“BEARD BASSIST”の“勝手にワンマンショー”は続いていた。 恵里菜が純一に言った。 「お願いしてもいいかしら、純一さんのピアノが聞きたいわ。歌でなくてもいいのよ、演奏だけでもいいの、どうかしら?」 「そうだね。恵里菜さんの歌を聞かせてもらったから、久しぶりに弾いてみるかな……」 枯葉を歌った男性がマイクを置くと、恵里菜は胸元辺りで磯田に軽く手を振った。 磯田と目が合うと、恵里菜が手のひらで純一を指した。磯田は頷いた。 純一は前に進み、ピアニストの香織に言った。 「弾かせてもらえますか?」 「ええ、どうぞ……。楽譜はいりますか?」 「いえ、弾きなれた曲ですから……」 純一は磯田を見て頷く。客席に視線を戻して言った。 「初めてこの店に寄せて貰いました。聞いてください、“雪の降る町を”……」 純一は前奏にショパンのノクターンのようなアレンジで、ゆったりとしたトリル奏法を交え、聞くひと達を雪の降る情景の中に誘った。 上半身を少し揺らせながら一曲を弾き終えると、そのまま歌に繋げた。 バリトンの甘い声がフロアに響いた。 余裕のあるヴォリュームの歌声は、雪の舞い落ちる光景をフロアの客に思い描かせ、 歌の世界の中で、孤独な男が歌いピアノを弾いている……。 ピアノを弾き終えると、大きな拍手を貰った。 磯田はベースを叩いて純一に笑顔を送っていた。香織も力を入れて拍手をしていた。
テーブルに戻ると恵里菜が言った。 「純一さんは何でもできちゃうんですね。ピアノも歌声も大好きです……」 「そんなことは無いよ、久しぶりで緊張してた。他の人に比べたら子供の歌みたいなものだよ……」 「ううん、素敵でした。純一さんは、やはり、わたしの知っている友達の中には居ないタイプです。 初めてお会いしてから時間が経つにつれて、色々なところに惹かれていく自分が分かるんです。 良子さんが羨ましいわ。いつも一緒に居られるでしょ。退社後なんかは良く遊びに行かれるのでしょ?」 「それはないよ。広兼さんは仕事のプロだから仕事は速いし対応も的確だし、社内では無駄な行動や無駄話はしないひとだから……プライベートの区別もはっきりしてる……」 「そうかもしれないわね……。良子さんは一途だから、ときどき緩くなるときもあるけど。もともと真面目だから……」
ピアノを弾いていた香織が髪を束ね、エプロンとベスト姿に戻ってテーブルにやって来た。 「ワインは替えられてもいいですよ?、ご指名の銘柄があれば……」 そう言ってワインリストを見せてくれた。 ふたりは二杯目のグラスを空にしていた。 「僕は詳しくないから、恵里菜さん、よかったら選んでよ……」 「それじゃあ、クレマンド.ブルゴーニュ.ロゼを、それと生チョコはありますか?」 「はい、ございます」 「じゃあ、それでおねがいします」 香織は厨房に戻って行く。 「詳しいんだね……」 「お仕事に関係があるからなんです。生徒さんから料理に合うワインは、なんて訊かれることもありますから、父や母に教わりながら覚えるようにしています」 「さすがだね、研究熱心なのが分かるな……」 香織が左手にワイングラスと生チョコのプレートを載せたトレーを持ち、右手にボトルを淹れたクーラーボックスを持って来る。 テーブルに置いたステンレス製のクーラーボックスからボトルを抜き出して言った。 「お待たせしました。クレマンド.ブルゴーニュ.ロゼ、シャルトロン.エ.トレビュシェです。 前のと同じピノ.ノワール100%を使用したスパークリングワインです。 生チョコは、オーナーが知人の神戸のショコラティエの方から取り寄せたものです」 ふたつのグラスにワインを注ぎ終えた香織に純一が話しかけた。 「あのー、香織さんはピアノニストですか、ソムリエが本職なんですか?」 「いいえ、わたしはまだ音大の学生なんです。ここは叔父のお店なので、お手伝いをさせて貰っているんです……」 「そうなんだ。さっきは、もしプロのひとなら失礼なお願いをしたかなって、ちょっと気になっていたので……」 「そんなこと心配いりませんよ。それより、お客さんはピアノの先生について教わっておられるのですか?」 「そんなことは無いですよ、母がピアノの先生だったので基本だけ教わりましたけど、久しぶりだったので緊張して……。代って貰ってありがとうございました」 「お上手ですよね、指のタッチが滑らかで、打鍵速度とペダルも上手く使われていたので、全体にバランスが良いなって思いながら見ていました。 それと素人の方にしてはアレンジが素晴らしくて驚きました。歌声も素敵でした」 「うそでしょ……下手くそですよ。……広島に来てから初めてピアノに触って、ひと前での演奏でしょ……。ほんとに緊張して指がコントロールできなかったのに……」 「オーナーも上手いねと言っていましたから、お上手だとわたしも思います……」 「まあ、そう言って頂ければ……。ありがとうございます」 「いいえ、素敵でした。どうぞ、ごゆっくり……」
