周りの状況など、彼女の周りの状況でさえ、おもいをやることができなかった。 そして返事は来なかった。男はまた後悔した。 家族はどんな形の結び付けであれ、その人にとって大切なものなのだ。当たり前だった。
それから一年が経った。 男は新しい分野に進むため、受験をした。 国公立大学を受験して、前期試験は落ちてしまった。 明らかに勉強不足だった。もう一年かかると覚悟した。 しかし、後期試験は幸運にも受かってしまった。三月も終わりのことだった。
彼は合格を知ると、真っ先に片想いの彼女にメールを出した。一年ぶりだった。 ただこう伝えた。自分も夢に一歩近付いたんだ、君も夢をあきらめるな、と。 そのときも返事は期待していなかったが、数日後、彼女からメールが来た。 ありがとう、と。そして、大学の卒業式も終わったので数日後に実家へ帰ると。
男は、想いが張り裂けんばかりになった。どうすればいいのだろう。 本当はすぐにでも電話したかった。見送りに行きたかった。最後に会いたかった。 だが、自分はフラれた身だから、と気後れがしてしまった。致命的な躊躇だった。 数日後、もしも会えたら、とメールを送ったが、 おそらく彼女はそのメールを見ることは無かったのだろう。 男は一年半以上、その女性に会わずして、 これからもずっと会うことはないことにようやく気付くことになるのだった。
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