そろそろ、外には春の匂いがしている。 葉がない木も、よく見ると小さなつぼみをつけている。
自分が戦争に出た時、まだ寒風が吹いている季節だった。 幸せを感じながら、今春を迎えようとしている。
怪我は、随分とよくなって、右腕も動かせるようになった。まだ肩をぐりぐりと回す作業は無理だが、食事は両手で出来るようになったし、簡単な力仕事なら出来るようになっている。毎日、レジェの手伝いをしながら、暇を見つけては、肩を動かすトレーニングを始めた。最初は手をまっすぐと前に伸ばす作業も痛みを伴ったが、今では右手で左肩を触れるほどにまで回復している。
「もう、言ってくれれば手伝いますから。二度と無理はしないでくださいね!」 「ううむ、すまなかった。」
それで思い切って、伸びていた髭を剃ることにチャレンジしてみたのだが、感覚が上手く戻っていなかったのか、頬を少し傷つけてしまった。左頬に赤い筋が走って、ちくりと痛んだので、レジェに傷薬をもらおうと声をかけたところ、お茶を飲んで小休止していたレジェが酷く怒ったのである。 ちょっと反省した。上手くいくと思ったのだが。 しゅんとしているヒロオミに、レジェは軽く睨むような視線を送って、それからくすっと笑った。自分よりも大きくて立派な体格の男が、本当に申し訳なさそうに傷薬をもらいに来たのが、レジェには少しおかしかったらしい。 「さぁ、手当てをしましょう。それから、私が残りを剃ってあげますよ。」 指先に傷薬をすくいとりながら、レジェはヒロオミに椅子に座るように促した。
結局、全てが終わるまで1時間程度かかった。 ついでにレジェは髪も少し切ってくれたのだ。 「おや。随分とオトコマエになりましたね?」 レジェは鏡をヒロオミに渡して、床にこぼれた髪を片付けながら、悪戯っぽい口調で言う。ヒロオミは鏡を覗き込んで、頬を撫でながら自分の顔をまじまじと眺める。さっぱりした。左頬に塗られた傷薬と、傷跡以外は。 「そうかな。」 「はい。本当はそろそろ髪と髭を手入れしましょうって言おうとしてたんですよ?まったく。」 「ううむ、本当に悪かったよ。今度からもう少し慎重にする。」 「お願いしますね?」 レジェは全く怒ってない口調で、ヒロオミに受け答えをする。 「うむ、確かにさっぱりしたな。」 「でしょう?」 「後は花束でも見繕えば、女性にプロポーズできるかな?」 「あはは。どうぞどうぞ、それは試してみないとわかりません。」 レジェは掃除の道具をしまいながら、軽口を返してくる。
内心、ヒロオミは、心に決めていた。 このまま、レジェと生活をしていきたい。 刺激のあるあの世界を諦めたとしても、後悔はしない。 怪我をちゃんとなおして、きちんとレジェに一緒に居たいと申し出るのだ。 神官が結婚できるかどうかわからないけれど。それは気になっているけれど、誰に聞いたらいいのかわからないし、わかりそうなレジェに聞くのはできない。 もし、できないとしても、ここで生活を続けたかった。 迷惑だろうか。そんな不安もあるけれど。
繰り返しの毎日がゆっくりと流れていく。
やがて、蕾だった花もすっかり満開となり、全ての生命が生を謳歌する季節がやってきた。 今はもう、肩もよほどの無茶をしなければ、痛みを全く感じない程に回復した。
ヒロオミは、毎日の生活がようやく普通に戻りつつあり、すっかり仕事を分担して請け負うようになっていた。
朝。まだ太陽がその光でようやく大地を照らし始めるころに、起きる。朝の祈りをするためだ。一緒に起きても、実はヒロオミには何もすることがない。だけど、レジェと一緒に礼拝堂に入り、掃除だけは軽く手伝う。その後、レジェが祈りを捧げるのを、じっと礼拝席に座って待つ。 祈りの言葉は、何を言ってるのか正直わからない。古い言葉を使っているのですよ、とレジェが教えてくれた。それでも、なんとなく、朝の光がゆっくりと差し込む風景、礼拝堂の闇が溶けかかった空気に祈りのための香が微かに拡がる雰囲気、そして、レジェの静かな表情を見ているだけで、落ち着いた時間を共有できた気分になる。
