お地蔵さんの横に座って、赤いちゃんちゃんこをはおって、海を眺めている白髪の妖怪がいた。 妖怪の大きな両目は涙で潤んでいた。「懐かしいなあ、懐かしいなあ。」と、しきりに呟(つぶや)いていた。 お地蔵さんの前には、コーヒー缶が置いてあった。 お地蔵さんの左横には、七十歳くらいの小太りの老人の亡霊が、冷たい石の上に短い脚を投げ出して腰掛けていた。遠くを眺め、安っぽい野球帽を深くかぶり、涙を隠していた。 若者は会釈をして、亡霊の前を通り過ぎて行った。老人の右手首に安っぽい磁気バンドが巻かれていた。 老人は寂しく笑って若者を見ると、頭を下げた。 「お知り合いかな。」 「いいえ。何やってるんですか、向こうの妖怪は?」 「望郷妖怪じゃ。ああやって、朝から晩まで海や山を眺めておるんじゃ。」 「いろんな妖怪がいるんですねえ。」 「あの妖怪の周りには、生きていた頃を懐かしむ亡霊が寄ってくる。」
【 これより百鬼夜行海岸 歩道は右 車道は左 】
砂浜の近くの原には、風や砂を防ぐ松が植えられていた。 視界には、水を吸うアスファルトの歩道と、砂と松ばかりで建物は無かった。 「ここからが、ひゃっきやこうかいがんか…」 「ひゃっきやぎょうと読むんじゃ。」 「ああ、そうなんですか。いいところなのに人が歩いていませんね。」 「そうじゃなあ…、黒松ばかりじゃなあ。」 「くろまつ…」 「塩風や乾燥に強いんじゃ。」 「そうなんですか。…お地蔵さんって何なんですか。」 「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)という、地獄から救って下さる仏様じゃ。」 若者は後ろを見た、お地蔵さんの前では、やっぱり望郷妖怪と老人が漠然と海を眺めていた。 「ああいう妖怪ばかりだと、怖くありませんね。」 「こういうところには、昼間は恵比寿さんがいるから大丈夫じゃ。」 「えびすさん…」 「恵比寿さんくらいは知っとるだろう?海の神様じゃ。」 「はあ、なんとなく。」 侍の亡霊は、松ぼっくりを拾った。 「松ぼっくりは、今も昔も同じじゃのう。」 「これは、松の何なんですか?」 「そんなことも知らぬのかあ。松の実じゃ。あきれたやつだな。」 「これ、生きているんですか?」 「あたりまえじゃ。中に羽をつけた種が入っとる。春になると松ぼっくりが開いて飛んで行くんじゃ。」 「そうなんですかあ。」 「むかし、まだわしが生きている頃、娘の菊と松ぼっくりを取りに来たもんじゃ。」 「これを、どうするんですか。」 「松ぼっくりに、どんぐりやマツの葉などをつけてな、いろんな動物をつくるんじゃよ。楽しかったなあ。」 「いつごろのはなしなんですか?」 「家康が天下を取ったころのはなしじゃ。」 「家康というと、徳川家康ですか?」 「そうじゃ。おぬしは難しいことは知っとるんだのう。なにか学問でもなさっておったか。」 「学問…、いろんな学問を、ほどほどにやってました。」 「そうか、たいしたもんじゃ。」
若者は背後に何かの気配を感じた。後ろを振り向いた。 「なんだ、あの人?」 十メートルほど後方に、鮮やかな着物を着た、黒い長髪の細身の女性が歩いていた。 「綺麗な人だなあ。」顔は青白く、目は猫のように吊り上っていた。 「見るな、あれは猫姫という妖怪じゃ!」 若者は、慌てて侍の言葉に従った。 「襲ってはこないから、安心せい。」 「ああ、良かった。」 「ただし、見つめたら、気があると思って一生ついてくるぞ。」 「一生?」 「おぬしが死ぬまで、四六時中情愛を求めてくるんじゃ。とりころされるぞ。」 「分かりました。絶対に見ません。」 「知らん顔して黙っていたら去っていく。」
松原は千五百メートルほど延びていて、中ごろに公衆トイレが設置されていた。 「こんなところにトイレがあるんだ。」 「もう大丈夫じゃ。諦(あきら)めて、どこかに行ったぞ。」 「ああ、良かったぁ〜。でも、綺麗だったなあ〜。」 「そんなことを言ったら、また来るぞ。」 「冗談です。冗談!」 「そういう冗談は言わないことだな。」 「分かりました!」
道の前方から、大きなダンボールがよたよたと歩いてきた。 「また、ダンボールの妖怪が来ましたよ。」 「…あれは、妖怪とは違うぞ。」 「妖怪じゃないんですか?」 「妖怪じゃない。ひょっとすると、ラッパかもしれんな…」 侍の亡霊は、左手に持っていた槍を、右手に持ちかえた。 「後ろに下がっておられい。」 「はい。」
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