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作品名:永遠の詩 作者:英邑

第1回   序章

閑散とした村の端の端で、低くうなる声が響く。死者への弔いの読経である。
だが、その声には寒気を感じさせるほどの冷たさが滲んでいた。

読経には、一片も感情がこもっていない。
ただ冷たく、飢えた獣にも似た唸りがただ流れていた。
死んだように静かな村に響くそれは、呪詛になって広がっていった。

誰一人そこには行かない。
誰一人哀れみはしない。
しかし、誰一人そこを意識から弾き出してはいない。
ただ、そことは関わらない。
ただ、そこを見て見ぬ振りをする。
村の端の端にひっそりと建っているそことは、誰一人……

そこから低く永く声が続いている。
そこにいるのは三人。僧と女と、少年。三人だけである。
そのうちの一人はすでにその生を終えている。
僧は淡々と経を読み上げ、もう一人は目を閉じてじっとしていた。

永遠に続くかと思われた経を読み終え、僧は儀礼的に死者に向かって詭拝すると、すぐさまその場を立ち去っていった。 
そこにいる人間のことなど見えていないかのように。何も見ずに……
そしてまた、そこに座っていたもう一人も僧を一瞥もしなかった。 
何も言わず、ただそこに横たわっている死体だけを見つめていた。

そこで眠っているのは、老いた女だ。
醜くしわがれ、骨が浮き、皮が垂れている老婆。 

その顔には安らかな笑みが広がっている。

それを見つめ、少年は深く息を吐いた。
老婆の顔に浮かぶ微笑は、少年に常に向けられていたものだった。
何年・何十年も向けられた。あの若く美しかったころの面影の残っている微笑だった。

 「………母さん……」

たった一言。
これを言うことへの苦痛。
いつからだったのだろうか。この苦痛を感じ始めたのは。
いつだったのか……もう分からなかった。
感じた苦痛の長さだけが身にしみていた。
微笑み続け、己の苦しみを最期まで見せはしなかった人。 
本当なら幸福に死んでいけただろう人。

 「……母さん……」

そこにある窓に映る姿は紛れもなく子供の姿だ。
いったい誰がわかるだろうか。誰が信じるだろうか。
そこに横たわっている老婆の息子が、この少年だと。
いったいだれが思うだろうか。

窓に映し出された姿は小さく、幼すぎる。
頼りない手足に身体。
未発達の塊。
その中で、眼光だけが年老いていた。

彼は彼女の息子。 
これは、紛れもない真実。 
五歳かそこらの身長しかなく、幼い顔の彼が。

少年の身体を持つ彼は、ゆっくり死骸に眼を向けた。 
痩せ衰えた白髪の老婆。 
角ばって、節くれだったその細い指には、家紋が絡まっていた。死者を導く家紋が。 

 
彼は彼女から目を逸らすと、すたすたと隣の部屋へ入っていった。
そこには、一つの荷物が作られていた。
少年のような彼が、前々から用意していたものだ。
彼は自分の身体を覆いそうなそれを担ぐと、戸外へと出て行った。
彼女を振り返ることなく。
そのまま、村の入り口とは反対にある森へと向かった。
村の入り口から出れば、なだらかな道が街まで続いている。だが、彼はあえて森へと向かった。

森の中には何もない。道がないのだ。
人の分け入る隙をこの森は許していない。
だが、人を拒み、人を殺していく森の果てには隣国の大地が広がっている。

彼には、そこにしか生き道がない。

しかし・・・たとえ森半ばでのたれ死のうが構うことはなかった。
彼女が大往生だったように、彼もまた普通に長く生きていた。
思えば、死を考えてもいいような歳でもある。

寿命というものを、自分の好きに縮めてもいいのではないか。
彼の心にはその思いもあった。
彼女はあんなに微笑んで逝ってしまった。
彼を縛り付けるものは、もう、この世には、何も、何もないのだ。 
彼を村に縛り付けていたものは、もう何も。

彼は振り返りもせずに草の中へと分け入った。
森は人の領分ではない。
いつ襲われるか、いつ最期が訪れるかしれないが、彼は躊躇わずに入っていった。



閑散としていた村も、いつしか街となり賑わいを見せるようになり、そして、五十年間少年の姿であった人間の話を知るものは、誰一人存在しなくなった。


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