春秋に覇を唱えた楚の国の昼。街の往来は賑わっていた。 客を引く店主。用を済ませにいく旅人、噂に興じる老若男女。鞠で遊ぶ子どもたち。 混雑というほどではないが、人通りが絶えないこの道に、 遠く都から街の様子を見回りに来た大臣が、六頭立ての馬車でやってきた。 ただ見守る店主。避けて通る旅人。慌てて脇にどく人と、抱えられてどかされる子。 御者に従われた馬が曳くその後ろの車に、悠然と周りを見渡す大臣の姿を認めて、 自然と通りにいた者たちの声は低くなり、街はやや静かになったのであった。
大臣は家来を引き連れて、なにやら話しながら街の中心にある宿屋に休みに入る。 御者は大臣の語ることなど無関心に、車からはずした馬を秣が入る飼葉桶へと導いた。 人々は、大臣たちがやってきた様子をうかがい、その目的や、もたらすだろう結果を 当たるはずも無い論法で推測しながら、互いにあてもない考えを交し合っていた。
しばらくすると、そんないつもの論議に飽きた人々は日常を取り戻しに、 それぞれの持ち場へと戻っていった。そして、宿屋の前は人が減り、 馬の秣を食む音がその場を支配した。だが、聞こえてきたのはそれだけではない。 秣を食んでいた六頭の馬たちが、届けられてきた便りをとらえようと おもむろに顔を上げ、ピンと耳をそばだてて遠くを聞きはじめた。
琴の調べ。小さくだがはっきりと澄んだ音色が、街なかを流れていく。 優しく染みわたって、ようやく宿屋まで行き着いた絃の響きは 今までの喧騒の中にも混じっていたのだろうか、宿屋の前がようやく静かになって 人の心を惹きつける力が、六頭の馬の耳をもとらえたのだった。
宿屋から御者の様子を見に出てきた大臣の家来が、その馬の様子に気がついた。 「御者、馬どもは何に気を取られているのだ?」 御者はそう言われて馬を見返して、考え始めて、なんとなしに口を開いた。 「さぁ。この音色に聴き入っているのではございませんか? とてもきれいでございますに・・・」 音色、と家来は聞いて訝しんだ。はたしてそんなものが聞こえるのか? 大臣のご機嫌取りや日々の予定で頭がいっぱいだった家来の耳には入ってなかった。 言われて、風の運ぶ音に耳をすまして、ようやく掻き鳴らされる琴の調べに気がついた。
家来は音色の正体が分かると、目を大きく見開いて御者のほうを向き直した。 「御者! この音色の主が誰だか分かるか?」 「いえ、わたしはこの土地には詳しくありませんので・・・」 その気迫に押されて御者がたどたどしく答えると、 落胆するひまもなく家来は宿屋に戻り、同じ質問を宿屋の主人にも繰り返した。 「ああ、この美しい琴の音色は伯牙先生が弾いてなさっているものですよ」 「伯牙先生・・・誰だ、それは?」 「この町一番の琴の名手ですよ。昼間はいつも弾いていらっしゃいます」 「そうか! 恩に着る、主人」 いいえお構いなく、と社交辞令を返そうとした宿屋の主人を無視して、 家来はすぐさま外に出た。琴の演奏。地味だが今日の大臣のいい接待になるだろう、 と胸算用をたててせわしく、一直線に琴の音色の流れてくるほうをたどっていった。
その夜。大臣は宿屋の広間で、土地の有力者を集め宴席を設けて、酔っていた。 魚、酒、汁物に、芸妓の踊り。歌うたいに琴が合わさって、場は華やかに盛り上がる。 歓談して食を進める者たちは互いに杯を交わしながら、女どもに目をやるのに忙しい。 大臣は周りの者から媚びを売られごまをすられて、酒の効き目も加わって上機嫌だった。
すると、中央に位置した大臣の、両側に並ばれた客の席の中から拍手が起こった。 どうやら曲が終わったらしかった。大臣は合わせて手を叩き、芸妓を招いた。 呼ばれた娘は、とまどいと恥じらいとを混ぜたような表情を浮かべ、近付いてきて、 そうして言われるがまま酌をしはじめ、やがて場の移動が落ち着いた頃。 また琴の絃が鳴りだした。琴の者が一人で弾き始めたのだ。
「女たちはもう我らの相手をしてくれている。それを邪魔するというのか」 大臣は顔をしかめた。酒を注いでいた娘の、おびえて酌する酒瓶が少し震えた。 「い、いえいえ、そうではございません。あれは琴の独奏でございます、大臣閣下」 家来が慌てて大臣をとりなして説明を始めた。娘のほうにもまた酒を注げと目配せした。 「琴の独奏? 琴は芸妓の歌の伴奏ではないのか」 「多くはそうでございますが、この伯牙先生の琴は格別なのでございますよ」 「伯牙・・・?」 注がれた酒を口にやりながら、大臣は琴を弾く男のほうを見やった。
遠く、座の後ろのほうでひっそりと弾いている。 だが、琴の音ははっきりと、一音一音が輝いて聞こえてくる。 はじけながら、響きを残して、次の音と混ざり合い、重なり合う音階は心地よく、 連続して流れていく絃の震えは、聞く人の心の奥まで動かすかのように。
伯牙は、ただ弾いていた。周りのことなど目もくれずに、音に包まれていた。 前の曲が終わり、芸妓と合わせて歌い上げる楽しさも冷めやらないうちのこと。 その後の聴衆の無関心さをいまさら気にせずに、自分が辿りついた世界を 幾分かでも伝えられるようにと想い念じて絃を掻き鳴らしていたのだった。
はじめは、高い音から始めて平らかな旋律を繰り返す。繰り返して、繰り返して、 突如、音階を段抜かしに登り上げる。心は古の峰にそびえる珍しき崖を駆け巡り、 やがて奥深くひっそりとした場所に出たと思えば、この身近くに思える雲の切れ間から 雁が飛んでいく様が見える。気が付けば美しき壁を持つ島の上から遥かを望んだ。
ぼぉーん・・・左手の低い一打が重く響いた。心が次の風景に移った。 流暢に連なりながらも一音一音がゆったりと長くとられている。 目に思い描くのは茫洋と広がる大河。曲がりくねる流れ、岩にぶつかり、 ときに速く、ときに遅く、やがて幅が果てしなく大きくなりながら、下っていく。 最後に鳴らされた、余韻が薫り残って漂う。うつむいたまま伯牙は一息入れた。 その耳に賑やかさが戻ってきた。曲の途中も止んでいないはずの賑やかさだった。 顔を上げれば、隣どうし歓談する客、娘の酌に鼻の下が伸びきった顔、よくある光景。 まばらで気の無い拍手もどこかから聞こえた。ひとまずの礼儀は果たしたつもりなのか。
深いため息をついて、すっと鼻で息を吸いながら意識を戻すと 脇に、今日この席に自分を呼んだ、大臣の家来と名乗っていた男がやってきていた。 「すばらしいですな、さすがは伯牙先生。今日あなたを呼んだ私も鼻が高いものです」 「いえ、先生など言わないでください。それに、さすがなんて――」 「いやいや、琴はいいですな。古より王の音楽には必要な楽器の一つとされた理由が 今夜はつくづくと分かりましたよ。清らかにして明るく、聞けば心休まる」 家来は視線を宙に漂わせて滔滔と語る。語りたいものは眼の前に無いのではないか。
