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作品名:ノラ ジョーンズを聴きながら 作者:わぎ・P・キートン

第1回   1
チュンチュンチュンッ チュンチュンチュンッ

小鳥が鳴いている。

いつもと変わらない朝。

眩しい朝日にせかされるように、僕は少しずつ目を開いた。

「えっ?」

この瞬間の心境を例えるのにとっておきの言葉がある。

「ここは何処? 私は誰?」

僕の目の前には見た事の無い風景が広がっていた。

普段使ってるのよりも広くて大きなベッドの上から見る風景
は、毎朝見る僕の部屋のそれとはあきらかに違っていた。

「確か昨日は職場の連中と飲みに行ってそれから・・・」

どうしてもその後が思い出せない。

かなり飲んだらしく今でも頭がズキズキする。

僕はまだ、夢の中にいるんだろうか・・・

辺りを見渡してみた。

キレイに本が整理されている古びた木製机の上には、キレイな花が飾られている。

そして少し開いている窓から入る風が、真っ白なカーテンをやさしくなびかせていた。

これは夢ではない。

僕は間違いなく、この見た事のない部屋の中にいる。

壁にかけてある時計の針は8時を指していた。

と同時に急に頭が目を覚ます。

「まずい。 会社に遅刻してしまう」

僕は8時には家を出ないと、会社に間に合わないんだ。

ここが何処であろうと、僕は一刻も早くこの部屋から出なければいけない。

僕のスーツやカバンは何処にも無く、薄手のウインドブレーカーとチノパンだけが椅子に掛けてあった。

誰の物かは分からないが、今はそんな事を言ってはいられない。

「後で返しに来ますからね。」

そう心の中でつぶやくと、僕は蹴るようにパンツを履き、殴るように上着を羽織った。

こんなに一瞬で服を着たのは生まれて初めてだった。

思いがけない記録更新だが、余韻に浸っている暇はない。

扉をあけようとドアノブを握った次の瞬間、あきらかに僕とは違う別の力で扉が開いた。

「あらっ もう起きたのですか?」

目の前に現れたのは、僕よりも少し若そうな白人女性だった。

もしかして僕は、酔った勢いで彼女の部屋に上がり込んでしまったんだろうか・・・

「あっ あの昨日は少し酔っていまして・・・もしあなたに何か失礼な事をしていたのなら謝ります。 ごめんなさい。 でも今は会社に行かないといけないんです。 あなたの連絡先を教えていただければ、後ほどこちらから連絡させていただきます。 今僕のも教えますので」

僕はこの時、予期せぬ事態でその場をとりつくろうのに必死だった。

すると彼女は僕にこう言った。

「会社は何処にあるのですか?」

「とりあえず最寄りの駅を教えて頂ければ、そこから電車に乗ります」

「この近くに駅なんてありませんよ。 ここはハワイのマウイ島。 移動なら車しかありません。 もしよかったら私がお送りしましょうか? でもそれより体の方はもう大丈夫なのですか? 昨日、あなたはとても大変な事故に巻き込まれたので、みんなで心配していたんですよ」

ハワイ? 事故? いったいなんの事だ?

僕は、まだ酔いから醒めていないのか?。

それとも彼女がおかしいんだろうか・・・

「すみません。 なにか飲み物はありますか?」

とにかく僕は、一度冷静になろうと思った。

暖かいコーヒーを飲みながら彼女の話をしばらく聞いていたのだが、話によると僕は昨日、台風の中サーフィンをしにこの近くのビーチまで来ていたそうだ。

そして荒れ狂う海の中で溺れている少年を見つけた僕は、その子を助けに行ってそのまま意識を失ってしまったらしい。

幸いにもたまたま居合わせた彼女のおじいさん達に助けられて、この家に連れて来られたと言うのだがちょっと待ってくれ・・・

僕はサーフィンなんてした事が無いし、少年を助けた覚えも無い、ましてやハワイになんて一度も行った事が無いんだ。

彼女のおじいさんにお礼を言いたかったが、今日は朝から街へ出かけていてあいにく留守のようだった。

「ちょっと外に出てもいいですか?」

僕は彼女と一緒に家の外へ出た。

キレイに手入れがされている芝生の庭や周りの景色は明らかに日本の物ではない事が分かる。

どうやら僕は本当に外国にいるらしい。

この現実をどう受け止めればいいのか・・・

僕は起きてから一度も顔を洗っていない事に気づき洗面所へ行った。

顔を洗ってふと鏡に映る自分を見た瞬間、僕は思わず叫んでしまったんだ。

鏡の中の僕は誰がどう見たって僕じゃない。

そこには、若い頃の父の姿があった・・・

思い出した事がある。

父は僕が生まれて間もない頃に、交通事故で亡くなってしまったそうだ。

だから顔は写真でしか見た事が無いんだけど、母の話ではサーフィンが大好きで独身の頃はよくハワイへ旅行に行っていたらしい。

僕は今、その頃の父になっているって事なのか・・・

一度でいいから話をしてみたいと思ってはいたが、まさか父自身になってしまうなんて思ってもみなかった。

でも僕はこの信じられない状況を受け止める事にした。

もし夢ならいつかは醒めるだろう。

そしてもしこれが現実だとしても、昨日までの生活に比べればいくらか刺激がありそうだ・・・

「あなたはいつからマウイにいるの?」

突然の質問に答えを用意していなかった僕は返答に困った。

「あぁ・・・ いつだったかなぁ。 でもここに住んでいる訳じゃなくて旅行でやって来たんだよ」

とっさに出た言い訳だが筋は通っている。

「旅行で? じゃあ友達も一緒に来ているんじゃないの? みんなが探しているかもしれないわ。 ホテルは何処なの?」

確かに友達が探しているかもしれない。

でも今の僕は昨日までの記憶が無い、だからホテルどころかどうやってここへ来たのかさえも分からなかった。

「今回は一人で日本からやって来たんだよ。 ホテルは・・・ちょっと思い出せないんだ」

「もしかしたらあなたは昨日の事故で記憶喪失になってしまったのかもしれないわ。 この近くに病院があるから一緒に行きましょう」

僕の手を引こうとする彼女の目は、さっきまでの穏やかさとは一変して厳しくなっていた。

しかし僕は彼女の提案も、ついでにホテルを探す事も断った。

きっとそのうち誰かが僕を見つけくれるだろうと思っていたし、なによりも僕は彼女と一緒にいたかったんだ。

そう、どうやら僕は、彼女に恋をしてしまったらしい・・・

「そういえば名前を言っていなかったわね。 私の名前はレイチェル」

レイチェル・・・かわいい名前だ。

彼女はとても整った顔立ちをしている。

けっして派手な顔ではないが、とても上品で清楚で、そしてグレーの綺麗な瞳をしていた。

髪は金髪で、肌は日に焼けていてとても健康的な感じだ。

僕とは絶対に釣り合わない相手だと思った。

「僕の名前は・・・ 健二。 なんとなくそんな名前だったような気がする」

これは僕の名前だ。

僕は父の名前を知らなかった。

と、ここで僕の中に沸々と一つの疑問が浮かんできたんだ。

さっきからあまり深くは考えなかったが僕はレイチェルと英語で会話をしている。

中学、高校と英語の成績はビリ同然だった僕が今はペラペラと流暢に。

この能力はきっと父の物だ。

父さんは凄い人だったんだな。

それに比べて僕は小さい頃から何をやっても中途半端な怠け者。

苗字以外に共通点の無い、全くの別人だ。

「ところで僕が助けたっていう少年は、今何処にいるんだい?」

「あぁ ショーンね。 彼ならこの近くに住んでいるの。 事故で海水を随分飲んだみたいだけど、あなたの救助とみんなの処置が早かったおかげで無事に助かったわ。 さっきあなたが起きる前に見に行って来たけど、とても元気そうだったわよ」

