矢は、右へ外れた。 風に流される分を見込んだが、ふと風が止んだのだ。 その前に放った矢は、的の手前で地に刺さっていた。 先ほどから新三郎の放つ矢は、的に当たったためしが無い。 使い慣れた場所であるのに、十五間先の地面すれすれに置かれた巻きわらが、いつもより遠くなったように見えはじめていた。 昨年、十三歳で元服した際用意した弓は、彼の背丈が伸びた為十分な引きが取れなくなっていた。そこで今朝から二寸長いものに換えたのだが、今ひとつ加減が呑み込めていなかった。 新しい弓は思ったよりも弦の返りが早かった。 「当たりませぬなあ」と上の妹が不満げに言うと、「あたりませぬなあ」と下の妹が、回らぬ口でまねをした。上の千世は六歳。下の登代は四歳になったばかりである。いつもは苦も無く的を射当てる兄を誇らしく思っている妹達は、今日の不手際に、しびれを切らし始めたらしい。二人は、普段は屋敷奥の中庭に突き出た母屋の縁で、お人形や飯事遊びをしているのだが、兄が弓の稽古を始めると時々見に来ては、母親の初へ得意になって報告に戻るのである。 新三郎は、男勝りの弓の名手といわれた母親の血を引いている為か、小さな頃から不思議と勘が働いて、滅多に的を外すということが無い。それだから、一族の者やこの家に仕える古い下人達からも先々代様に生き写しだの、若様なら波栗党も安泰だのという声が聞こえて来ている。 昨年、代々国主を務めた織田宗家を倒して、庶家の出である織田彈正忠の息子がこの尾張の国を統一した。 しかし、それで終わるはずはないと誰もが思っているから、そろそろ大戦が近いのではないかという噂がもっぱらであった。事実、最近三河から戻った商人によれば、駿河では刀と米が良い値で売れるという話である。今、波栗一党を率いている新三郎の父次郎左衛門宗重はこの地の名門堀田家から婿に入った人だから、一族の結束を高める上でも、最も正統な後継者である新三郎に対する周囲の期待は並々ではないものがある。それは、当人の新三郎もよく承知していることだった。 だからこそ、誰の目にも恥ずかしくない腕前を常に示さなければならなかった。 新三郎は、思わず庭に出ている者達を見回した。皆一様に目を伏せて、そ知らぬ顔をしている。 矢場は、厩のある裏庭の中ほどに、竹林に面した土塀に向けて設けられている。特に見ている訳ではなくても、家の用事をしている者達からは、的が良く見えているはずである。
――矢の勢いが足りぬのか。
新三郎は鼻で深々と息を吸い込んでから、弦を大きく引き込んで、また放った。 すると、今度は上ずって後ろの土塀の屋根に当たり、砕け散った瓦の破片と共に、跳ね返されてよろよろと地に落ちた。 新三郎は色を失って立ち尽くした。本来なら矢をいま少し重いものに換えるべきであったのだ。それが、気持ちが追い込まれて焦ったものだから、全く逆のことをやってしまった。 これには妹達も流石に驚いたらしく、こんどは何も言わずに下を向いてしまった。 まるでその場の人々の動揺を察したかのように、ちぎれ雲が日に照らされて、陰を作りながら新三郎達の上を横切っていった。 「おお、上達なされた。重藤の弓をそこまで大きく引かれるようになられたか」 突然の太い声に、驚いて振り向くと、盾のように角ばった肩をした大柄な老人が立っていた。 「よろしゅうござる、よろしゅうござる」 老人は、慌てて向きを変えた新三郎を制するように、両の掌を広げながら言った。 新三郎は、一族の長老である波栗新五左衛門を威儀を正して迎える姿勢をとった。新五左衛門は先代の当主波栗四郎次郎の弟であり、近隣に聞こえた武勇の将でもある。 もう七十歳を超えていると思われるのに、鋭い眼光と大きな口が向かう者にまるで大波が押し寄せるような威圧感を与えている。 新三郎は、前に歩こうとして、思わず足が竦んだのが分かった。 「いや、良いのでござる。お続けになられるがよろしい」 「ちと、次郎左衛門殿のご機嫌伺いに参ったまででござる」 老人は、くるりと向きを変えて、すたすたと母屋の方へ行ってしまった。
――叔父上様は、それがしの腕前を疑ってはおられぬ。
何の懸念も見せずにその場を立ち去った老人の姿には、新三郎に対する信頼が現れていた。 新三郎は、ふと肩の力が抜けたように感じた。 何ほどのこともないではないか、新しい弓が少しばかり元気が良いだけのことだと新三郎は思った。
空の高い方は風が強いのか、切れ切れに固まった雲が、流れるように動いている。初夏の日が、綿のようなこんもりとした雲から顔を出すと、建物の屋根や地面から強い日差しが跳ね返って、あたりが一層明るくなった。 新三郎は、落ち着いて、矢立てからやや太目の矢を選んだ。 弓を少し軽めに引くと、先程までは見えなかったものが見えたような気がして、静かに矢を放った。 今度は、的の中央から上へ、半分くらいに当たった。 一同が、おおと声を上げる。 妹達は目を見開いて、輝くような眼差しで新三郎を見つめている。 先程まで、荒馬がいきり立っているかのように思われた弓が、今は新三郎の手に静かに納まっていた。 それからは、矢は面白いように次々と当たった。
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