アルの生活が変化した。朝起きて洗面をすますと、ヤギを畜舎からその日の餌場(草が伸びているところ)に放し、ラルフの家に駆けていく。ラルフには出来るだけ早く、同じ速さで駆けてくるように言われている。 家に着くとすぐに稽古が始まる。休憩は一切ない。稽古は棒を振ることだった。 持ち重りのする棒を両手で握り、一歩踏み出しながら頭の上から地面まで振り下ろすのだが、棒が地面に当たると叱られた。かといって、地面から離れすぎたところで止めてもやり直しで数に入れない。100回振るように言われたが、最初の日は時間以内に100回振るどころか、ラルフは30回しか数えてくれなかった。地面ぎりぎりまで振りぬいた時しか1回と数えないのだから当たり前かもしれない。 なんとか時間内に100回振れるようになるまでに3ヶ月を要した。この間、アルは格段に進歩した。ラルフの家まで初めての時の半分の時間で駆け、しかも息も切らさず棒振りの練習を始める。棒の重さもかなり重くなっていた。1ヶ月で順次重いものに変えていったのだ。アルが棒を振るたびに「ブン!」と小気味よい音が響く。 その日の夕の練習が終わるとラルフがアルを呼び止めた。 「棒振りはあきたか?駆けるのはどうだ?」 「いえまだまだです。」 ラルフはアルの答えを鼻で笑うように念を押した。 「本当にそう思っているのか?」 聞かれてアルはとまどった。棒もかなり振れるようになったし、足も速くなったと思っていたし、この3ヶ月の自分の進歩をシエロもマキも褒めてくれたし自身でも誇っていいものだと思っていたのにラルフは何が気に入らないのだろう… 「それを貸せ…」 ラルフはアルの棒を手に取った。アルに一べつをくれると、あごをしゃくって退かせた。 おもむろに棒を振った。 「ピゥン!」鋭い音と共に空気が裂けた。 ラルフが振り返りアルの眼を見た。爛と光った。アルが気付いたときには、5歩の距離を飛び込んだラルフの棒が自分の額に触れんばかりに止まっていた。 アルは尻餅をついた。衝撃で息が上がり、「はぁはぁ…」と発作的に空気を求めた。 「これが剣だ。この3ヶ月はこれを教えるための準備をしたにすぎん。」 ラルフは静かに言うと、アルの手を引いて抱き起こしながらさらに続けた。 「おぬしはよく我慢した。明日からは剣だけでなく、なぜ剣の修行をするのか、それが生きていくうえでどう活かされるのか、様々な事を学んでいく。おぬしだけではなく、わしもかも知れぬ…」 ラルフはかみしめるように言った。
ラルフは身体作りの基本である駆けること、棒をふることはさらに高度なものに移行しつつ続け、修行時間以外の普段の生活においても全てを剣につなげて考える事をアルに求めた。 特に畑仕事はそのまま剣の修行になるものが多いが、意識してやるのと、ただ漫然とやるのとでは効果に雲泥の差が生じることをラルフは強調した。 例えば、水汲みだ。どの村でも灌漑用水路はなかなか畑の拡大に追いつかず、どうしても川から水を汲んできて灌漑をしなければならない。背丈よりやや長い棒の両端に水の入った桶を下げて肩に担いで運ぶのだが、慣れないと桶が大きく揺れて水がこぼれてしまう。上下動を抑え、すべるような足運びを覚えなければ満足に水運びをする事が出来ない。一人前の農夫は誰でも意識せずともこの足運びをするが、手伝いを始めたばかりの子どもには難しい。 剣の足運びも上下動を嫌う。攻撃においてはどれだけすばやく遠くまで飛び込めるかが重要になる。踏み込むとき力が上に逃げるとそれだけ前に出る力が削がれる。防御においても、目が上下に揺れると瞬間的な対応が遅れるし、身体が上に伸びたときは一旦下に体重を戻さなければ、次の行動が出来ない。 柄杓で水を撒く時の、その腕と手首の動きも見逃せない。均等に広範囲に水を撒くには、腕は柔らかく、スムーズに面に沿って素早く回り手首もそれについて行くのだが撒き終わる瞬間に手首は返る。水が散って飛んでいくためにはこの手首の返りが欠かせない。 剣を振るときもこの手首の返りが重要になる。剣が当たる瞬間にその速度を最速にする為には、ぎりぎりまで我慢した手首を一気に返すことで可能になる。 ラルフはこのように剣を理論立ててアルに飲み込ませた。剣は特別な物ではなく、その極意は日常の動きの延長線上に在り、正しく学びさえすれば誰でも上達するものである事を納得させたのだ。
アルはラルフの教えに接し、なにか救われたような気になった。 10歳になったとき、自分はシエロとマキの実の子では無く、10年前に家の前に捨てられていたのだとシエロとマキに聞かされた。 「本当はこのことは墓場まで持って行きたかった…」 「アルが生まれてから、いや来てからわしら夫婦はどれほど幸福であったか、アルを育てる、幸せにしてやりたい、そう思う事が逆にわしらを幸せにした。だが、いつか別れはくる。わしらは単純に墓場に行くことが別れだと思っていたが、そうではなかった。」 シエロは柄に飾りのついた短剣を戸棚から取り出しながら続けた。 「アルは10歳になった。自分の仕事を持った。だがこれは与えられた仕事だ。これから何年先になるか分からんが、今度はアル自身が本当に自分の成すべき事を見出すだろう。その時わしらは別れねばならん。」 マキが頷きながらシエロが取り出した短剣を柔らかい布で拭いていた。 「この剣は、アルの産着に添えられていた。今日からは自分で持っているんだよ…」 涙ぐみそうになるマキを見て、シエロが調子はずれの大声で言った。 「なに、そうはいってもそれはまだ何時のことになるか分からん。今から深刻になることはない。」 アルは混乱していた。 これまでシエロとマキが実の親ではないなどと、考えた事も無かったのだ。混乱してあたりまえだ。その混乱をアルはその時からずっと抱えていた。 ラルフのところに通い、畑仕事の手伝いをし身体がくたくたになる毎日を過ごして、何とか混乱している自分を見ないように無意識のうちに努めていたようだ。 しかしラルフの教えに接しているうちに知らぬ間に忘れている時間が長くなって行った。そして、剣と日常を結び付けるラルフの持論に触れるとすべてのこだわりが融けていくように感じられた。シエロとマキが実の子にこだわらず生きる糧としての子供を欲した自分たちに気付いたように、アルは二人が自分に注いでくれた愛情を再認識した。アルを中心に積み上げられた、シエロの家の10年がそこにあったのだった。
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