朝食前には、今日使う水を裏庭の井戸から汲み上げてくる。午後の礼拝に来る人たちへ、お茶を振舞うために多めの量が必要なので、何往復かすることになる。この仕事は、ヒロオミの役割となった。力仕事には慣れているので、それほど大した苦労ではないし、もっと沢山汲み上げれば毎日はやらなくてもよさそうな感じもする。でも、レジェは毎日、ヒロオミに必要な量だけを頼んだ。もちろん、多めに水を運ぼうか?と聞いたこともあったが、レジェはこう答えた。「何でも、多くを揃えればいいわけじゃないんですよ。必要な量と、ほんの少しの余裕があればいいのです。あまりに多くのものを望みすぎると、人は余分な欲を抱えることになります。」その言葉にヒロオミは納得して、それで毎日、水を汲んでいる。
水を汲んでいると、朝食をレジェが仕度してくれる。基本的には、その食材は全て村の人からもらっているとのことだった。仕事のお礼としてもらうこともあるし、村の人たちは礼拝に来る折、村でレジェを見かける折に、四季に採れる様々なものを少しずつ分けてくれるのだそうだ。後ほど、ヒロオミが外出するようになった時にも、ヒロオミは時折村人からそういったものを預かったりすることもあった。その時々に村人が話してくれたのだが、この村はあまりにも辺境で、赴任してくる神官は、皆最後には職務を放棄して、祈りを棄てていなくなってしまうことを繰り返していたらしい。それが、ある日突然、若いレジェが赴任してきて、それ以来、教会をきちんと自分の手で手入れしなおし、村人たちが安心して日々の祈りを捧げ、憩うことができる場所にしたのだそうだ。特別に神様に期待をしているわけではないが、安心できる場所ができたということで、村人たちはレジェの赴任をとても喜んで、それで今でもこうしてレジェに世話になるお礼として、自分たちの少しの余裕を届けるようにしているらしい。 「本当は、他のおっきな教会のように、きちんと教会税を納めなくてはならないんだけどな。神官さんは、頑なに受け取ってくれないんだよ。それで、こうして、みんなが持っているものをお分けするという形で受け取っていただいてるんだ。」 それで、ヒロオミも、預かった時は丁寧に礼を述べて、決して断らずに受け取るようにした。レジェにそのことを話すと、苦笑しながら荷物を受け取って、こう言った。 「うーん、教会税は、教会が運営していくためには必要なのだとは解っているのですけど…。でも、私は滅多にそれを首都の教会に持っていけるわけではありませんし、皆さんにも負担になってしまいます。それに、皆さんが親切に色々下さるので、それだけで、こうしてあなたと2人で暮らすようになってからも日々困らず生活できてしまいます。だから、必要がないので受け取らないことにしているんです。」 「でも、首都にたまには持ってくんだろ?それは?」 「実はですね、毎月、きちんと本部から支給されているお金があるんですよ。教会税って、額が決まっているものではないので、そのお金で賄ってます。」 「ううむ、そうか。」 こればかりは、何か手助けできるものではないし、実際に手助けをレジェが必要としているものでもなさそうだ、ヒロオミはそう考えて、以来、このことは考えないようにしている。
朝食が終わると、レジェは外出する。特についてきてくれと言われない限りは、ヒロオミは大人しく教会で待って、トレーニングなどもこの時間に済ませる。レジェは村を一周するように歩いて、既に連れ添いを亡くして一人暮らしになった老人や、事情があって困っている家族の元を訪れ、手助けをしたり、必要に応じて祈りを捧げたりしている。人手が欲しい時は、レジェが声をかけてくるので、もちろん一緒についていく。 一度、一人暮らしの老人が病気で倒れた時があり、その時はレジェに頼まれて一緒についていった。色々な物資の買出しや、水の調達などに人手が必要だったからだが、レジェはヒロオミにもしていたように、実にテキパキと、甲斐甲斐しく老人の手助けをしていた。時折、沐浴なども手伝ったりすることもある。 「ほら、ヒロオミが診ていただいたお医者様も、同じように村を見てくださってます。ひとりではないので、何とかなるものなのですね。」 帰り道、大変だぁ、とつぶやいたヒロオミに、レジェは明るい笑顔で応えた。
