閑散とした村の端の端で、低くうなる声が響く。死者への弔いの読経である。 だが、その声には寒気を感じさせるほどの冷たさが滲んでいた。
読経には、一片も感情がこもっていない。 ただ冷たく、飢えた獣にも似た唸りがただ流れていた。 死んだように静かな村に響くそれは、呪詛になって広がっていった。
誰一人そこには行かない。 誰一人哀れみはしない。 しかし、誰一人そこを意識から弾き出してはいない。 ただ、そことは関わらない。 ただ、そこを見て見ぬ振りをする。 村の端の端にひっそりと建っているそことは、誰一人……
そこから低く永く声が続いている。 そこにいるのは三人。僧と女と、少年。三人だけである。 そのうちの一人はすでにその生を終えている。 僧は淡々と経を読み上げ、もう一人は目を閉じてじっとしていた。
永遠に続くかと思われた経を読み終え、僧は儀礼的に死者に向かって詭拝すると、すぐさまその場を立ち去っていった。 そこにいる人間のことなど見えていないかのように。何も見ずに…… そしてまた、そこに座っていたもう一人も僧を一瞥もしなかった。 何も言わず、ただそこに横たわっている死体だけを見つめていた。
そこで眠っているのは、老いた女だ。 醜くしわがれ、骨が浮き、皮が垂れている老婆。
その顔には安らかな笑みが広がっている。
それを見つめ、少年は深く息を吐いた。 老婆の顔に浮かぶ微笑は、少年に常に向けられていたものだった。 何年・何十年も向けられた。あの若く美しかったころの面影の残っている微笑だった。
「………母さん……」
たった一言。 これを言うことへの苦痛。 いつからだったのだろうか。この苦痛を感じ始めたのは。 いつだったのか……もう分からなかった。 感じた苦痛の長さだけが身にしみていた。 微笑み続け、己の苦しみを最期まで見せはしなかった人。 本当なら幸福に死んでいけただろう人。
「……母さん……」
そこにある窓に映る姿は紛れもなく子供の姿だ。 いったい誰がわかるだろうか。誰が信じるだろうか。 そこに横たわっている老婆の息子が、この少年だと。 いったいだれが思うだろうか。
窓に映し出された姿は小さく、幼すぎる。 頼りない手足に身体。 未発達の塊。 その中で、眼光だけが年老いていた。
彼は彼女の息子。 これは、紛れもない真実。 五歳かそこらの身長しかなく、幼い顔の彼が。
少年の身体を持つ彼は、ゆっくり死骸に眼を向けた。 痩せ衰えた白髪の老婆。 角ばって、節くれだったその細い指には、家紋が絡まっていた。死者を導く家紋が。
彼は彼女から目を逸らすと、すたすたと隣の部屋へ入っていった。 そこには、一つの荷物が作られていた。 少年のような彼が、前々から用意していたものだ。 彼は自分の身体を覆いそうなそれを担ぐと、戸外へと出て行った。 彼女を振り返ることなく。 そのまま、村の入り口とは反対にある森へと向かった。 村の入り口から出れば、なだらかな道が街まで続いている。だが、彼はあえて森へと向かった。
森の中には何もない。道がないのだ。 人の分け入る隙をこの森は許していない。 だが、人を拒み、人を殺していく森の果てには隣国の大地が広がっている。
彼には、そこにしか生き道がない。
しかし・・・たとえ森半ばでのたれ死のうが構うことはなかった。 彼女が大往生だったように、彼もまた普通に長く生きていた。 思えば、死を考えてもいいような歳でもある。
寿命というものを、自分の好きに縮めてもいいのではないか。 彼の心にはその思いもあった。 彼女はあんなに微笑んで逝ってしまった。 彼を縛り付けるものは、もう、この世には、何も、何もないのだ。 彼を村に縛り付けていたものは、もう何も。
彼は振り返りもせずに草の中へと分け入った。 森は人の領分ではない。 いつ襲われるか、いつ最期が訪れるかしれないが、彼は躊躇わずに入っていった。
閑散としていた村も、いつしか街となり賑わいを見せるようになり、そして、五十年間少年の姿であった人間の話を知るものは、誰一人存在しなくなった。
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