丸住商事の受注報告会があった翌週。 純一と沙織は、クリスマスイブを目前にした楽し気な人たちが、賑やかに通りを行き交う夕暮れ時に品川のイタリアンレストランで会った。
ふたりが丸住商事のプロジェクトで再会し、改めて付き合いを始めようと確かめ合った最初に来た時と違い、寛いで食事を楽しんでいた。 純一は伝えたいことがあると言って沙織を食事に誘っていた。 ワインで少し頬を赤くした沙織の方から先に純一に話しかけた。 「ねえ、わたしから先に話していい?」 「いいけど、何かあった?」 「一週間くらい前になるけど、正式に辞表を出していたの。昨日、設計部長と人事課長から呼ばれて、会社を辞めなくていいことになったのよ……」 「待って。九月までは分かるけど、諏訪に移ったらどうなるの?」 「会社でやっていた作業は出社しなくても何処でやってくれてもいいし、現場確認や物品調達のための会社回りなんかは、報告さえすれば自由にしていいと云う条件なの」 「雇用に関わる他の条件は、社会保険なんか?」 「出来高契約にするから、提示して納得できた仕事だけ責任をもってやってもらいたいって。 最低の基本給を保証して対応はできるけど、ご主人の扶養家族にするかどうかは任せますって」 「いい会社なんだね……」 「成功報酬はクライアントとの契約金額によって支払う歩合は話し合って決めることでどうかって。そういう提案だったの……」 「沙ーちゃんが納得いけば、やりやすい方法で決めればいいと思うよ……」 「純ちゃんは、まだ考えてないと思うけど、将来子供ができて産休とか育休とかが必要なら、仕事を控えて貰ってもいいから会社には籍を置いて欲しいって……」 「沙ーちゃんは優秀なんだな……。会社の提案は理解できるよ……。良い提案だと思うけど……」 「そうでしょ。何処にいても仕事を選んでやればいいし。一緒に居られるんだから……」 「無理はしないように頼むよ……」 「純ちゃんからも何かあるんでしょ?」 「うん、まず、婚姻届けは二月中には済まそう……、と云うのは新しい電算機の稼働が九月に伸びそうなのは話していた通りなんだけど、独身寮や社宅は四月からの契約が済んでいるらしいんだ。 管理部から業務に支障が無ければ、業務移転と社員移動は可能になり次第、始めるように指示が来てるから。 稲村くんと僕たちは新婚家庭と云うことで、総務から社宅の手続きを進めるから書類を提出するように連絡があったんだ。 社内規定で家族用社宅は配偶者か子供が居なければ駄目らしいから……」 「いいんじゃない、わたしは何時でもいいわ。純ちゃんの都合で進めて……。 それじゃあ稲村さんも結婚式より先に席を入れちゃうのね。」 「うん、そう云うこと。だから婚姻届けはそうしよう。……それはいいんだけど、そうなると藍子の結婚式に出席するとしたら、僕らは新婚夫婦と云うことになるだろ?……」 「それは、そうなるわね」 「お袋は沙織ちゃんは結婚式を挙げてないのに、藍子の結婚式に出席して貰うのは不憫だし可哀そうだって、心配して来ているんだ。 僕らは忙しいと云えば忙しい状況になるだろうから、欠席しても構わないと僕は思ってる……」 「そんなこと心配いらないわ」 「ほんとに?、無理はしないでいいんだ……」 「無理はしていないわ。わたしは母の性格も引き継いでいるから、意外とマイペースな処はあるけど、母みたいに周りに迷惑は掛けないわ。 自分のことで、どうしても譲れないなんて拘るようなことは余りないのよ。 お義母さんが心配してくださるのは、とても嬉しい。でもね、わたしは純ちゃんと夫婦で出席できることの方が嬉しいわ。 藍子ちゃんに頼まれたの、披露宴でわたしたちふたりにピアノ演奏をして欲しいって……。 純ちゃんの移動が伸びたことで出席できるんだから、良かったと思っているのよ……」 「そうか、いいんだね……」 「ええ、わたしのお仕事の方も、いい方向に行きそうだし、社宅が決まり次第、移りましょうよ?」 「流石に優秀な社員は切り替えが早いね……。よし、問題解決……。 でもそうなると稲村くんの結婚式は東京だから、僕らも諏訪から来て、暫く措いて京都か……」 「稲村さんも友人が東京に多いからと思って東京にされたのよね、親類の方たちも上京されるの大変ね」 「そうなんだよ、同期の仲間もそれぞれ移転が始まっているから、東京に戻って来る形になるからね……」 「そうだわ、東京に居る間にピアノの練習ができるところを探さなきゃ。少しは練習しないと藍子ちゃんに迷惑かけられないから」 「何を演奏しようと思ってるの?」 「相談なんだけど、あれはどうかしら……、三回生の時の秋の音楽祭で交響楽団と混声合唱団がクラシックで、ピアノクラブはクラシック以外の演奏をして欲しいと言わたでしょ、それでポップスとかスタンダード曲を演奏しようってことになった……」 「思い出した。