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作品名:クラシック 作者:ジャンティ・マコト

第14回   招待
貴志には、帰宅してからのルーティンがあった。
何時も通り、シャワーを使い終わると、キッチンで、その時の気分に合う飲み物を口にする。
郵便物をチェックする。留守電とパソコンのメールをチェックする。
電話機もパソコンも、勿論、食事もリビングキッチンに据えた大型の自然木テーブルで事を済ます。
家具店が並ぶ夷川通の店を巡り回って選んだ二枚はぎの80p×180pの天板、厚さ10pはある、この部屋には似つかわしくない、とんでもない大きな栗材のテーブルを購入して、引越し早々に送り込んできたのは、父ではなく母の順子だった。
学生時代、自分の机では足りず、食卓に楽譜や書籍を並べていた、食事時になると、母と一緒に片づけるのが大変だった。
母が松ヶ崎の借家を見に来た時、ピアノは広い場所がいいと言い、楽譜ロッカー以外は置かないことにした。
そのために机の置き場所が無くっなった。母は、広めのリビングキッチンに大きなテーブルを置くことで、勉強も事務仕事も、食事もできるようにと考えたようだった。
30万円近くしたと思うが、この机の前に座ると、母や家族のことが思い浮かぶ。

珍しく、分厚い郵便物が届いていた。
大学で同期だった、チェロと指揮を学んでいた南条敦彦からだった。
出身地の島根に戻り、大学の教育学部で教えているはずだ。
分厚いのは、書き込みの多いスコアだった。
同封の手紙によると、南条は、大学で教えながら、市民の有志による交響楽団の支援をボランティアでやっているようだ。
『〜音楽専攻科でクラブ活動として声楽をやっている学生が、交響楽団と合同で、夏休み期間中に演奏会を計画しており、練習に取り掛かっているが、手こずっている、多忙だと思うが、一度、来てもらえないか〜』という内容だった。
同封のグスターフ・マーラー《交響曲・大地の歌》のスコアには、多くの書き込みがある、貴志は、見るなり彼の苦悩が読み取れた。
書き込みは、本来、指揮者が記すようなものではなく、余りにも初歩的な指摘が記されている、恐らく、書き込み以上のものが演奏者のスコアには記されているのだろうと予測された。
最後まで目を通し、貴志は声には出さなかったが、唸った。
貴志にとって、この曲は歌曲の部分に引っかかる、中国の詩集が元に在り、6楽章それぞれに説明がある。
詩集が元に在り、当然のことながら詩には意味が含まれている、それが歌詞として声楽家が表現する…、しかも、一般聴衆の先入観に影響しかねない楽章の説明がある。楽器だけの表現芸術ではなく声楽が伴う…、貴志にとってはピアノ伴奏稿の解釈には手を付けたこともあるが、実演の経験はない。
南条が、自らの書き込みのあるスコアを送ってきたということは、返しに来てくれという意味だと理解した。
南条は土日の一泊二日で、旅費は団員のカンパで出す、食事と宿泊は自分が面倒を見ると書いていた。つまり指導料は無しと言うことだが、南条とはそういう仲なのだ。
貴志は自分の勉強にもなると考え、松江に行くことにして卓上の電話器を取った。
相手は直ぐに電話に出た。
芸大で助手をしている武本譲だった。彼は大学院を出たばかりの声楽家である。
「武本くん、芦川です、居てくれてよかった、まだ陽も高いのに、何してた?」
「ああ、芦川先生、助手になって最初の連休でしたから、大学院の疲れが残っていたみたいです、半分は寝てました、午後は発声練習をしてましたけど、それで、何でしょうか?」
「君の都合のいい土日でいいんだけど、一泊二日で、一緒に山陰に行かないか、同期で指揮科専攻で一緒に学んだ南条くんと言うのが山陰に居るんだけど、楽団の応援指導を頼むと言ってきてるんだ…」
「うちの先輩ですか…、土日は、ほとんど何も予定はありませんけど…、わたしに、どうしてですか?」
「取組んでいるのがマーラーの《大地の歌》なんだよ…、旅費と食事は持つから、指導料は無しで受けてくれないかな…、但し、宿泊はホテルじゃなくて南条くんの家だけどな」
「そういうことですか、いいですよ、わたしはテナーですから、奇数番は一度経験していますけど、偶数番はアルトですか、バリトンですか?」
「そのあたりは、まだ詳しく知らないんだ、さっき封書が届いた処なんだ」
「いいですよ、山陰には行ったことが無いですから、是非、お供させてください」
「ありがとう、宮野教授には、一応、僕から話しておくよ、何時がいいか、決めたら連絡をくれるかな、先方に伝えないといけないから」
「わかりました、わたしも勉強しておきます、宜しくお願いします」
貴志は、武本の費用を出すつもりでいた。以前なら、そんな余裕はなかったが、今はそれなりに収入がある。
音楽活動で苦心している同僚を見捨てては置けないという思いもあった。

