今は雪。大学入試センター試験を二日後に控えた高三生が、電車から外を眺めていた。
街はすっぽりと雪に埋もれていて、静かに息を潜めていた。成人式の日で、祝日だから わざわざ外出する必要のある人はまばらで、友人たちの中でも遠くまで外出しているのは 塾の特別授業を受けにいつもより遠くの駅にある校舎まで行ってきた自分と、 今一緒に帰ってきている友人のもう一人だけ、この二人の男だけのように思えた。
会いたいな。ふと漏れるつぶやき。友人は苦笑した。まぁ仕方ないじゃないか、と。 でも、JRから私鉄へと乗り換えるために通路を歩いている途中も、頭の中は一杯だった。
その塾に入ったのは高二の夏だった。それまで全く勉強という勉強をやってこずにいて、 なぜか国語はできたのだが他は全然ダメで、特に英語がボロボロだった。 しかしこのままでは大学受験がヤバイと危機感を持ち始めたその高二生は、 とりあえず近くの塾に行こうと思ったのだった。しかし、その塾には学校の友達はいない。
また問題だったのは、そこにはたくさん現役の女の子もたくさんいたことだった。 女子高からも生徒は来ていたので、制服姿の高校生の女の子がたくさんいる。 男はずっと中学も高校も男子校で来ていた。部活ばかりやってきたカタブツだったので、 女性と接する機会もなかった。そんな免疫がない状態で、塾に踏み込んでしまったのだ。
高二の秋から本格的に授業を受け始めた。古文は一番上のクラスなのだが、英語は一番下。 しかし、そこで転機が彼に訪れた。古文の授業で、あるかわいい子に一目惚れしたのだ。 セーラー服を着ていたその女の子は、困ったことに英語がとても得意だった。 クラス替えのために行われるテストでも、成績優秀者として名前が載るような女の子。 そして男は勇気が持てずに女の子になかなか話しかけられないでいた。 だからせめて、同じ教室で一緒に授業を受けたかったのだ。しかし英語は天と地との差。 男は考えた。そして努力した。英語で同じ授業を受けれるようにと、勉強したのだ。 結果、高三に上がったときには英語の授業を一緒に一番上のクラスで受けるようになり、 高三の夏の終わりには、その女の子すら追い越して塾内で一番上のクラスに合格。 当初の目的とは食い違う皮肉に悲しんで、塾のスタッフに自分のクラスを下げてくれと 懇願して、それが聞き入れられないと心から寂しくなって、想いが一杯になって。 秋が始まる頃にはその女の子に告白してフラれるという暴挙に出たのだった。
そうして、はじけていた夏の初めに知り合ったのが、今一緒に電車に乗っている男。 高三の夏の終わりに、英語の一番上のクラスに一緒に合格した仲間だった。 そいつとは、なぜか知り合ってすぐに自分のことを洗いざらい話すことができた。 無論、塾内で発生した恋愛話も互いに共有していた。 年頃ということもあろうが、塾ではとかく恋愛話が多かった。 それは、受験という目的や、近付くプレッシャーを共有していたからだろうか。
その男を通じて、高三の秋から爆発的に知り合いが増え出した。 そいつの高校の友達。その友達の友達。その友達の彼女の友達。エトセトラ、エトセトラ。 友達が増えていくにつれ、独りだった傷心の高三生も積極的になり始め、 自分でも友達を作るようになった。それでも女の子の友達は少なかったのだけれど。
そんなとき。友達に誘われて塾の一階にある休憩室に行くことになった。 休憩室に入ると、知っている女の子がいた。よく授業でも顔を合わせる人だ。 話しかけていたら、休憩室の窓側の片隅を占拠していた男女が近付いてきて、 その女の子に話しかけて会話を始めた。どうやら知り合いらしい。 一階の狭い空間の中にまるで住んでるかのように、いつも休憩室にいる者たち。 よく見ると、その休憩室の住人たちの中にも、知ってる顔がいた。 いつの間にかに傷心の高三生も、みんな高三生だけれど、そうして彼ら彼女らと話し始め、 休憩室の住人の一人になっていた。冬の人肌恋しい季節の、ことの当然のなりゆきだった。