よかった・・・

「でも、二人にはもう二度とあんな危険な事はしてもらいたくないわ」

僕は、少年の無事を聞いて安心した。

そしてレイチェルが、僕の事を心配してくれた事がとても嬉しかった。

僕は物心がついた頃からずっと母一人子一人で育った。

母は朝早くに仕事へ出かけて帰りは深夜。

だから僕は学校へ行く時には、いつも首から鍵をぶらさげていた。

いわゆる鍵っ子だったんだ。

運動会のかけっこで転んで膝を擦りむいても、心配してくれる大人は何処にもいなかった。

みんなが家族でお弁当を広げている時も、僕は教室の中で先生と一緒にご飯を食べていたんだ。

そして大人になった僕は、20歳で大学を中退してそのまま一人暮らしを始めた。

それ以来5年間もの間、母とは一度も言葉を交わしていない。

今にして思えば、その頃の母は僕を育てるのに必死だったんだと思う。

でも子供の頃はやっぱり寂しかった・・・

だからレイチェルが僕を心配してくれた事が、本当に嬉しかったんだ。

ショーンの家は歩いて直ぐの所にあった。

白いペンキが剥げて古くなった柵がいかにも外国な雰囲気をかもし出している。

芝生の庭に平屋建てでポーチ付の家。

これはスヌーピーの世界だ。

僕は小さい頃からこういう世界に憧れていた。

だから今、自分がそこに立っている事に少し感動していた。

「ショーン。 あなたを助けてくれた人を連れてきたわよ」

しばらくすると奥の方から誰かが走ってくる音が聞こえた。

ショーンだ。

歳は10歳だと聞いていたが、僕の想像よりも少し背が高かった。

クリクリと大きくて青い目をしている。

何処から見ても普通の白人の男の子だったが、彼の場合は一つだけ普通の人と違う所があった。

彼には右腕が無かったんだ・・・


「やあショーン。 正確には初めてじゃ無いけど僕は健二と言います。 レイチェルに君の事は少し聞いているけど、体の方はもう大丈夫なのかい?」

「やあ健二。 昨日はありがとう。 僕ならもう大丈夫だよ。 ホントは今からでも海に行きたいくらいなんだけど、昨日の今日じゃさすがにママが怒るからね・・・健二はサーフィンがとても上手だね。 今度教えてよ」