昼過ぎ。礼拝堂に人が集まり始める。 1日1回の祈りの時間だ。 毎日、同じ顔ではなく、村の人たちは、自分の決めたペースで思い思いに訪ねてくるらしい。こういうものは夕方にやるのかと思っていたが、どうも一番太陽が照りつける時間帯、休憩を兼ねてやるのだ、と聞いて、なるほどと納得をする。 「一番大事なことは、教会で祈ることではないのですよ。」 「ふむ。」 「生活です。皆さんが、きちんと生活できて、その上で心を静かにするための時間を作るために、祈りがあるんです。だから、生活のペースに合わせなくてはいけません。」 「なるほどね。」 「だから、自分が心を静かにできるのなら、毎日来る必要もないと思います。」 午後の祈りの片づけをしながら、手伝うヒロオミの質問に、少し考えた後でこんな答えを返してくれた。こうやってみると、レジェは、本当に自由に、しかしきちんと、神に仕えているのだなと思う。正直なところ、教会にはもっとガチガチな規律があって、みんなその規律を守りながら生活しているのだと思っていたから、レジェみたいに柔軟な発想をする神官がいるということは、新しい発見だった。
夕方、ようやく少し休憩の時間ができる。 レジェがいつものようにお茶を煎れてくれて、食卓のテーブルに思い思いに座り、雑談を楽しむ。このゆっくりとした時間が、ヒロオミは本当に楽しみで、そして好きだ。レジェはいつでも、笑顔を絶やさない。ヒロオミも、絶やしてほしくなくて、色々と楽しい話をしようと内心頑張っている。本当に、幸せなひととき。
雨の日は、午前中からの外出は欠かさないものの、礼拝もお休みするので、ほとんど1日中、2人きりの生活になる。春の暖かい雨の中、レジェもヒロオミも、お互いに拘束することなく、思い思いに過ごす。 ただ、困ったことには、まだ完全に癒えていないのだろうが、たまに肩の傷が酷く痛むこともある。最初は我慢して大人しくしていたのだが、どうもこの村は山間にあるからか、雨が2・3日は続くこともあって、何度か繰り返しているうちに簡単にレジェに見抜かれてしまった。 「ヒロオミ、もしかして肩が痛いですか?」 「え」 「表情が硬い気がするんです。痛むなら、薬を出します。我慢しないで。」 「う、うむ。ちょっとだけ…痛い、かな。」 本に目を落としてすっかり読みふけっていると思ったのだが、やはりレジェは細かいところまで気がつく。我慢していたヒロオミに責めることは言わずに、戸棚から薬を出して、薬湯を作る。 「苦いですけど、我慢して飲んでください。それと…」 ヒロオミに薬湯の入ったグラスを手渡して、レジェが右肩にそっと手を当てる。それから、ヒロオミの額に同じように手をあてる。 「うーん、やっぱり少し熱があります。横になって休んだ方がいいかもしれない。」 「そうかな…」 「大事にしましょう。あなたが倒れてしまっては大変です。」 「…うん、じゃぁそうするよ。」 大人しく従う。レジェが言うことには、ヒロオミは基本的に反対しない。もしかしたらこれが「尻に敷かれている」というやつなのかもしれないが、それでも一向に構うものかとヒロオミは思っている。もっとも、今はそんな余裕は内心なくて、肩の中からうずくような痛みに歯を噛み締めているのだが。 「隠さないで下さい。」 ベッドに横になったヒロオミに、寝室までついてきてシーツをかけながら、レジェがため息混じりに言う。 「遠慮とかしてる、とは思わないですけれど、少し心配をしてしまいます。大袈裟でも構いませんから、やっぱりちゃんと言って欲しいです。」 「ご、ごめん。」 「ヒロオミは我慢強いから困ります。」 レジェは、椅子をベッド傍に置いて座る。 「すまない…」 「約束ですよ?あなたが倒れたら、色々と助けられてる身としては困ります。」 シーツの中にレジェの手が滑り込んでくる。肩と二の腕を、ゆっくりと撫でてくれる。 「…俺、役に立ってるかな?」 「大助かりですよ。本当に。頼りにしてます。」 心地がよい。そういえば、まだ起き上がることもできない間、毎晩こうしてくれていた。 「気持ちがいい。」 「よかったです。そういうのは素直に言えるのに。困った人です。」 「ごめん…」 「怒ってないです。もう。」 本当に、心地がいい。薬が効いてきたのか、レジェの手がそうしているのか、痛みが溶けていくような気分。同じくらいに、眠気もしてくる。意識が溶けていくのを感じながら、ヒロオミは眠りについていく。
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