あの男だ、とレジェは思った。 炎の中で意味不明なことを叫びつづけていた、あの男。
「あの犯罪者どもが神だなんて、人類を小馬鹿にしてるんだよ。」 両手を広げて、人を馬鹿にするようなにやけた顔をしながら、男は言っている。 レジェは立ち去ろうと思うが、体が動く気がしない。 「わかるだろ?お前は僕の言葉を聞いてしまったのさ。」 男は人差し指を立てた。 「あの廃人が逃げ惑うように、お前も一生僕の言葉を聞き続けることになる。そうなるようにしたんだからね。」
目が覚めた。
背中と首の後ろに嫌な汗を掻いている。レジェは顔を上げる。 何時の間にか、ヒロオミの傍で眠ってしまっていたらしい。外はもう夜の闇の色ではないが、雨が降り続いていて明るくなっても晴れそうな気配はない。ヒロオミは穏やかな寝息を立てている。
何の夢だったかな、とレジェは考えた。 何かとても嫌な夢だったような気がするが、忘れてしまっている。 少し頭を振った。寒い中、ガウンだけで寝ていたので自分も風邪を引いてしまいそうだ。 「ん…レジェ…」 衣擦れの音を立ててしまったからか、ヒロオミがゆっくりと目を開く。 「あぁ、ごめんなさい、起こしてしまいましたね。」 「…ずっと居てくれたのか?寒いだろう…」 「少し眠ってしまっていたようです。」 「だいぶ楽になった。ありがとう。」 「いいえ。」 ヒロオミがそっと腕を伸ばして、レジェの頬に触った。 「冷たいな」 「ヒロオミの手はまだ少し熱いくらいですね。」 「寝てたからだよ。おいで。」 ヒロオミがシーツを上げて空間を作る。半分寝ぼけた状態で、レジェはごそごそと布団に潜り込む。 「…風邪うつすかな」 「大丈夫ですよ…」
またあの男だ。 「僕はね、あいつらに全てを奪われたのさ。」 腕を組んでいる。にやけた顔で、本気なのかどうなのかわからない、おどけたしゃべり方をしている。 レジェは何故か、その話を黙って聞くしかないとわかっている。 「だからあいつらに復讐をするんだ。ずっと探しつづけてた。世界を壊す壁をね。」
そういえば、とレジェは考える。
昨日の夕方に出会った、あの酔った男が言っていた。 自分は何年も逃げている。世界を破滅させようとしている男から。 この壊れたようにしか思えない男が、そうなのではないか? この男は誰に復讐したいのだろう。「あいつら」って誰なのだろう。
「うなされてるぞ」 不意に意識が戻る。いつの間に眠ってしまったのか。 また背中にうっすらと汗を掻いているような気がする。嫌な夢だった。誰かが何かを言っていた。 「悪い夢でも見たのか?」 ヒロオミが目を閉じたままで静かに聞いてきた。 「…そうみたいです。ヒロオミの眠るのを邪魔してますね、自分のベッドに戻ろうかな」 「馬鹿言うな。」 ヒロオミはレジェの頭の下に腕を通す。腕枕の姿勢になって、少し熱い体温が耳元に伝わってくる。 「邪魔なんてことはない。」 「…ありがとう。」 ヒロオミは鼻をすすった。 「看病してもらったんだから。当たり前だ。」 耳の下から、ヒロオミの脈の音が聞こえてくる。温かいなと思いながら、レジェは再び目を閉じる。
「あの女を捜しているんだろう?」 男は得意そうに言ってのける。 「あの女は、今のんきに地上を歩いているよ。僕の復讐を手伝ってくれるなら、手伝ってもいい。」 男はじっとこちらを見ている。相変わらず、冗談か本気かわからない表情だ。 「あぁそうだ。しゃべることができないんだよね。僕がそうしてるんだから。」 その表情が目に焼き付いてしまいそうだ。レジェは顔をしかめる。 「いいよ、しゃべるといいさ。」 男が指をパチンと鳴らす。その途端、何か重苦しいものが少しだけ軽くなったような気がした。今まで重荷を感じていなかったので、その感覚が予想外で気分が悪い。 「僕は世界の壁を壊す。ただ、あの女は優秀だからね。あっという間になおしてしまう。だから上手くいかないんだよ。」 「世界の壁?」 掠れたような声が出た。男がにやりと笑う。 「僕たちを閉じ込めている牢獄さ。」 「牢獄?どこにそんなものが?」 「お前の周りにだよ。」 男はこともなげに言い放つ。 「だいたい、”あいつら”って誰なんですか?」 「まだわからないのか?」 男は呆れ顔になる。腕を組んで、表情をそのままに、まくし立てる。 「エザリムだ。フィランゼだ。ダルセだ。ミーゼリアだ。ゼアノートだ。」 「神々?」 「は!神!お前ら愚か者がそう呼んでるだけだ。あいつらはただの犯罪者だ。破壊者だ。虐殺者だ。贖い尽くせない罪を背負っている愚か者だ。いいか愚か者。僕の言うことを聞け。僕は牢獄を破るんだ。何百年も意味もなく閉じ込められている、この牢獄をだ。」 レジェは何を言っていいか思いつかずに、息を飲み込む。男は人差し指を立てて、自分の目の前で空中に線を書くように鋭く振る。 「犯罪者を、破壊者を、虐殺者を、僕がだ。僕が、正義が、真実が、断罪するんだ。」 「あなたが正義だと、どうして私が信じられると思うのですか?」 「ならば真実を見せてやろう。」 男が指をもう一度振る。けたたましい、聞いたこともない騒音が遠くから波のように襲い掛かってくる。
強く抱き寄せられた。 気がつくと、ヒロオミが自分の方を向いている。自分の呼吸が荒くなっていることに気がつく。 「…。」 ヒロオミは何も言わない。ただ、両腕に力を篭めてレジェを強く強く抱きしめている。 「…あの男です。あの男が夢でしゃべってる。」 レジェは息を整えながら、掠れた声でしゃべった。ヒロオミは「そうか」とだけ応えて、レジェを包み込むように抱きしめる。 「何かが、見えていました。見たこともない、何か」 「深呼吸しろ。」 ヒロオミが静かな声で言う。レジェは、自分が息を呑んでいたことに気がつく。自分の心臓が早鐘のように打っているのを感じる。レジェは、息を吸った。口元から、ゆっくりと息を吐き出す。 「傍にいる。俺だって、大切にしたいし、大事にしたいと思ってる。」 ヒロオミが低く囁いた。レジェは心が安らいでいくのを感じる。 「うん。」 そうだ、と思い出したように心の中に浮かぶ。いつでも、傍にいるのだ。信頼できる、頼れる人が。 レジェは自分を抱きとめている腕を掴んだ。多分、夢の中でも、一緒に居てくれるはずだ。
どこかで男の笑い声が聞こえた。 レジェはヒロオミの腕を掴む手に力を篭めた。
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