「任せときな。 いつでも教えてあげるよ」

無邪気そうに笑っているショーンの顔は、まだあどけない10歳の子供だった。

それからしばらくの間、僕達三人はショーンの家で色々な話をした。

僕が記憶喪失だと言ったらショーンもとても心配してくれた。

二人から時々、日本の事を訪ねられたが、80年代生まれの僕には70年代の日本の若者の文化なんて分かるはずもない。

今の僕の状況を正直に言っても誰も信じてくれないだろうし・・・

社会の授業で習う歴史ってのは、こんな時には何の役にも立たないんだなって思った。

ここでオイルショックの話をしたって、きっと盛り上がらないだろうしね。

でもこの当時のハワイには、日本の情報はあまり入って来ていなかったのでなんとか適当に誤魔化す事ができた。

このマウイ島は、ハワイ諸島の中では三番目に大きな島だそうだ。

夏と冬の温度差が4度程しかなくどんなに寒くなったとしても20度を下回る事はないという。

オアフ島やハワイ島にくらべると日本人の観光客は少ないらしく、現地の人にとって日本人は珍しい存在らしい。

不意に外で犬が吠える声が聞こえた。

同時にショーンが嬉しそうに窓の外を指差した。

「ラッシュって言うんだ。 僕の友達なんだよ」

ラッシュはショーンの家で7年ぐらい前から飼われている犬で、一人っ子のショーンにとっては兄弟同然の存在らしい。

今日はショーンのお母さんと一緒に散歩に出かけていたそうだ。

と、ここで一つ問題が浮上した。

僕は犬が大の苦手なんだ。

子供の頃に近所で飼われていた犬にオシリを噛まれた事があって、それ以来僕は犬恐怖症になってしまっていた。

「あぁ 犬ね・・・ ラッ ラッシュはかなり大きいの?」

外国映画の中に出てくる犬は、毛足が長くて体が大きいと相場が決まっている。

「そんなに大きく無いから大丈夫よ」

どうやらレイチェルは感づいたようだ。

彼女は勘がいい。

僕は二人にこの事を正直に打ち明けた。

しばらく沈黙が続いた後で突然二人は笑い出した。

「アハハハッ あなたってかわいいのね」

レイチェルがいたずらっ子のような目で僕を見ている。

やっぱり言わなきゃよかったかな・・・

恥ずかしさと後悔にさいなまれている僕をよそに二人は盛り上がっている。

そのうち僕も段々と笑いが込み上げてきた。

やがてジャックとお母さんが部屋に入ってきた。

そして彼のお母さんは僕を見るなりこう言った。

「私はショーンの母でジェンダよ。 息子の命を救ってくれてありがとう。 なんとお礼を言ったらいいか。 体の方はもう大丈夫なの?」

「いやそんな、僕は当たり前の事をしただけです。 それより僕もあんな無茶な事をしてしまって・・・」

僕は自らも危険を犯してしまった事を恥じた。

まぁ、正確には僕じゃなくて父がやった事なんだけどね・・・

それよりもさっきからジッと僕を見つめているつぶらな瞳が気になっていた。

そう、ラッシュだ。

確かに体はあまり大きくは無かった。

中型犬ぐらいの大きさで色は真っ白。

毛並が凄くキレイだったが犬種はなんだろうか。

日本の柴犬によく似ている。

なんだか僕はラッシュにとても親近感が湧いた。

ついでにちょっと日本を思い出してホームシックな気分にもなった。

レイチェルが僕にラッシュの頭を撫でるようにと目で合図をした。

ここでやらなきゃ日本男児の名が廃るとばかりに勇気を振り絞って恐る恐る手を伸ばしてみると・・・

なんとラッシュは静かに頭を下げて僕を受け入れてくれたんだ。

なんだ、犬って結構かわいいじゃないか。

結局それ以上近づく事はできなかったが、今の僕にとってはかなりの進歩だった。

「健二はこれから住む所とかどうするの? もしよかったら僕の家でしばらく一緒に暮らさない?」

「ショーンありがとう。 でも君やママに迷惑はかけられないし・・・」

でも確かにこれからどうしよう・・・

僕は我に帰って少し困ってしまった。

「ママも歓迎だよね?」

「私にそんな当たり前の事を聞かないでよ」

こうして僕は、あっさりとこの家の住人になった。

こんな簡単に決まっていいんだろうか。

みんななんてやさしいんだろう。

僕は泣きそうになるのを必死で堪えて精一杯の笑顔を見せた。

夕方になりレイチェルはおじいさんが待つ家へと帰って行った。

今にして思えばレイチェルの所に厄介になるのも悪くなかったかな。

いや・・・それは少し調子に乗りすぎだ。

その夜はジェンダが作ってくれた夕食をご馳走になった。

以外にと言ったら失礼だけど、外国の家庭料理も悪くない。

そして僕はお礼にと食器を洗った。

こんな事、昨日までの僕なら絶対にやっていないが、今はやらなきゃ気が済まないって気持ちだった。

その夜、ショーンが寝た後で、僕はジェンダと二人で色んな話をした。

彼の右腕は生まれつき無かったそうだ。

そして彼のお父さんはそんなショーンとジェンダを捨てて家を出て行ったまま行方が分からなくなってしまったらしい。

ジェンダはショーンが可哀想でしかたがないと言っていた。

だからサーフィンが危険な事を知りつつも、彼の唯一の楽しみを奪う事はできないと。

僕はせめてここにいる間だけでも、ショーンの父親代わりになってやろうと思った。

よし、明日はサーフィンを教えてあげよう・・・


その日の夜、僕はとても怖い夢を見た。

夢の中で僕は、手術台のような所に寝かされている。

大勢の医師や看護師達が忙しそうに走り回っているのが見えた。

これはいったい・・・

そして夢と現実の区別がつかないままに朝が来たんだ。

何故だろう、まだ少し頭がズキズキする。

酔いはとっくに醒めているっていうのに・・・


その日は朝から天気も良く、庭から見える海岸には、形の揃った波が一列に並んで打ち寄せているのが見えた。

きっとこういうのをサーフィン日和って言うんだろうな。

そして僕はレイチェルの家に預かってもらっていたサーフボードを取りに行った。

レイチェルに教わった通り裏庭に回ると、丁度彼女のおじいさんが庭仕事をしている所だった。

「初めまして、僕は健二です。 一昨日は助けて頂いてありがとうございました」

「体の方はもういいのかね? さすがに若いだけの事はある」

白髪混じりの髭にふっくらした体がサンタクロースを連想させる。

チェックのネルシャツにオーバーオールが似合うおじいさんってかっこいい。

目を細めて笑っている顔からは、彼の優しい人柄が伝わってきた。

「アロハ! ワシの名前はサムだ。 今年で70歳になるが、まだまだ若いもんには負けんよ」

軽くウィンクをしてみせた顔は、とても70歳には見えないくらいにかわいかった。

サムの話によるとレイチェルの両親はオアフ島に移り住んでいるらしい。

元々アメリカ本土からハワイに移住して来た彼らは、子育てするのに環境が良いという理由でここに暮らし始めた。

しかし住み慣れたマウイよりも便利で賑やかな都会の方が居心地が良いと、オアフへ行ってしまったそうだ。

「どうしてあなたは一緒にオアフへ行かなかったんですか?」

「さあなぁ、特に理由は無いが、わしはこの町の人や景色が好きなんじゃよ。 ただそれだけじゃ」

しかしサムの話では、この町の過疎化は深刻な問題の一つらしい。

これは日本でもよくある話だ。

レイチェルも高校生の頃まではオアフで暮らしていたが、一人住まいのおじいさんが気がかりでこちらへ越して来たと言っていた。

彼女はなんて優しい子なんだろう。

「ところでレイチェルは今何処にいるんですか? これからショーンと海へ行くので、誘ってみようかなと思うんですが」

「レイチェルは仕事に行っとるんじゃよ。 この町の外れにあるホルスターの店で働いておる。 海へ行った帰りにでも寄ってあげればいい」

ビーチまでは板を担いで歩いていける程近かったが、この板がもの凄く重い・・・

途中で何度も持ち替えながらやっとビーチに辿り着くと、ショーンがもう既に来ていて準備運動を始めている所だった。

「健二遅いよ〜 僕はいつでもOKだよ」

「ごめんごめん、レイチェルのおじいさんとちょっと話をしてたんだ」

そして僕は早速ストレッチを始めようとしたんだが、やり方知らない僕はどうすればいいのかよく分からず、ショーンを真似ながら四苦八苦していた。

ついでにもう一つ難問が・・・

そう、僕はサーフィンなんてした事が無かったんだった。

「ねぇ ショーン 君をガッカリさせたくはないんだけど、どうやら僕はサーフィンのやり方も忘れてしまったみたいなんだ」

・・・

見つめ合う二人。

しばらく沈黙が続いた後で、ショーンは軽くうなだれてからもう一度僕を見てニコッと笑った。

「いいよ、じゃあ僕が教えてあげる」

と言う訳でショーン先生の指導の元、僕のサーフィンレッスンは始まった。

「まずはストレッチからだよ、運動する前は必ずこれをしないと怪我をし易くなってしまうんだ」

「はい先生!!」

「今度は砂浜にボードを置いてパドリングの練習だよ、これができなきゃ沖には行けないんだ」

「はい先生!!」

「・・・健二、その先生って言うのやめてくれない」

「ハハハハッごめんごめん」

それから僕達は数時間もの間、ひたすらパドリングの練習を続けた。

「健二、肩に力が入りすぎだよ もっと力を抜いて胸を反らすんだ」

僕はショーンに何度も同じ事を注意された。

英語の能力以外は完全にドジな僕のままだった。

それでもショーンは一生懸命に根気よく教えてくれた。

普段の僕なら絶対に途中で止めている所だが、ショーンの真剣な姿を見ていると簡単にあきらめるわけにはいかないと思った。

それからさらに数時間が経った。

「健二、随分良くなってきたよ 今の感じを忘れないで」

その日は砂浜でのパドリング練習に大半を使ってしまった。

それでも、僕もショーンも実に満足気な顔をしていた。

僕は今まで知らなかった事を学べて嬉しかった。

ショーンは人に何かを教える事の楽しさを知ったようだ。

そしてなによりもこのマウイの風と海が、僕達をやさしく包み込んでくれていた。

それだけで十分に満足できる一日だったんだ。

ただ僕はこの日、一つだけ気になる事があった。

ラッシュが海に寄り付かないんだ。

ビーチの近くまでは来てるのに、遠く離れた所から僕達を見つめているだけ。

他の犬は海の中へ入って遊んでるってのに何でだろう。

「ねぇショーン、ラッシュはどうして海に近づかないんだい?」

「僕も分からないんだよ でもこの前僕が溺れた日までは一緒に浜辺で遊んでいたんだけどね」

もしかしたらあの事故の光景が原因で、ラッシュは海が怖くなってしまったのかもしれない。

臆病なラッシュは、僕のおしりを噛んだ犬とは大きくかけ離れていた。

海に怯えている姿を見て、少し切ない気持ちになったし、とても可愛く思えたんだ。

同時に今までラッシュにさえ怯えていた自分が可笑しくなった。

犬は怖い動物なんかじゃない。

「ショーン、僕は今まで友達って言えるのは同級生の子達ばかりだったんだ。 だからすごく不思議なんだけど、君とはこれからもずっと友達でいたいって思ってる。 いいかな?」

「なんで今更そんな事聞くのさ 僕達は会った時からもう友達じゃないか」

それは凄く嬉しくて、勇気が沸いてくる言葉だった。

「ラッシュも僕の事を友達だって思ってくれるかなぁ」

「さぁ それはどうだろうね。 あいつは気まぐれだからなぁ。 それに、健二は犬恐怖症だしね」

「ちょっと、それはもう言わないって約束じゃないかぁ」

「ハハハッ ごめんごめん。 そんなにムキにならなくてもいいじゃない」

僕達はしばらく笑い続けた。

そして同時に、こんなに無邪気に笑える自分がいた事に驚いていた。

「そう言えば町外れのホルスターさんの店でレイチェルが働いてるって聞いたんだけど、これから会いに行かない?」

「いいよ、みんなで行こう」

僕はパドリングができた事をレイチェルに自慢したかった。

しばらく歩いているとホルスターの店があった。

この店では食品から乾電池まで、日常生活に必要な物はほとんど買うことができるそうだ。

日本で言うコンビニエンスストアーのような感じだ。

中は外から見るよりも広くレジが6台程あった。

そして僕は早速レジにいるレイチェルを見つけた。

「やあ、レイチェル」

「やあ、健二 ショーンも、元気? 二人揃ってどうしたの?」

「実はさっきまでショーンと一緒に、サーフィンの練習をしていたんだ。 残念な事にまた一から勉強のやり直しになってしまったんだけど、ショーンコーチのおかげで、パドリングができるようになったんだよ・・・とは言ってもまだ陸の上でなんだけど」

「そうなの、凄いじゃない」

僕達が店の中でしばらく話をしていると、奥の方からしゃがれた声が飛んで来た。

「レイチェル! 遊んでないでちゃんと仕事をしねぇか!」

「はっ はいホルスターさん」

彼女は舌を出してから僕達にウィンクをしてレジに戻っていった。

彼女はやっぱりかわいい。

ショーンは首をすくめたポーズを見せたが、仕方が無いと言った表情で店の外へ出て行った。

「ホルスターさんって怖い人なんだね」

「あの人は、いつもは凄く優しいんだけど、たまに機嫌が悪い時があるんだよ」

「お天気屋って事か、 僕の上司にもそんな人がいたけど、何処の国にでもいるんだな」

ショーンの話によると、ホルスターさんは5年ほど前にアメリカ本土からやって来てこの店を始めたそうだ。

彼のお陰で随分便利になったと、町の人達は彼にとても感謝しているらしい。

確かにそんな新しい事をする人達のお陰で世の中は進歩する。

僕がいた時代じゃ、電話は持ち歩く物なんだもの。

この時代の人達が携帯電話を見たら、きっと腰を抜かしてしまうんだろうな。

その夜、僕はサーフィンの疲れがあったせいもあり早めに眠る事にした。

するとまたあの怖い夢が出てきたんだ。

今度は見た事のない病室に寝かされている。

あの手術の後かな?

