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作品名:焦慮なき恋情〜いつか何処かで 作者:ジャンティ・マコト

第1回   転機の兆し
本命と決めて入社試験を受けた東京のYOSIN.PE.Co.(陽新プラントエンジニアリング株式会社)に入社が決まったとき、水野純一は人生第二の大きな関門をクリアして感慨に耽った。
食品会社を経営している父の水野博和は、会社経営を長男である純一に継がせたいと願っていたが、最後は息子の意志を尊重した。
就職が決まったとき、父は腕時計タグ.ホイヤー.カレラ.キャリバークロノグラフを「しっかりやれ」とひと言だけ添えて手渡してくれた。
純一が人生の第一関門と意識した大学入試に合格したとき、ラドーのゴールデンホースで祝ってくれて以来の父からのプレゼントだった。
「ラドーの三倍はした。会社で成功したら、それの倍はする時計をプレゼントしてやる。しっかりやれ……。こっちの事は心配するな、拓郎に任せるから安心しろ……」
そう言って東京へ送り出してくれた。
拓郎とは、三人兄弟の長男の父とは七歳離れた末の弟で、その頃は加工現場に居ながら専務をしていた。純一にとっては、忙しい父に代わって、何でも相談に乗ってくれる叔父だった。
当時、腕時計の値段に興味は無かったが、今になって調べてみるとラドーは二十万円位していた。大学生の純一には贅沢な時計だった。
口数の少ない父の、精いっぱいの祝福の思いが込められていたのだと思わずにはいられない。
大学を卒業する時、妹の藍子が、付き合っている彼の成人式にお祝いを考えて悩んでいた。
妹はアルバイトはしていたが、そんなに貯金をしている筈は無かった。
タグ.ホイヤーを父から貰っていた純一は、ラドーをオーバーホールして貰い、妹に手渡した。
あれから数年経った。妹は、その彼と今も続いている。
会うたびに「お兄さんの腕時計を気に入って、ずっとしているのよ」と報告をする。
二人の間では、このまま変わらず付き合いを続けて将来は結婚する気でいるようだ。

入社して二年目、純一は派遣チームの一員としてベトナムの現場で一年間を過ごす。
日本に戻って一年後、今度はセクションのサブリーダーとしてフィリピンに十ケ月間、現地事務所に詰めた。
その後も東南アジアと中近東に短期の海外駐在の現場を担当して経験を積んでいた。

入社五年目の、夏の暑い盛りだった。
純一は、同期入社で東北大学出身の伊達和正から、話したいことがあると呼び出された。
伊達は同じ企画設計部に在籍している。彼はシステム設計セクションに所属しており、純一はプラント施工セクションに所属していた。
同じフロアに居て、やっている仕事は異なるが、部内ミーティングや受注工事着工前のブリーフィングで顔を合わすことは多かった。
合同ミーティングなどの集会が終ると、必ず「ミノ、今宵は空いておるか?」と声を掛けてくる。
「御意、トノにお供します」等と云って、入社以来、仲良く付き合っている数少ない同期生である。
伊達とは東北と関西の地方出身者と云う事で気が合い、本社に居るときには、純一はあまり乗り気でないが、夜の付き合いや合コンと呼ばれる集まりによく誘われた。
東北のイメージには無い、陽気で外交的な伊達は東京本社での仕事が多く、友人知人が多く居た。
神奈川出身の溝野純也と云う同期生が居たため、ミズノとミゾノで混乱することが多く、同期の仲間からは水野純一はミノ、溝野純也はゾノと呼ばれていた。
伊達は同郷の伊達政宗に因んで、皆からトノ(殿)と呼ばれて気を良くしていた。