「尭舜の聖人が理想の政治を行えたのは、伯牙先生のような方がおられたからこそ。 天下の宝ですな。大臣閣下もお喜びです。さあさあ、ぜひ閣下にご挨拶ください」 家来の顔が紅潮しているのは、酒か感動か、それとも己の名誉や出世への期待からか。 しかし伯牙の足は重い。腕もまた。鈍くしか動かない、今の表情ほどしか変わらない。 力なく吊り上げられたまぶた。わずかに両頬に唇が引き寄せられた透き通る微笑み。 微笑んで哀しく、哀しくて寂しく、寂しくて微笑んだ、穏やかな顔つきが ゆっくりと、上座の大臣の方に向いて、表情から微笑みが消えた以外は変わらない。
家来に案内されて、伯牙は単調に大臣へと向かい、礼儀だけを持って挨拶をした。 「閣下にはごきげんうるわしゅう――」 「よい、よい」 大臣の仕込まれた濁った笑い。目元が緩み、ひげの下で口が動いて、言葉を遮った。 「お主、伯牙先生と呼ばれておるそうだの。琴を一人で弾く御仁は、わしは初めてだ。 初めて、女がいて初めて琴がある、そう思っておったのだが、そうではないのだな?」 ええ。としか伯牙はことばを返さない。家来に向けた微笑みを再び浮かび上がらせて。 「うまいよのぉ。酒も料理もだが、今夜の琴は見事だ。到底真似できるものではない。」 「そうでもございません」 伯牙は、まぶたを上げて、眼の奥深くに潜む光りを外にわずかにのぞかせた。
「僭越ながら、私もすぐに今のように弾けるようになったわけではありません。 三年ほどは、誰も聴く耳持たない、下手の下手でございました」 すぐ横に控えてやりとりを見届けていた家来が、好機とみえてか嬉しそうに口を挟んだ。 「まさか、伯牙先生ほどの方が。ご謙遜を。琴は徳も高めるというのは本当ですなぁ」 「謙遜ではございません」 伯牙の、真円を描く青い瞳が、家来のことばのうわべをとらえた。 「本当に三年はまったく下手だったのです。曲を作ることはおろか、弾くことさえも」
「お主ほどのものが、そんなときもあったとは」 大臣は反対側に控えた女に酌をされて、酒を一回あおり、息を吐き出した。 「わしも、小さい頃は琴を習ったこともあったが、」 「大臣閣下もそんなことがございましたか」 大臣が話し始めて、家来がすぐに合いの手を入れた。伯牙は黙ったままだった。 「わしも習ったのだよ。しかしまるで上達はせんだった。すぐに放り投げたわい」 「大臣閣下には、この楚を、やがては天下を治める宿命がおありだったのです」 高く笑う大臣に、全て知識を追従に活用する家来を、伯牙は変わらぬ顔で見ていた。 「そのような下手が、どのようにして今のお主のような琴の名手になったのだ?」 「琴を習いはじめて三年目。蓬莱の島に行ったのです。そこで――」 「蓬莱! あの伝説の、東海に浮かぶ神仙が住む蓬莱山か! なるほど、それなら」 一人納得した家来を、伯牙は下にうつむいてもはや見ていなかった。 「そして今の手さばきの妙技を得たわけだな。いやはや、ならばお主は楚の国どころか 天下にその名を轟かし、歴史にその名を残す弾き手になるやもしれん」 それを聞く伯牙の口は両頬に、静かにわずかに、だが真横に引き寄せられていた。 だが、次の瞬間には口の両端を耳のほうへ持ち上げて、再び微笑みを作り出した。 「そんなことはございません。私はただ、琴を弾くだけの男でございます」 一礼して、伯牙はその場を退いた。そしてなんのためらいもなく、支度をして、 この宴席を後にした。大臣と家来は、ただそのまま女から酒を注がれて語り合っていた。
街の一角、遠く日中の喧騒がわずかに届く小路に面した質素な造りの自分の家で、 伯牙はいつものとおりに琴を弾いていた。一人、琴に向かい、一人、弾く。 聴く人がいてもいなくても、伯牙は毎日弾いていた。訪れる人が少ないわけではない。 ただ今日は、誰もいなかった。誰もいなくても、伯牙は琴を弾くのであった。
外の明るさが窓から入り込んで、暗い部屋の一部を照らしては光をにじませる。 伯牙はおもむろに、指を絃にかけて引いた。楽器が震えるのが身体にも伝わってくる。 音が耳に届いて、伯牙の心に一つの風景が浮かんだ。眼の前に高くそびえる山の姿。 両手が動き出す。もはやいちいち考えなくとも手は動くほどに慣れた、曲の主題。 だが、山は思い描くごとに異なる。今日の山は高く険しい。伯牙は登りはじめた。
次に何を弾くべきか。頭の片隅で閃いてはさらに次に流れていく。音の連なり。 いかに今を弾くべきか。自分で弾きながら自分で聴いて合わせゆく。音の強弱。 いつも弾いている曲なのに、毎回違う曲を演奏している気分になる。なぜなのか。 山を登り、頂きを目指し、歩き、這い、開けゆく境地には、 遥か先まで草原が広がり、 空には遠くに雁が列をなして飛んでいく。 それを見る一人、 いつも自分一人で変わらず――
「おおっ、いやこれは、すごい!」
ふいに窓の外で男の声が轟いた。 大きくはっきりとした響きに驚いて、すぐさま伯牙は窓のほうを見た。 しかし、そこにすでに人は無かった。不審に思った伯牙は琴を弾く手を止めた。 すると、今度は戸口の近くで音がした。立ち上がって、戸の向うの様子を見にいく。 外を覗くと、いきなり横から顔がひょっこり現れた。茶色の瞳が期待に満ちている。 無邪気な笑みが開くと、さっきの声でまくしたてはじめた。 「すばらしいよ、聞いていると、泰山が見えてくるんだ。屹然とけわしい、高い山が!」
突然の珍客に面食らいながらも、伯牙はその男の言葉に気が引かれてしかたがなかった。 「泰山? 泰山とは、あの霊峰の泰山か――」 「他になにがあるっていうんだよ!?」 男は即答した。にこにこしていた。やや角ばった輪郭に、熊鬚が並ぶ。旅人風の身なり。 「本当に山が見えたのか――」 「ああ、見えた。見えたよ、泰山が。すばらしいよ、こんな琴は初めてだ」 そう言われたのも初めてだ。伯牙は内心で動揺していた。 山を想ってこの曲は弾いてはいるが、それを聴いて山が見えたと言った人はいなかった。 この旅人は、自分の境地が見えているのか。自分の心が伝わっているのか。
男は伯牙を、そのくりくりした目でじっと見渡して、嘆息しながら嬉しそうに言った。 「こんな名手になるなんて、上手くなったんだなぁ。伯牙先生と呼ばれてるんだっけ?」 「えっ、ああ、まあ、周りはそう呼んでいるみたいですが、先生はちょっと・・・」 「なんだ、もしかしておれのこと、忘れてるのか? 最後に会ったのは随分前だからな」 「随分前?」 伯牙は記憶を掘り起こそうとした。しかし、突然のことで頭が混乱してうまく働かない。
「しかし、あなたはどうして私のところへ?」 「なに言ってんだ、その琴の調べさ。久しぶりに街に帰ったら、いい音がしてたから! この音色の主は誰のものかって、尋ねてまわったんだよ。音に誘われてきたってわけ」 「はあ」 この街の者で、琴の音に惹かれて。伯牙はようやく何かが記憶に引っかかった。
「・・・もしかして」 「そうだよ、伯牙先生。先生はいやなんだっけ?」 男はちょっと顔をしかめて何かを思い出そうとしていた。愁眉が開いた。 「ならこんな呼びかたも、あったっけかな」 伯牙のほうを改めて見向いて、少しにやりといたずらっぽく笑った。 「阿瑞! これでも分からないか、伯牙、お前ともあろう者が、冷たいじゃないか!」 阿瑞。自分の名。その名前を知っているのは、昔の友人や仲間・・・あ。 「その言い方は子期、そうだ、鍾子期じゃないか! 子期、お前、元気だったのか?」