NKオーケストラには八名の新入社員が参加することになり、連休明けの五月中頃から参加する予定だ。
フルートとピッコロの女性、クラリネットの女性、トロンボーンの男性、ファゴットの男性、バスチューバの男性、ユーフォニウムの女性、バイオリンの女性、チェロの男性、夫々が学生時代に学生交響楽団と吹奏楽部で経験を積んでいるメンバーだ。
谷岡梨香子の働きかけで、四月中頃には、オーケストラ参加登録メンバーの約七割の35人前後が、常に練習に参加するようになっていた。
発足間もないことを憂慮して、赤井厚生課長と三枝総務部長は、ほぼ毎日、短い時間だが顔を覗かせ、狩谷専務はクッキーや缶コーヒーの差し入れをしていた。
本格的な練習に入ることになっていた連休明けの初日、終業後、ほぼ全員が練習に参加者していた。
練習後、厚生課が、顔合わせ会と称して茶菓を準備していた。その場で、狩谷専務がNKオーケストラの将来像について語り、メンバーそれぞれが、何かを感じると同時に自分の先行きについて考えているようだった。
三年先とは言え、完全に現職を離れてオーケストラに移籍するか、参加は見合わせるかの選択がある。
工場棟で補助的な業務に就いているメンバーや、管理部門で一般事務や庶務に就いているメンバー、物流事業部に籍を置いているメンバーの中には、楽器演奏で生活ができるのなら考えてみたいと語るメンバーも数人は居た。
狩谷専務の意向を汲んで採用された、音楽演奏経験のある社員も含まれている。
いずれにしても、オーケストラメンバーとして、本格的に演奏活動ができることを喜んでいるのは間違いなかった。
集まりが散会すると、梨香子と厚生課の女性が簡単な後片付けをしていた。
貴志は、梨香子の傍に行くと、帰りに少し時間を取って欲しいと伝えた。
梨香子は承知して、西大路御池の交差点で待ち合わせた。
待ち合わせた西大路御池の交差点近くでタクシーを拾い、梨香子の家に近い北野天満宮近くまで行き、近くの豆腐料理の店に入った。
二人とも帰宅して夕食を摂ると言い、《生麩善哉》と《抹茶白玉善哉》を頼んだ。
「谷岡さん、オーケストラとは関係ない話なんだけど、聴いてくれるかな…」
「なんでしょう、わたしで間に合うことですか」
「どう話せばいいかな…、僕の友人で、アンサンブルの取り纏めをしている逢坂くんというのが居るんだ、チェロ奏者なんだけどね、今度、彼の友人がイタリア料理の店を開くことになってね、招待を受けているんだけど…」
「わたしを誘ってくださるんですか?」
「と言うか、参加して欲しいんだ」
「参加…ですか?」
「彼の言葉を借りれば、異業種従事者の情報交換会らしいけど、俗っぽく言えば合コンのようなものだと思うけど…、僕は女性二人と男性一人を連れて来て欲しいと言われていてね、一人の女性は僕の同級生なんだけど、もう一人に谷岡さんはどうかと思ってね、レストランの食事代は開店前の試食会ということで無料なんだ、今の予定だと、男性四人、女性四人の予定なんだけど、十人までなら引き受けるとレストランのオーナーは言ってくれているらしい」
「いいんですか、食べることは好きですから、嬉しいんですけど…」
「勿論、大歓迎だよ、もう一つ、お願いがあるんだ、もし良かったら、お兄さんにも来てもらえないかな?」
「兄ですか…、たぶん大丈夫だとは思いますけど…」
「頼んでもらえないかな、僕の知り合いは、逢坂くんの知り合いと一緒で、音楽関係者しか居ないから、異業種じゃないんだ、是非、お兄さんに、参加して欲しいな…」
「解りました、わたしが兄に勧めます、大丈夫です」
「ああー、助かった、逢坂くんに安請け合いした手前、駄目だったとは言えないし、谷岡さんのお兄さんが頭にあったから、頼まれたときは即答してしまったんだ」
「ありがとうございます、兄の事、覚えていて下さったんですね…」
「僕より年上だと聞いていたし、他人事じゃないから…」
ふたりは、店を出ると梨香子は歩いて帰宅し、貴志は今出川通に出て、タクシーを拾った。
松ヶ崎の家に戻ると、シャワーを使い、冷凍のミート・スパゲッテイと、パック入りの野菜ミックス・サラダ、前日に買ったフランスパン・ブールを一個、低脂肪牛乳で夕食を済ます。
姉の佳乃が、貰い物で主人は紅茶派だからと言って、譲ってくれたハワイコナコーヒー・ピーベリーを挽き、ペーパードリップを使って、同僚の教授からドイツ土産に貰ったフィッツェンロイターのマグカップに注ぎ、椅子に腰を下ろした。
どちらも、貴志の収入で買える様なものではないが、気分はブルジョワ…そんな感じで満足している。
コーヒーを一口飲み、テーブルの端に置いている電話器に手を伸ばす。
受話器の向こうで、暫く呼び出し音が聞こえた。
「もしもし、葛城クリニックの寮ですが…」
「すみません遅くに、芦川貴志と言いますが、西城綾子さんはいらっしゃいますか」
「あっ、芦川さん、聞いています、暫くお待ちください」
暫く待った。
「お待たせ、芦川くん…、久しぶりじゃない、何かあったの?」
「ごめんな、夜遅くに…」
「いいのよ、夜はストレス解消に何もしないでいるのが、わたしの習慣だから、それより携帯でよかったのに…」
「携帯は、あまり使わないし、松ヶ崎の家からだから、目の前に電話があれば、ついね…、それより、今週土曜の夜なんだけど、イタリアレストランに招待したいんだけど、どうかな?」
「えーっ、わたし…、相手が違うんじゃないの…」
「違わないよ、実はね、友人から招待をされていて、僕は女性二人、男性一人を連れて行かないと駄目なんだ、僕の友人の親友がレストランを開店するんだけど、開店前の試食会に招待すると言ってくれて、食事代は要らないんだ」
「それって、合コン?」
「俗っぽく言えばそうなんだけど、友人に言わせると、異業種従事者の情報交換会なんだそうだ…、どうかな、気楽に参加してくれればいいんだけど、男性四人、女性四人の食事会ってとこなんだけど…」
「わかったわ、喜んで、ご招待をお受けします…、ありがとう、わたしのこと、思い出してくれて…」
「こっちこそ、突然、悪かったね、申し訳ない…」
「なに畏まって、気楽に行きましょうよ」
「そうだな、それじゃあ、場所と時間は、今度はメールで連絡するから、宜しく」
「はーい、ありがとう、おやすみなさい…」
「おやすみ」
コーヒーは少し冷めて、猫舌の貴志には丁度飲みやすくなっていた。
マグカップを持ってピアノの部屋へ行こうとしたとき、テーブルに置いたままのクラッチバッグの中で、携帯電話が受信を報せた。
テーブルに戻り、携帯に出た、梨香子からだった。
「もしもし、谷岡です、遅くにすみません、お善哉、ごちそうさまでした」
「そんなこと、頼みごとに比べれば安いものだから…、それで、どうなのかな」
「喜んでいますよ、何を着て行けばいいのかって、宜しく言ってくれと…」
「そう、じゃあ、土曜の六時、先斗町の歌舞練場の前にしようか、僕が待っているから、それでいいかな?」
「はい、それでお願いします」
「じゃ…そうだ、お兄さんに堅苦しいドレスコードは無いって伝えて上げてくれるかな、じゃ、お休み」
貴志はピアノの前に行くのを止めると、机の上のパソコンを開いた。
異業種従事者情報交換会参加者
芦川 貴志 30才 音楽非常勤大学講師 ピアニスト 指揮者
谷岡陽一郎 35才 勤務医 梨香子さんの兄
谷岡梨香子 28才 NK製作所 厚生課勤務 陽一郎さんの妹
西城 綾子 30才 葛城クリニック看護師
簡単に列記すると、逢坂保にメール送信した。