純一は伊達に誘われるまま、地下のビアホールに連れて行かれた。
純一の正面に腰掛けた伊達は、勝手にオーダーをしたビールとオードブルが届く前に、突然話し始めた。
「ミノ、俺の事、何か聞いているか?」
「何かって……?」
「そうか、ミノは社外勤務が多いからな。……結婚することにした」
「嘘だろ!、誰と?」
「ああ、ミノも知ってるひとだ……」
「社内か?」
「総務秘書課の柳田さん、知ってるか?」
純一は記憶を探る。
ビールジョッキとオードブルが届く。
「まあいい、乾杯をしてからゆっくり話したいことがあるんだ」
ふたりは大ジョッキを半分まで一気に飲んだ。
「柳田さんて、ときどき受付に居るひとか?」
「そうだ。知ってるか。彼女、縁故入社だって噂があるだろ?」
「いや、知らない」
「相変わらず、そっちには疎いな……」
「それがどうした?、関係あるのか?」
「彼女のお父さんはな、東京に住んではいるが、宮城県出身の代議士なんだ……」
「トノと同郷と云う事か?」
「ああ、彼女も東京生まれの東京育ちじやないんだ。高校までは宮城で過ごして、大学から東京に出てきているんだ……」
「それ、何か関係があるのか?」
「ああ、結婚と同時に宮城に戻ることにしたんだ。東京生まれの東京育ちの女性じゃなくて良かったと思ってな……。都会から地方都市に嫁ぐとなれば、色々とストレスもあるだろ?」
「確かに、それはそう思うけど……。会社、どうするんだ?」
「当然、辞めることにした。親父の会社を手伝うことにした。彼女の一家も東京から引き上げるそうなんだ。それで俺も結婚を決めた……」
「いいのか、来年は管理者昇格対象者だろ、今までのキャリアを無駄にするのか?」
「キャリアって程のものでもないだろ。長くても三十までくらいと思っていたんだ。それが親父との約束で東京に出して貰ったからな。ミノも長男なんだろ、業界は違うけど、後は継がないで良いのか?」
「ああ、叔父さんが継ぐことになってる。親父は好きな道を行けと言ってくれてるんだ」
「そうか、世界に羽ばたくミノには夢が広がってるからな……」
「いや、そうでもない。ちょっと考えているんだ……」
「何を考えることがあるんだ?、経験を積んで順調に来てるんだろ……」
「今のセクションだと、僕は海外に行って一、二年帰らないことが続くだろ。彼女ができて、長期間留守にすることに我慢ができるかなって考えるとな……」
「そうか、ミズは恋愛経験が豊富というタイプじゃないからな、その辺りが見抜けないから、そう思うんだろ?」
「いや、そういう訳じゃないけどな……一般論だよ」
「ミノ、結婚式はこっちでやってから宮城に帰る予定なんだ。結婚式に彼女と一緒に来てくれよ」
「……考えとくよ。しかしトノが居なくなるとはな、驚いたよ。残念だな……。
それより柳田さんて、どういうひとなんだ?。今迄、何も聞いてなかったぞ?」
「ミノ、聴いてくれるか?。社内恋愛じゃないんだ……」
「はっ!……。どう云うことなんだ?。プレイボーイのトノらしくないな」
「親父同士が決めて来たんだ。柳田議員は任期満了で勇退して、晩年は宮城でと考えてのことらしい。
俺の方の実家は事業拡大を計画しているらしくてな、人材不足と云うことで、若トノ様の里帰りに期待と云う訳だ……」
「そうか、全ては計画通りか……。企画設計のプロの仕事か……」
「そんなもんじゃない。よく考えたら、流れに乗っているとも云えるんだ。だからじゃないけど、良く遊んだと思う……。
そうだミノ、言っとくけど俺はプレイボーイじゃないよ。仙台ではできない遊びを、親の目の届かない東京で経験しとこうと思ってのことだからな……」
「なんとでも言えよ。いつも羨ましく見てたんだ……。そうか結婚して退社か……。
おい、彼女は寿退社と云われるんだろうけど、男でも寿退社って言うのか?」
「そうだな、俺は寿退社するんだ……。わが社では初じゃないのか?」
「まあ、そんなには無いだろうな……。それより、さっきの話し、柳田さんてどういう女性なんだ?」
「ああ、俺も、受付に居る姿しか知らなかったけどな。一応婚約してから週末には会っていたから、少しずつ分かったことがある。
受付に居ないときは総務部内で支社長や部長の秘書みたいなことを交替でやっているみたいなんだ。秘書はひとりじゃないからな」
「そんな職務分担になっているのか?。それで?」
「興味あるだろ?、人事関係の情報……」
「そんなの洩らしちゃ駄目だろ?」
「もう退社すると決めているんだ。俺が色々と訊くから、彼女も最近は躊躇せず応えてくれる。ふたりだけの秘密って訳だよ。結構、連帯感が生まれるんだ」
「おかしな連帯感だな……健全ではないような気もするがな……」
「だってよ、相手が決まってから付き合いだしたんだぞ。急いで共通認識を積み重ねなきゃ、連帯感と云うより一体感が得られないだろ……」
「トノにしては夢がないな、他にも共通体験は作れるだろ?」
「遊びで付き合う女性と結婚相手じゃ、上手く行かなくてな……。それにしても、総務に居ると色々と分かるものらしいぞ。結構、社内の人脈とか男女の関係とかもな」
「へえー、そんなものか……」
「うん、そんなものらしい。なんでもよく知っているよ。結婚すれば何の役にも立たないけどな……。今だけの共通話題だ……」

伊達和正と柳田香織の結婚式は、新宿に在るホテルの大広間で挙行された。
柳田憲作議員の関係者が出席者の70%占め、伊達家の親族と会社役員が宮城県から20名、和正と香織の会社関係と友人が60人前後の、300名に近い、賑やかな結婚式だった。
結婚式に出席した会社関係者は会社幹部と企画部の数名、後は和正の大学同級生と香織の大学同級生だった。
ホテルの結婚式は午後一時から始まり、四時前には終わった。
午後六時から、新宿の別のレストランを借り切って、新郎新婦の親しい仲間だけが集まる懇親パーティが催された。
会場には六十人前後の独身男女が出席した。
純一は、管理部資料センターに勤務している坂西翔子を伴って出席していた。
盛り上がって賑やかな披露宴会場で、純一と和正がゆっくり話す機会は無かった。
純一は祥子を連れて周りに気づかれないように新婚夫婦に近づき、紹介した。
同じ社内で見知らぬ訳では無かったが、和正は意外だという表情で純一を見返していた。
新婦の香織は、翔子を紹介されて一瞬の間を置いた。全く知らない訳ではないが、会話を交わすような関係では無かった。
純一から紹介されると、香織は思いを表情には出さず、軽く微笑みながら会釈だけを返していた。
新郎新婦が僅かに怪訝な表情を浮かべたのは、坂西翔子の居る管理資料センターは本社ビルとは違う近くのビル内に在り、顔を合わす機会も少なく、パーティーに出席するとは思っていなかったことと、同伴者が純一だったからだ。