二人が“BEARD BASSIST”の店を出たのは十時を少し回った頃だった。。 恵里菜が話しかける。 「今夜も楽しかった。ありがとうございました」 「いや、いつも珍しい店に連れて行って貰って楽しいよ……。ありがとう、いい忘年会になったね」 「わたしは純一さんと居ると、とても新鮮だし、いつまでも話していたい感じなんですよ……。今度はいつ広島に戻られるんですか?」 「僕の会社は年が明けて最初の日曜日まで休みだから、土曜の夜には広島に戻ろうと思っているけど……。 帰省するひととは逆だから新幹線も満員にはならないし、日曜の朝でもと考えているところ……。まあ、東京からじゃないから、いつでもいいんだけど……」 「明日、帰られるのは早いんですか?」 「ちょっとだけ部屋の片づけをして、三時ごろに帰ろうかと……」 「わたしは朝からサパンの掃除を手伝いに行きますから、時間があったら駅で会ってもらえませんか?」 「それは構わないけど、そんなに恵里菜さんの時間を僕が取ったら、困るひとは居ないのかな?」 「いませんよ。わたしはそんなにべったりな付き合いを求めるタイプじゃないですから」 「へえー、そうかなあ?」 「えっ、そう言われると……。この頃は純一さんと一緒に過ごしたいという欲求はあるかも知れない……かな」 「いや、否定している訳じゃないから……」 「じゃあ、社宅のお掃除が終わったら、お昼一緒しませんか?、新幹線の時間まではいいんでしょ……」 「いいよ。じゃあ駅前で十一時にしよう……。あのタクシー拾えそうだ……」 純一は恵里菜をタクシーに乗せて、その場で別れた。
まだ賑わっている通りには夕刻より更に冷えて、緩い風が吹いていた。 純一は襟を立て直して、首元に密着させるように押さえると、ゆっくり歩き始めた。 広島駅の方角に向かって歩きながら、春に来てからのことを色々と思い出していた。 猿猴川に架かる猿猴橋を渡り、西国街道を東に進みJRの線路を横切れば、社宅のマンションまで五分もかからない。 線路を横切る愛宕跨線橋を渡り切って、もう直ぐ社宅だと思うと緊張が解けたのか、恵里菜と関わるようになってからの色んなことが断片的に頭に浮かんでは消えた。
……やっぱり、押しが弱いのは変わらないな……。 ……坂西さんにしても霧島さんにしても、積極的だよな……。 ……そういう女性が合っているのかな……。 ……嫌ではないけど、ちょっと落ち着かない気もするな……。 ……お袋を見ているから、もう少し、ほっこり、まったりとしたタイプがいいかな…… ……だとすると恵里菜さんは違うな。いい友達ではあるけど…… ……まあ、また何処かで好い女性に逢うこともあるだろう……
妄想に寒さを忘れていた。気づけば社宅の屋上の角が見える場所まで帰っていた。
翌日の昼前、純一は恵里菜と落ち合うと、駅近くのコーヒーチェーン店に入り、軽食 のセットを頼んだ。 二人はそれぞれコーヒーと軽食を載せたトレーを持ってテーブル席に向った。 数あるテーブル席は半分以上が空いていた。 純一は皮手袋を愛用のボストンバッグに収めると、チェスターコートとマフラーを隣の椅子の上に重ねた。 恵里菜は、羽織っていたボア付きムートンコートをスマートに腰のあたりまで下ろして脱ぐと、ショルダーバッグと一緒に椅子の上に置いた。 白いレザー調のパンツ、グリーンのハイネックセーターは身体のラインを際立たせている。 純一はその姿を見た時、気持ちが動揺している自分に戸惑いを覚えた。 今迄気付かなかった彼女のバストは均整がとれて美しく、長い髪を指で透きながら傾げた首筋のラインに、純一は視線のやり場に戸惑った。 平静を取り戻し、動揺を隠すように、暫くは食べることに没頭した。 