よく見ると母が心配そうな顔で僕を見ている。

そして僕と目が合った途端、何かを叫びながら泣き出した。

僕はその時、母が泣いている姿を生まれて初めて見たんだ。

もちろん、夢の中での話だけど・・・

目覚めると明け方の5時頃だった。

薄っすらと空に朝日が差し込んで来ている。

僕はその光をボーっと見つめながら夢の事を考えていた。

そしてその時、もう二度と母には会えないような気がしていた。

次に目が覚めたのは8時半を過ぎたところだった。

しばらくするとショーンが部屋へ入ってきた。

「今日から平日は学校があるから昼間は遊べないけど、夕方には帰ってくるからまた海に行こうね」

そうだ、みんなには仕事や学校がある。

今の僕にとってここは夢のような場所でも、住んでいる人達にとっては現実の世界なんだ。

僕も何か仕事を探さなくてはいけない。

その日早速仕事を探す事にした僕は、朝から沢山のお店や会社を回ったが、IDの無い僕を雇ってくれる所は何処にも無かった。

お腹が空いてきたので、お昼を済ませようとお店を探していると、海岸線沿いに一軒の小さなバーガーショップを見つけた。

一段高いカウンター越しに体格のいい若い女性店員が、オーダーを訊きに出てきた。

「ご注文は?」

「ええーっと」

僕がどれにしようか迷っていると、店の奥にいた二人の女の子が僕を見て笑いながらこんな事を言っていた。

「アリガトゴザスマシタ」

「ドウゾ スミマセン」

何処で覚えたのか分からないがデタラメな日本語だった。

こんな時ってやっぱり笑っといた方がいいのかな?

僕は反応に困ってしまったけど、今はオーダーが先だ。

「チーズバーガーを下さい」

カウンターの女性が後ろにいた二人に僕のオーダーを伝えると、一人の女の子が僕の方を見ながら小声でジャップと言った。

ジャップ・・・

僕はその瞬間とてつもないショックに襲われてしまった。

高校生の頃、同級生に知的障害を持った男の子がいたんだけど、クラスの連中はいつも彼をバカにしてからかっていた。

そして僕自身もみんなに混じって彼を見て笑っていた。

当時の僕にとって、そんな事は特に重要ではない普通の出来事だった。

しかしある日、彼は授業中に突然立ち上がるとそのまま窓の方へ走って行き、そこから飛び降りようとしたんだ。

幸い先生が彼を止めてくれて助かったが、その時の彼は死ぬほど辛い思いをしていたんだと思う。

僕はジャップと言われた瞬間、その時の彼の気持ちが少し分かったような気がした。

彼女達は僕を差別するつもりで言ったんじゃないと信じたい。

でもたとえ悪気が無かったとしても、人を傷つけてしまう事ってあるんだと思った。

僕は一瞬の出来事で済んだけど、彼はそんな毎日を3年間も味わったんだ。

その後に食べたチーズバーガーの味は、全く覚えていない。

気持ちを切り替えて就職活動に専念した僕は、一軒のガソリンスタンドを見つけた。

勇気を出して飛び込むと、ボスは快く僕を雇ってくれると言ってくれた。

給料はけっして高いとは言えなかったが、今の僕は贅沢「なんて言えない。

ボスのバニーはハワイの原住民で、顔は元横綱の武蔵丸によく似ていた。

見た目は怖そうな感じだが笑うとかわいい顔になる。

「早速だが明日から来てもらえるかな?」

「はい、よろしくお願いします」

次の日、約束の時間に行くと、既にバニーが来ていた。

「おはよう健二、こいつはチーフのジョシュアだ。 今日からこいつがお前の世話係りだから分からない事はどんどん訊いてくれ」

ジョシュアは痩せているが背がとても高い男だった。

年齢は僕と同じだったけど、身長と一緒で態度がとてもでかい。

第一印象はあまり良いとは言えなかった。

日本のガソリンスタンドでも最近はセルフサービスが増えてきているが、ここハワイではそれが当たり前になっている。

当然の事ながらお客さんへの車の窓拭きサービスなんてある訳もなく、僕はひたすら掃除ばかりしていた。

僕が生活をしているここライワナの町は、都会ではないが世界中から沢山のサーファーがやって来る事で有名だった。

国道は車やバイクで溢れている。

視線を海へ向ければ、サーフボードを抱えた人たちが沢山見えた。

僕意外に日本人の姿を見る事は稀だったが、たまに見かけると親近感が湧いて無償に話しかけたくなる。

そんなある日、日本人のカップルがスタンドにやって来た。

どうやら二人はセルフのやり方が分からないらしく困った顔をしていたので、僕は彼らにやり方を教えてあげた。

喜んでくれた事が嬉しかったので、ついでに窓拭きのサービスをしてあげていると、突然後ろの方からジョシュアの大きな叫び声が飛んできた。

「健二!! なにやってるんだ!!」

僕はお客さんを見送った後で彼に事情を説明した。

「ジョシュア、日本のスタンドじゃあ窓拭きは当たり前のサービスなんだよ」

「それは日本での話だろ、ここはハワイなんだよ。 そんな余慶な事をして面倒な仕事を増やすんじゃねぇ!!」

確かにそうだ、ルールを守らなかった僕の方が悪い。

僕達が大声で叫んでいるのを聞いて、奥からバニーが心配そうな顔で出てきた。

「いったいなんの騒ぎだ?」

僕達はバニーに事の経緯を説明した。

そして彼はしばらく考えてから僕たちにこう言った。

「なかなか面白いじゃないか。 実は最近客足も悪くなっちまってきてるし何かいい案はねえかと頭を抱えていたとこだったんだ。 試しにしばらくその窓拭きサービスってのをやってみようじゃないか。 いいだろ? ジョシュア」