伯牙と子期は、しばらくお互いを見合った。 そして、黙ったまま、がっちりと握手しあった。 伯牙は子期を中に招き入れた。とはいえ、家の中に大したものがあるわけではなかった。 「せっかくの客人を招こうにも、家にあるのは酒と肴と、この琴くらいしかないんだ」 「なにを言ってるんだ。その琴があれば充分じゃないか」 子期はにかりと大きく笑いながら、伯牙の肩を手のひらで叩きながら言った。 「なあ、もっと聞かせてくれよ。伯牙、その素晴らしい琴の音色をさ」 子期の迫力に気圧されながら、伯牙は小さくああと頷いて、琴を二人の間に置いた。
準備が終わると、興奮と動揺とで泳いでいた伯牙の青い瞳は、一回大きく見開かれて、 大きく一息吐き出されると同時にまぶたが静かに閉じられた。伯牙は低音を一つ打った。 ぼぉーん・・・。伯牙のまぶたの裏に、ゆったりと流れていく水の流れが映される。 全てを運び、岸にぶつかり、渦をまき、しぶきを上げて、曲がり、進み、下っていく。 だが伯牙にはもう一つの思いが心に生まれていた。曲想とはべつの、今ここへの思念。
音楽は天上へと退いていく。背中の向うで響きが波を打っている。 この手で五絃を爪弾いているのに、外から別の人が鳴らしている感覚に襲われる。 もう一人の自分が別の場所で考えている。ずっと昔から抱いてきた、叶わなかったもの。 自分が琴を弾けるようになって、練習して、その先にあったものを一人見つけて、 届けようとした思いはことごとく伝わらず、今まで空しく琴線だけが震えてきた。 しかし、今日の客人が、昔からの友人が、その求めていた人物なのか。 泰山が見えてくる? 屹然と高い山、自分の描いた曲想そのままの光景を? まさか。信じられないまま、指を繰り出しつつも伯牙はそっと顔を上げた。
子期は、全身の力を抜いた様子で、目をつぶって曲を聴いていた。 見えるのか? 伯牙はすぐには信じることができなかった。 分かるのか? 子期は自分が到達した境地を本当に理解してくれているのだろうか。 流れは急になり、伯牙は全力を持って弾き掻き鳴らした。流れはやがて海へと出た。
曲は終わった。だが、伯牙の心の中の想念はそのまま流れに伴って移動しつづける。 東へ。東の海の向うへ。遠く、遠く島に漂い着くまで。流れに乗って。 思いがめぐる。はじまりの土地。他の誰もたどり着くことのない、知ることのない音。 砂浜で、次の人がやってくるのをずっと待ちながら、来ない。一陣の風が吹きすさぶ。
伯牙は弾き終わって、手を琴の上に置いた。そして、子期の様子をうかがった。 子期はまだ目をつむったままだった。そして先に口が動き始めて、言った。 「ああ、すばらしいよ! まるで長江や黄河のように広々とした気持ちになった」 そして目を開いて伯牙に言った。「本当にいい琴の弾き手になりやがったな」
伯牙には返す言葉が無かった。自分はどうでもいい、ただ子期の言葉に呆然とした。 「泰山には登ったことがないんだ」伯牙は言った。 「でも、長江ならよく知っている。・・・本当に長江のようだったのかい?」 子期は、その質問を不思議そうに聞いて答えた。 「ああ、そうだよ。長江のような、黄河のような、広い広い流れだったんだ」 広い流れ。それはまさしく伯牙が曲に表現しようとしていた内容そのものだった。
「なんだ、おれ、なにか変なことでも言ったかな。思った通りを口にしたんだけど」 子期は目をぱちくり何回かまばたきをして、真正面から伯牙を見据えていた。 「いや、べつに変ではないけれど」 変ではない。そう思って弾いてきたのだ。幾度となく、繰り返し、いろんな場所で。 「高い山や、流れる水が子期には見えたんだな、と思ってさ」 ただ、そう言ってくれる人が珍しいのだ。今までに一人でさえいなかった。
「そうだよ、見えたんだ。なんだ、信じてないのか。おれの目は見えてるんだぞ」 そう言って、子期は両手の人差し指と中指とで両まぶたを広げてみせる。 伯牙は笑った。声を押し殺すが喉が鳴る。口元を手で押さえると、優しく微笑んだ。 子期の仕草がおかしくて、子期が素で伯牙の期待に応えたことに気付いていなくて。 嬉しかった。久々に友人に会えたことも、探していた人物に合えたことも。
やがて、酒を出して肴をつまみながら、伯牙と子期は二人で語り合っていた。 「泰山や黄河のようだ、ということは子期はその辺に行ったことがあるのかい?」 伯牙にそう訊かれて、子期はちょっと自慢げのようだった。 「ああ、行ったことがあるとも。泰山や黄河だけではないぞ。鎬京や安陽も行った」 「周の都に、殷の都か。噂で聞いたことしかない場所ばかりだ。夢のような話だな」
「それだけじゃない。大陸をずっと見てまわったんだ」 子期は腕をいっぱいに広げて、宙を見上げて、上の空で語って、そしてしぼんだ。 「旅をしっぱなしだったんだ、成連先生のところを飛び出してから、ずっと」 「成連先生・・・」 伯牙はため息をつくように、懐かしいその名前を口に出した。
「成連先生はいまはどうされているんだろう」 「あれ、伯牙も知らないのか」 「ああ」 子期も知らないのか。それもそうか。ずっと旅してきたのならそうだろう。 「なんだ、ずっと成連先生に就いて琴を習っていた伯牙だから、知ってると思ったのに」 「いや、習いつづけた三年間の、その後のことは知らないんだ」 「そうか」そうつぶやくと、子期は杯に注がれた酒をちびりと舐めた。
「伯牙、それにしてもお前は琴がうまくなったよな」 杯を片手に持って、それで正面の伯牙を指しながら子期は嬉しそうに言った。 「おれといっしょに成連先生のもとで琴を習っていたときは、そうでもなかったのに」 「あのときは、まるで琴のことが分かっていなかったから」 伯牙は、昔のことを言われて少し照れくさく恥ずかしそうに、だが明るく答えた。
「それでも充分おれよりうまかったけどな」 子期は杯をあおった。 「だから、おれは自分に見切りをつけて、旅に出ることにしたんだ」 「そんな、子期だってうまかったじゃないか」 にこっと子期は笑って、肴に箸を伸ばした。伯牙はその動作を見守っていた。 「おれだって琴は好きだし、下手とも思っていない。琴のために曲を編ずることもある」 「おぉ」 伯牙は素直に驚いた。同窓が琴の仕事をしていることが分かって、なぜかホッとした。
「だからこそ、伯牙の琴がすばらしいことが分かんのかもな」 箸を口につけてしばらくしてから、子期はうつむき加減に上目遣いで伯牙を見た。 「あのころのお前はうまかった。だが、いまはそれとは段違いのうまさだ」 子期は箸を皿に置いた。そして茶色い瞳が視線を真っ直ぐ相手に投げかける。 「お前はどうやっていまのような琴の弾き手になったんだ?」
