「こんな家出てってやる!」 そう言ったのはもう過去のこと。今更後悔しても遅い。世間様は『お金持ちでいいね。』なんて言うが、金なんて信用ならない。自分には夏目漱石で十分だ。そう思った。
「次は大宮、大宮です。お忘れ物なさいませんよう…。」
家を出てから丸一年。ここの生活に慣れたと言ったら嘘になる。だが、やはり一年という月日が自分の中の何かを変えていると実感したのは最近のことだった。 世間ではロサンゼルス五輪が始まった。店頭からグリコの商品が撤去された。しかし、いつもと同じように時は過ぎる。その時だけ早かったり遅かったりなんてのは絶対にないし、ましてや止まるなんて都合の良い話がどこにあるだろうか。ごく一般的な高校生や大学生、仕事に追われる会社員に休みはない。それが例え、夏休みだとしても。 駅には昨日と同じアナウンスの声がした。その声さえ一年経っても、二年経っても変わらないのだろうか。彼女は席をゆっくり立ってドアに向かう。窮屈な車両、嫌なにおいには、もううんざりだと思う。電車が止まった途端、後ろから来た高校生に無理やり抜かされる。 「おい!行くぞ。」 毎朝のように階段を走ってゆく高校生。隣では「内緒、内緒。」と言いながら、大声で喋っているおばさん達。
くだらない。
くだらない日常と、くだらない会話。その中に彼女、市瀬早紀はいた。同じ時間に、同じ場所を、同じメンツで通っているというのに、今日はなぜだか苛立っている。早紀は今年やっと高校を卒業して、この春大学生になった。大学は自分で決めた私立大学。金なんてどうだってなると思っていたが、予想外の額に肩を落とした。出来たばかりの奨学制度を使ってやっとの思いで入学が許可された。 早紀の家は『大富豪』という名がつくほど金持ちだった。跡取りがいなかったため、早紀はあらかじめ母親が決めた人との結婚しか許されなかった。16で婚約、そして20歳で結婚。それが決められたレールだった。そんな生活を放り出し、この私立大学に晴れて合格したことは、早紀にとってこの世の幸せだと思っていた。しかし、予想以上にくだらなくて平凡な生活。行き来する人のバカバカしい会話。それとは裏腹に早く過ぎ去っていく時間。早紀は何もない、空虚で生きている気がしていた。 夏の風がいやらしく早紀の顔をなでる。暑さと渇きを含んだそれは、身体から水分を奪っていった。冷房が入ってから、大学に行く回数が増えた気がする。こんな暑い日には貴重な冷房の下で勉強なんてのも悪くない。夏休みなんてものは、補講に引っかかった早紀には関係のない行事だ。だから早紀はわざわざ電車を乗り継いでまで大学に足を運ぶのだった。駅の時計を見ると、もう10時を過ぎていたのがわかってため息をついた。カップルが切符売り場で戯れている。早紀はそれを横目に駅を出た。 単位制の大学の利点は、好きな時に登校できることだ。つまらない講義は取らず、楽なものだけ履修すればいい。特に夢もなく、やりたいことのない者達にとって授業なんてその程度のものだ。だから早紀は大学の講義は一日に一つと決めている。でもそのほとんどを欠席していたため、補講決定だった。それでも行っていないのはただ単に面倒だからという理由だ。毎日中味のない生活を送っているせいもあり、世間の波に出遅れた早紀は、ロス五輪が今年だというのも、それがもう開幕しているということも恥ずかしながら、知ったのは最近だった。 「早紀。」 同じ学部で、親友の貴代が手を振っている。手にはたくさんの本と、キタムラのバッグ。 「驚いたぁ。早紀が大学来るなんて。」 そう言いながらパンパンと鞄を叩く。早紀はそれを横目で見た。 「…一応、補講。」 「早紀が??」 「単位取れないって。欠席多すぎて。」 驚いた顔をして貴代が早紀を見る。しかし急に、にかっと笑い、 「ねぇ、新しく出来たおいしいカフェテリアがあるんだけど行かない?あたし3、4取ってるから、その後に。」 と言った。勉強家なくせに遊び人だから、友達層も広く、男友達が何人もいた。それなのに夏の補講はほぼ取っている。勉強しているのに、成績に表れないのが貴代の悩みであった。そしてオシャレで、流行に敏感で、おまけに3年前に芸能界を引退した山口百恵に似ているという噂があった。確かに目や口元あたりがそっくりだと、早紀はこれまた最近気付いたのだった。 貴代は早紀がどうしてここに来たのか、一部始終を知っている。付き合いは長いが、早紀は貴代のことを何も知らないのかもしれないと思った。 「別に…いーけど。」 「本当?!」 貴代の声と同時に鳩が舞った。真っ青な葉っぱが生い茂っている木が彼女達を見つめていた。早紀はベランダから降り、2限に出るために講義室に入った。
|
|