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作品名:焦慮なき恋情〜いつか何処かで 作者:ジャンティ・マコト

第23回   立ち去る前に
純一はホテルの窓の眼下に広がる街の灯りを見ながら、高い所から広島の夜景を見る暇など無かった一年だったと、少し後悔していた。
食べることも見て回ることも、これからだと思っていた。もっと長く居ると楽観していた自分が疎ましく思えた。

カーテンを閉じて椅子に戻り、また、ピアノ演奏ができる楽曲を思い出そうとしていた。

次に思い浮かんだのは、ショパンの練習曲3番.別れの曲だった。
大学のピアノクラブの定期演奏会で、先輩から入部以来初めてステージで演奏するように言われ、母の徹底的な指導を受けながら練習した楽曲だった。
純一は眼を閉じて、両指を動かして架空の鍵盤を弾いていてみた。
指は滑らかに鍵盤の上を動いた。

ピアノクラブの初ステージには母も見に来てくれていた。その演奏会では、同じように初ステージの佐伯沙織と威風堂々の連弾も披露していた。
演奏会が終わった後、母は、純一と沙織を前に、どちらの演奏も合格点だと言ってくれた。

唐突に思い浮かんだのは“いきものかがり”の演奏する“YELL”だった。
大学二年の時、妹の藍子が高校の学園祭コンサートにフルートで参加することになった。
全国学校音楽コンクールの中学生の部の課題曲だったらしいが、当時の純一は知らなかった。
家に戻るとピアノで伴奏してくれと藍子にせがまれて覚えた楽曲だった。発売間もない楽曲だったが、歌詞が気に入っていたのを思い出す。
その後、ピアノクラブの定期演奏会に系列高校の合唱部をゲストに呼んだとき、彼らのリクエストで伴奏したこともある。
ピアノを弾く機会があると、独りの時には、よく弾く楽曲だった。

クラシック以外のつながりで、もう一曲、思い浮かんだ楽曲は高校の学園祭で友人のバックを務めた“いとしのエリー”だ。
この楽曲は父が酒を飲んで機嫌の良い時に必ず歌う楽曲でもある。
そう言えば、意識していなかったが、この前購入したレイ.チャールズのCDにも入っていた。

広島を去ることになり、一年という期間に形あるものを購入したのは数えるほどだった。
借上げ社宅になっているマンションには最低限の電化製品は備え付けとして置いてあった。
購入したのは、瀬戸内の夏の暑さに耐えきれず購入した“かき氷器”と“全自動コーヒーメーカー”だけだった。その“かき氷器”と“全自動コーヒーメーカー”は次の借家人のために残してきた。
他に購入したのは、図書と三つのジャンルのCDだけである。
今思えば、何気なく購入した筈のCDには意味があったように思える。
シベリウスのピアノ全曲集は、何時の日か、フレンチレストラン.サパン(樅の木)に因む、シベリウスの樅の木(5つの小品.樹木の組曲. 樅の木 Op.75-5)を恵里菜に聴かせたいと、心の何処かにその魂胆があったからだと、今は気付いているが、結局、練習する機会も演奏の機会もなくなった。

テレマンのフルート協奏曲集は、妹藍子のフルート演奏を懐かしく思い、寂しさを紛らわす心理が働いたように思える。
レイ.チャールズのCDに手が伸びたのは、父の愛唱曲の“いとしのエリー”が目に付いたからなのだろう……。

海外駐在の時には、このような些細な心理面のことは意識もしなかった。
通常、頭にあったのは、作業工程管理に集中することや、現地作業員とのコミュニケーションに傾注することだった。
広島に来て、心理面の細かなことに意識が向き、寂しさを感じるようになったのは、業務遂行のテンポが従来より遅くなっているからだと思っていた。
仕事にゆとりが出来たことで、意識が身の周りに行き届くようになったのだと、純一は気付いていた。

