紅い光の舞う夜だった。青白さのうち裏を秘めたるそれは,美しくもあり,又,不気味でもあった。それを瞳に映しつつ,ぼんやりと独り何やら座している。漢(おとこ)は,杯を軽く手にしていた。 「何にござりましょう。」 やがて,髪をあちらこちらに散らばせた者がずかずかと入ってきた。一応武士の形(なり)はしているが,その着込み様はとても立派なものとは言えない。言葉も少し投げやりな深いもので,礼をすることすら知らないらしい。 「いや,何も」 一方の漢は堂々とした態度で薄い笑いさえ浮かべながら答えた。高貴,とは決して言えないが,何か奥深い,そんな趣だった。 「何もござらぬなら私はこれにて。」 其の者は立ったまま無骨な言葉を発すと漢に背を見せた。 「と,言うわけにもいきますまいな。」 が,仕方無しに,と言わんばかりに座す。 「だな」 「飲むか」 「ええ。」 「毒が」 「盛ってあるやもしれぬ」 淡々とした調子なのである。この二人はいつもこうだった。一つの言葉の間に十の言葉が隠されてゆく,そんな感じだった。彼らにしか解らない会話。何年越しの会話だろうか。それは未だに終わってはいなかった。まるで変哲のない,時勢を語るかの如く空を過ぎる言葉。其の者はそれを一気にほすと,ことんと杯を置いた。 「旨い酒でございましたが?」 「そうか」 「これから山奥にこも隠りたいかと思うのですが,そうはさせてくれませぬね。」 「無論」 「どうして明日に限っていくさば戦場などに。」 「武士として」 「武士…か。」 「ああ」 「駄目だな。」 「………」 「甘え,嫉妬,狡さ。」 それを捨てるためには戦場では駄目なのです,と。私は戦場ではただの人にしかなれないのです,と。戦場では兄が必ずや私を守ってくれるだろう。弟思いの優しい兄だ。私以上に鬼には為れぬ男。やり切れない。俺は時々,自分が何者なのかと思うのですよ。兄にばかり頼って今日まで生きてきて,何が武士です。全く風上にも置けない野郎,です。 「悲しいな。」 悔しいな。生温い前田を捨て,佐脇に行ったのに,ですよ。俺は誰よりも馬鹿だ。俺は, 「血は美しい」 唐突に漢は言った。 「そうは思わぬか」 「何をっ!」 「俺は万人の血を見ていると嬉しくてたまらんな」 「と,言うと殺されそうだがな」 見ると背後で刀に手をかける彼の姿があった。 「実際馬鹿だよ,お前は」 「少なくともこの時代では,な」
「剣に交わりて散れ」 低い声。 「多くの緋を流し,広大な地で荒れ狂え」
「なあ,お前。自分だけが間違っていると思うか。自分だけが馬鹿だと思うか。もしそう思ってるのなら,お前は本当の馬鹿だよ。あり得ないぐらいの馬鹿者だ。だがな,俺の方が馬鹿だとは思わないか。他の人の方が馬鹿だとは思わぬか。ム世間全てが間違ってるのだ。この世全てが偽りなのだ」 「でも,その偽りの中で生きてゆかねばならぬのです。」 すると漢は立ち上がり高らかに笑った。人を馬鹿にしたような,あざけるかのような,誇り高き者ならばすぐにでも斬ってしまいそうな。 「人は」 「生を尊いと思い,死を存在し得ぬものと思う」 「」 「人は何故戦などという馬鹿げたことをすると思う?」 紅く,黒く,白く。 「弱いから,」 「だとは思わないか。」 「人は常に死を求めてるんだ。心のどこかで自分を殺してくれる人を捜してる。それだけれど,人は弱い。死を求めつつもそれが何なのかを心得ていないばかりに逃げ出そうとする。そういうものさ。そういうものなのだ」 蒼く,白く,黒く。 「死ぬことは人の強さ。」 「そう」 一粒,二粒。流れ出る滴が,燃える空を沈めてゆく。 「全く。悪友でございますね。平気で人に死ねと申される。」 「お前の兄に斬られてしまうやもしれぬな」 それから漢は笑った。 「あの男は弱いから。…だが,そういう男も必要だな。ああ,俺には…なれないな」 「兄は誰よりも弱い,馬鹿正直な…よい男にございますよ。」
暫くの間,沈黙が場を制した。その間にも炎は少しずつ,しかし確かに消えてゆく。 「舞を。」 彼は言った。 「お願いいたします。私,いや俺のために舞を舞ってはいただけないでしょうか。さすれば,」
「次に御屋形様が舞った折りには多くの滴を天より降らせましょうぞ。」 其の者はすると,音も立てずにたちあがり髪を結いた。先程とはうって変わって鋭い目つきをすると,それはもはや武士以外の何者でもなかった。何か内に秘めたるものが瞳から見え隠れする 「さらば,利之」 その後ろ姿はやがて音の中に消えていった…。 翌日,空は晴れ晴れと透き通り,爽風が木の葉を舞わせた。屋敷の中庭で低く通った声が響く。 あの時の利之は輝いていた。などと,物語の中のようなことを漢は思っていた。我ながら。人と交わるなどとは縁のない話。まして友などと…,と思うのだ。尾張の大うつ虚けとして振る舞い,戦国一の狂乱者として振る舞い,人を裏切り,人をあや殺め,今更人を信ずるなどと。 利之………。 俺は又お前までも殺めてしまったのか?俺は友と称した男まで殺めてしまったのか。狂ってる。俺は狂ってるよ。 男は,はたと足を止めた。今まで自分の声でかき消されていた静寂というものを改めて認識する。 本当に俺は虚けさ。
男は再び舞い始めた。
激動の時代,戦国の世である。 この世の正しさの乱れた時代。 何が正しいのだろう。 何が誤っているのだろう。 お願いいたします。私,いや俺のために舞を舞ってはいただけないでしょうか。さすれば,次に御屋形様が舞った折りには多くの滴を天より降らせましょうぞ。
「舞ってしまったよ,利之。」 漢は目の前にあの時の情景を映し出していた。 紅い光。青白さを裏に秘めたる…。 炎の中。
「人間五十年。」 障子は焼け,床には広がり。しかし,舞うには十分な広さであった。結いていた髪を下ろし,それを刀剣でばさっと斬る。 「利之!見よ,この舞を。信長最高の舞を!信長最期の舞を!一つの時代が終わったのだ。この虚けにも死が訪れようとしている。…嬉しいことよのう。」
「俺のために泣いてくれ」 「さすれば,」 「俺はお前のために舞おうぞ。」
本能寺からは,漢の髪はあったけれども,屍はついぞや見つからなかった。
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