伯牙は一回、目を逸らして思いにふけるように下を向いた。そしてまた正面を向いた。 「三年間、成連先生のところで学んだ。そして、成連先生から琴の技を学んだ」 子期は、真剣に伯牙のことばを一つも逃さぬように聞いていた。 「そして、あるとき、海の上の風景を題材にした曲を作ることになったんだ」 黙ってうなずかれたのを見て、伯牙は続けた。 「しかし、いくら作っても、それを弾いても、そこに心を込めることができなかった」 「・・・心か」 「そう、心だ。技は完全に習得したが、琴で心を相手に伝える力が全く無かった」 「んん。そうか。難しいところまで進んでいたんだなあ」 子期の言葉を聞いて、伯牙の青の瞳に寂しげな影がさした。
「成連先生は、」 伯牙はそう言いかけて、一瞬詰まった。目が数回しばたいた。そしてようやく続けた。 「・・・成連先生は、ご自分の師がいらっしゃるという蓬莱の島へ案内してくださった」 「蓬莱? あの蓬莱か?」 ほぉ、と子期は息を吐いた。 「さすがのおれも、蓬莱には行ったことがないよ。東の海へ渡ったんだな?」 伯牙はこくりと首を縦に振った。子期は伯牙の言うことを言葉通りに受け取っていた。 それ以上でもそれ以下でもない。伝説の島でも、行ったと言えば行ったのだ。 子期のその素直さが、伯牙には心地よかった。子期になら語れるかもしれないと思った。
「蓬莱の島に渡ったけれど、先生のお師匠様は見つからなかったんだ」 「?」子期は首をひねった。「そのお師匠様に琴を習ったわけじゃないのかい?」 「違うんだ。蓬莱の島に渡ったことそれ自体が、琴の上達につながったんだ」 分かってもらえにくいか。伯牙は少し落胆した。説明の仕方が悪いのだろうか。
子期には納得がいかないようだった。しかし、しばらく考えた後に、こう切り出した。 「まあ、伯牙がそう言うんだから、そうなんだろうな。 そしてどうなった? 曲は?」 子期は直前まで納得が行かなかったのが嘘だったかのように、目を爛々に輝かしていた。 伯牙はそんな子期の応対に驚いた。驚いたが気持ちがよかった。とても話しやすかった。 「曲は、蓬莱で完成したんだ。そして、琴で心を伝えるということもそこで分かった」
「伯牙は、蓬莱で今のような琴の名手への道を歩み出したってわけなんだな?」 いやはや、といわんばかりに子期は感心していた。そして伯牙に少し詰め寄った。 「それにしても、蓬莱でなにを見てきたんだよ?」 「え?」 「お師匠さんはいなかったんだろ? 代わりに伯牙先生は蓬莱で何を見つけたんだ?」 蓬莱で見つけたもの。たしかに何かを見つけた。 しかし、それが何かというと説明しにくい。まだ誰にも語ったことが無いのだ。
「まさか、伝説の神仙の類では無いだろう?」 子期が目元を笑わせて、期待を込めて伯牙の答えを待ち受けている。 伯牙は答えに困ってしまった。言葉を探し出したが、うまい言い方が見つからない。 「すまない、どう言ったらいいのかよく分からないんだ」 伯牙が本当にすまなそうに言うと、子期は呵呵大笑した。 「はっはっはっ、琴で心を伝えられる伯牙先生が、言葉で心が伝えられないとは!」 子期は伯牙のことを言うときは、本当に嬉しそうに口に出していた。 「どうやら伯牙先生ご本人が、蓬莱で神仙になっちまって戻ってきたとみえる」
その言葉に、伯牙も思わず苦笑してしまった。子期も相変わらず笑い続けている。 それにつられて伯牙も声を上げて笑い始めてしまった。二人して笑っていた。 しかし、伯牙は笑いながらも一つ、案を思いついていた。言葉がだめなら曲がある。 蓬莱の島で自分が見知ったもの体験したことを曲にして表すことができるのではないか。 子期なら。子期なら分かる。子期なら曲に乗せた心をすべて分かってくれるはず。 だから、いま語れなくても、いつか蓬莱の島のことを琴で話そう。子期になら話そう。 今まで胸にしまってきた記憶が喉もとまでよみがえって、伯牙は想いを新たにした。
翌朝、子期は酔いつぶれて動けなかった。大酒を乾したのが久々だったのだろう。 だが、彼は飲んでいたとき、今日は家で用事があると言ってはいなかったか。 この地域の有力者である鐘一族の男子だから、人知れぬ苦労もあるかもしれない。 さまざまな思いが胸に去来しながら、伯牙は二日酔いで動けない子期を肩にかついだ。
「すまない・・・」ようやく絞り出した声が肩口から聞こえる。 「かまわないよ」伯牙は、古くからの友人と接していられて、それだけでよかった。 外に出ると曇天がどこまでも続いていた。風はやや寒く、土ぼこりがかすかに舞う。 人通りはまばらで、子期を家まで送っていくのに滞ることはまったく無かった。
鐘家の戸が閉まり、帰途をたどりはじめた伯牙は、子期と別れて心が揺れたのを感じた。 胸にしまってきた昔の自分のことが思い出されて仕方がなかった。子期に会ったから? 成連先生・・・。懐かしい名前だ。伯牙は歩きながら、記憶の糸をたぐりよせた。
空は暗く、雲がうねりながら風に吹かれて流れていっている。 道歩く人は慌しそうに行き交っている。天気が変わらないうちに、と急ぐように。 その中を伯牙は一人静かに、足を進める。過去を遠くに見やりながら。
成連先生は当時の世の中にあって一番の琴の名手と呼ばれていた。 その門戸を叩いたのは、今よりずっと若かったとき。何も分かっていなかったころ。 天賦の資質があり飲み込みも早い、と先生は言ってくれてかわいがってくれた。 がっしりとした体つきで、琴を弾くときも、話すときもいつも背筋が伸ばしていた先生。 その期待に応えたくて、努力して練習した。毎日、琴を弾いて指使いを覚えていった。
三年が経った。充分に琴に熟練して、努力のかいあって各種の演奏技巧を身に付けた。 そして先生が琴を弾くのとまったく同じように曲を弾くことができるようになった。 しかし、まったく同じに弾いても、先生のようには曲の心を伝えることはできなかった。 なぜだかは分からなかった。しかし、いくら曲を弾いても人を感動させられなかった。
「あぶないよ!」荷車が眼の前を通り過ぎる。 十字路にさしかかって、延びていく道に敷かれた湿気を含んだ道の土気色が目に入る。 いつもなら粒の細かく風に飛ぶ黄土色の砂が、粘り気を帯びて黒っぽくなっている。 感触の少し違う大地を踏みしめながら、また伯牙は歩き出す。
あるとき、曲を作ることになった。習作、海の上の景色を音楽にするということだった。 何遍も作り直した。時間も少なかったわけではなかった。そして技巧的にも完璧だった。 しかし、弾くと味も素っ気もない曲になって響いた。自分の感情を入れても無駄だった。 原因がなんなのか、答えは見つからず、どうしても自分では分からなかった。悩んだ。 ついに成連先生に尋ねることにした。どういう能力が曲に心の声を宿すのですか、と。 先生は、いつも通りに正しい姿勢で、ただ少し悲しそうに、首を左右に横に振った。 伯牙、私には琴の弾き方を教えることはできるけれど。先生は歎息をついて言った。 楽曲によって心の声を表現するその方法を教える力を、私は持っていないんだよ、と。
心の支えが崩れた。自分自身が闇の穴に落ちていくのを感じた。真っ暗い底の奥へと。 失望の色が顔にも現れてしまったに違いなかった。成連先生はしばらく考えていた。 先生は、どうにかしてこの弟子を天下で一番の芸術家に育て上げたいらしかった。 そして、先生は切り出した。私も曲の中に感情を表すのは苦手なのだよ、と。
