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作品名:焦慮なき恋情〜いつか何処かで 作者:ジャンティ・マコト

第25回   去り難き日
純一が、ティーサロン.コラ.パルデを失礼することをみんなに告げると、頼田廉太郎と香織の両親の友人だと紹介された谷山葉子が、ふたり揃って近寄って来た。
頼田廉太郎が笑顔で語りかけた。
「水野さん、プロミュージシャンではないと聞いて驚いていますよ。お上手だ。いい時間を過ごさせてくれてありがとう。
気を付けて帰ってください。また何時か会えるといいですね……」
谷山葉子も続い言った。
「香織ちゃんから聞いていたけど、ほんとうだったわね。素敵でしたよ。どうもありがとうね。気を付けて……」

純一と恵里菜が店の外に出ると、磯田が真っ赤なマツダ.アテンダのエンジンを始動させて待っていた。
恵里菜を先に乗せ、純一が振り返ってお辞儀をすると、店のドアの前に七人のひと達が並んで、見送ってくれた。

駅に向かう途中の信号で停まった時だった。
磯田が助手席シートに置いていたバッグから、銀色の紐で巾着状に閉めた黒い袋を純一に渡しながら言った。
「餞別じゃないが、店で使っている物だから、持って行ってくれ……。
ウイスキーでもやりながら、この髭おやじを思い出してくれよ……。君は忘れられん来客だからな……」
「こんなにして貰ってすみません。ありがとうございます、遠慮なく頂きます。
何時か又、広島に来ることがあれば必ず寄せて貰います……」
「うん、楽しみにしとくよ、元気でな……」
暫く走行していると磯田が言った。
「そうだ、伝えておくよ。今日来ていた谷山さんはバイオリニストで交響楽団のコンミス(コンサートミストレス)なんだけど、君のピアノ演奏を絶賛していたから……。
それと頼田さんは香織さんのお父さんの元同僚なんだけど、この辺りでは名の知れたピアニストで、短大で音楽を教えておられる。
頼田さんは、いい先生に教わったのだろうと話しておられた。
僕も思うが、仕事もしっかりやりながらピアノにも力を入れて欲しいな……」
「ありがたいですけど、買い被りじゃないですか?。母から合格点をもらったことは無いですから……」
「それは、素質があると見ておられるからじゃないのかな……。まあ、考えてみたらどうだい……」
返事をする前に駅に着いた。

新幹線のホームに出ると、列車を待つひとは数えるほどしか見えなかった。
広島から京都に行く最終新幹線“のぞみ”は博多発、終着名古屋のため、何時もそんなに混むことは無い。

ホームにはポツンと純一と恵里菜の姿があった。
恵里菜が純一の正面に立って言った。
「純一さん、お願い?……キスして……」
「えっ!?……」
「純一さんのお父様みたいに……。おでこに……」
純一は理解した。
少しかがむと、そっと恵里菜の額に唇を振れた。
「ありがとう。純一さんの広島の思い出の最後のページはわたしね?」
「流石だな、そのエスプリはお母さんのディーエヌエーなのかな……。素敵だ……」
「純一さんも……、ユーモアじやなくてエスプリって云うの、センスあるわ……。
ねえ、ホームに女性が独り残るシーンなんて切ないから、此処でお別れしていい?」
「うん、その方がいい。本当にありがとう。いい思い出ができた。また何時か……」
恵里菜は身体を軽く純一の胸に寄せてから、離れて右手を出した。純一も手を出して握手をした。
「じゃあ、気を付けて帰ってください……」
「恵里菜さんも……」
恵里菜は颯爽と階段に向かって歩き始める……。映画のシーンみたいだった。
一度も振り向かず、階段の降り口に向かって歩いて行く後ろ姿は美しかった。
純一から階段までの半分以上を歩いた頃、少しだけ歩くスピードが落ちたように見えた。それでも留まることも振り返ることも無く歩き続ける。
階段近くに設置されている自動販売機の前を通るとき、ショルダーバッグの金具が一瞬キラット光った。
その直ぐ後……若草色のスプリングコートが自動販売機からこぼれる灯りを受けて純白のように変わった。そのまま後ろ姿は階段に沈んで行った……。
その一瞬の光景は、これからの恵里菜が気持ちを切り替えて行くことを予感させるものだった。
純一は恵里菜が、更に魅力のある女性に変わって行くだろうと確信した。
改めて恵里菜の持つミステリアスな魅力を想いながら、姿の見えなくなったホームを見詰めていた。
丁度その時、静かなホームに列車入線のアナウンスが大きく響いた。


新幹線自由席車両の座席は、中央辺りの左右窓際に五人ずつほどの頭部が見えるくらいで、車内は寒気が感じられるほどだった。
純一は出入口扉に近い車両の隙間にキャリアバッグを押し入れた。
席に座ると直ぐに列車は走り始めた。

