その後の会話は、本当にただの雑談で、3人は笑いながら店を出た。 すっかり辺りは夜に包まれていて、冴え渡るような月が天に昇っている。
「さぁ、帰る時間だな?」 「なんだかもっとお話していたいけど。」 ヒロオミの言葉にエルは心から残念そうに返す。 「私もです。でも、もうすっかり夜です。」 「そうね。」 レジェが空を見た。エルとヒロオミも空を見る。月明かりがとても綺麗だ。 「まぁ。危ないから、送っていくよ。」 ヒロオミが空を見たまま、エルの頭にぽんと手を置く。 「いいだろ?レジェ。」 「ええ。」 レジェは相槌を打つ。 「じゃ、船着場までお願いしようかな。」 エルは月明かりを見たままで答える。
3人は、船着場まで歩いていき、船頭だけが乗っている船へと乗り込んだ。 来た時と同じように、ヒロオミとレジェの間にエルが座った。 船は時間通りに出発して、大きな水路へとゆっくりと動き出す。 遠ざかっていく市場は、多くの店が閉まっている。 宿屋だけが、夜をこれから楽しもうという人たちの賑わう声を漏らしている。 しかし大きな水路に出ると、その声も聞こえなくなり、船頭が操る梶の軋む音、船のへりにぶつかる水音だけが響く。 「今日泊まる宿屋どうしましょう?」 「まだ船はあるだろうから、また戻ればいいよ。」 「そうですね。」 エルはなんとなく、黙ってレジェを見た。レジェは水面の月に目線を落としている。それから、ヒロオミを見た。ヒロオミはレジェを見ている。なんとなく続く会話が、静かに夜の空気に溶けていく。 「なんだか、いいな。」 エルはぽつりと呟いた。 「ん?」 「なにがでしょう?」 ヒロオミとレジェはエルを見た。 エルはヒロオミの方を見る。 「2人とも、すごく優しい顔だわ。」 「そうか?いつもと変わらないぞ?」 ヒロオミが少しだけ笑顔になる。 ほんの少しだけ涼しい夜風が水路にゆっくりと通り過ぎていく。 「ヒロオミはレジェさんが大好き?」 「ん?」 ヒロオミは首を傾げた。 「ううむ。そうだな。大好きというか、大事だ。」 「大事?」 「あぁ。レジェは俺にとって、とても大事だ。自分と同じくらい大事かな?」 「自分と…?」 エルも小首を傾げる。 「自分と…。」 「自分は、大事にしなくちゃいけませんよ。」 レジェは微笑を浮かべて、のんびりとエルに言う。 「自分のために、それに、自分を大切にしてくれる人のために。」 「自分を大事に…。」 エルは小声で繰り返した。目線を落とすと、そこには水面の月。 ゆっくりと船は進んでいく。水面が揺れて、月も揺れる。 エルは何度も心の中で繰り返した。 自分を大事にする。 「風が少し涼しいですね。」 「結構北に来たからな。暑さも薄れてる。」 レジェが言うと、ヒロオミは自分のマントを器用に外す。 「肩に羽織っておけ。」 ヒロオミはエルの肩に乗せるようにマントをかける。レジェがそれをきちんとエルに羽織らせる。 「ありがとう。」 「ヒロオミは?寒くないですか?」 「ん、俺は平気だ。まだ1枚着てるしな。」 ヒロオミは袖をまくっている。落としたままの視線を移して、ヒロオミの腕を見る。 「ヒロオミ、怪我の跡が沢山あるのね。」 「ま、仕事が仕事だからな。」 「なにをしてるの?」 「今は傭兵だろうか?」 ヒロオミはあごに手を当てて口を一文字にしながら、少し悩んだように答える。 「レジェさんも?」 「私は神に仕えているんですよ。」 「神官さんだ。」 「そうですね。」 エルはなんとなく、ヒロオミの手に自分の手を伸ばした。 「どうした?」 「ううん、大きな手だなって思って。」 「傷跡だらけだ。」 ヒロオミはエルの前に手を伸ばし、そのままレジェの手を持ってエルの前に差し出す。 「手はレジェがすごい綺麗だぞ?」 「綺麗ってほどではないですよ。」 エルの目の前に、ヒロオミとレジェの手が片方ずつ差し出された。 エルは、2つの手に、手を伸ばす。 「レジェさんの手、本当に綺麗ね。」 白く、細く、真っ直ぐに伸びた長い指。爪の形もいいな、とエルはぼんやりと思う。 ヒロオミは、手がとても大きくて、指が太い。傷跡は沢山あるけど。 「エルさんの手も綺麗です。」 「そうかな。」 「ええ。」 エルは2人の手に交互に触れてみた。 「ヒロオミの手は、カーベルに似てるわ。」 「そうか。」 「うん。こんなに怪我の跡はないけど、でも大きいし、厚くて。」
やがて、水路の景色がゆっくりと変わってきた。 大きな屋敷や家が並んでいる。 「そろそろつくかな?」 「そろそろかな。」 ヒロオミがつぶやいて、エルの手を持ち、そっとエルの膝に戻す。
ほどなく船は、再び細い水路へと入っていく。 両側に建物が立ち並び、水路は軽くカーブしている。
「この先ね。」 「そうか。」 やがて、少し風景が開けて、先に船着場が見えた。 「ん?」 今までの穏やかな声から、少し声色を変えて、ヒロオミが目を凝らす。 「あれは?」 レジェも気がついたように船着場を見る。 「あっ。」 エルは短く声を上げた。 船着場には、沢山のランタンの明かりが見えた。人が大勢いるようだ。 船が近付くと、どこかで聞いたような声が遠くから聞こえてくる。 「エレミランゼ様!」 「いたぞ、船に乗っていらっしゃる。」 ヒロオミとレジェは目線をかわして、それから驚いたようにエルを見た。 「もしかして、あれは迎えか?」 「う〜ん、そうかも…」 エルは困った顔になって、小声で答えた。
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