「・・・ボスがそう言うんならしょうがねえ」

肩をすぼめてうらめしそうに僕をみつめるジョシュアが小さく見えた。

普段は態度がでかい彼も、さすがにバニーには頭が上がらないようだ。

それにしてもこのバニーと云う男は、話の分かるいいボスだ。

その日の夜、僕はジェンダとショーンに今日あった事を話した。

二人は笑顔で話を聞いてくれた。

そしてジェンダが僕の事を褒めてくれたんだ。

なんだかお母さんに褒められてるみたいで少し照れくさかったが、凄く嬉しかった。

窓拭きサービスを始めたバニーのガソリンスタンドはたちまち評判になり、遠くからもお客さんが来てくれるようになった。

「健二、おめえの考えは間違ってなかった あの時はあんな事言っちまってすまねぇ」

「俺の方こそ勝手な事してしまってごめん」 

その時以来、僕達二人はとても仲良くなったし最高のコンビになった。

その日の夜、僕はまたあの夢の続きを見たんだ。

今度も僕はベッドに寝かされている。

でも前に見た部屋とは違っていたし、母の姿も無かった。

看護師さんが一人いて、目が覚めた僕に気づいたらしく何かを言ってきたが声がよく聞きとれない。

僕も必死で問いかけようとしたが声が出なかった。

そしてまた、朝が来た・・・

その日は僕もショーンも休みだったので久しぶりに海へ出る事にした。

今回は海で実践的なパドリングの練習だ。

動きは悪くなかった。

ちゃんとブレずに前へ進んでいる。

「凄いじゃない健二、とても上手になっているよ 誰かに教えてもらったの?」

僕の師匠はショーンだけだ。

他の誰にも教わった訳じゃない。

今の僕はとても気持ちが前向きになっている。

多分そんな所がサーフィンにもいい影響を与えているんだと思った。

と、突然僕の目の前に大きな波が押し寄せてきた。

「うわぁぁぁ〜」

僕は波に飲み込まれてしまい一瞬気を失ってしまった。

もうろうとする意識の中で、突然遠くの方に母の姿が現れた。

まるで誰かを探しているかのようにキョロキョロと周りを見ている。

声をかけようとした次の瞬間、僕は正気を取り戻した。

気が付くと目の前に板が見える。

僕は必死でそれに捕まると、そのままなんとか岸へ戻る事ができたが、それまでの時間はとても長く思えた。

幸い浅い場所だったので大事にはいたらなかったが、とても怖い経験だった。

同時に僕は、海を舐めると大変な事になるんだって事を体で知った。

しばらくパドリングの練習をした後で、今度はビーチへ上がり、板に立つ練習をした。

これは比較的簡単にできたがパドリングと違って海の中ではなかなか上手く立てない。

というよりも波自体に乗る事ができないんだ。

こりゃまだまだ先は長そうだ・・・


その日はレイチェルがショーンと僕を夕食に招待してくれる事になっていた。

夕方になり約束の時間に到着したんだけど、彼女に会うのは久しぶりだったんで少し緊張していた。

「ショーン、鼻毛とか出てない? 髪型は大丈夫かなぁ?」

「大丈夫だよ、髪型もまぁこんなもんじゃないの」

「ショーンちゃんとチェックしてくれよ」

二人揃って扉の前でゴチャゴチャ言っていると不意に扉が開き、目の前にレイチェルが現れた。

「ちょっと二人共、そこでなにやってるの?」

「あぁいやっ ちょっと打ち合わせを・・・」

そして二人で背中に隠していた花束を渡した。

少し間を空けてからレイチェルが満面の笑みで僕達を迎えてくれた。

リビングに入ると、とてもいい香りが漂っている。

「これ全部君が作ったのかい? 凄いじゃないか」

食卓に並べられた料理はどれも凄く美味しそうだった。

早速ご馳走になったが、お世辞ではなく本当に彼女は料理が上手だ。

こんな人と結婚できたら幸せだろうな・・・

現実には有り得ない事を想像していると、横からショーンが僕をからかってきた。

「健二、鼻の下が伸びてるよ。 なにか変な事想像してない?」

この男なかなか痛い所を突きやがる。

「ほんとレイチェルは料理が上手だよねぇ〜」

僕はショーンの突っ込みを上手くかわしてやった。

その後暫くの間みんなで食事を楽しんでいるとおじいさんが帰ってきた。

話によるとサムはウクレレの名人らしく僕達の為に演奏をしてくれる事になった。

リビングの大きな窓からはキレイな夕焼けと赤く染まった海が見える。

おじいさんのウクレレを聴きながら、僕達はうっとりする時間を過ごした。

ここはまさにパラダイスだ。

このまま時間が止まればいいのに・・・


次の日も朝から忙しく時間は過ぎて行った。

休み時間になりジョシュアがいつも一緒に行くレストランへ誘ってくれたが、今日は朝からあのバーガーショップへ行こうと決めていたので断った。

またからかわれたらどうしよう・・・

少し不安になりしばらく考えてしまったが、悩めば悩む程近づき辛くなる。

僕は意を決してバーガーショップへと向かった。

カウンターにはあの時の女の子が立っていた。

そして奥にはあの時の二人。

僕はみんなに満面の笑みで話しかけた。

「やあみんな元気? 僕の事覚えているかな? 今日もチーズバーガーを頼みたいんだけど」

僕のテンションの高さに、みんなは一瞬驚いていたが、それからしばらく4人で色んな話をした。

彼女達はこの近所に住んでいる幼馴染らしく、歳はまだ17歳だそうだ。

外国の人って年齢よりもずっと大人に見えるけど、まだそんなに若かったのか。

話によると彼女達は日本人と喋るのは初めてだったらしい。

みんなとてもシャイだったけど、段々と打ち解けてきて僕が帰る頃には

すっかり仲良くなっていた。

勇気を出してこの店に来てよかった。

この時に食べたチーズバーガーの味はハッキリと覚えている。

それから一週間後に、レイチェルからお誘いを受けて近くのビーチで行われるフラダンスのコンテストを見に行く事になった。

初めは彼女と二人で見に行くと思っていたんだけど、実は今回のコンテストに彼女自身が出場する事になっているらしい。

その日は朝から天気が良く、ビーチには沢山の人が来ていた。

7、8人一組で行われるこのコンテストは、古くからこの町に根付いている由緒ある行事だそうだ。

フラダンスの語源はハワイ語で 「踊り」 の意味を表すらしい。

そして本来ハワイではフラダンスとは言わずフラと呼ぶんだそうだ。

フラには大きく分けてとアウアナと呼ばれる現代フラと、カヒコと呼ばれる古代フラの2種類があり、レイチェル達が踊るのは現代フラの方。

ちなみにこの現代フラに使われる楽器は、日本でも馴染みのあるウクレレで演奏するのが一般的なんだそうだ。

僕はショーンとジェンダと3人で、一番前の席に座ってレイチェルの出番を待った。

「なんだか僕緊張してきたよ」

ショーンは自分の事のように緊張していた。

「大丈夫さショーン。 レイチェルは絶対に上手くやるよ。 彼女を信じてあげなくちゃ」

僕はショーンに自身満々に言ってみせたが、実は僕の方が緊張で震えていた。

事実僕は、レイチェルの出番が来るまでに4回もトイレへ行ってしまったんだ。

テレビで見た事はあったけど、僕は初めて生のフラダンスを見た。

日本舞踊も優雅で美しいが、フラダンスは見ているこっちまで楽しくなる不思議な踊りだった。

そしていよいよレイチェルの出番がやって来た。

舞台に現れた彼女は、いつもより更に何倍も輝いて見えた。

しかし今は見とれている余裕なんてない。

「頑張れ」

僕は心の中で何度も祈った。

でも彼女は、僕達の心配をよそにゆったりと美しくダンスを楽しんでいる。

とても感動的で素晴らしい踊りに、会場のみんなも息を飲んでいた。

結果は残念ながら優勝では無かったが、それ以上のものを与えてくれた彼女に対して、僕は心から拍手を送った。

やがてコンテストも終わり夕暮れが迫るビーチに、僕はレイチェルと二人でいた。

沈んで行く真っ赤な太陽に照らされて金色に輝くやしの木の下で、僕達は色んな話をしたんだ。

「今日の君は本当に素敵だったよ。 フラダンスを見たのは初めてだったけど、とても感動的だった。 でも何故だろう、凄く懐かしい感じがしたんだ」

「フラは大地との対話なの。 遠い昔から住んでいるハワイの先住民達が、自然の神を敬い慈しむ気持ちがこのダンスには込められているのよ。 自然や人を愛する気持ちは遠く離れた日本だってきっと一緒のはず。 だからそう思えたんじゃないかしら」

