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作品名:いまはゆき、ふるものがたり 作者:飛中漸

第1回   1
 今は雪。中学入試から帰ってきた小学生が、電車から駅のホームに降り立った。

 コンクリートのプラットホームは、前のほうも後ろのほうも屋根が無いが、
 その少年は、階段の前で込み合う中を降車するのを好まなかった。
 いつも人波から外れた極端に前や後ろのところから降りて
 外気と風とを感じながら、ゆっくりと歩いて階段に向かうのを楽しみにしていた。

 その日はふんわりした氷の結晶たちが白く大きく、静かに眼前で真下に落ちていた。
 次から次へと視界を上から下へと舞い降りて通り過ぎていく、冷たい伝令は
 少年の頬に触れては温かさを感じさせるのだった。

 前年の暮れに少年の通っていた塾で、先生が授業から脱線して興味深い話をしていた。
 入試は中学受験も高校受験も大学受験も、だいたい二月に集中している。
 だから雪の影響を受けやすいのだけれど、雪はたくさん降ったり振らなかったりを
 隔年で繰り返すというのだ。つまり、二年ごとに大雪が降るらしい。
 そして今年は大雪になるだろう。先生がそう話していたのを少年はよく覚えていた。
 授業より脱線話のほうが面白くて記憶に残るのは世の常だけれども
 こうして実際に雪に降られては、様々な受験知識よりもその話が
 はっきりと思い出されるのは仕方の無いことだった。

 駅前ですら、雪がどっさりと積もっていた。道で滑らないようにと買ってもらった
 雪靴を履いて、都会のコンクリの上に踏み固められたぼた雪の上を、少年は歩いた。
 駅の反対側のスーパーで買った灰色の毛糸の手袋をはめて、
 吐き出される息が白く変わっていくのを、それが義務であるかのように確かめながら
 筆記用具やカイロを入れた鞄を背負って、少年は家路をたどっていった。

 少年は真っ直ぐな大通りよりも、入り組んだ小さな路地を好んだ。
 車がたくさん通りすぎていく道の横を歩くのが嫌いだった。
 それは、乗ればすぐ酔ってしまう車が苦手だったこともあるし、
 排気ガスを吸いたくもなければ、ハイスピードで横を突っ切られていく煩わしさから
 逃げたかったこともある。だから、少年は平らに進む幹線道路の一つ隣にある、
 住宅街の中を分け入っていく坂道ばかりの曲がりくねった道をいつも通っていた。

 その習慣は雪が降っても変わらない。
 時間的に差は無くとも、少年にとってはその道が近道で、行くべき道だった。
 雪で上り坂を登るのがきつくなろうとも、下り坂を転ばないように気をつけながら
 それでいて実際に何回も転びながら踏み下って行こうとも、この道がよかった。
 また、もう一つこの道を好む理由が少年にはあった。
 駅前の通りから左に曲がって、丘に伸びていく道へ、大通りから脇に逸れて
 その道の延長に置かれた階段を視界の左にやりながら右に曲がり、
 道の坂の上にある駐車場の横を通り過ぎて、ときどき現れる左折可能なT字路を
 そのまま直進して、直進して、直進して。
 今度は坂を下りながら、少年は次の十字路が来るのを待ち望んでいた。

 右側の住宅の向こうで並行に走る幹線道路から、左手の丘の上へと突っ切る道は
 今行くこの道にも交差を作っていた。そこで左に曲がって坂を上がっていけば
 次に現れるはずの十字路のそばに、女の子の家があるのを少年は知っていた。

 小五のときから好きだった女の子。一目惚れだった。四月の始業から間もなかった。
 屈託のないお転婆な明るさに少年は惹きつけられた。
 好きになった初めての日は、目が釘付けになっていて、
 放課後の掃除の時間も少年は手にほうきを持って突っ立ったまま
 ずっと彼女のことを見ていたのだった。そんな体験は初めてだった。初恋だった。

 小学校では席順が出席番号や背の順で決まることが多かった。
 少年はモヤシのように背が高くて、かつア行から始まる苗字だった。
 一方で女の子は小さくて苗字の最初がワ行だったから、
 席がお互い端っこ、クラスの対角線の反対側にあることが多かった。
 一度、クジで席を決めたとき、通路を挟んで席が隣通しになったことがあったが、
 そんな期間は短くてすぐに去ってしまっていた。

 好きだからといって積極的にアプローチできるわけでもなかった少年は
 仲良くなる猶予期間を、一目惚れをしてしまったゆえに得られなかった。
 なかなか話す機会もなく小五の一年間が過ぎ、だから小六の所属部活動を決めるとき
 彼女が料理クラブに入るのを聞いて、まんざら料理が嫌いでもなかった少年は
 一緒のクラブに入ると密かに決めたりしていたものだった。

 そんな仲だったから、親しくなることもなかったけれども
 一度、小六の夏休みに一緒に遊んだことがあった。とても不思議な事の運びだった。
 いつものように家に男友達を呼んで、二人でファミコンに熱中していたら
 外で自転車のベルが鳴り鳴らされるのが聞こえてくるのだった。
 しばらくはそのままファミコンで遊んでいたが、どうも自転車のベルは鳴り止まない。
 おかしいなと外を覗いてみると、家の前で自転車が二台、ぐるぐる回っているのだった。
 好きな女の子と、彼女の仲良しの女の子だった。少年は状況が理解できなかった。
 これまで彼女が家に来たこともないし、来るという話も一切聞いてない。
 ちょっと気が動転した。一緒にファミコンで遊んでいた友人も
 その女の子に気があることを知っていたから、なおさら何がなんだか分からなくなった。
 それで少年は、外の自転車の二人の隙を見て、家から逃げ出してみることにした。
 まるで鬼ごっこをしかけるかのように、追いつかれず、かつ囃したてながら、遠くへ。
 炎天下の住宅街。コンクリから陽炎が立ち昇る。男子二人が逃げ、女子二人が追う。
 やがて公園にたどり着いて、いつの間にかに水鉄砲を手渡されては、
 なんだか四人でふざけあって遊んでいた。少年は周りの行動も、自分の行動でさえも
 理解不能だった。ただ、相手のことを好きだったことだけが確かだった。