休憩室の住人たちは、変な連中ばっかりだった。 男ではホストが一人、ホストっぽいのが一人。普通がたくさん。傷心のウブが一人。 女の子は、みんなかわいいのは確かだが、それにしてもどこか他の人とは違っていた。 特に傷心のウブが度肝を抜かれたのは、女の子二人に抱きつかれたことだろうか。 きゃー、と声を上げられながら「ちゃん」付けで名前を呼ばれて近付かれ、 べったりと抱き締められて「にゃん」と猫なで声を出されて、男は真っ赤になった。 なにせ、女の子に手を触れられただけで心を奪われかれないような免疫不全の男である。 当然、その片方の女の子のことを好きになってしまった。会って数日も経ってないのに。
ただ、ここでも問題が発生した。休憩室の住人たちの関係はもつれにもつれていた。 きっと全貌を描ききろうとすると、相関関係図が蜘蛛の巣よりも複雑になってしまう。 ひとまず問題になったのは、傷心のウブが惚れてしまった人は彼氏と別れたばかりで そのまま休憩室の住人の他の男、ホストっぽい奴のことを好きになっていたことだった。 また、こともあろうに、その似非ホストは傷心のウブと降りる駅が一緒で、 帰り道も途中まで一緒だった。この二人がすぐ仲良くなるのはことの成りゆき上、当然。 そして、その似非ホストがその女の子ではない他の女の子に片想いしていたことを知った。
三角関係なんて単純な構図で終わらない、どこもうまく行きそうにない片想いの連鎖。 自分の好きな人が自分の親友を好きなら三角関係と言ってもいいのだろうが、 そんなことはなんの慰めにもならない。 事態は日に日に悪化していった。ウブの思いはどんどん募っていく。
元旦。休憩室の住人たちで、学業成就で有名な湯島天神に初詣でに行くことになった。 その帰り、渋谷でカラオケをしていくことになった。女の子たちも一緒である。 ウブな男は自分の気持ちを込めてBON JOVIの「Always」を歌おうと思ったが、 いざ演奏が始まって歌おうとすると、のどが冷たい風に当たっていたせいか 声がガラガラで全く出ず、まったく思うように歌えなかったのであった。
ウブな男はいつも以上に悲しくて、悲しくて、その場にいることさえつらくて、 ついカラオケボックスの部屋から抜け出して、元旦の夜明け前の渋谷の街を徘徊して とにかく歩き回ったのだった。何をどうしたらいいのか分からなかった。 しばらくして、しかたなくカラオケボックスに戻ってきて、みんなと合流して、 そのあと元旦の朝食をマクドナルドで食べ、始発で自宅の最寄り駅に帰ってきて。 そこで今電車で一緒に乗っている友人に、全ての事情を話したのだった。
それからもつらい気持ちには変わりはなかった。 好きな女の子が、とても弱ってきているように見えたからだった。 女の子は、自分の好きな人に決して振り向いてもらえない。 そのことをとても悩んでいた。男は、その悩みをどうにかして和らげてあげたかったが、 どうしても自分が彼女のことを好きだということは言い出せなかった。 休憩室が空いていないときには、塾の近くの、駅前のウェンディーズで、 みんな2階のテーブルを占拠してちょっと勉強して、あとはおしゃべりして、 そんな中で彼女が友達からポケベルのメッセージを数字で受け取っているのを横目に ウブな男は彼女以上に思いつめ始めていたのだった。どうしたらいいのだろう?
