翌朝、いつも通り目覚めたアルは羊小屋の横の手水で洗面をする。すでに、畑へ向かう準備を済ませたシエロが声を掛けた。 「おはよう」 「おはようございます…」 「眠れなかったのか?」聞くシエロの目も赤い。 「昨日伝えるのを忘れておった。身辺には気をつけるように殿様に念を押された。影供も付けるそうだ…」 「… 王子であるとは、そういうことですか…」 「これまでのように自由には暮らせんな…」シエロが気の毒そうに困ったようにアルを思いやる。 「実感が湧きません。昨夜聞いたばかりでは当たり前かもしれませんが、夢の中の出来事のようです。」 「しかたなかろう?一粒の麦の姿がどのようなものか、地に撒いて丹精して育て、実際に収穫をしてみて初めて分かる。 一粒の麦も麦、芽吹いた双葉も麦、青々と穂を結ぶも麦、黄金に膨らみ風にたわむも麦、人も同じだ。 我らが子のアルもアル、エリン王子のアルもアルだ。」 その、シエロの言葉にアルはやっと微笑む事が出来た。 『作物は嘘をつかない』シエロの持論だ。愛情を注げば注ぐほど、おいしくなる。 見た目には変わらなくとも、おいしさは食べる者の心を満たしその滋養は身体を育む。 シエロにとっては、作物も人間も同じだ。シエロはただ愛情を注ぐだけなのだ。 シエロに育てられた自分は自信を持てばいいのだ。 「修行に行ってきます。」やっと普段のアルに戻れたようだ。
リラを相手にいつも通りの無の修行をした。 頭の中では理解したかに思っても心底から現状を受け入れてはいないのだろう。 そのわずかな心のひずみは剣には拡大して現れる。結局、一度も無の捌きを決められず、さぞリラはあきれたことだろう。 視線が痛くてリラに背を向けて汗を拭いているとラルフに呼ばれた。
玄関脇の枝を広く張り出した庭木の脇に沿うように夫婦なのだろうか?二人がたたずみアルを見つめていた。 ラルフに目をやるとうなずいて、二人のもとへ誘い自分はリラの方へ歩んでゆく。 カイル侯夫妻 自分の本当の両親なのだろうと戸惑いつつも二人の前に立つ。 アルを見つめる婦人の目がうるみ、ついには涙がもりあがる。 「リメリアです。抱きしめてもいいですか?」 13歳とはいえアルは婦人よりすでに頭ひとつ分以上背が高い。 婦人の目を見つめていたアルは自然と両膝をついた。低くなったアルの頭をリメリアは胸にかき抱いた。 「知っていますか?亡くした子は母親の胸の中で生きているのと同じに育っていくのです。 でも、私の中のエリンはこうして胸に抱けるくらいの背丈でしたが、貴方はずいぶん大きくてりっぱですね。 そして、私が抱きしめやすいように膝をついてくれる…優しいですね。」 「リメリア 私も紹介してもいいかな?」 「あぁ、あなた、独り占めして申し訳ありませんでしたね。」 リメリアはアルを胸から解き放つが、まだ肩を抱いたまま頭をなでながらアルから目を離さない。 苦笑を浮かべながらカイル侯が自己紹介をした。 「私はカイル・ブルネイ・アルハだ。 君が生きていると昨夜ハシュラム伯に知らされて我ら夫婦は夜が明けるのをこれほど待ちわびた事はなかった。 そして、剣を振る君の姿、妻に抱きしめられる君をみて三国統一のとき以上の喜びを味わっている…」 「あなた!なにを照れているんですか?抱きしめたければどうぞ?」 とアルを立たせてカイルに向ける。 ますます苦笑いを深くしてカイルはアルの両肩をガシッとつかみ胸にひきよせると両手を背に回し力を込めて抱きしめた。 「大きくなった。前に君を抱いたのは、生まれたばかりのときだったのだ…」