「まさに大地の踊りって訳だね」

「そう、この世の全てを愛せなければフラは踊れないの」

愛か、なんだか僕にはこっぱずかしいけど凄くいい言葉だ。

「僕は今まで、その愛ってやつの意味がよく分からなかったんだ。 自分の方に向いてくれない母さんの事がずっと嫌いだった。 でもその考えはきっと間違いだったんだね」

「そうね、きっと健二はお母さんに対して愛情を求めているだけだったのかもしれないわ。 愛情は求めるだけじゃなくて、与えてる事も必要なのよ」

僕は彼女に返す言葉が見つからなかった。

そう、まさしく僕は母に甘えていただけなんだ。

「お母さんはきっとあなたの事を心配しているはずよ。 早く帰ってあげなければいけないんじゃないの?」

僕はレイチェルの優しさが辛くなった。

僕は時を越えてここへやって来たんだ。

母に会えるはずがない。

「ところでレイチェル、君は今好きな人っているのかい?」

「いるわよ。 おじいさんにショーンに、もちろん健二の事も大好きよ。 どうして?」

「ああいやぁ、別に深い意味はないんだ。 ただ聞いてみたかっただけさ」

僕は昔からいつもこうだ、好きな人を目の前にすると足が竦んでしまう。

告白なんて、できるはずがない。

そして僕たちはしばらく黙ったまま夕日を眺めていた。

夕日に照らされてオレンジ色に染まって行く白浜には、やしの木と一緒に、僕たちの影も並んで伸びいくのが見える。

こんな時、洒落た恋愛映画だったら見つめ合った二人がキスの一つでもするんだろうけど、これが現実ってやつだ。

それよりも僕はレイチェルに初めて出会った時から、彼女の声がとても好きだった。

何処かで聞いた事のあるような甘くてハスキーで、うっとりする声・・・

そうだ、彼女の声はノラ ジョーンズにそっくりだ。

僕は彼女の歌声が好きだった。

もちろんレイチェルの事は、もっと好きだ。

次の日は朝からとても忙しかった。

ジョシュアの話によると来月行われるサーフィン大会の為に、世界中から人が押し寄せてきているそうだ。

「その大会ってビギナーズクラスなんてのもあるのかい?」

「あるけど、おめぇまさか大会に出ようなんて考えてるんじゃねぇだろうなぁ?」

「まぁビギナーズクラスならなんとかなるかなって思ってさ」

特に自信があった訳じゃない。

ただ僕は純粋に挑戦してみたくなったんだ。

その夜、早速僕はジェンダとショーンにこの事を打ち明けてみた。

「出てみなよ健二、これまでの成果を試すチャンスだもん」

ショーンは真っ先に賛成してくれた。

ジェンダは少し心配そうだったがビギナーズクラスへのエントリーならって事で納得してくれた。

そしてレイチェルもみんなと同様に喜んでくれた。

これでなんの迷いも無くなった、後は大会に向けてトレーニングを積むだけだ・・・

僕とショーンがいつも練習しているビーチは、会場になる所から随分と離れた所にあったので、混雑を気にせずに練習する事ができた。

しかも地元のサーファー達は、みんな気さくでいい人ばかりだ。

「やぁ、健二、大会に出るそうじゃないか。 応援しているよ」

「ありがとう、ラルフ。 頑張るよ」

「ああ、その意気だ。 分からない事は何だって俺に訊いてくれよ」

このビーチで一番有名な波乗りのラルフは、世界中を飛び回っているプロサーファーでもあった。

彼もまた、今回の大会に出場する選手の一人だ。

もちろん彼がエントリーするクラスは僕の遥か彼方にあるマスターズクラスだけどね。

ストレッチを終えて早速海に入ったんだがこの日の僕は、いつもと少し様子が違っていた。

波を見つけてからの動きが全然違う。

体が直ぐに反応するし、板に立つ事だって簡単にできる。

これはいったいどうゆう事なんだ・・・

「健二、今日は凄いじゃない。 急に上手くなったみたいだけどどうして?」

「ショーン、実は僕にも何故なのか分からないんだ。 体が勝手に反応するんだよ」

「それってもしかしたら記憶が戻って来たって事なんじゃないかなぁ。 だって今の健二はあの時、そう、僕が海で溺れた日に見た健二にそっくりだもん」

父が戻ってきた。

そう、きっとこの体に父の記憶が蘇ってきたんだ。

うまく説明できないが、自分の体と父の体が重なっているような感覚になっている。

僕が間違ったフォームになっている時は父がそれを修正するといった具合だ。

誰にも真似の出来ない直接指導、しかもずっと会いたかった父さんに・・・

僕は感動と興奮を覚えた。

そして同時に自分がどんどん上手くなっている事を実感していた。

この調子なら大会で優勝するのだって夢じゃないかもしれない。

それからも僕は、ずっと海の中に入ったまま練習を続けた。

体は悲鳴を上げていたが岸に上がったら父に会えないような気がしたんだ。

夕方になり日が沈む頃に、僕はようやく岸へと上がった。

ショーンとラッシュは待ちくたびれて先に帰ってしまったようだ。

「ちょっと悪い事をしたかな。 後で謝らなきゃ」

そう独り言を呟いていると、ふいに父の感覚が体から抜けて行くのが分かった。

体から父さんが消えてしまったのは残念だったが、同時にこうも思ったんだ。

もし父さんが完全に戻って来た時、今の僕はどうなってしまうんだろうって。

きっと僕は現実の世界に引き戻されるに違いない。

いやっ、もしかしたらもうそこへも戻れないのかもしれない。

でも今はくよくよ悩んだってしょうがない。

次の日からも、僕は毎日仕事の前には必ず海へ行って練習するようになっていた。

大会の為ってのもあるけど、父さんにも会いたかったからだ。

「健二、調子の方はどうだい? 随分頑張ってるみたいじゃないか」

「ああジョシュア、今の調子でいけばもしかしたら優勝だって狙えるかもしれないよ」

「そりゃまた大きく出たもんだなぁ。 よぉし健二、じゃあもしお前が優勝したら俺が盛大にパーティー開いてやるよ」

「いいねぇ。 その言葉忘れんなよ」

「それにしてもおめぇはおもしれえヤツだ。 俺は毎日仕事に来るのが楽しくてしょうがねぇ。 まさかこんな気持ちになるなんてなぁ」

僕はジョシュアの言葉を素直に喜んだ。

同時にこんな楽しい毎日が、いつまで続くんだろうとも思った。

ここは僕が本来居るべき世界じゃない。

そう、僕はいつかこの場所から消えなければいけないんだ。

次の日は僕もレイチェルも仕事が休みだったので、朝から彼女に島を案内してもらう事になっていた。

マウイには様々な観光スポットがある。

例えばハレアカラの南の裾野に広がる渓谷。

火山の噴火や隆起によって盛り上がった大地が長年の風雨によって侵食されてできたもので、アメリカにあるグランドキャニオンのように雄大な光景から別名リトルキャニオンとも呼ばれているそうだ。

そして面白いところではさとうきび列車なんてのもある。

シュガーケイレンと名づけられたこの列車は、昔さとうきび産業が全盛だった頃に労働者達を乗せて走った蒸気機関車をそのまま転用したものだそうだ。

マウイ最大の町、ラハイナからプウコイリまでの約9キロの距離を30分ほどかけてのんびりと進んでいく。

途中には今も残るさとうきび畑や青い海などマウイの絶景を満喫する事ができるし、車内ではウクレレのパフォーマンスなんかもあって乗客を飽きさせない楽しいイベントが沢山あった。