「雨が降ってきやがった」すれ違う街の人が走りながら独り言ちて去っていく。 手をかざすと、雨粒が手のひらに当たった。空からたしかに雨が降ってきている。 さっきよりも暗い。降りもだんだん強くなっていく。雨のにおいが感じ取れる。 たまたま同じ道を行きがかった人々が向かっていく街角の店の軒下に逃げ込む。 服の水滴を払いながら、雲模様を眺める。すぐに雨があがる気配は無い。
先生はその正しい姿勢のまま続けた。私は方子春というお師匠様に就いて習った。 とても琴に秀でておられ、曲に情をこめる弾くこともお出来になられる方だった。 老師ならばどう琴を弾けば聴く人の心に楽曲の意を伝えられるかお分かりのはず。 いまは東海に住んでいらっしゃると聞いた。伯牙、私と一緒に教えを乞いに行こう。
思わず唾を飲み込んだ。断る理由など無かった。返答する声が裏返ってしまった。 命がある限り、御伴をさせて頂きます。心から切に求めた、学びの機会だった。 沈みきった表情から喜びが溢れ出たのを、成連先生は見てとって、そして言った。 伯牙、お前を蓬莱の島へ連れていく、そこで老師に事情を話して、教えてもらおう。 そして、私とお前の琴の腕を、芸術の力を大いに引き上げてもらうのだ、と。
「降りやまねえなあ」隣りにいた人が愚痴をこぼす。 雨が絶えることなく地面を、屋根を、壁を叩いて叩いて騒ぎ立てる音で辺りが満ちる。 道の向うが、水煙りで霞み出す。土くれの上に舞い上がる白い気と風の流れ。 足元を見れば、水たまりができている。そこに蟻が一匹迷い込んでもがいている。
成連先生とともに船に保存食を積みこんで、東海に浮かぶ蓬莱の島へと船を出した。 島に到着するとただ一軒だけぽつりと、草ぶきの家があるので入ってみた。 もうしばらく人が住んでいなさそうな気配だった。生活の様子が感じられなかった。 先生はそれを見て嘆いた。ああ、老師はもうここには留まっていらっしゃらなかった。 そして、いつもより礼儀正しい体つきで振り返った。伯牙、ここで琴を練習するのです。 私はこれから船を出して老師を探しに行きます。十日か半月ほどで帰ってきますよ、と。 言い終わると先生はすぐさま船を出した。先生の船は漕がれて、だんだんと遠ざかった。
浜にある草ぶきの家に一人で住み始めた。見るところ全て人の存在が感じられなかった。 前を向けば、どこまでも青青とした波がこんこんと湧きかえる海洋が広がっていた。 後ろには、雲のたなびく天をも刺すような高い山の峰がそびえ立っていた。 先生が出立してからかなりの日が経ったが、成連先生はまだ帰ってくることがなかった。 焦りを覚えた。毎日琴を弾いたが、それだけで心を安んずることなどできなかった。 顔を上げ四方を眺めても、この空の下で自分は一人なのだと寂しく思い知るだけだった。
「おや、雨が弱くなり始めたぞ」 雨宿りしていた一時的な同志たちの中から、この好機を逃すまいと飛び出す者がいる。 まだ雨は降り続いていたものの、先ほどよりは確実に勢いは無くなっている。 もう少し待てば、外に出て歩いても気にならない程度になるかもしれない。
先生が帰ってこないかと、やがて海辺でたたずんでは待ち望んでいるのが日課となった。 そして、海上に起こる不思議な光景に感動せずにはいられないようになっていった。 早朝には、天が統べた一色だけの水面に忽然と一筋の紅霞が出現して、海と天を開けた。 引き続いて、一面に発した霞の光の中に、ゆるゆると深紅色の火球が空の果てから昇り、 まだ小さいと思えば、すぐに大きく現れ、海面にその全てが跳び出したと思う刹那には 空にみなぎるこんもりとたなびく雲をも紅に染め上げていくのであった。 それを見ると落ち着けなかった。琴を取って、その光景に神経を集中して弾き鳴らした。
ある午後、先生がまだ帰ってこないかとまた海辺に出た。もう何日も人に会っていない。 寂しさを通り越して、孤独であることの意味を自問していた。誰も、誰もいないのか。
突然、空が黒い雲で覆われはじめ、前方の海も後背の山も死んだように静まり返った。 まるで辺りの霊気が全てつながったようで、これでは誰も人は来れまいと心苦しかった。 しかし、そのときに見た。海上で稲光が踊り猛って、閃くたびに波頭が照らし出される。 雷が轟いては、暴雨が海面の上を這って、ざあざあと己を撒き散らしていく。 狂ったように風が巻いてはうねり起こされた大浪が、岸辺の岩石にぶつかってはじける。 雷声、雨声、風声、海濤声、それらを山中の森林がこだまさせて返す声、混然として、 威勢よく激しいこと盛大で大地が動いた。その中で人の心など震え上がるしかなかった。
「雲が通り過ぎたんじゃないか」 雨宿りしていた者たちが次々と出て行く。足元を見ると、水たまりの蟻はすでにいない。 人々に誘われるままに軒下を後にして、道の真ん中に来ると、名残の飛沫が顔にかかる。 雲の厚みも薄らいで、光る風に包まれて、外も明るくなってきたような気がする。
蓬莱の海辺でこの息詰まるような場面を見てみると、心中に光がさしこんできた。 急いで草ぶきの小屋へと戻ると袋を紐解き琴を取り出して、絃を掻き鳴らし出した。 いま体験したままの激烈な旋律を、心湧くままに大自然の交響詩としてまとめあげた。 そして、風がなぎ波が静かになって、海の上の景色を音楽にする準備が整ったのだった。
それからさらに久しい間を待ち続けたが、成連先生も方子春老師もやっては来なかった。 一人でいることに麻痺しはじめて、孤独よりも恐怖を感じるようになっていった。 ただ耳にするのは、大波が岸に打ち寄せては崩れ砕け落ちていく海濤の音。 それと、鬱蒼と暗い山林の中から群れ鳥や蜩の鳴き声が合わさって聞こえてくるだけ。 師も来ない。友もいない。誰もいない。自分一人、大自然の前に取り残された。 琴のことも自分の命も、これからどうなるか分からず、不安で、心細くて、悩んでいた。 ただ考えても、悪いほうへと展開しては、気持ちは暗い階段を下へ下へと降りていった。 下へ、さらに暗いほうへ、闇へ、闇の底へ、心は沈んでいって、底に降りて沈みきって。 一番下の底で、ふと、顔を上げたら、 青空があった。
ぬかるみの街の道で、歩きながら見上げてみると、 雲の切れ間から青空がのぞいていた。 そう、この青空だった。澄み切った青。ほかに何もいらない、 ただの青い空。
真っ青な空に、小さなはぐれ雲が浮かんでいる。 あちこちで形を変えて、走っていく。 小さく見えても、強大な風を受けているのだろうか。伯牙は空に思う。
蓬莱の島に、一人で過ごして、長い間を苦しい思いをしてきた。そして考え続けてきた。 そして、この青空を見たときに、ついに悟ったのだった。ああ! そうだったのか。 もともと成連先生は自分の心の中の心配事をきれいに濯ごうとされておられたのだ。 自分の性情を変えることさえできればそれでよかった、道理はそこにあったのだ。 自分が変えることなく、どこに方子春なる大先生などいらっしゃるというのだ!