ピアノを弾きながらデュエットしたよね……」 「そう、二回生の山瀬さんと奥田くんが連弾でクィーンの“ボヘミアンラプソディー”を演奏するから、君らは歌えって、長谷野先輩が決めたのよ……」 「“サムホェアー.アウト.ゼアァー”だった。そう云えば結構練習したなあ……。 先輩からはピアノは連弾でデュエットはハモリを加えるように注文されて……。 ピアノのアレンジ、覚えているかなー、ちょっと不安だな。沙ーちゃんは覚えているの?」 「もちろんよ。だって純ちゃんと演奏するのは、待って待って、やっと二回目だったんだから……。 定期演奏会じゃなかったけど、ピアノと歌で共演できて嬉しかった。いい思い出だもの……。 最初の共演は定期演奏会のピアノ連弾だったのに、その後、どの部長も卒業するまで純ちゃんとの共演機会を作ってくれなかったのよね……。 もしかしたら家に楽譜があるかも知れない……お母さんに探してもらうわ」 「そうだった……。あの時、長谷野先輩が僕らの演奏が済んだ時、僕に沙ーちゃんと何かあるだろって言って来たんだ……。 今まで気付かなかったけど、先輩はあの時のことを覚えていたんだ。そうか、それで名古屋であんなこと言ったのか……」 「あれって、長谷野先輩が英語が得意だったからだけど、わたし達に何か勘づいて共演させてくれたのかも知れないわね……」 「そうかも知れないな、僕が沙ーちゃんに何もしなかったから……」 「それとは関係ないと思うけど……。ねえ、一緒にピアノを弾きたいから、練習場所は任せてね……」 「いいよ、頼むよ……。稲村くんも、僕ら夫婦で余興を頼むって言ってたから、藍子の結婚式のリハーサルみたいで申し訳ないけど、練習はしておかないと……」
純一は周りで変化が生じても、何も問題なく進んで行くことが不思議に思えた。
新年度に入り、四月には下見に行った上諏訪駅の東南に在る一軒家の住宅が決まり、何時でも入居していいと総務から連絡があった。 稲村は釣りをやるからと、上諏訪駅の西側、諏訪湖寄りの住宅を選んで上機嫌だった。
純一と沙織は既に婚姻届けを済ましていたが、まだ、東京で夫々の住まいに別れて住んでいた。 この頃になって、諏訪市に設置された大型コンピューターが七月から使用可能見込みに変わり、企画設計部も電算機室も移転準備作業で慌ただしくなっていた。 純一は“マルチパーパス.サーキュラー.ファシリティー”の日立市の現場に一度だけ行った。 現場には純一に代って企画設計部から主任クラスの蓑田幸次が専従で派遣されており、以後の当該シリーズ物件受注に関しては彼が担当することになっていた。 陽新プラントエンジニアリング担当の現場は、設計仕様書に従い施工管理部が中心になって順調に進んでいることを確認した。
純一は多忙なスケジュールの合間を縫って、沙織と一緒に大手事務機販売店でA1用紙が使用できるドラフター一式を選び、沙織にプレゼントした。 ドラフターは、東京で購入した家具や電気製品、家庭用品等と一緒に社宅に送る手配をした。 勤務態勢が比較的自由になった沙織に、諏訪市の社宅に先乗りして購入品を荷受けする立ち合いを頼んだ。 結婚式前の稲村も、既に会社を辞めて笛吹市の実家に帰っている婚約者の美由紀に、同じように社宅に先乗りさせていた。
五月も終わりに近い頃、純一と沙織は東京で稲村の結婚式に出席した。翌週には藍子の結婚式のために京都に帰ったが、式が終わると早々に一度諏訪の新社宅に戻り、着替えだけを残している東京の寮に帰った。
企画設計部では移転準備をしながら通常業務をするため、混乱気味の日々が続き、毎日二時間ほどの残業で遅れを取り戻すよう対処していた。 そんな日が二週間ほど続いた週末の午後三時過ぎ。 企画設計部の全ての資料や試作見本品、仕入れ各社からの資料などが収められた大型収納ロッカーなどの全てが運送業者の大型コンテナ車に積み込まれ、諏訪市の新事業所に送り出された。 広々としたフロアには、配線コードやコネクター類がころがっているだけになった。 諏訪市のオフィスには既にコンピューター端末機の接続設置が完了しており、週明けには全員が諏訪市の新設事業所に出勤することになっていた。 作業が終り、会社命令で設計企画部全員には早退の指示が出された。疲れを取って週明けから諏訪市事業所に出社しろと云うことだった。 部員は前日までに自分の引っ越しは済ませており、多くはキャリアバッグひとつで出社してきていた。 早退指示が出ると、直ぐに退社して諏訪市の社宅に向かう部員がほとんどだった。
