純一を交えた十人が、店内のテーブルに散らばって席に着いて語り合っていた。 暫くして、純一は香織の案内でピアノの傍に行き鍵盤蓋を上げた。 そこに懐かしい金文字を見た。 母が家の離れで生徒に教えていた頃から弾いていた“C.BECHSTEIN”(ベヒシュタイン)のピアノだった。 純一の表情を見た香織が言った。 「K158なんです。わたしが高校に合格した時、祖父が買ってくれたんです。中古ですけど……。 大阪や東京まで探してくれて……お陰で音大に受かったと思っているんです。水野さんは、どうしてそんな顔を?」 「僕の母も音大のピアノ科出身でね。教え子を何人も音大に合格させているんだけど、僕も教え子のひとりなんだ。 僕は母の期待を裏切って音大には行かなかったから、がっかりさせてしまった……。 その母のピアノもベヒシュタイン……。父が母にプレゼントしたのは僕が生まれた時らしい。 もう三十年前になるのかな、1800年代の中古だったらしいけど、確かモデルの五(MODEL.X)だったと思う……」 「水野さんが生まれた時って、お父様は若かったんでしょ。お金持ちなんですね……」 「いや。香織さんと同じかな。祖父が残してくれた遺産金だったらしいよ。 僕を生んでくれた感謝の気持ちだったと母から聞いてるけど。今なら自分のお金で買ってあげるかも知れないな……」 「お父様はお母さまを愛しておられるんですね。今は何をしておられんですか?」 「食品加工会社。親族でやっているんだけど、一応、社長だし、会社は儲かっているみたいだから……。 まあ、いくら遺産だと云っても、当時、何百万円もするピアノを母にプレゼントするなんて、僕には考えられないけどね」 恵里菜が寄って来て言った。 「ピアノ、気に入ったみたいね。そろそろ始めてもいいんじゃない?、遅くなったら困るから……」 「そうだね。でも他の人が居るとは思わなかった……。ちょっと不安だけど弾いてみるよ」 香織が言う。 「じゃあ、恵里菜さんは座ってて、わたしが僭越ながら進行係を務めますから……」 「ああ、それ、いいね。上手くトークでミスをカバーしてもらえたら助かるな……」 微笑みながら頷いた香織が、恵里菜を純一の手元が見える位置の椅子を勧めて座らせた。 友人の二宮静香と京塚蘭子を、その左右の席に誘導してから、言った。 「頼田さんと葉子小母さんは、右奥に掛けてもらえますか?。お父さんとお母さんは自由に掛けて……」 母の由香子が言う。 「まあ、わたしたちは雑な扱いなのね?」 「違うわよ、色々と給仕とかあるでしょ、だからよ。はい掛けて……」 その遣り取りを見て笑いながらみんなが席に着いた。 「このミニミニコンサートは、恵里菜さんが水野さんにお願いして、やることになりました。 わたしも磯田の叔父さんも、叔父さんの店で聞いたことがありますが、素晴らしかったです。 楽しみに聞きたいと思います……。後は水野さんのペースで進めてください……」 立ったまま純一は話し始める。 「初めに。僕は大学ではピアノを弾くことができるクラブに所属していました。 理工学部だったので時間があまり無く、出欠が比較的自由だったのがピアノクラブだったからです。 卒業してからは、海外の仕事もありましたので、たまにホテルのラウンジとか楽器店とかで弾かせてもらう事は有りましたが、ずいぶん間が空いていますし。 今日はスコアも無いので、暗譜している曲を選んでいます。 小学校の頃、クリスチャンの伯母に連れられて教会に通っていました。中学から大学までミッション系の学校に通いました……。 指慣らしと云っては悪いかな……。讃美歌の194番を弾きます……」