送信し終わるとピアノに向かった。
月末の演奏会曲目《ショパンの英雄ポロネーズ》《幻想即興曲嬰ハ短調作品66》続けて《リストのラ・カンパネラ》を弾き終え、《モーツアルトのピアノソナタ第8番》に入ろうとしたとき、今度は卓上電話が鳴った。
譜面ロッカーの上のマグカップを手にして、テーブル迄戻り、受話器を取った。
「貴ちゃん、メールは見た、今、こっちのメンバーをパソコンに送ったから見といてくれ、それと、来週の木曜日、三時から一時間くらい、北大路のレストランで、ピアノと三重奏でいいと思うけど、都合はどうかな…」
「ピアノ、奈っちゃんは、駄目かな…」
「佐々木奈津美ちゃんか…、彼女のバイトは司法書士事務所だからな、聞いてはみるけどな、貴ちゃん、何か予定入ってるんか?」
「いや、ちょっと読みたいスコアがあってな、大事な頼まれごとなんや…」
「解った、何とかするわ、奈っちゃんが駄目やったら、弦楽カルテットに変更を交渉してみるわ、ほな、土曜日、宜しく」
貴志は電話を終えるとパソコンを開く。
異業種従事者情報交換会参加者
逢坂 保  30才 チェロ奏者 葵室内合奏団・マネージャー 貸衣装店手伝い
田野倉優子 29才 システム機器メーカー セールスエンジニア ロボット工学
坂井 由紀 28才 パティシエール パティスリーYUKI オーナー
吉岡賢一郎 30才 建設会社 設計部 一級建築士 
貴志は、保がアンサンブルの名称を勝手に《葵室内合奏団》と命名して、自分のことをマネージャーとしているのを見て、笑みを浮かべた。


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