岡山駅を出た辺りで、純一は、前夜ホテルで飲み残した水割りウイスキーのひと缶をボストンバックから取り出そうとしていた。
その時、バッグの中に栄食堂の主人から貰った、無造作に輪ゴムで束ねた日本手ぬぐいが目に留まった。
三枚の手ぬぐいの間に封筒が挟まれていることに気づいた。
水割りの缶はそのままに、封筒を取り出すと、便箋をゆっくりと引き抜いた。
ボールペンで走り書きのような不揃いな文字が並んでいた。

『水野くんへ
一年じゃったけど、わしら夫婦の料理をうまそうに食べてくれてありがとう。
きれいに食べた後で、器を返してくれたんは、あんたぐらいじゃ。
わしら夫婦は、あんたを息子の様に思うとったんじゃ。
息子は五年前、あんたぐらいの年にバイク事故でのう(亡く)なった。
じゃけえ、あんたが来るようになって、なんとのう嬉しかった。
あんたは、いつもおつりを持って帰えらんかったじゃろ。
これは今までのおつりの分じゃけえ、遠慮はいらん。
足しにはならんじゃろうが、うまいもんでも買(こ)うてくれんさい。
家内は、あんたが来んようになる言うて、寂しがっとる。わしも寂しい。
からだに気いつけて、元気でな。栄田正蔵 富代』
綺麗な一万円札が挟んであった。
純一はしばらくボーッとしていた。
栄食堂では、出された定食料理を何も知らずに食べていた。
夫婦両方が、手が空くと話し相手になってくれていた。
実家で食べているような気がしていた。
何時も、黙って小皿のおかずをサービスでテーブルにそっと置いてくれていた。
それがあったから、端数のおつりは貰うこと無く、置いて帰っていた。
一万円札をじっと見ていると、栄田夫婦の顔が浮かんで来た……目が潤んだ。

新神戸駅の到着予定アナウンスが流れ始めていた。
栄田夫婦の封書をバッグに戻すとき目についたのは、磯田から貰った黒い袋だった。取り出して袋を開くと、白と黒のコースターが重ねて入っていた。
黒い円形のコースターが三枚、シルバーの線描きで横に寝かせたコントラバスの輪郭が描かれている。
その線画の下にアルファベットで“Beard Bassist ”と店名が記されてある。
黒いコースターの下に、白い四角形コースターが三枚あった。
ワインカラーの線描きで、エレキベースがスタンドに立てかけてあるデザインだった。
一枚ずつ見た後、袋に戻そうとした時だった。
一番下の白いコースターの裏に、細いマジックペン書きのアルファベットが並んでいるのに気づいた。

『To MIZUNO
Your Bariton's Voice is sweet……(バリトンの声は甘い)
Piano performance is warm……(ピアノ演奏は温かい)
Both are wondeful……(どちらも素晴らしい)
I like it……(僕は好きだ)
see you someday…… (また何時か会おう)
ーBeard Bassistー ISODA……(顎鬚のベース弾き磯田)』

磯田の顔が思い浮かんだ。
柔和な笑顔、垂れ目なのに大きな瞳は優しかった。
少しだけ鉤鼻の高い鼻筋は男らしく、きれいな輪郭の唇とはアンパランスな感じだった。
後ろで束ねた胡麻塩色の頭髪と2pほどに整えた顎鬚……男性的な印象に憧れさえ感じていた……。
別れて来たばかりなのに、ずっと以前に会ったひとの様に思えるのは、歳が離れているからかも知れない……。

栄田正蔵さんも磯田幾太郎さんも男っぽいひとなのに、細やかな気配りが意外に思えて嬉しかった。ほんとうに、また何時か会いに来ようと思っていた。
新神戸駅を出ると30分後には京都に着く。
純一は、広島には戻らない状況で京都に帰って来ることを実感し始めていた。
恵里菜のおでこキスは、広島の思い出のページの後ろから三ページ目になったことを思い、恵里菜が知れば残念がるだろうと思うと、勝手に微笑んでいた。
新神戸駅から12分で新大阪駅に着き、新大阪駅を出ると15分で京都に着く。

純一の思いは、四月になれば仕事現場は広島市から大垣市に移ることに移行し始めていた。
新しい仕事に対する自分なりの創案にも手応えを感じているし、意欲は十分にある。
加えて佐伯沙織と共に働くことができることに嬉しさと喜びと、何かしら期待するものもあった。
純一は思考が急速に切り替わりつつあることに違和感を覚えながら、海外の現場を引き揚げて帰国する時にも、同じような心理状態だったことを思い、薄情さを自己弁護していた。
乗客が少しずつ動き始めるのが目に入る。同時に京都到着の車内アナウンスが流れ始めた。


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