そして僕たちはおじいさんから借りた車で天国のような町と呼ばれるハナへ向かう事にした。

かなり危険な橋やワインディングロードが続くし右側通行に不慣れだったので少し戸惑う場面もあったが、元々運転に自身があった僕にはどうって事のない道だった。

途中にはいくつかの展望台や公園もあり海と緑のコントラストを楽しむ事ができる。

「健二、あなたは運転が上手ね」

「あぁ仕事で毎日車に乗っていたからね。 僕は日本で営業の仕事をしているんだ」

「あなた記憶が戻ったの?」

「いやぁその・・・部分的にね」

僕は一瞬動揺してハンドルを切り損ねそうになった。

「キャー危ない」

「ごめん大丈夫かい? どうやら運転の方はいまいちみたいだね。 でもお腹が空いたら言ってくれよ。 チーズバーガーを注文するのは得意なんだ」

「え? それどうゆう意味?」

「ハハハハッ いやっなんでもない」

険しい道のドライブも、隣にレイチェルと一緒にいるってだけで楽しくなる。

ハナが近づくと辺りはのどかな田舎町の景観となり、天国と呼ばれるのもわかるような気がする。

ただの田舎だという人もいるけど僕はそうは思わない。

ハワイでも日本でも、田舎ってのはやっぱり落ち着くし癒される場所なんだ。

そしてハナでの楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

「レイチェル、今度また他の場所を案内してくれないか?」

「ええ、もちろんよ」

僕は大会が終わったら彼女に想いを打ち明けようと思っていた。

まさかこの日がレイチェルとの最初で最後のデ−トになるなんて思いもしなかったんだ・・・


それから一週間後、いよいよ大会の日がやって来た。

会場には朝早くから沢山の人が来ている。

遠くの方でレイチェルとショーンが僕に気づいて手を振っているのが見えた。

人ごみの中にはチラホラと取材に来ているカメラクルーの姿なんかも見える。

こんなに大勢の人がビーチにいる光景を見たのは生まれて初めてだ。

それだけでもこの大会『レジェンド ウェーブ マスターズ』の規模の大きさが分かる。

ルールはこうだ。

先ず最初に僕が出場するビギナーズクラスの予選が行われる。

エントリー選手を4人一組に分けて、20分間の制限時間内により多くポイントを取った上位二人が次のブロックに上がれるって訳だ。

ビギナーズと言っても入る波はマスターズクラスと同じ。

波の状況によっては危険も伴う過酷な戦いになる。

受付を済ませて選手控えコーナーの方へ行くと僕と同じ組の所には既に二人の選手が来ていた。

「やあ初めまして。 僕は健二って言います。 今日は宜しくね。」

「俺はジョルジュだ。 ワイルクの町からやって来た。 あんたには悪いが優勝は俺がもらうぜ」

ジョルジュは随分と威勢のいい男だった。

外見から察するにハワイの現地人のようだ。

日焼けした体に金髪のカラーが強面の雰囲気を一層深めている。

かなり手恐そうな相手だ。

そして僕はもう一人の選手にも声をかけた。

「やぁどうも。 健二って言います。 日本から来ました。 君は何処から来たんだい?」

「あっ あのぼっ僕はロバートって言います。 ハナの町から来ました。」

「ほんとに? 僕、この間ハナへ行ったところなんだ。 凄くキレイな町だよね。」

ロバートはかなり緊張した様子だった。

「僕は最近サーフィンを始めたばかりなんだ。 多分この中じゃ一番下手くそだと思うけど今日はお手柔らかに頼むよ」

僕はロバートをリラックスさせる為にそう言った。

すると彼は顔を強張らせてこう返してきたんだ。

「じっ実は僕、サーフィンするの今日が初めてなんだ」

「なんだって? ちょっと待ってくれよ。 いくらなんでもそれは無茶だよ」

「あぁ僕もそう思う。 でも彼女に見栄をはっちゃったんだ。 サーフィンが得意だって。 そしたらこの大会に出なよって事になっちゃって」

「あ〜あぁなんてこった。 なんでそんな馬鹿げた嘘をついたんだい?」

「彼女がサーフィンできる男の子が好きだって言うもんだから」

「呆れた話だけどここまで来た以上もう逃げれないね。 今日はお互い頑張ろう」

僕がロバートと握手をしていると突然会場からどよめきの声が上がった。

波の様子が変わってきたんだ・・・


海は色んな表情を持っている。

大きな心で全てを包み込んでくれる優しい顔や、傷ついた心を癒してくれる穏やかな顔。

しかしそれは時として全てを破壊してしまう恐ろしい顔になる事だってある。

今、僕達の目の前に現れたのは、まさに怒りを露にした悪魔のような海だ。

この大会に対する挑戦状のようにも見える。

あの波にまともに飲み込まれてしまったら危険なのは間違いない。

僕にできるだろうか・・・

そして大きなサイレンと共に 『レジェンド ウェーブ マスターズ』 は始まった。

ビギナーズクラスは全8組で争われる。

僕達の組は2番目だ。

先ず最初の4人が合図で一斉に海へ向かって走って行った。

波の押しが強すぎて沖へ出るのに手こずっている選手も見える。

しかしみんなビギナーとは思えないほど勇敢にアタックを繰り返していた。

そして試合も中盤に差し掛かってきた頃に一人の選手が波に乗り切れずに飲み込まれてしまったんだ。

息つく間もなく次の波が押し寄せてきて、やがて彼の姿は消えてしまった。

レスキュー隊が一斉にジェットスキーを選手の所まで走らせて行く。

大きなエンジン音がかき消される程の轟音の中で、僕達は息を殺して彼の無事を祈った。

幸いにもなんとか彼は助かったようだ。

波というのは通常3本から5本がほぼ一定の間隔でセットになってやってくる。

最初の波に巻かれてからすぐに体制を整えなければまた次の波が襲ってくるって訳だ。

「ロバート、今からテクニックを磨く事は出来ないけどみんなの動きをよく見ておくんだ」

僕はロバートに知りうる限りの知識を教え続けた。

自分が緊張している事なんて忘れてしまうほどに。

そしていよいよ僕達の順番が回ってきた。

どうやら僕達の組に入るはずだった一人は棄権したようだ。

確かにこの波じゃ怖気づいてもしょうがない。

「ロバート、君はどうする? ここで止めても誰も君を笑ったりしないよ」

「いっいや 大丈夫。 とにかくやってみるよ」

ジョルジュも覚悟を決めたようだった。

僕は彼らの表情を見ながら自分自身にも気合を入れ直した。 

やがて大会のスタッフに促されてスタート地点まで行くと、僕は大きく深呼吸をした。




そしてレイチェルとショーンに向かってウィンクてからもう海を睨み付けた。

もうやるしかない。

そして合図と共に僕達3人は海へと走って行った。

海水はとても冷たかったが、逆にそれが気持ちを引き締める役にも立っていた。

ジョルジュは既にパドリングを始めている。

そして視線をロバートの方へ向けると彼はやはり手こずっているようだった。

「ロバート! 頑張れ! 胸を反らせて思いっきり漕ぐんだ」

「おいっ そんなノロマな奴の事は放っておけ。 あんた勝ちたいんだろ?」

ジュルジュの忠告は正しかった。

確かに僕は勝つ為にここへやって来たんだ。

「ロバート、とにかく頑張るんだ。 僕達は先に沖へ出て待っているからね」

そして僕は、大波へ向かってパドリングを始めた・・・

波を越えて沖へ抜けるにはいくつかの方法がある。

僕はドルフィンスルーを選んだ。

これは波にぶつかる直前にサーフボードごと海中に潜る技だ。

「なかなかやるじゃないか」

ジョルジュが意外そうな顔で僕の方を見ている。

「あぁ この日の為に毎日練習してたからね。 それよりロバートは大丈夫かな」

「あんたまだそんな事言ってるのか。 あんな素人がこの波を越えて来れる訳ないじゃないか」

「来るさ、ロバートは必ず来る」

僕は岸を見ながらロバートの姿を探していた。

その時だった。

なんとロバートが波を越えてやって来たんだ。

決してキレイなフォームでは無かった。

でも確かに彼は自分の力でここまで来たんだ。

「やったじゃないかロバート。 初めてでここまで来れるなんて凄いよ」

「あっありがとう。 健二のお陰だよ。 君のアドバイスがなかったら無理だったと思う」

ジョルジュもこれにはかなり驚いた様子だった。

「確かにド素人でここまで来れたのはすげえよ。 でもお二人さん、友情ごっこもいいけどここは戦いの場なんだぜ。 大会のルールじゃ一人でも棄権者が出るとその組からは一人しか上に行けないんだ。 つまり全員が敵同士って訳だ。 さぁデカイ波がやって来たぜ」