それからというもの、心の下に潜っては去来する気持ちに注意を払い、 耳に入る音をそのまま聞くようにし、目に入る景色をそのまま見るようにし、 それらを自分の心情の中に融け入らせ、韻律と心身との合一を果たそうとした。 弾きたい。弾きたいという欲望が体の奥底から湧いてくる。抑えがたい欲望だった。
ある朝、紅日が海に躍った美しき時刻に、この島で作った曲を酔い心地で弾いていた。 一曲弾き終わると、背後で朗らかな笑い声が聞こえてきた。振りかえって眺め回した。 ああ! 先生が帰っていらっしゃったのだ。依然として先生一人、老師の影など無い。 成連先生には、すでに心中を見透かされていた。先生はおっしゃった。 伯牙。この広大な海原が、お前に欠けていた能力を伝授してくれたのだ。 どうして方子春老師を呼んで蛇の画に足を描き足すような真似ができるだろうかね? 先生は、そうおっしゃってから、笑わずにはいられなかった。ずっと笑っていた。
気がつくともう家の前までたどりついていて、戸が目の前にある。 もう思い出すことなど無いと思っていたのに。 一度、伯牙は振りかえって空を見上げた。青い瞳に、青い空の影が映った。 そうして、戸をくぐって家の中へと入っていった。いまや外は晴れていた。
子期はそれからというものの、よく伯牙のところへと訪れるようになった。 伯牙はいよいよ琴の名声が高まり、各地の名士に呼ばれることが多くなり、 子期は子期で鐘家の用事をこなさなくてはならず、お互いに忙しくはあった。 だが、目を合わせるだけでも笑顔になれ、顔を向ければ安心できた仲だった。
伯牙は、ときどき子期に語ることがあった。 「いつもあちこちの権力者に呼ばれて、琴を演奏しに赴いているけれども、 彼らはこの琴を聞いてどうするというのだろう。弾けば喜んではくれるのだが、 それは他の別のものでもよかったのではないか、そんな気がしてならないんだ」 すると子期は、いつもこう答えるのだ。 「琴を弾いて喜ばれる。曲に心を乗せて伝えている。それだけでも大したことだよ。 たしかに曲の全てを分かってくれるようなジイさんは世の中にそれほどいないが、 どこかに一人だけでも、伯牙の調べを理解してくれる人がいれば、いいんじゃないか」
一人だけでも。たしかに。だがその一人が誰なのか。子期は分かっていないようだった。
あるとき、しばらく子期が日々に忙殺されてやってこないことがあった。 伯牙のほうは、その琴の噂を聞きつけて、教えを乞う若者も現れるようになっていた。 とまどいながら、伯牙は弟子をとって基礎を習わせていた。かつて自分がしたように。 しかし、慣れない所業に伯牙はやがて徐々に疲れを感じていた。
そんなときに、ふと子期が顔を出した。開口一番、彼は入った「泰山に行こう」 いきなりの誘いに、伯牙は反応しきれない。久々に会って、これか。子期らしい。 「なんで泰山なんだい?」 「だって、伯牙は泰山に行ったことがないんだろ? そう言ってたじゃないか」 そう、行ったことがない。神聖なる霊峰。一度は行ってみたいとは思っていたけれど。 「行ったことはないけれど、今から行くのか? 突然すぎやしないか」 「思い立ったが吉日だ。さあ、泰山に天下一の琴を奉納しにいくんだよ。準備だ準備」 笑いながら、子期は伯牙をせきたてた。琴を持たせて、旅の準備をさせて。 伯牙も旅に出ることはまんざらでなく、この圧迫された日常から抜けてみたかったから そのまま二人は出発することにしたのだった。北へ。長い道のりを行くことになった。
いくつもの国境を越えて、自然の景物を眺めながら、途中途中の街で琴を演奏しながら 伯牙と子期は泰山を目指した。行く先々で歓迎された。伯牙は遠くまで知られていた。 手荒い歓迎もあった。山を越える際、賊に追いかけられることもあったのだ。 それでも伯牙と子期は協力しあって、ようやく泰山の近くまでやってくることができた。
ふもとの村に着いて、晩をそこの宿で泊ることに決めてから、二人は散策にでかけた。 しかし、帰ってくる途中に夕立ちに遭ってしまった。そこで、急いで走り出して、 目についた岩かげに逃げ込んで雨宿りをすることにした。着る服が濡れてしまった。 伯牙は、なんとも情けないような、どうしようもないうら悲しい気持ちになった。
そこで、琴を取り出して引き寄せて、かき鳴らすことで想いを晴らそうとした。 表を撫でるように、ぽつぽつ、音を立てて、打ち続く絃の震えは強さを増していく。 激しくはなくとも降りしきる長雨。想いながら。伯牙は曲を奏でていく。 次いで、調子を一変させて、伯牙は崩れ落ちる山の様子を琴に表そうとした。 視界を越える巨大な塊が地神の伸びていく腕の力に丸ごと引かれて、落下していった。
「単なるにわか雨のはずなのにな」子期は伯牙の曲を聴き終わって、言った。 「伯牙の琴を聞いていると、この雨がずっと降り続いていく長雨のような気がするんだ」 伯牙は、固唾をのんで子期の次の言葉を待った。子期は気にも留めずに続けた。 「すると、曲が変わったら今度は、その雨のせいで山が崩れ出していくんだ!」 子期は視界の向うにたたずむ泰山を仰いだ。その後姿を伯牙は見守っていた。
「あ。どうやら、雨も上がりそうだぞ。そろそろ行く準備をするか、伯牙」 子期がそう言って、後ろの伯牙のほうへと振り向くと、伯牙は呆然としていた。 「伯牙?」子期が名前を呼んで、初めて伯牙は我にかえった。 そして琴を前に押しやって、子期に向き直して、嘆息して言った。
「すごいよ、琴を聴く子期の耳のよさは、本当にすばらしいんだ。 楽曲に心を込めて、琴に託して描こうとした情景を、君はぴたりと言い当てるんだ。 この琴の音が、君の耳をのがれられる場所なんて、もはやもうどこにも存在しない」
「おおげさな」子期は笑った。「伯牙、お前の琴が見事なんだよ。ただそれだけだ」 雨が弱まったので、二人は岩かげから出て、村まで戻ることにした。