演奏は三分程で終わった。 純一は、促すように香織の方を見た。 香織は頷くと、みんなの方に顔を向けた。 「今のはハイドンの弦楽四重奏曲第77番ハ長調皇帝の第二楽章の主題が使われた讃美歌です」 「ありがとう。次はポップスを弾かせて貰います。 この曲は、妹が高校時代に学園祭にフルートで参加することがあって、家に帰ると、伴奏をしてくれとせがまれて覚えた曲です。“いきものがたり”のYELLですけど……女性の方で歌えるひとが居たら共演しませんか?」 香織が少し前に来て言った。 「恵里菜さん、歌えますよね?。何時だったか聞いたことがあります……」 磯田も言う。 「香織ちゃん、そうだよ。応援と云うテーマでお客さんに歌って貰った日だったと思うな……。恵里菜ちゃん歌ってくれよ……」 純一が言った。 「恵里菜さん、広島の思い出のページを手伝ってくれないかな?」 「いいわ、下手だけど……」
恵里菜は切々と想いを込めて歌った。 純一のピアノも恵里菜の歌声も、みんなの胸に響いていた。 少ない人数が精いっぱいの拍手を送った。
「少し慣れて来たので、学生時代の初ステージで、母から徹底的に指導を受けて演奏に挑んだことのある曲です。広島を去る僕の気持ちも込めて……別れの曲……」 純一は深呼吸をして、指が静かに鍵盤を圧していく……。 ベヒシュタインは昔の感覚を呼び戻してくれるかのように、敏感に反応してくれた。
弾き終えた時、音大の生徒である香織、静香、蘭子の三人は立ち上がって拍手をしていた。 磯田も香織の両親も強く手を叩いていた。 静香が純一の顔を憧れるような目で見ていた。 純一が口を開いた。 「この曲が作られた頃、ショパンは激動する祖国ポーランドを去ってパリに住んでいたそうです。 祖国ポーランドと決別しなければならなかった切ない思いがこもっているような気がします……。 日本では“別れの曲”が題名として定着していますが、ヨーロッパでは別離とか親密と云うような愛称で親しまれているそうです……」 香織が我に返って語る。 「作品10の練習曲3番でした。素晴らしかったわ……。このピアノをあんなに上手く弾けるなんて……」 音大生の三人は顔を見合わせていた。
「実は、ピアノサークルの初めての定期演奏会では、この曲の他に、もう一曲、同級生の女性と“威風堂々”も連弾で演奏しました。 香織さんたちの中で誰か一緒に弾いてくれませんか?……。僕も少し感覚が戻って来たから、どうかな?」 静香が蘭子を手で指すと蘭子が腰を浮かしながら答えた。 「わたしで良かったら……」 香織は長椅子を隣の部屋から持ってくると言って立ち上がると。磯田が「僕が手伝おう……」と云って追って行く。 暫くして、ふたりで椅子を持って来た。 ピアノの前の椅子と置き換えながら磯田が言った。 「香織ちゃん、これ買ったの最近だよな……。良かったな、直ぐ使う機会があって」 蘭子がピアノの傍で「すみません」と言った。
ふたりの演奏は圧巻だった。 弾き終えると、蘭子は思い余って純一の手を両手で握手した。本人も上々の出来だったと実感していた様だった。 蘭子は音大でもピアノ科の優等生だと香織が紹介した。 純一も、佐伯沙織と連弾した当時のことを思い出していた。 暫くは、みんな、何かを話し合ってざわついていた。
「次の曲は、気分を変えますね。“いとしのエリー”を僭越ですが弾き語りで……。 この曲は、高校時代に、これも学園祭で友人に頼まれて伴奏に加わった曲ですが、わたしの父の愛唱歌でもあります。 父が酔って機嫌が良くなると必ず歌います。母から聞いた処では、中学時代の幼馴染の彼女が深山絵里(みやま.えり)さんと云うひとで初恋のひとだったそうです。 ちなみに初キッスの相手でもあったそうですが、キスをしたのはおでこだったと、酔った時に父が母に洩らしたそうです。 母は父が酔うと何時も面白そうに、おでこキッスの話しをして父をからかっています。 