二缶目の水割りを飲み干した頃……睡魔が訪れた……。

翌日。連休にした二日目。純一は何時もの通勤コースを勤務先に向けて歩いていた。
紙屋町の交差点を左折して数十メートル行けば会社のビルがある。
純一は直進して原爆ドームの直ぐ近くにある“おりづるタワー”に向う。着いたのは十時半だった。
十時に開館するビルのロビーには、あまり多くのひとは居なかった。
勤務先の近くに在り、何時かは訪れてみようと思っていたビルは、地上51.5メートル14階建てのランドマークタワーである。
純一が13階にある“ひろしまの丘”と呼ばれる大展望フロアを訪れたのは、街を眺望し、良く知ることのできなかった広島の街を記憶に留めたいと思ったからだった。

展望階は、檜造りの床と柱、天井には杉材が使われ、心安らぐ雰囲気があった。
段差を付けたフロアに腰を下ろした純一は、静かに、遠い視線を全景に巡らせた。
きれいな街だと思いながら、原爆ドームが視野に入ると、この全景が焼け野原になった過去があることを思わずにはいられなかった。
自然と眼を閉じて両手の指を組み合わせていた……。命を落とした人たちの冥福を祈った。

おりづるタワーを出た時には、正午を過ぎていた。
純一は、広島に来て直ぐに平和記念資料館は訪れていたが、まだ訪れていなかった国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に足を向けた。
昼食をとるのも忘れていた。
地下二階の“死没者追悼空間”と“遺影コーナー”では何も考えられなかった。
遺影の無い多くの死没者の名前は、ただの名札では無かった。
純一は、会ったことも無いひとつひとつの故人の名前の背後に、ひとりひとりのシルエットだけが浮かんで見えるような想いに襲われた……。
その場の気配に身を委ねると、自らの思考機能は活動を停止していた…。

純一は、紙屋町交差点近くのお好み焼きの店で“広島風お好み焼”で遅い昼食を取ると、今度は広島城も観ておこうと足を伸ばした。
勤務先からは近く、何時でも行けると思っていた。観光など意識したことの無い一年だった。
広島でのエピソードはと問われれば、フレンチレストラン.サパンでの食事と霧島恵里菜と出逢ったこと、彼女が案内してくれた夜の食事処や酒場のことしか思い浮かばない。
“おりづるホール”や“広島城”に来たのは、数少ないエピソードに付け加える、時間つぶしの行動に過ぎない。
それでも、原爆死没者追悼平和祈念館で自身に生じた精神的異変は、何時までも広島での体験として貴重な思い出になるだろうと思いながら……。
目的も無く、城の周りを廻って時を過ごした。

ホテルに預けていた荷物を駅のロッカーに移し終えて、駅北口の新幹線口タクシー乗り場に行くと、恵里菜の姿があった。
長身の彼女の若草色のスプリングコートが、駅を出入りする人たちの人波から恵里菜を浮き立たせていた。
恵里菜は純一の姿を見止めると、直ぐに近寄って来て言った。
「早かったのね?」
「恵里菜さんの方が……、まだ十五分前だよ……」
「タクシー、並びましょ……」
三人の列の後に並ぶが、直ぐに順番が来た。
恵里菜を先に乗せると、恵里菜は直ぐに行き先をドライバーに告げていた。
駅前のタクシー待機スペースから、二葉通りに出てタクシーが交通の流れに乗ると、恵里菜が話しかけた。
「今日はどうしてたの?」
「広島の思い出のページを増やしにね……」
「何処かに?」
「会社に近いのに行く機会が無かったから、おりづるタワーと原爆死没者追悼平和祈念館と広島城……それから、広島風お好み焼きの食べ納めもね……」
「思い出のページは増えたのかしら?」
「これから連れて行ってくれるところが、最後のページになるんだろうな……」
「ピアノを弾いてくれるのね?」
「そのつもり。エア演奏の練習しかしてないから、上手く弾けるかどうか心配だけど……」
「大丈夫だと思うけど……」
「どうして?」
「前に弾いたとき、マスターも上手だって言ってたでしょ、だから。……顎鬚の小父さんはプロミュージシャンだもの……」
窓の外は、まだまだ夕暮れの気配は感じられなかった。
タクシーは十五分ほどで目的地に着いた。
千八百円の料金メーターを見て、恵里菜がショルダーバッグから財布を出そうとしていた。
純一が「いいよ」と言って千円札二枚をドライバーに渡し、おつりはいいと言った。