宿に戻れたが、それから何日か、雨が降っては止むのを繰り返した。 ある日、きれいに晴れわたる空がうかがえたので、二人は泰山へ向かうことにしたが、 その道すがらに村人から、泰山で山崩れがあって登ることができなくなったと聞いて 二人は思わず顔を見合わせてしまった。子期が最初に口を開いた。 「伯牙、どうする?」 「もういいんじゃないか、帰ろう」 「なんでだ、あんなに泰山に登るのを、琴の奉納を楽しみにしていたじゃないか」 「いいんだよ、もう充分だ。得るものはあった」 伯牙は、目を細めて、柔和な、優しい笑顔で語った。 「さあ、帰るのだって一旅あるんだ。路銀も残り少ないんだろう?」 子期は不思議そうな顔をしながら、うなずいた。 「なら帰ろう。また来ればいいさ」 伯牙は、青い瞳で泰山の姿を目に焼き付けて、それで元来た道を帰りはじめた。 その様子を茶の瞳で眺めていた子期も、ふっと笑って、その後を追っていった。
住んでいた街の家に戻るころには、伯牙の名声はいよいよ天下にとどろいていた。 琴の名人として世に知られ、聴きに来る人、入門しに訪れる者、さまざまだった。 弟子を一人家に住まわせてまで、なんとか用事をこなすようにするほどだった。 そうでもしないと、遠くの街の名士に演奏を頼まれて家を留守にしたときに、 どうにもこうにも物事が滞ってしまってしかたがなくなってしまうのだ。
そんな生活が何日も、何週間も、何月も流れ、いつしか数年間も経って、 子期はその間も伯牙の家を訪れていたけれど、伯牙はとても忙しそうにしていた。 もちろん、伯牙は子期が訪れては相好を崩して、中へと迎え入れてはくれる。 けれども、中はもはや最初に訪れたときのような素っ気無さはなかった。 日々の忙しさの跡があちこちに見てとれて、子期は親友の身を案じるのだった。
そうしているうちに、伯牙は楚の都で、王の御前で琴を披露することになった。 ほんの少し前に、都から使いが来て、急に演奏することになったのだ。 どうせお偉方の思い付きだろうと思いながら、断るわけもなく、準備をはじめた。 このことをいつものように子期に話したかったが、最近姿を見せることがなかった。 伯牙は迎えの馬車に乗り、数日かけて都へ着いて、いつも通りに曲を巧みに奏でた。 褒められるも心虚しく、披露を終えると早々と帰りの馬車に乗った。そして家に着いた。
「お帰りなさい、伯牙先生」家に入ると弟子が迎えに出てくれた。 「留守中、ご苦労さま」伯牙は丁寧な言葉で、弟子をねぎらった。 演奏の様子を聞かれ、他事と変わらないことを伝えた。何も変わっていない。 「子期は、訪れてはこなかったか」 「いいえ。子期先生はずっと姿を見せられてません」 「そうか」 楚王やその家臣たちが琴のことが分からなくとも、子期ならば全て理解してくれる。 子期に会いたかった。しかし、最近は顔を見せない。心配を、忙殺で押し殺しきた。 ふと伯牙は胸騒ぎを覚えた。そんなことは考えたくなかった。 そのとき。
「伯牙さま!」 一人の少年が伯牙の家に転がり込んできた。息を切らして、倒れこんだ。 「水を」 弟子に指示を出して、その少年をよく見た。鐘家に仕えている者だった。 伯牙は胃を切られるような痛みに襲われたが、気を取り直して、水を少年に与えた。 少年は水を少し飲み、むせながら、一息入れて、ようやく落ち着きを取り戻し、 伯牙を見て、つばを一回飲み込んで、ついに口を開いて、言った。
「たった今、子期さまがお亡くなりになりました」
伯牙の、少年を支える腕に力がこもる。 「今、なんと申した?」 「さきほど、子期さまの息が絶えられたのでございます――」 「バカな!」 伯牙は立ち上がって叫んだ。 バカなバカな、なにをそんなバカなことを。 ありえるわけがない。子期が亡くなっただと? 死んだだと? 何を言っているんだ!
「冗談にもほどがある。なにをバカな、子期が死んだなどと」 「お信じになられにくいでしょうが、本当なのでございます。 子期さまは流行り病で」 「流行り病?」 そんな話は初耳だった。弟子のほうを振り返るが、弟子は首を横に振った。 「ふざけるな! 子期が病にかかったなどとは、聞いたことが無い」
少年は、伯牙のふだん見せたことが無い形相に、気圧されてひるみながら、言った。 「それは、子期さまが鐘家の者みな全てに口止めをされていたからでございます」 「口止めを? なぜだ」 「伯牙さまにご心配をかけぬように、ご迷惑をかけぬようにと、常々仰ってました」 ああ、伯牙は頭を抱えこんだ。子期が考えそうなことだ。本当にバカなやつだ。 そうして会えなくなってしまったら、見舞いもなにもできなくなってしまうではないか。
「琴のことなど、たとえ相手が天下の覇者だろうとも、いつでも放り出してもいいのに」 力なくつぶやくと、弟子が近づいてきて伯牙にも水を渡した。 「子期先生もそう思われたから、おそらく伯牙先生に知られないようにされたのでは」 伯牙が目を見開いて弟子のほうを向くと、弟子は口元をきつく結んで小さくうなずいた。 「バ、カな・・・」絞り出すのが精一杯の声で、伯牙は漏らしつぶやいた。
しばらくの間、静寂がその場をつつんだ。誰もしゃべらず、誰も動かず。時が経つのみ。 「子期は、そうして今はどこにいるのだ?」 ようやく伯牙が、低く抑えた、どこかかすれた声で、虚空に向かって問うて、続けた。 「これから弔いにいく」 「なりません!」少年が強く、懇願するように伯牙にすがった。 「なぜだ! 見舞いする機会も与えられず、弔いも許されないとは、子期はなにを――」
「伯牙さまには、特に自分の死体は会わせぬよう、子期さまの強いご遺言でございます」 子期の遺言。その言葉に、伯牙は凍りついた。なぜ、会おうとしてくれない。 「なぜなんだ!」伯牙は少年の服をつかんで立ち上がらせて、問い詰める。 どうして、病気になっても見舞いをさせてくれない。 「どうしてなんだ!」伯牙は、少年に詰め寄って、壁に追い詰めて、問いただした。 死んでまで、会わせてもらえないなど、子期は、子期は、何を思っていたのか、何を!
