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作品名:クラシック 作者:ジャンティ・マコト

第33回   余香祭の日
北野天満宮の余香祭は、寒さと風の中で始まり、貴志たちは、神官の白い狩衣が風で煽られながら本殿に進む行列を眺めていた。
風が強く、行列を見る、ひとの姿は疎らだった。
貴志の傍にいた陽一郎が、余香祭の起源について説明をしてくれた。
貴志が印象に残ったのは、後醍醐天皇が菅原道真公の詠まれた詩に感銘を受け、道真公に贈った御衣に、香りが炊き込まれていたことだった。
時と距離を隔てた大宰府の地で、道真公に在りし日を追想させたのが《香り》だったことに惹かれた貴志は、賜った御衣に頬を寄せ、漂う残り香に、京の都の清涼殿で詩を詠み、後醍醐天皇に感銘を受けて頂いたことに想いを募らせている…、そんな道真公の姿を想像していた。
本殿の前の菊の鉢は、時折吹く強い風に煽られながらも耐えている、本殿の中で詠まれている声も、風に遮られ、明瞭には届いてこなかった。
貴志たちは、陽一郎の誘いもあり、本殿を後にした。
谷岡家に戻る途中、西城綾子が貴志と並んで来た。
「芦川くん、帰り道、ちょっと時間いいかしら?」
「いいけど…」
「ちょっと、話しておきたいことがあるの」
「分かった」
綾子の表情に、何か不安が過ぎったような気がした貴志だった。

夕食までの間、谷岡家の中では、それぞれが、それぞれの場で時間を過ごしていた。
綾子は縁側の籐椅子に腰掛けて陽一郎と話していたが、吉岡賢一郎は応接間で、独り居眠りをしていた。
梨香子は賢一郎にひざ掛けを掛けてやった後、貴志を誘って、ピアノが置いてある廊下の突き当りの洋室に行くと、貴志を促してピアノの前に座らせ、自分も椅子を寄せて並んで座った。
「芦川さん、わたし、指の腱を痛めてピアニストを諦めてから、最近は難しいクラシックは弾かないんですけど、覚えている曲だけですけど、リレーみたいにして弾いてくれませんか、一度、一緒に弾いてみたかったんです、いいですか?」
「ここまで連れて来て、いいですかはないよ…、いいよ、そっちから、どうぞ」
「じゃあ、最初は、この曲で…」
梨香子は、シューマンの《子供の情景より…トロイメライ》を弾き始めた。
貴志が見ていると、梨香子が集中していくのが見て取れた。
弾き終えると、梨香子はホッとした様な顔で、貴志を見た。
「ずるいな、短すぎるよ、でも、最初の指慣らしとしては、正解かもな…、じゃあ、僕だな」
J.S.バッハ《メヌエット・ト短調》を弾いた。
「芦川さんこそ、ずるいです、そんな緩い曲、だめですよ、本職なんですから…」
「どうして、僕だって、ウォーミングアップは要るよ、それに、さっきの曲より長かったよ…」
「そんな、ちょっとやないですか…、じゃあ、わたしは、これで…」
ベートーベン《エリーゼのために》梨香子は軽く弾き終えた。
「そんなの、何時頃覚えたの、子供の頃でしょ、手抜きだよなぁ…」
「暗譜で弾けるの、あまりないんです、これ長い方なんですから…、次、どうぞ…」
貴志はショパン《子犬のワルツ》を軽快に弾いた。
「芦川さん、それも、ずるいです、次にわたしが弾こうと思ってたのに…もう芦川さんは手抜きしないでください…」
「そうだった、申し訳ない、次は考えるから…、どうぞ…」
「じゃあ…、これかな…、覚えているかしら」
モーツァルト《ピアノソナタK331第3楽章トルコ行進曲》を、梨香子は、かなり集中して弾いていた。
「若き日の谷岡さん…、昔取った杵柄って感じ…、調子が出てきたね…、じゃあ、僕も…、少し長くてもいいかな…」
「是非、傍で聴きたいです…」
貴志は、両腕を伸ばしてから、構えると、ベートーベン《ピアノソナタ第14番嬰ハ短調Op27-2・月光》を弾き始める。
窓の外の風が急に聞こえるほど、静かな演奏の始まりだった。
貴志が弾き始めて10分くらい経った頃、1楽章からすぐに続くように入ったアレグレットの2楽章のピアノはテンポを上げて強い音が混じる、その頃だった、背後のドアが静かに開くのを、梨香子は感じていた。
梨香子は、傍で見る貴志の真剣な表情に見惚れ、指先にも目を転じながら、月光ソナタに魅了されていた。
よく調律されたアップライトピアノ《YAMAHA YUS3》は、ピアニスト貴志の意思を表現するには十分だった…2楽章からプレスト・アジタートの3楽章の劇的な高まりは、窓の外で泣く風の音を消していた、貴志は納得して弾き切った…、15分は経っていた。
弾き終えたとき、最初の拍手が背後から聞こえた、つられるように梨香子が貴志を見つめながら胸の前で手を叩いていた。
貴志が振り返ると、梨香子の両親がドアの傍に立って拍手をしていた…、温かな笑顔だった。
貴志は立ち上がって、振り返ると言った。
「すみません、ご近所に迷惑だったかも…」
梨香子の父、良治が言った。
「いや、この風だから、心配は無用…、梨香子から聞いて知っていたが、素晴らしい演奏を聞かせて貰った…」
良治の脇で、母の奈緒も、笑顔で何度か頷いていた。
梨香子が興奮気味に言った。
「ありがとうございました、こんなに近くで、わたしの為に弾いて頂けるなんて、ほんとに感激です」
奈緒が言った。
「梨香子、もう宜しいやろ、お膳が届いてるさかい、てつどうて(手伝って)ちょうだい」
梨香子は名残惜しそうに椅子を直し、貴志を先に立てながら両親の後に続いた。