煉瓦と白壁と広いガラス窓が印象的な、大きな二階建て洋館の一階と云った感じの店の前には、見栄え良く、奥から白色、緑色、黒色、赤色の乗用車が綺麗に並んで駐車していた。
純一は国内で自動車を運転する機会は無かったが、車には興味がある。
ローバーミニクーパー、マツダデミオ、ベンツワゴンC200、一番手前の真っ赤なマツダ.アテンダ.セダンが特に目立っていた。
「何だ、この喫茶店は……中古車ショップみたいだな……」とつぶやいた。

青錆を浮かせたようなブラケット型看板のプレートには“ティーサロン”“コラ・パルテ”とガス溶接器で抜かれた文字が見てとれる。
大きなガラス窓のレースカーテンの合間に、突上げ棒で大屋根が開かれたグランドピアノの一部が見えた。
喫茶店のドアが開いて、若い女性が出迎えに出て来た。
「恵里菜さん、水野さん、よおこそ……」
純一は突然自分の名を呼ばれ動揺した。
クリームホワイトのタートルネックセーターに花柄で縁取らた緑色ベスト、黒いロングスカートの女性は、ベアード.ベーシストでピアノを弾いていた香織と呼ばれていた女性だった。
驚く純一に恵里菜が言った。
「椎名香織さんていうのよ。此処は香織さんのお家でもあるの……。お店はご両親がやっておられるのよ」
「さあ、おふたりとも、どうぞ……」
「驚いたな、そういう仕掛けなんだ……」
そう言いながら、店の中に入ると、突然、声が掛かった。
「いらっしゃい。待っていたよ……」
ベアード.ベーシストのオーナー磯田幾太郎だった。
背筋を伸ばした純一に、今度は香織が説明する。
「水野さん。叔父さんなんです……」
「えーっ、そういう事……」
「紹介しますね。向こうに立っているのが、父と母です。窓の傍に並んでいるのは、音大のピアノ科のお友達で、左から二宮静香さんと京塚蘭子さん。
壁側の髪の白いのが母の友人の谷山葉子小母さん、その隣が父の職場の同僚だった頼田廉太郎小父さんです」
純一は「初めまして」とお辞儀をしたが、何がどう進んで行くのか分からないでいた。
続けて香織が口を開く。
「こちらは水野さんと言われます。磯田の叔父さんの店に恵里菜さんが連れてこられたひとです。歌もピアノもとても上手なお客さんでした」
そう言い終わると、純一に手のひらを向けて、ひと言を促すかのように顔を見た。
「水野純一と言います。フレンチレストランのサパンで恵里菜さんと知り合いになって、良く遊んで頂いて、磯田さんのお店に連れて行って頂きました。……」
恵里菜は顔の前で否定するように手を左右に小さく振っていた。
「転勤で広島に来て、一年でまた他の地に変わることになりました。今日が広島で最後の日になります。
恵里菜さんからピアノを弾いてと言われました。お世話になって何もお返しができなかったので、お受けしましたが、何年も本格的な練習をしていません。
それに、本職のピアニストが来られるとは聞いていなかったので、正直、ひびっています。我慢して聞いていただけたらと思っています」
磯田が口をはさんだ。
「それは無いな。このまえ聴いた時、只者ではないと感じたけど、何処でピアノを?」
「ああ、それは……。実は、母がピアノの教師でしたので、子供の頃から教えられてきました。
その結果と云えば言えるのですが、大学は理工学部でしたがピアノの弾けるサークルに入って弾いていました。もう七、八年前のことです」
「そうか、筋がいい訳だな……。今日は気楽に弾いてあげたらいい。恵里菜ちゃんも、いい思い出になるだろ……」

純一が話し終わると、サンドイッチやスコーン、何種かのジャムやクッキーなどがテーブルに並べられた。



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