「子期さまは」伯牙の勢いが一区切りついたところを見計らって、少年は言った。 「伯牙さまにお会いになりたがっていらっしゃいました。 ですが、病だったのです。流行り病を伯牙さまにうつさせてはならない、 それだけはあってはならないと、ご自分や周りを諌めていらっしゃいました。 自分に会えば、累が及んでしまわれると」 「そんな、そんなことが。」 伯牙は少年をつかむ手を緩めて、そのまま肩を落とした。
少年は、一通り伝え終わったと見えて、一礼をして、 そのままこの場を去っていった。
「先生」弟子が心配そうに伯牙に声をかける。 先生? ああ、自分のことだ。そう呼ばれるようになって久しい。そう呼ばれるには理由がある。 理由? 伯牙は背筋を伸ばして、弟子に向き直った。そして言った。
「これから、子期を弔うために、曲を作る」 「えっ」 「海上の風景を描いた楽曲だ。そばにいて、書き留めてくれるか」 ずっと、子期に伝えようとして、結局伝えられなかった蓬莱の島での出来事。 音楽で表そうとして、練習をして構想を練ってきたが、間に合わなかった。 そう、間に合わなかった。伝えたくても、表して聴かせようとしても間に合わない。 しかし、いまなら、いまなら出来上がる。そんな気がしてならなかった。
琴を前にして、伯牙は目を閉じた。子期、今の自分にはこんなことしかしてやれない。 指をそっと琴線に沿わせて触れていく。張りつめた絃は、固いがしなやかに力を返す。 伯牙は弾きはじめた。静かに、穏やかに、風の凪いだ波の立たない水面が広がっていく。 遠く、遠くまで、水平線にまで視界がとどいていく。夜明けの海。砂浜に立って望む。
他に誰も住まない蓬莱の島で、師の帰りを一人待ち焦がれて、気がついた暁の空の風景。 深い藍色に赤くにじむ橙の炎が光を滲ませて、世界に自らの強大な存在を知らしめる。 海が開け、空が明ける。水面の上、自分の立ち位置まで伸びていく朱色の道。 光明は八方に広がり、天に一日の始まりを告げる。また、朝がやってきたのだ。
東の海上に浮かぶ、その地には山が立つ。海を前にして、山を背にして、伯牙は一人。 そよぐ海からの爽やかな気の流れを髪と頬に受けて、潮騒と琴を合わせて弾き続ける。 この心は、いかにして伝えられるのか。悩んできた日々。答えをずっと探してきたのだ。 昼となり、日は頭上に燦然と輝こうとも、気持ちは暗く、先が見えない、闇の中にいた。
空に黒雲がたちこめる。一陣の風が伯牙の脇を狂奔する。髪も服も吹き上げられる。 黄金の龍が雲づたいに向こうへと飛んでいく。行く先は、遠く遥かの荒れる海の上。 雲で暗い影が国ひとつほどの大きさに映し出されて、稲光が妻を求めて身をくねらせる。 光が地に触れては閃き、轟く。次第に波の高さが増していく。岸を襲っては折れ崩れる。 海が叫びを上げては、後背で幽かに冥く峙つ山峰が、内にこもった響きでこだまする。 林にひそむ鳥鳥が、哀しみを鳴き喚く。いっせいに蝉を初めとした虫たちも声を上げた。
伯牙は、砂浜にあって、嵐の中、一人ただ一心不乱に絃を掻き鳴らしていた。 足りなかったもの。得られなかったもの。求めてきたもの。探しつづけてきたもの。 その全てを、全てがこの蓬莱の島で見つかり、失って、また全てが始まりを告げた。 孤独な演奏は終えられないのか。いつまでも。どこに行っても。蓬莱にたどりついても。
やがて音もなく、生気が雲の合間から降り出だす。柔らかな光を地上に投げかけていく。 空が割れていく。海に穏やかさが戻って、風が凪いだ。伯牙は見上げて仰いだ。 青い空。 そこに、子期の顔が見えた。 子期が笑って、こちらを見ていた。いつもの変わらぬ笑顔。 変わらなかった、今までずっとそのままだった、なのに、もう、これからは見れない。 もう家を訪れてくれない。遊びに来ることはない。酒を飲み交わすこともできない。
無二の友は語れば全てを聞いてくれた。 琴を弾けば、その曲を全て理解してくれた。 青い空を見上げ続け、そこにいつまでも子期が留まっているような気がして、 伯牙は目をそらすことができなかった。 子期に出会ったことを思い返していくうちに 砂浜で琴を弾きつづける伯牙の身を、 光る風がとり巻いて、温かい優しさにくるまれた。
子期。お前はこの曲を理解してくれただろうか。この孤独な胸のうちを察しただろうか。 どうして、どうしてもっと早くにこの曲を聴かせてやることができなかったのだろう。 なんで、たとえ拙い言葉だったとしても、心中にわだかまる全てをお前に明かせないで。 まさか、まさかこんな日が来るとは、子期、お前がいなくなるなる日が来るのだとは。
青空を見上げていると、空に浮かんで泳いでいく雲の輪郭がだんだんとぼやけていった。 子期の顔もまともに見ることができなくなっていった。顔が遠くへ行ってしまうようで。 湿り気を帯びた頬は、そよぐ風の冷たさを受けて、伯牙はうつむいて琴を掻き鳴らした。 曲が終わりゆく。 すでにもう手がしびれている。 でも分からない。 感覚が無いのだ。
最後の絃を鳴らして、伯牙は腕を床に落として脱力した。これで終わったのだ。 「す、すごいです先生、名曲ですよ!」 脇で曲を書き留めていた弟子が顔を上げて、興奮しながら話しはじめた。 「これなら、子期先生もさぞや――」 「お前は、この曲に何が見えた?」 「えっ」 伯牙は虚ろな表情で弟子に顔を向けて、たずねた。弟子は咄嗟のことで返事ができない。 「いや、ただ、これはもうすばらしい曲だとしか」 「そうか・・・」 そうつぶやいて、伯牙は琴のほうに体を向きなおした。
そして眉間に皺を寄せて、やおら腕を持ち上げて、 そのまま腕を琴の上に降り下ろした。 刹那、変な音が、壊された悲鳴が、弟子の耳を襲った。 思わず弟子は、顔をそむけた。おそるおそる顔を戻すと、 そこには絃が絶たれ、胴が打ち壊された琴が、無残な姿で横たわっていた。
「先生、何を・・・っ」 状況がつかめずに、口に出しかけた疑問の声を、弟子は途中で止めてしまった。 伯牙は、もう弾けぬ琴を前にして、血まみれになった腕をぶらさげながら、 その頬からとめどなく、だがゆるやかに、ただただ涙を流しつづけていた。
「先生・・・?」 「もう――」 伯牙はかすれた、震える声で、琴に向かって話しかけていた。 「もう、この世の中には、この琴を弾いて聞かせられる、音を知る者はいないのだ」 「先生・・・」 弟子はそれ以上なにも言えず、黙って伯牙を見ていることしかできなかった。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。伯牙はその間ずっと何か思っていたが 顔になんの表情も浮かべなくなると、そっと立ち上がって、上着を手にとって、 腕に怪我をしたまま、外へと向かいだした。 あわてて、弟子も立ち上がって、伯牙に聞いてたずねた。 「先生、そんなお体で、これからどちらへ行かれるのです?」 伯牙は、振り返らず、顔を下に向けたまま、玄関口の壁際を見ながら、力なく答えた。 「さあ、どこかへ 次の場所へ」 それから外に出て空をそっと眺め、思い立ったと見えると 伯牙は街の往来の中へと消えていった。
|
|