仕出し料理は、貴志には見慣れたものだったが、祖父の法事依頼だった。
日本酒が振舞われたが、あまり飲む者は居なかった。
貴志も賢一郎も余香祭は初めてだった、良治は北野天満宮と菅原道真公に関わる、歴史的な伝承を幾つか話して、場を盛り上げていた。
吉岡賢一郎は、周りを気にすることもなく、機嫌よく手酌で日本酒を飲み、膳の上の料理は、きれいに食べきっていた。
梨香子は隣に座っていたが、折々に賄いのため席を立っていた。
西城綾子は、陽一郎と貴志の間で、両方に気を配りながら、話を聞いていた。
貴志は、梨香子が席を外した時、はす向かいの末席に座り、微笑みを浮かべながら、座の話に耳を傾けている梨香子の母親に話しかけた。
「今日は、梨香子さんの言葉に甘えて、お邪魔したんですが、昼も夜も食事に与るとは思っていませんでした、ご迷惑をかけてしまったみたいで…」
「なにを、おっしゃいますやら、そないなこと、いっこも構いません、病院をやってますよって、大勢のせんせ(先生)やら看護師さんも来やはることあります、少々のお客さんやったら、困る事なんかあらしません、遠慮なさらんと、ゆっくりしてくれはったら、宜しい」
「ありがとうございます、僕の方が、梨香子さんに助けて貰うことも多いですから、感謝しているんです」
「梨香子が、芦川さんに、いつもお食事に誘ってもろて、そないな時は楽しそうに戻ってくるんです、あの子も、ピアノを続けたかったと思うんですが、手ぇを痛めて諦めたときは少し荒れてましたんえ、でも今日はピアノの前で嬉しそうにしてました、ピアニストの芦川さんが傍に居られることで、自分の夢を叶えて貰ったような、そないな気持ちになってるのやないかと思うんです…」
「そうですか、でも、梨香子さんは会社の今の仕事では、なくてはならないひとのようです、僕は外部の人間ですけど、素晴しいひとやと思ってます」
「おおきに…」
その時、燗をした徳利を持って、梨香子が戻って来た。
手酌で飲んでいる賢一郎に酌をして徳利を置くと、奈緒を見て行った。
「お母さん、何を話してたの?」
「芦川さんに、お礼を言うてたんえ、あんたがお世話になってるやろ…」
梨香子は笑顔で貴志を見た。
「ほんとに、何時も気にかけて貰って、ありがとうございます」
「なに、そんなに改まって言われることは、何もしてないけど…」
「いいえ、オーケストラのことでは、会社の幹部の方から社員のほとんどが活気づいています、業績向上にも繋がっているんですよ、芦川さんの名前が、とてもいい影響を生んでいるんですから…」
「おぅ、狩谷専務みたいだね、それは買いかぶりだよ、僕の方が、リバー合奏団のことでは凄く感謝しているから、イーブンと言うことにしとこうよ…」
「梨香子、貴方たち、仲良しなんやね…」
貴志も梨香子も笑って応えた。