 だから、小六の秋に、ふと家庭科室で二人きりになってしまったことがあったときに
 その女の子からそのときの用事に使うボタンを手渡されるために近付かれ
 相手の手が自分の手に触れてその温かさを感じたのは、幸運だったと同時に
 緊張も最大になって当然のことで、少年は心が張り裂けんばかりだったのも自然だった。
 気持ちだけが大きくなっていって、しかしそれを伝えることができない少年は
 かすかに幸せな心地がしながら悲しき虚無の世界にも取り残されていた。

 相手の住所も知っていたし、家の電話番号も知っていた。
 黒電話のダイヤルを回して、相手の呼び鈴を振るわせることもできたはずだけれど
 ついにそのちっぽけな勇気も持つことができないまま
 受験の季節がやってきたのだった。

 そこの十字路を左に曲がって、次の十字路も左に曲がって、
 すぐに行き止まりになっている道の、その左側に、女の子の家がある。
 十字路を曲がれば。
 少年は、雪が降りしきる鈍い鉄色の雲で暗くなった世界で、
 ただ自分以外には静寂だけが歩いている道の中、下り坂を踏みしめながら。
 十字路を曲がれば。
 息はただ白く吐き出される。毛糸の手袋にこびりつく氷の結晶。
 咳を一つ、左を向いて。坂の上を向いて、遠くにあるはずのものを見やって。
 十字路を曲がって。
 国語の教科書に書いてあったフレーズ、坂を上れば海が見える。
 いまはかもめの羽は一枚だけではなく、町中に被うように降りしきる。

 そして女の子の家の前にたどりついた。明かりは点いていた。彼女の部屋はどれだろう。
 なんかこのまま彼女が窓の外を見て自分に気付いてくれるんじゃないかという偶然を
 少年は期待せずにはいられなかった。あのときの、夏休みのときのように、
 なにかは起きてくれないだろうか。

 淡い期待。待ちながら。雪と時間だけが積もりゆく。

 奇跡など、起きはしなかった。過去の偶然は偶然でしかなく、事は必然で動いていく。
 世界の静寂に自分が包まれていることを、ハナから気付いていたことを
 少年はようやく受け容れて、その場を立ち去ることにした。
 家のベルを鳴らしてみようなどとは思えなかった。せめて自転車のベルがあれば?
 自分の家へ向かう一歩を踏み出して、もう一度女の子の家を見返して。
 行き止まりを振り返って、誰にも踏まれていない積雪を眺めて。

 少年は足を動かした。左足で踏ん張って体を支えながら、右足の雪靴のかかとで
 雪を掘って自分がそこにいた軌跡を残そうとして。
 明日の朝、彼女がそれに気付いてくれることを願って。

 「好きだ。」

 止まない大雪の中、世が開ける頃には新たな雪にその文字が消されてしまうのを
 承知しておきながら、少年はその場を後にした。
 小六の二月初め。少年は、残りの時間を意識していたわけではなかった。
 ただ表現せずにはいられなかった。気持ちが相手に届くかどうかは問題ではなかった。

 次の日以降、やはり女の子の振る舞いに変化があったようには見えなかった。
 少年は少し落胆したが、それでも構わなかった。はじめから分かっていたことだった。
 二月十四日も、いつもと同じように過ぎようとしていた。べつに彼女と話すこともなく。
 しかし、意識が向いていなかったところで何かが起きてしまった。

 授業が全て終わろうとしていたときに、その頃隣に座っていた別の女の子に、渡された。
 おそらく手作りのチョコレートクッキー。それを受け取って、何も言えなかった。
 気持ちは分かったのだけれども、だからといってどんな言葉を出せばいいのか
 突然のことで、いや、もしかしたらとは思うくらいには気付いていたけれど、動転して
 何も分からなくて、思考が停止してしまった。その隣の女の子もしばらくは黙っていた。

 やがて、隣の女の子が口を開いた。「あの子のことが好きなんでしょ?」
 少年は目を見開いてしまった。予想外の言葉だった。
 続けざまに「分かってたよ。私のことはいいんだよ」と言われて、
 さらに何も言えなくなった。隣に座っていた女の子は先に立って、そして帰っていった。
 少年も帰るしかなかった。手に持ったクッキーの袋を体操着の巾着袋に隠して入れて。

 その帰り道で、少年は考えていた。どんな言葉を返せばよかったのだろう?
 少年は正直すぎて、本当は好きな女の子からチョコレートが欲しかったから、
 クッキーを手渡されても「ありがとう」の一言さえも出せなかった。
 それだけでよかったのに。この問題にそう少年が答えを出せるようになったのは数年先。
 ただ、そのときは家路のあちこちに残る、溶けずに凍った雪の塊を横目に見ながら
 数日前の自分のしたことと、その日に自分がされたことを比べてみることしかなかった。

 少年は受験を通り、男子校に進んだ。
 これで好きな女の子のことは少しでも忘れられるかな、なんてことを思っていた。
 「好きだ。」春がやってきても、この言葉だけが凍り付いて溶けることは無かったのだ。


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