目が覚めてからのヒロオミは、それからさらに1週間程熱が下がらない状態が続いたものの、今までの状態に比べたら明らかに回復し、状況は好転していった。その間ももちろんレジェは献身的に看護をしたし、ヒロオミはそんなレジェに、何度も何度も礼を述べた。 「食事を持ってきました。そろそろいいかなと思って、ちょっと具を入れてあります。」 手にトレイを持ち、ドアを静かに閉めながらレジェが部屋に入ってくる。トレイの上には、スープが載っている。 「あぁ…ありがとうございます、レジェさん。」 「もう、本当にお礼はいいのですよ。何度も言われてしまうと私も恐縮してしまいます。」 レジェは微笑みながら、トレイをテーブルの上に置く。 「起き上がりましょう、ゆっくりでいいです。」 自力で起き上がろうともぞもぞするヒロオミに手を添えて、起き上がるのを手伝う。ヒロオミは随分と体力がついてきたようで、前よりはずっとスムーズに起き上がることができるようになっている。 「毎日スープじゃ飽きてしまうと思いますが、急に重たいものを食べると返ってよくないとお医者さまが言ってたので…あと、少しだけ我慢してくださいね。」 「我慢なんてとんでもないです。」 ヒロオミが起き上がると、肩にショールをかける。起き上がってからショールをかけるまで、ヒロオミの頬は少し赤くなっている。まだ、起き上がるという作業は決して楽ではないのだろう。熱も随分下がったが、普通の状態には戻っていないというのもある。ショールをかけると、レジェは椅子をベッドの傍に寄せる。自分で座って、テーブルの上のスープ皿とスプーンを取る。 「さぁ、そろそろ慣れてくださいね?」 少し悪戯な微笑み。今度は、ヒロオミの顔が、別の理由で赤くなる。
目が覚めた日、ようやく起き上がって待っていたヒロオミに、レジェは薬湯と薄いスープを持っていった。ほんの少しでも食事をとれたらいいなと思ったのである。ヒロオミは空腹感を感じられる余裕はなかったが、レジェの好意を感じ取って、少し頂きます、と答えた。 しかし、その作業が思いのほか、ヒロオミにとって予想外だったらしいのだ。 薬湯は、レジェが手を添えながら、自分の左手で不器用に持って、ゆっくりと飲み干した。苦味が強い薬湯だったので、レジェは水をグラスに注いで渡し、それも左手で不器用に、ゆっくりとヒロオミは手に取って飲み干した。しかしスープはそうはいかなかった。皿とスプーン、使える手は片手しかなかったのである。戸惑うヒロオミに、レジェは至って普通に、スープを手に取って口元にスプーンを運んだのだ。 「あ、あの」 「?」 レジェにとってはヒロオミの戸惑いは予想外のことだった。 「匂いでいっぱいになっちゃいましたか?」 「あ、いえ。そうじゃなくて、いい匂いです。でも…。」 ヒロオミは、目の前にかざされたスプーンと、レジェの顔を交互に見比べる。 「その、俺はこういうのに慣れてない、というか…。」 こういうの、というのがレジェにはしばらくわからなかった。きょとん、とするレジェと、戸惑うようにスプーンとレジェに目線を移すヒロオミ。ちょっとの沈黙の後、突然、レジェには理解ができた。 「ああ。大丈夫ですよ、いつもやってることです。よく村の病気になった方にこうしてますから。」 「え、えっと、そうじゃなくて、俺が…」 ヒロオミは、自分が覚えている限りで病気知らずだった。食べ物を人の手で食べさせてもらった記憶は皆無だし、ましてや女性になど。今でさえ、これほど献身的に面倒を見てもらっているだけで恥ずかしさが体内を駆け巡る程なのに、これは、流石に恥ずかしすぎる。一生懸命、ぐるぐると頭の中で解決策も考えていた。皿を持ってもらって、左手で飲む。いや、同じだ。そうだ、 「あ、あの、薬湯のようにコップに入れていただけると…」 「だめですよ。」 にっこりと、華が咲いてこぼれだすような微笑み。とても柔らかい口調。なのに、断定的に、実にあっさりと、レジェは却下をした。 「食事はきちんと食事に見合った食器で取った方が、おいしく感じるものですよ?病気や怪我で体力がない時は量が取れないので、こういうところで少しでも食欲を増した方がいいんです。」 「で、でも…。」 