此処に居るのは恵里菜さんですが……いとしのエリーです」 純一は、心をこめてピアノを弾き、エリーを恵里菜と変えることなく丁寧に歌い終えた。 桑田佳祐やレイ.チャールズには似ていなかった。 濁りの無い綺麗で優しいバリトンはみんなの心に届いていた。 恵里菜には、水野純一の“いとしのエリー”は、“愛しのエリナ”に聞こえていたかもしれない……。 時刻は八時を少し過ぎていた。 純一が腕時計を見て、「それじゃあ、終わります。聞いてもらってありがとうございました」と云うと、突然、蘭子が言った。 「あのー、水野さん、もう少し時間はいいですよね……」 「ええ、まだ大丈夫ですけど……」 香織も言い添える。 「水野さん、調子が出て来たんでしょ、もう一曲、聞かせてください?」 磯田も言う。 「君の広島最後の演奏を記憶に残しておきたいな……。僕からも頼むよ……」 香織の父の椎名貴司も、カウンターの前から声を出した。 「水野さん、わたしも音楽家の端くれなんだが、そのピアノを弾きこなすひとを久しぶりに見たよ。わたしからもお願いしたいな……」 香織が純一の傍に来て語るように言った。 「父は芸大の教授でしたけど早期退職して去年まで女子大でピアノの講師をしていたんです。六十五歳でそこも辞めて、夢だったこのティーサロンを……」 聞いた純一は緊張したがリクエストに応えることにした。 「それでは、ずいぶん弾いていませんが、僕がクラシックに惹かれるきっかけになった讃美歌298番でも知られている、シベリウスの交響詩フィンランディアを弾かせて貰います。 ミスるかも知れませんが、そこは許してください……」 拍手に励まされ、純一はしばらくピアノの前で目を閉じ、記憶の中のスコアを呼び起こした。 指のストレッチを済ませ、両手を上げ、鍵盤に指を下ろす……。 静かに、二分の二拍子のアンダンテ.ソステヌートの重く圧しつけられ、うめくような序奏を、早くならないように気持ちをコントロールして弾き進める。 突然、曲の表情は変化し、やがてアレグロ.モデラートで徐々に高揚して行く……。 強烈な感じの和音を響かせながら、やがて讃美歌298番で親しまれている旋律が抒情豊かに繰り返される……。
讃美歌で親しまれた旋律にかかった頃から、純一が記憶の中のスコアをめくることは無かった。 十指は自分の意思があるかのように、スコアを勝手に理解して鍵盤の上を走り回っていた。
この旋律が静かに終わると、特徴のあるリズミカルなメロディーが再出し、激しく興奮するように、次第に上り詰めて行く。 もう、純一に不安は無かった。迷うことも無かった。 指は嘗ての感触を呼び戻していた。純一の感性に従順に反応し、想いを代弁するかのように動いていた。
最後は荒々しく、抑圧するものへの怒りが爆発して、突然の様に終息する……。
演奏し終えた純一は脱力して息を吐くと、以前の演奏会のときの様に、立ち上がってティーサロンの観客にお辞儀をした。 九人のものとは思えない拍手の音が、窓ガラスを揺るがすように響いた。
恵里菜が純一の傍に来た。 「いい思い出がわたしにもできたわ。無理を聞いてもらってありがとう。そろそろ行きますか?」 恵里菜の後ろから磯田が声を掛けて来た。 「名演奏の余韻に浸りたいところだが、僕のクルマで送ろう……」 香織も近寄ってきて言った。 「そうね、タクシー呼ぼうかと思っていたのよ……。恵里菜さん、叔父さんに送ってもらって?」 「じゃあ、純一さんそうしましょう。磯田の小父さん、お願いするわ。わたしも一緒に駅まで乗せてください」 他のみんなは、もう帰るのかと、ざわついていた。
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