純一もキャリアバッグを会社に持ってきていたが、直ぐには諏訪市に向かわず、ロッカールームに置いたままにして、電算機室のあるビルに向かった。 電算機室は稼働を停止したコンピューターの分解撤去作業が進んでいた。 稲村達、電算機室のメンバーが諏訪市に移動してから数日が経っていた。 純一は稲村に頼まれていた私物を引き取るために、管理部に残っている社員の元を訪ねたのだ。そこで意外な人物に会った。 広島に派遣駐在している大垣健作が管理部に来ていた。 「おい、水野くん、まだ残っていたのか?」 「ええ、今日までと云うか、三時で引っ越し完了です。大垣さんはどうして?」 「ああ、立川さんから頼まれたんだよ。電算機室に依頼するのに送った書類が返ってこないから、寄って見てきてくれってことだ。丁度、こっちに来る用事があって……」 「見つかったんですか?」 「何のことは無いよ、三日前にここから社内便で出したらしいんだけどな、今、本社の総務もごたごたしているだろ、ちょっと遅れてるみたいなんだ。さっき立川さんに状況を電話したところなんだ」 「今日はこれから?」 「うん、明日、土曜だけどクリーンルーム用の機器メーカーから来て欲しいと言われてるから今日は泊りだ。きみは、こんな時間にどうしたんだ?」 「荷出しが完了して、総務から全員早退の指示です。みんな諏訪に向って帰りました。僕もこれから帰る処ですが……もう用事は済んだんでしょ?」 「ああ、本社に行ってもガラガラの部屋が多いし、寄る所も無いんだ。いろんな部門が本社を離れてるんだな……。 間接部門のことはよく分からないけど、どうなるんだろうな……。情報がスムーズに伝わるのか、ちょっと心配だな……」 「じゃ、お茶でも行きませんか?」 「時間はいいのか?」 「ええ、六時新宿発の“特急あずさ”で帰りますから、まだ大丈夫です」
ふたりは近所のコーヒーショップに入った。 「立川さんは元気でやっておられますか?」 「うん、マイペース。今の仕事は自分に向いているって話しておられる、そう言えるひとは凄いよ、 腰は軽いし、必要とあれば独りで何処へでも訪問して、望みの物を調達してくるんだから、僕なんか当分追いつけそうもない」 「そうですか、それよりうちの長崎くんは上手くやってますか?。彼は本社に何も言ってこないから、上手くやっているだろうとは思っていますけど。 まあ、報告だけはメールでこまめにしてきていますから、問題は無いんですが……」 「よくやっているよ。そうだ、広兼さん婚約したんだよ」 「えっ、そうですか!。耳鼻科の先生ですか?」 「どうして知ってるの?……そうだよ。今年の秋に結婚するそうだ」 「会社は辞めるんですか?」 「いや、耳鼻科の先生と云っても勤務医らしいから、手伝うこともないし、子供ができるまでは辞めないって……」 「じゃあ、お祝いを言ってあげないといけないな。以前、相談に乗ってあげたことがあるんです。 その時に、相手のひとは社会人コーラスで知り合った耳鼻科の先生だと聞いていたんです」 「そうなの、短い間だったのに、きみはそんな相談に乗ってあげてたのか……。そう云えば、広兼さんの友達のサパンのシェフの娘さんも婚約したらしいよ。 恵里菜さんて云うらしいけど、水野くんはよく知っているんだって?」 「まあ、何度か飲みに誘って貰ったことはあります。そうですか、相手のひとは?」 「水野くんも知ってるだろ、シェフを手伝っていた山瀬さんて云うひと……。 水野くんの送別会の後、またみんなで行ったことがあるんだけど、あの店を継ぐそうたよ……」 「それじゃあシェフは引退ですか?」 「いや、広兼さんから聞いたのは、白島の方に料理教室を開いて、娘さんも暫くは一緒にやるらしい……」 「広兼さんと恵里菜さんは仲の良い親友みたいだから、両方が決まって良かったんじゃないかな……」 「そうだ、本社で聞いたけど、水野くん結婚したんだって?」 「はい、結婚式はしてませんけど婚姻届けは二月に……。総務から社宅に入るには既婚者でなければ駄目だと言われて、諏訪に移る前に婚姻届けを……」 「東京に帰ってから知り合った女性なのか?」 「いいえ、高校大学とクラブ活動でも一緒だった女性なんです。広島では話していませんでしたけど、彼女もプロジェクトのメンバーに参加していたので……」 「同業者か……それで再会出来たってことなんだ……」 「まあ、そう云うことです……」 「それじゃあ、技術屋さんなのか?」 「インテリアデザイン会社の一級建築士で、インテリアコーディネーターです……」 「そうか、それはおめでとう。式は挙げないの?」 「まあ、これからの状況次第ですけど、ぼくも彼女も形式にはあまり拘っていないので、やらないと思います……」
純一は五時過ぎに新幹線で広島に帰る大垣と品川駅まで一緒に行き、彼を見送ってから新宿に向かった。
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