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作品名:境界 作者:東 広

第1回   あしたへの縛り
「私に生きる価値なんてないんだ」
 濡れた頬が隠れるような雨の中、傘もかぶらず森の中でたたずむ少女がいた。少女の右腕には銀色が輝く真新しいカッターナイフが強く握られていた。少女は唇を噛み締め、左手にカッターナイフをあてた。雨が降っているにもかかわらず、カッターナイフの冷たさが少女に襲い掛かった。それでも少女は意を決して、左手首の頚動脈にカッターナイフを滑らせた。一度滑らしたが、傷は浅い。出血もわずかだ。少女はもう一度同じ場所にカッターナイフをあてた。今度は目を瞑り神経を右手だけに集中した。雷の音と共に少女は二度目の痛みを感じた。大量の出血が少女の腕から雨と共に流れる。少女は何度も同じ場所を切った。我を忘れ、荒れ狂ったかのように右手を動かした。血走る目に涙も浮かべている。それでもカッターナイフを離さず切った。『あした』が来ないことを望みながら――。

 雨…雨の音が聞こえる。音…生きている…。私は生きている。

 少女には音しか聞こえず、冷たさを感じることはなかった。それどころか背中には濡れているはずの服の冷たさも無くフカフカした感触、暖かさすら感じられた。しかし、感じるだけで少女は体の自由がきかず、目も開けられない。幸い、自分でコントロールできないのは視覚だけであって、ほかの四感は確認できた。朦朧とした意識で、耳をすませる。
 「間一髪ですね。なんであんなことをしたんでしょうか」
 声だけでは十代後半で声変わりした直後といった声だった。
 「私に聞かないでよ。彼女はまだ目覚めないの?」
 もう一人は女性の声だった。声で聞くと二十代前半。しゃべりながら何か飲み物を注いでいるようだった。そして、すぐ少し低い声で「すみません」という声が聞こえた。どうやら何かを受け取ったらしい。
 「あなたも何か飲みますか?そろそろ目覚めている頃ですよ?」
 少女は驚いた。驚きと同時に目に力を入れた。まぶしい光が少女を包んだ。目が開いた。
 「おはようございます。よく眠れましたかって聞くのは間違っていますね。どうやら永遠の眠りを希望していたみたいですから」
 少女は声のほうを向いた。察したとおり、十代後半といっても十五、六歳の男の子だった。彼は白衣をまとい、右手に持ったコーヒーをすすっていた。少女がその姿をきょとんとした表情で見ていると、
「ようやくお目覚めね」
 クールな声が聞こえた。さっきの女性の声だ。彼女もまた右手にコーヒーカップを持っていた。こちらも少女が察したとおり、二十代前半といったところだ。
少女は上半身を起こし部屋を見回した。壁にはいくつもの紙が張ってある。フローリングの床や木の机には散乱した資料や試験管、フラスコといった科学的実験の道具がいたるところにあった。
服やスーツが着投げされている以上、二人はここに住んでいるのだと解釈できる。
その中でも一際風格を見せていたのが、古びた顕微鏡だった。もう何年も使われていないかのようにほこりをかぶっていて、もはや使い物にはならない状態ということが素人の少女にもわかった。
 「僕は、京といいます。宮下京。で、こっちの女性が水木アキさんです」 
少女は顕微鏡から目を離した。アキと言われた女性は軽く右手のコーヒーカップをあげ、そのまま口に運んだ。
「私は…」
 「神薙美里さんね。失礼かとは思ったけど、持っていた生徒手帳で確認させてもらったわ。どうやら聖ミリアム学園の生徒みたいね」アキが冷静な口調で言う。
 「へぇ、聖ミリアム学園っていえば、世界的有名な学校ですね。日本の中では一、二を争う学校だって聞いたことがあります」
京は腕を組みながらうんうんとうなずいた。
 「私は、美里…聖ミリアムの生徒…そうだわ。でも…」
 辛そうにうつむく美里の目に涙がこぼれた。それを見た京は少し声を張り上げ、
 「僕達でよかったら力になれるかもしれません。何があったか話してみてください」
 京の目は真剣だった。真剣で迷いが無い、まるで疑うすべも無いまっすぐな目線。美里は思わずその目の中に吸い込まれそうになった。見つめた目は逸らすことができず、二人は見つめ合ったまま瞬きも忘れていた。そこに水をさすように遠くから声が聞こえた。
 「お二人さん、見つめ合ってないで話し聞けば。これだからガキ同士は困るのよね。京もそんな甘い事言わないでよ。元々何があったかは聞く予定だったの。そして、あなたにはそれを断る権利は無いの。義務なのよ、義務。わかった?」
 スラスラ言葉が出てくるアキを二人はただ見つめるだけだった。アキの言葉を聞いた美里はベッドから足を出し、手を膝の上に置き、二人を見た。
 「わかりました。話します。なんであんなことしたか…」


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