すっかり深夜になったころ、ヒロオミは部屋へと戻った。 先に戻っていたレジェは、1つしかない大きなベッドの右端で、横になってまどろんでいた。 「おかえりなさい。」 「起きてたか。」 「なんとなく、ですけど。」 ヒロオミが左側から、もぞもぞとベッドに入る。 とても大きなベッドなので、2人で寝転んでもなお充分に余裕がある。 「どんなお話をしたんですか?」 「ん?ん〜…レジェは?」 「ん〜…。」 レジェは体の向きを反転させて、ヒロオミを見る。 ヒロオミは仰向けにごろりと横になっていて、暗い天井を見つめている。 「…難しいな。」 「…はい。」 ぽつりと、ヒロオミが呟いた。 レジェも、ぽつりと返事をした。
「ヒロオミ。」 「ん?」 レジェはヒロオミの横顔を見ながら、無意識に呼びかけた。 ヒロオミは、じっと天井を見たままで返事をした。 次に続ける言葉はなにもなかったので、レジェは口を閉ざす。 しばらく静かな間があった後、ヒロオミがぼそりと話し始める。 「…俺は、セタ侯爵に仕えている間、何度も政治の話を耳にした。」 「はい。」 「色々な政治の世界の権謀も聞いてきた。だが、それは政治の舞台に立つ以上、仕方のないことだと思っていた。」 「はい。」 「無関係だと思っていたが…実際に、目の当たりにすると、やはり辛いものだな。」 「はい…。」 ヒロオミは軽くため息をついた。 「それでも、最後に決めるのは、本人だ。」 「そうですね。」 「祈ろう。どうなればいいのか、わからないけれど。」 「…はい。」 レジェとヒロオミは、目を閉じた。
翌朝。ヒロオミたちは、朝早くに城を退出した。 姫には挨拶はできなかったが、カーベルは見送ってくれた。 いつものとおりの無表情のまま、しかしカーベルは深く頭を下げた。 レジェとヒロオミは、普通に挨拶だけをして、城を後にした。 多分、もう何もできることはないのだ。 ヒロオミもレジェもそう感じていた。
そのまま、市場で朝食を取り、商人の家を訪ね、昼前にはエタモメントを後にした。 エザリムは、西へと続く街道で二人連れで歩いているのを見かけられたらしい。 西には高原の町があり、そしてその向こうには氷の町がある。 ヒロオミとレジェは、再び街道へと向かった。
ヒロオミとレジェが街を出発した頃。
エルは、東へと向かう馬車の中にいた。 見たこともない雪の国へ、まだ見ぬ結婚相手に会うために、である。 馬車の窓から、エレミランゼは湖が見えなくなるまで、ずっと外を見ていた。 父親は、何度も何度も抱擁して、娘との、もしかすると最後の別れを惜しんでいた。 エルも、少し涙ぐみながら父親を抱擁し返し、城の者たちに別れを告げた。
恐らくは父親の配慮によって、国までカーベルが同行している。 そのカーベルも、雪の国へと到着すれば、別れなくてはならない。 恐らく、二度と会うことはないだろう。 「見えなくなったわ。」 本当に寂しそうにエルは呟いた。 「…。」 カーベルは無表情のまま、じっと目を閉じている。 馬車の中は、車輪の音だけが響いている。 「レジェさんたちに挨拶できればよかったな…。」 エルは大人しく椅子に座りなおし、ひざ掛けを少し握り締める。 カーベルは、ゆっくりと目を開いて、うつむいたままで言った。 「…実に不思議で、そして羨ましいと思いました。」 「え?」 エルはカーベルの口からは珍しい言葉に、思わず聞き返してしまう。 「何にも囚われることなく、とても自由だ。あのお二人は。」 「うん…。」 エルは曖昧に頷いて、そしてレジェの言葉を思い返した。 ── 言葉にしないと伝わらない。 きっと本当のことなのだと思う。 レジェはそのことが言いたくて、きっと城に来てくれたのだ。 「ねぇ、カーベル。」 「姫。」 エルは思い切って、カーベルを呼んでみた。同時にカーベルが姫を呼ぶ。 「…なんでしょうか。」 「あ、ごめんなさい。カーベルが先に言って。」 カーベルが顔を上げている。 真っ直ぐ、エルを見つめている。 「…では…。」 カーベルは少し考えたようにしてから、言葉を続けた。 「私は、実は王に暇をいただきました。」 「え?」 エルの反応に、カーベルが少しバツの悪そうな顔になる。 「朝一番に、王にお許しを得て。」 「どうして?」 カーベルはじっとエルを見つめ続けた。その瞳に、エルは何か見覚えがあると感じる。 「…雪の国で、仕官いたします。必ず、また姫のお傍に参ります。」 「…。」 そうだ。 あの夕食の席で、同じ目をヒロオミはしていた。 自分に誇りを持ち、自分の大事な者を見据えて、決して揺るぐことのない瞳。 「ヒロオミ殿に教えていただきました。私もまた、望むことを適える力があるのだと。」 「カーベル…。」 「私は、姫を一生お傍でお守りしたい。そのために、どんなことでもします。」 エルは、思わずカーベルに抱きついた。 「私も、伝えたいことがあるの。」 言わなくては伝わらない。 今、言わなくては、きっと伝わらないのだ。 「カーベル。傍に居て。私はあなたが大好き。」
馬車は二人を、そして二人の運命を乗せて、東へ東へと進んでいく。 それは、まるで二人の意思を無視して進む残酷な時の流れのようにも思えた。
(第8章 終わり)
|
|