振り返ると目の前に波が近づいていた。

第一ラウンドの始まりだった。

僕達は板を180度回転させると岸へ向かって素早くパドリングを始めた。

通常一つの波に乗れるのは一人だけってのがサーフィンの基本的なルールだ。

もし先に波を奪われたら他の人間は譲らなくてはいけない。

もし進行方向を妨害するような事になれば最も危険な行為として即失格になってしまう。

どうやら一本目はジョルジュが持っていきそうだ。

彼は素早く波に乗ると勢いよく立ち上がった。

「この波は俺がもらったぜ」

ジョルジュのライドはとても独特だった。

乗るというよりも波に食らいつくと言った方が正しいかもしれない。

その野生的な姿はとても力強く、見るものを圧倒する力を持っていた。

きっと近い将来、彼は有名なトップサーファーになるに違いない。

そして次は僕の番だ。

なかなか形のいい波がやって来た。

僕は全速力でパドリングを開始した。

体に父の感覚はなかったが、僕は既に全てのタイミングを得とくしている。

暴れる板を必死で押さえながら踏ん張った。

想像を超える波の力を全身で感じながら僕は波と一つになった。

これがサーフィンの醍醐味だ。

こんなに素晴らしい世界を教えてくれた父やショーン、そしてレイチェルやマウイのみんなに心から感謝したい。

「あんたなかなかやるじゃないか。 でも技術は俺の方が上だ」

「まだまだ勝負はこれからさ」

僕達は必死になってポイントを奪う為に競い合った。

ロバートも何度かチャレンジしているがなかなかタイミングが合わないようだ。

でもここまで来ただけでも大したもんだと思う。

そして残り時間があとわずかって所で最後に特大の波が向かって来た。

おそらく今日一番の大きさだろう。

僕はジョルジュとの最後の一騎打ちに挑んだ。

そして波を勝ち取ったんだ。

今まで味わった事のないような巨大な力に板が持っていかれそうになっている。

ここでもし失敗すれば大変な事になってしまう。

僕はなんとか体制を整えようと踏ん張った。

よしこれで大丈夫だ。

そう思った次の瞬間だった。

僕の目の前にロバートの姿が現れたんだ・・・

僕はロバートとぶつかる直前に板を思いっきり後ろに蹴飛ばしてなんとか接触だけは避ける事が出来た。

しかし同時に海へ投げ出された僕は、そのまま波の中へと吸い込まれてしまったんだ・・・

僕は必死になってもがいたがもはやどうする事も出来ない。

薄れてゆく意識の中で口の中から溢れ出る沢山の泡を見つめながら、僕は死を覚悟していた。

やがて目の前から全ての光が消えた・・・


・・・それから何分、何時間経っただろうか。

薄っすらと人影が見える。

代わる代わるに浴びせられる人の声で僕は目を覚ました。

助かった。

どうやら僕は、死なずに済んだようだ。

そして真っ先にレイチェルの顔が視界に飛び込んできた。

<レイチェル・・・>

彼女の名を呼ぼうとしたが声が出ない。

何故だ。

意識はあるのに体も言うことを利かない。

もしかしたら父の記憶が完全に蘇ったのかもしれない。

僕の名を叫ぶ彼女の声だけが聞こえていた。

<レイチェル。 僕はここにいるよ>

そしてレイチェルの隣にはショーンの姿も見える。

<そんなに泣かないでショーン、僕はちゃんと生きているよ>

ラッシュの姿も・・・

ラッシュの体は水浸しになっていた。

僕を助ける為に海へ飛び込んだんだろうか。

あんなに海を怖がっていたのに・・・

涙が込み上げてきたがそれすらも流す事が出来ない。

みんな手が届くほど近くにいるのに。

こんなにも突然に別れが来るなんて。

もっと早くレイチェルに想いを伝えておけばよかった。

もっとみんなと沢山の思い出を作っておけばよかった。

楽しかった日々が目の前から消えていく。

やがて視界も少しずつボヤけ始めた。

僕は最後の力を振り絞ってこう叫んだ。

<みんな、ありがとう・・・>

その声が届いたかどうかは分からない。

そして僕は、再び真っ暗な闇の中へと吸い込まれていった・・・


・・・そこには漆黒の闇と静寂だけが広がっている。

絶望と孤独に襲われながら、それでも僕は諦めずに歩き続けた。

何処かに出口があると信じて・・・

ふと遠くの方で僕の名を呼ぶ声が聞こえる。

いったい誰がこんな所にいるっていうんだ。

「誰ですか?」

僕はありったけの声で叫んだ。

そしてその声が近づいてきた時、それが誰なのかはっきりと分かった。

母さんの声だ。

久しぶりに聞く母の声。

懐かしさと共に少し気まずい気持ちにもなった。

僕は母を捨てて家を出てしまった人間だ。

いったいどんな顔で会えばいいんだろう。

でも今の僕なら・・・

僕は声だけを頼りに母の姿を探した。

そしてついに見つけたんだ。

「母さん! どうしてここに?」

「健二・・・ 健二なのね。 本当に・・・よかった。 さぁ今すぐここから抜け出すのよ」

「ちょっと待ってよ。 抜け出すってどうやって? それにここはいったい・・・」

「いいから早く。 このままだとあなたは死んでしまうのよ」

「なんだって? じゃあここは死への入り口って事なのかい?」

しかし母は質問に答えてはくれず、黙ったまま僕の前を歩き始めた。

この時見た母の後ろ姿はとても細く、弱々しく感じた。

こんなに小さな体で僕を一人で育ててくれたのか・・・

「ねぇ母さん、もし僕が生き返ったら一緒に旅行へ行かない? 連れて行きたい場所があるんだ」

すると母は急に立ち止まって僕の方へ振り向くと、小さく頷いてこう言った。

「ええ 今まであなたを何処へも連れて行ってあげれなかったですもんね。 ホントにごめんなさい」

「そんな、謝らないでよ。 僕だって母さんに迷惑ばかりかけていたんだし。 これからはちゃんと親孝行するからね」

母はニコッと笑うとまた前を向いて歩き出した。

その時、母の頬には一筋の涙が流れていた。

それから僕達は30分くらいは歩いただろうか。

やがて先の方に小さな光が見え始めた。

「健二、あそこが出口よ。 さぁ行きなさい」

「行きなさいって、母さんは?」

「私なら大丈夫。 とにかく時間が無いの、早く!」

僕は母に言われるままに出口の方へと歩いていった。

手前まで来て振り返ると、そこにはもう母の姿は無かった。

これも夢なんだろうか。

そして僕は、光の中へと入って行った・・・


・・・ピーッ ピーッ ピーッ ピーッ ピーッ ピーッ

目覚まし時計の音だろうか。

なにかの電子音が聞こえる。

そして眩しい光に僕は目を覚ました。

どうやらここは手術室のようだ。

すぐに年配の医師らしき人が僕の顔を覗き込んできた。

「私の声が聞こえますか?」

「はいっ 聞こえます・・・」

しばらく続いた沈黙の後、部屋中のあちらこちらから歓声の声が上がった。

「よかったですね、あなたは助かったんですよ」

先生が満面の笑みを浮かべながらそう言った。

そう、どうやら無事に元の世界に戻れたようだ。

それからすぐに、僕は病室へと移された。

看護師さんの話によると、2ヶ月ほど前に交通事故に巻き込まれてしまった僕は、この病院へ運ばれたそうだ。

その時は出血がひどく、一時は生死を彷徨う程の重症だったらしい。

幸い一命は取り留めたものの、今日まで昏睡状態が続いていたという。

「ところで看護師さん、僕の母は今何処にいるんですか?」

すると彼女は一瞬ためらったような顔をした後で、こう答えてくれた。

「本当は先生からあなたの様態が回復してから話すようにと言われてたんですが、お母様は2週間ほど前にお亡くなりになられたんです」

「なんだって? それは本当なんですか? 何で・・・」

話によると母は過労で倒れてしまい、そのまま帰らぬ人になってしまったそうだ。

仕事と僕の看病の毎日で、食事や睡眠もろくにとらない生活を1ヶ月半以上も続けていたという。

元々体が丈夫ではなかった母にとって、それはとても過酷な毎日だったに違いない。

そして死を迎える最後の最後まで、僕の名を呼んでいたそうだ。

今まで母に対して思い描いていた気持ちが間違っていた事をあらためて知った僕は、その日初めて人前で涙を流した・・・



・・・それから半年が過ぎようとしている。

事故前に勤めていた会社に復帰できた僕は、毎日一生懸命働いている。

仕事は楽しい事ばかりじゃないけど、死んだ母の為にも生きなくてはいけないって思うんだ。

それに僕は昔の僕じゃない。

そう、マウイで出会った仲間達に人生の楽しみ方を教わったんだから。

地図で探してみたけど、結局ワイケレって町を見つける事は出来なかった。

だからあれが夢だったのかどうかは分からない。

一生考えたって答えは見つからないだろう。

でもあのとき以来変わった事が沢山ある。

サーフィンを始めたし、実は最近犬も飼い始めたんだ。

名前はもちろんラッシュ。

こいつがいるからさみしくはないけど、今でも時々みんなの事を思い出す時がある。

そんな時は目を閉じて海の音を聞くんだ。

そうすればいつだってみんなに会える。

「彼女」の歌声を聴けば、レイチェルの優しい笑顔が見える・・・


僕は、今日もラッシュと一緒にサーフボードを載せた車で海へ向かっている。

カーステレオから流れる、ノラ ジョーンズを聴きながら・・・・・・




おわり


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