東北出身の新郎新婦は、翌朝、羽田空港を発ち、沖縄で数日を過ごした後、仙台に帰ることになっていた。
宴がお開きになると、翌朝、モノレールで羽田空港に向う二人が品川のホテルに泊まると知り、純一と翔子も友人たちと共に新婚夫婦を新宿駅前で見送った。
その後で、純一は府中市に帰る坂西翔子を駅で見送り、田町に在る独身寮に戻った。

十月一日に、純一は上司から呼ばれ、来年度の管理職昇格研修リストに正式に加えられたことを伝えられた。
上司は笑顔で期待のことばを掛けてくれたが、純一は何故か喜んで受ける気にはならなかった。
今の部門に居れば、今後も海外での仕事が増えることは明白だった。
大学卒業まで京都で過ごしてきた純一は、東南アジアで過ごした日々の経験から、自分が日本を離れて生活することに向かないと思い始めていた。
伊達には、伴侶となる女性が夫の長期出張に耐えられるか心配だと云うようなことを話したが。
実際には、食文化の違いに悩んでいたのだ。ベトナムでもフィリピンでも、海外に行くと何故か頻繁に嘔吐や下痢に襲われていた。
症状は重度ではなかったこともあり、水が合わないのかと思ってやり過ごしていた。日本に戻ると二、三日も経てば症状は止まった。

伊達が東京を去って二週間ほど経った日の夜だった。
何かすっきりしない気分の日々が続いていた。
独身寮に戻ると、仕事や結婚、将来のことを色々と考えることが多く、寝つきも悪くなっていた。
そんな処に伊達和正からの電話だった。

「俺だよ。ミノ、誘う者が居なくなって独りで飲みに行ってるのか?」
「おとなしくしているよ。どうだ新婚生活は……、元気にしてるか?」
「ああ、五年振りだ、久しくとも言えない年月だな……。まあ、故郷だから落ち着いてはいるよ。
彼女も高校時代の友人が次から次に祝いを届けてくれて、楽しそうだ」
「彼女じゃないだろ?、何て呼んでるんだ?」
「照れるけどな、香織ちゃんだ。おう、ちょっと待て、要件が先だな」
「要件……」
「ああ、俺も香織ちゃんも、ちょっと気になっていることがあってな……」
「どうした、新婚早々……」
「こっちの事じゃない、ミノの事だ。ちょっと待て、香織ちゃんに代る……」
純一は何ごとかと訝しく思いながら香織の声を待つ。
「水野さん、こんばんは。この前はありがとうございました。わたしは以前から水野さんのことは存じていましたから、嬉しかったです。ファンだったんですよ」
「そんな、冗談でしょ。トノに、いや伊達に怒られますよ……」
「ほんとなんですよ。総務部でもランクは高い独身男性社員でしたから……。
それより、わたし、気になったことがあるんです。お話しした方がいいかどうか和正さんに相談したら、伝えた方がいいと……」
「僕に関わることで?」
「ええ、水野さんは坂西翔子さんとのお付き合いは長いんですか?」
「いえ、そんなには、三ケ月くらい前からですよ。気になるって坂西さんのこと?」
「深いお付き合いをしておられないのなら、御節介だと思いますが、あまり応援できない気がしているんです。
坂西さんは管理部内でも色々と噂があるのをご存知ですか?」
「いえ、あまり社内の噂を気にすることは無いし、女性のことは……」
「和正さんと話したんですけど、水野さんには相応しくないとわたしは思っているんですけど……、あっ、はい、代わりますね」
「ミノ、俺も、あの会場で紹介されて驚いたんだ。まさかミノの付き合ってるのが坂西さんだとは思わなかった。
ミノは真面目だから知らないだろうが友人として言う。彼女とは今以上に深入りするな。
俺が傍に居れば一気にケリを付けてやれるけど、もうそうも行かないからな。兎に角、もう近づかない方がいい。
いいか、そのつもりで周りの者に聞いてみろ……。いいな。真面目な話だぞ……」
「分かった、良く解らんけど、そうしよう。ありがとう。悪いな新婚夫婦に心配かけて……」
「いいんだ、こっちが勝手に気にしていることだから。とりあえずこの事を伝えたかった。じゃあな、また、連絡をくれ……」
純一は仕事のことも何もかもが、ボーッとして考えを纏められずキッチンに向っていた。
缶ビールのプルトップを引いて一気に半分ほどを飲むまで、無意識に動いていた様な気がした。


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