彼女が好きな相手の似非ホストにも、帰り道で相談なんてしてしまうのもバカだった。 冬期講習が始まり、授業は頭に入ったかどうかも分からないまま時が過ぎて、 ウブま男も彼女も、神経が明らかに擦り切れていた。男は参っていた。 そこれでウブな男は、ある日、一人決意を固めたのだった。 夜遅いとても暗い帰り道の途中で、ついに明日は告白して、 自分の気持ちを伝えて付き合うように言って、自分が彼女を優しく包むんだ、と
その明くる朝。冬休みも終わって、高三の始業式の日。 学校での無意味な儀式を終えて、男は真っ直ぐに塾に、正確には塾の休憩室に向かった。 駅を降りると、街はとても静かだった。まだ昼だったこともあるが、 空の色も人の生活のささやき声を消し去っていた。どこか沈んでいた。 見上げると、一面に広がった灰色の雲は今にも泣き出しそうで、 風がないが肌寒い道を曲がったその先に塾が見えたときには、 ウブな男は時間が止まったような錯覚を持ってしまったものだった。
休憩室にはすでに先に仲間が来ていた。休憩室の住人以外に人はいないようだった。 緊張して中に入っていった。彼女がいたら、自分の気持ちを伝えるんだ・・・ 誰がいるのか確認しようとよくみてみると、男が一人か二人いて、 女の子たちは数人が、あの女の子を中心にして他が周りを取り囲むようにして、 なんだが嬉しそうに騒いでいるのだった。 そして男は耳にした。彼女は昔の恋人とよりを戻したらしいと。
えっ。男はすぐに事情を飲み込めたが、しかし少しの時間、体を動かせなかった。 彼女の手にあったポケベルが鳴った。そして彼女は休憩室の出口に向かって歩き出した。 男の脇を通るとき、幸せそうに挨拶をして、そして彼女は電話をかけに公衆電話に行った。 ウブな男は、落胆したわけでもなく、悲しみが湧いてくるわけでもなく、 ただ何の感情も抱けずに、とにかくその場から、休憩室から出たくなった。
そしてとぼとぼと出口に向かって歩いて。とぼとぼと出口から出て。 下をうつむいて、呆然としたまま数歩歩いて、眼前をちらつくものに気付いた。
・・・!?
上を見上げると、静かに雪の結晶が次々と舞い降りてきた。たくさんたくさん降りてきた。 自分に向かってもひっきりなしに冬の使者が訪れてくる。 やってきては消え、やってきては消えて、それでもそれでもやってくる。 風もなくただ真下に降り注ぎ始めた雪の下にいて、 男は自分の気持ちも解けていっていることに気付いた。なにかが消えていく。 すべてこれでよかったのだ。空は真っ白になって、風景も真っ白になっていく。 つらさも悩みも全てどこかに行ってしまった。彼女への気持ちも薄れていく。 彼女が幸せでありさえすればそれでいいのだ。もうおれが思い悩むこともない・・・
それから一週間が経って、センター試験を間近に控えた男二人は、塾の授業の補講のため、 いつもより遠い校舎へと授業を受けに行き、そして帰ろうとしていたのだった。 一週間前に降り積もった雪に、さらに昨日から雪が降ってその上に積もり、 一月十五日に固定された成人式の日に、電車から外を眺めていたのだった。
その日は彼女の誕生日だった。そして、センター試験の前々日だった。 だから男は彼女に会いたかった。誕生日だから。そして、センター前に最後に会って、 少し勇気を分けてもらいたかった。会えば、なんか元気が湧いてくる気がしたのだ。 もう彼女のことは諦めていたけれど、少しは気持ちが残っていたのだ。
そして乗り換え駅の通路で、今までのことを考えながら、 次の電車を待つべくプラットホームで、別の路線のホームのほうを眺めていた。
すると、間を雪が舞う中、むこうのプラットホームに、彼女とその友達の姿が 一瞬見えたのだった。紛れもなく彼女だった。こちらが電車に乗った後だから、 もう声をかけることはできなかったが、彼女だった。電車は動き始めていたから 友達にその姿を確認することはできなかったが、それは彼女だったのだ。
男はそれだけで満足だった。なんか、それだけで今までのこと全てがよく思えた。 後悔なんかしていない。ただ、自分の道を進むしかないと思っていた。
友人が、彼女のポケベルに誕生日おめでとうと送らないかと言い出した。 PHSを友人は取り出して、電話番号のあとに数字をつけて送るのだった。 おれは数字がどう言葉に変換するのかルールを知らなかったが、友人は熟知していた。 だから、おれは連名でメールを送ってもらった。電車の中で送ったのだった。
電車から覗いた街の風景は、ただ真っ白に雪に埋もれていた。 静かに、寝静まったように、それは安らかな景色だった。
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