ヒロオミの声がか弱くなっていく。 「諦めてください。さぁ、どうぞ?」 「…。」 おずおずと、ヒロオミはレジェが差し出したスプーンに口を添えて、スプーンの上の液体を口に含んだ。皿から豊かな匂いがする。具は1つも入っていないけれど、恐らくは沢山の材料をきちんと煮込んであるに違いない、そういう想像をさせる豊かな香り。口の中には、薄く塩味と、色んな食材が混ざった風味が広がっていく。 「…お、おいしい。」 舌の上に味を広げながら、ヒロオミは素直にぽつりと言った。 「よかったです。」 レジェはヒロオミの素直な誉め言葉ににっこりとする。スプーンが、もう一度皿からスープをすくう。 「無理をせずに、自分の体が受け付けるだけ飲んでください。」 ヒロオミはさっきよりもいい反応でスプーンに口を添えた。
「さぁ、どうぞ。」 そんなわけで、今日もレジェが飲ませてくれている。 ヒロオミは照れを隠せないまでも、以前よりも上手にスプーンを受け取れるようになっている。スープの味は、毎日少しずつ変わってきている。今日は随分としっかりと味付けがしてある。恐らく、レジェが気を使って味を調節してくれているのだとヒロオミは思っている。 「うん、おいしい。」 「今日は具もあるので、いつもよりしっかりと下味をつけてみました。濃すぎないとよいのですけれど。」 「いや、おいしいです。」 ヒロオミは無言で皿を空けるまでスープを飲み、レジェも無言で手伝い続けた。食欲も順調に戻っているようで、これで熱さえ下がれば命は大丈夫だな、とレジェは内心安堵する。後は肩の傷が綺麗に癒えるかどうかの問題。 「ごちそうさまでした。」 「お粗末様でした。」 「ありがとう。」 「ふふ、お礼は本当にいいのですよ?ヒロオミさんが元気になってくれるのが一番です。」 レジェはトレイに皿を置きながらにっこりとする。椅子に座ったまま、ヒロオミの頬を撫でる。 「髪も髭も随分と伸びてしまいましたね。動けるようになったら、綺麗にします?」 「あ、あぁ…はい…あの。」 「はい。」 「呼び捨てでいいです。ヒロオミ、で。」 「じゃぁ私もレジェ、でいいですよ?ヒロオミ。」 「あ、いや、それは…。」 「あなたが呼び捨てで呼んでくれないようなら、私も呼べません。」 レジェは椅子から立ち上がる。 「私とあなたは、年も同じくらいですね?だから、私だけ呼び捨てにするなんてできませんよ。」 ヒロオミは弱ったように眉根を寄せる。大柄の青年が困っている様子は、レジェにはとても微笑ましい。ショールを取って、手でヒロオミに寝るように促す。ヒロオミは、素直に体を倒す。もちろん、ゆっくりと。 「それでいいですか?ヒロオミ?」 「…ううむ、わかりました。レジェ…さん。」 「レジェ。」 「…レジェ。」 「決まりです。さぁ、眠りましょう。」 レジェは、シーツの中に手を入れて、ヒロオミの右腕を撫でた。まだ少し慢性的な痛みがあるらしく、レジェは肩には触れずに、代わりに腕をマッサージすることにした。そうすると多少は痛みが緩和されるようで、ヒロオミは落ち着いて眠りに入れるらしかった。 両手を滑らせ、温めるようにヒロオミの腕をゆっくりとマッサージする。ところどころ、指の先に、古い傷跡が触れるのを感じる。 「気持ちがいい…。」 目を閉じたまま、ヒロオミはつぶやいた。 「うん。眠るまでこうしてます。」 本当に気持ちがいいな、ヒロオミはぼんやりと考える。肩が熱と痛みを持っているけれど、レジェの細く綺麗な手と指が、それを溶かしてくれるようだった。レジェの手はゆっくりと、何度も同じ動きで往復して、掌や指先にも温かさを与えてくれる。 ヒロオミの表情が落ち着いて、やがて静かな寝息が聞こえ始めた。レジェは静かに、ヒロオミがすっかり眠りについてしまうまでマッサージをする。不意に、そして無意識に、ヒロオミの指がレジェの指を緩やかに握った。レジェはヒロオミの顔を見たが、眠っている。指先を握り返してみる。ヒロオミは、穏やかな表情をしている。 「大丈夫ですよ。きっと、ちゃんと治ります。」 レジェは、眠っているヒロオミにそっと囁いた。
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