谷岡家を辞するとき、貴志は三条診療所の寮に帰る西城綾子と一緒に、タクシーに乗り、東福寺に帰る吉岡賢一郎は別のタクシーで帰った。
タクシーの中で綾子が話しかけた。
「芦川くん、三条大橋の辺りで降りる?」
「いいよ、後は歩くの、風、強いぞ…」
「そんなに距離はないから、陽一郎さん言うてはったわ、今日の風は近畿地方の木枯らし1号なんだって…」
「そうだろうな、よく吹いてたもんな、それより、何か話があるんだろ?」
「うん、コーヒーでも飲みながら話すから…」
三条大橋の袂で降車したのは8時前だった、二人は河原町通に向けて戻り、高瀬川に架かる三条小橋を渡って、河原町三条交差点近くの喫茶店に入った。
風は強いが週末とあって、席は半数以上が詰まっていた。
コーヒーを頼んだ二人は、羽織っていたコートを脱ぎ、寛いだ気分になった。
「芦川くん、今日、言ってたけど、再来週、麗子さんと会うの?」
「うん、向こうから連絡があって、演奏を聞きに行くから、その後で一緒に行って欲しい所が在るからって」
「そう、何も先入観を持たないで聴いてくれる?」
「いいよ…」
「わたし、この前、大丸の文具売り場で麗子さんに会ったのよ、時間があるからお茶でもとなって、話していたんだけど、彼女、新しい仕事をするらしいの、今の仕事と変わらないんだけど、共同出資で児童向けの書籍や雑誌を創刊するって、凄く燃えている感じがしたわ、わたしが知っている昔の野間さんじゃないみたいだった…」
「いいんじゃないか、前向きに生きるのが彼女のポリシーなんだから…」
「それは分かるわ、わたしが気にしているのはね、芦川くんのこと、一言も触れなかったことなの、わたしだって、この歳だから、そんなに何もかも他人に話したりしないけど、陽一郎さんのことは機会があれば話すわ、自分で言うのは可笑しいけど、恋をしているからなのよ…」
「そう言う事…、正直、西城さんも知っているように、彼女とは何度も会ってはいないし、昔の想いだけで考えているのは確かなんだ…」
「それはいいのよ、まあ、再来週に会うんだったら、それでいいわ…」
「心配してくれてるんだ、ありがとう、まあ、なる様になるとしか、僕にも正直分からない処はあるんだ」
「それにしても、どうして誘ってあげなかったの?」
「簡単に言うと、忙しかった、自分のことは目途が立ってるけど、リバー合奏団のメンバーの生活が懸かっているから、葵カルチャースクールも噛んで貰って進めていることがあってね…」
「この前、陽一郎さんとカミートに行ったとき、杏奈さんが来ていて、話していたわよ、演奏機会が増えているって、いい方向じゃないの?」
「確かに、いい方向ではあるかな、だから忙しいんだよ」
「ねえ、恋していると、やる気は起きるんじゃないの、陽一郎さん、今、何処の無医村に行くか、一生懸命よ、わたしも色んな看護や介護の医学書を買い集めているの、凄く有意義な時間を過ごしているわ」
「何処でも、一緒に行くんだ…」
「当然でしょ、同じ考え方の、好きなひとと一緒なのよ」
「楽しいか…、不安なんか無いんだ…」
「ない、はっきり言えるわ、わたし、回り道をしたけど夢が叶う気がしてる、芦川くんに感謝しているのよ、だから、芦川くんにも幸せになって欲しいと思ってる」
「そうか、それは良かった、保っちゃんにも伝えとくよ、合コンの成果有りだって」
二人はコーヒーを飲んで店を出ると、東山三条方面と地下鉄烏丸駅に向けて『またね』と言いながら、風吹く三条通を反対側に向けて歩いて行った。


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