バゲットから具がはみ出すようなサンドイッチを食べ終えた時、恵里菜は小ぶりにカットされたキッシュを食べ終えていた。 コーヒーカップを手にして、窓越しに歩道のひとの往来を見ていた。 純一が食べ終える気配を見て、恵里菜はバッグから小さな紙製の手提げ袋を取り出して言った。 「純一さん、これは今日までわたしにお付き合いして下さったお礼です。妹さんとお母さまに……」 「そんなの貰えないよ……」 「頂いたクリスマスプレゼント、京都から取り寄せて下さったのでしょ?」 「それと、どう関係があるの?」 「ありますよ、選んで下さったのは京都に居られる妹さんでしょ。ご家族の皆さんから頂いたプレゼントだと、わたしは思っています……。だから、おふたりに渡してください……」 「参るなぁ、よくそんなに考えるね……。僕の方がお世話になっているのに……」 「いいじゃないですか、お互いに気の合うひとに出逢えたんですから、そんなには居ないでしょ?」 「確かに……。でもなあ……叱られそうだな……。何て説明すればいいんだ……」 「説明なんてしなくても、広島のお土産だよって言えばいいでしょ……」 「まあ……。でも、これからは、あまり気を遣わないで行こうよ……深読みし過ぎだよ……」 「気を遣ってなんかいないし、深読みなんてしてません……。思いつくままやっているだけですから……。純一さんは今まで通りでいいですから……ねっ」 「そう来るか、分かった。ありがとう、貰って帰って、ちゃんと渡すよ……」 「そんなに大げさな物じゃないから……でも、プレゼントは喜んでいたって伝えてくださいね。本当に欲しかった色のエプロンだったから……」 純一は、これでいいのかと困惑していた。 広島に戻ったら連絡をすることを約束して、もう一度サパンに戻ると云う恵里菜と駅の入り口で別れた。 純一の方が、駅から遠のいて行く恵里菜の後ろ姿を見送った。 会うたびに眼を惹くファッションで現れる恵里菜に、今どきの普通の女性なのかと云う疑念が頭をかすめる。 裕福な環境で育った我儘な女性と云うのでもない……不思議な魅力を感じていた。
午後五時半頃に京都の実家に帰った純一は、叔父の水野拓郎と拓郎の息子で従兄の広樹が、まだ加工工場に残っていると聞いて、挨拶をしに行った。 「よお、純ちゃん。帰ったのか、元気そうやな。やっぱり日本の方が良いか?」 「お久しぶりです。叔父さんも広樹さんも元気そうですね。長男が役に立たないので、来年もその先も、両親、会社とも宜しくおねがいします」 「気にすることないよ。水野食品は水野の誰かが守らなあかんのやから、純ちゃんは、今の仕事に精出したらええんや。 わたしもお父さんと大して歳は変わらん。まあ広樹が居てるから何とかなるやろ……。それより、ここは明日の昼までやから、その後で酒でもどうや」 「いいですね。おふくろに準備して貰います。じゃ、もう帰られるんでしょ?」 「ああ、大方は済んだとこや。母屋には寄らんから、兄貴に言うといてくれるか」 「わかりました。お疲れさまでした。広樹さんも……。そうだ明日は自動車はどうされます?」 「ああ、此処に置いて帰ってもええ、大晦日に取りに来てもええから……」 「そうして下さい、年の暮れに事故なんて嫌ですから……」 「いや、純ちゃん、僕は明日二時頃から嫁の実家の餅つきを手伝うから、済んだら親父を迎えに来る。 自動車は僕だけが乗って帰るわ。親父、それでええやろ?」 「そうやったな。ほんなら、そうするか。純ちゃん、そう云う事や……。 ほんなら、帰るわ。純ちゃんも帰ったばかりやろ、ゆっくり休んでな……」 父と叔父の兄弟は仲がいい。 父が純一に水野食品を継がせないと決めて、叔父が社長を引き継ぐと決まったときも、親族の誰も文句は言わなかったし、愚痴を漏らすことも無かった。 父も、水野食品を弟に譲ることに未練はないと言うし、純一に、どうしても京都に戻って家を継げとも言わない。 父は穏やかなひとだが、アグレッシブでポジティブな姿勢を貫いている。 母にも子供たちにも、自分の意見を強引に押し付けたことなど一度も無かった。 純一が物心ついた頃から今日迄、穏やかな家庭と親戚付き合いが続いている。 自由な身にしてくれている家族に、純一は何時も感謝を忘れていなかった。
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