アルは二人から流れ込む愛情を受け止めかねていた。 13年分の我が子を思う感情がストレートに流れ込むのだ。13歳のアルが処理できるはずが無かった。 目の前の本当の両親の自分への思い。そして、王子としての自分の今後の役割、これまで自分を育ててくれたシエロとマキとのこれからの関係がどうなるのか。 混乱するなと言うほうが無理であろう。 「アルと呼ばれているのですか?」リメリアが静かに尋ねた。 「私たちもそう呼びましょうか?アル?貴方の血脈が明らかになったと言うだけで何も変わらないのですよ? アルの知り合いの中に我々が新たに加わったというだけで良いのですよ?」 アルはリメリアの言葉に驚き、その顔を見つめた。 デボネア家の若、マリアに良く似た面差しのまだ若々しい瞳はやはり人の心の奥底を覗き込むような光があった。 そして、その言葉はアルの葛藤を解き放って納得をさせる。 二人も、シエロとマキも愛するだけでなにも求めないのだ、求めるとすればアルがアルとして生きることだけなのだ。 貰いっぱなしで甘えれば良いのだ。 「ありがとうございます」アルから素直に礼の言葉がもれた。 「アルは私の言葉が分かるのですね?」リメリアの瞳の輝きが増した。 「貴女方とシエロ・マキとの今後の関係がどうなるのかとか王子としての役割であるとか僕が押しつぶされそうになっているのを開放して頂けました…」 「そう…解るのですか…」リメリアの視線は宙を巡っていたがアルのとなりに立つカイルに結ばれた。 カイルはその視線を受け止めてリメリアの思いを肯定したようだ。 「アル。私もそう呼ぼう。今日はこれで帰ることにしよう。 シエロとマキは明日にでも尋ねる事にするかな?」後半をリメリアの問いかける。リメリアは頷いて答える。 そこへ様子を覗っていたのかラルフがリラを伴って近づいた。 「お話中おそれいりますな。私のもう一人の弟子を紹介しましょう。」 「おお、ラルフ長々とすまなかったな。待たせた。」 「いえ、ここにおりますのがアルの兄弟弟子のリラベルです。心身共に切磋琢磨しております。生涯の友となりましょう。」 「そうか、カイルだ今後ともアルとなかよくしてやってくれ。」 「まぁ、かわいい。抱いてもいい?」リメリアはリラを抱きしめる。 人を抱きしめるのはどうやらこの人の癖らしい。 「アルはずっと死んだものと思っていたのよ。 アルも急に生みの親が現れて大変でしょうけど、私だって大変なのよ? 13年アルがどの様にして育ったか知りたくてうずうずしてるの。リラなら分かってくれるわね?」 「はい、女ですから母親の気持ちは想像できます。」 「まぁ、可愛い子ね。アルをよろしく。こっそりアルの弱点も教えてね。」 耳元で内緒話のようだが、それほど小声でもなくアルにも筒抜けで、うさんくさそうにリメリアとリラを交互に見つめる。 「それでは、帰路御気をつけられて…」ラルフが夫妻を促す。
「エリンにも力がありますね…」 帰路の馬車の中で感慨に浸っていたかに見えたリメリアが独り言のように呟いた。 「それも、かなり強いように感じました。」 「そうか、やはり、一領民として自由に過ごさせてやることは出来ぬか…」 「王家の血脈の努めではありますが、これまで自由に生きていたのに不憫なことです。」 「なんの、少しの間でも自由に生きられたのだそれを是としよう。」 「感性も倫理観も素晴らしい。シエロとマキになんと礼を言えばよいのやら…」 「こればかりは、子供のうちに培われるものだからな。 二人にも感謝はするがエリン自身の生まれ持った物も素晴らしいのだろう…」 「ふふふ…親バカですね。」 「お互い様だ!」 「やはりドイル王の所に寄っていくか…早いほうが良かろう…」 「お任せします。」 「御者!王邸へ立ち寄る。先触れを出せ!」カイルの声が朗々と響く。
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