再び廊下を歩いて、別の部屋へと向かう。 ヒロオミは、今度は廊下を歩く間、一言も言葉を発しなかった。レジェは少し緊張して後を続く。 たどり着いたのは、畳の敷き詰められた大きな部屋。置くに壁がある。部屋の真中に襖のレールが見える。2つの部屋をつなげてあるんだなと思う。ヒロオミは無言でレジェに座布団を進めてくれて、レジェが座るのを見届け、自分の座布団も用意して、どかりとレジェに背中を向けて座った。
2人の正面の壁には少し窪みが造られていて、そこだけ板が張られている。真中には大きな巻物を縦にかけたような紙が飾られていて、黒く太い文字で何か書かれている。見かけたことのない文字なので、レジェには意味がわからない。それから、その巻物の手前に、一輪の立派な花が飾られている。 しばらくすると、部屋の横合いの襖が開いて、ヒロオミの兄が現れた。 「待たせたね。」 「いや。今来たところ。」 ヒロオミの兄は、部屋に入って、さらに襖を開いた。老人が静かな足取りで入ってくる。この人が、ヒロオミの育ての親なのだろう。とても厳しい雰囲気を漂わせた威厳のある風体をしている。髪も、顔にたっぷりと蓄えた髭も真っ白。目は黒く、老人とは思えない程に強い意思を宿している。ヒロオミの兄は、老人が入ったところで襖を閉めた。老人は静かに歩いて、巻物の丁度まん前、ヒロオミとレジェとは少し離れた位置に置かれた座布団に向かい合うように座る。ヒロオミの兄は、その隣に座った。 「よく帰った。」 「はい。永らくご心配をおかけいたしました。」 「客人、ようお越しいただいた。長い道のり、お疲れであろう。」 「はじめまして。」 レジェは軽く会釈をする。老人の声は、司祭様よりも低く少ししわがれているが、しかし厳しさを感じさせる強い声だ。 「おおよそのことはセタ侯爵と、ゲンイチロウより聞いている。客人はヒロオミ、お前と一緒に旅をしているのか?」 「はい。彼はレジェという名前です。私が戦場で倒れているところを助け出していただき、命を落としかけているところを親切に怪我がすっかり治るまで介抱していただきました。今もまた、私の旅を助けてくれています。」 ヒロオミは、いつもよりも格段に力の入った、朗々とした声で答える。 「ふむ…では、大きな恩義をいただいたのだな。レジェ殿。ワシからも礼を言わせてもらおう。」 老人は軽く頭を下げた。ヒロオミの兄も追随するように頭を下げる。レジェはびっくりして、思わず手を振ってしまう。 「いえ。どうぞ頭をあげてください。私はお礼を言われるようなことはしていません。当然のことをしただけです。」 「ふむ…。」 老人は頭を上げて声を出すと、じっとレジェを見た。思わず鋭い視線に、レジェは緊張をする。しばらくして、老人は表情を変えずにヒロオミに目線を移す。 「実に、綺麗で澄んだ、強い瞳を持った青年だな。ヒロオミ。お前は恩義に報いなければならないぞ。」 「はい。一生をかけて報いるつもりです。」 ヒロオミが軽く頭を下げる。ヒロオミの兄が「おや?」という表情をした。レジェは考えてもなかった会話の展開に、少し戸惑う。 「ふむ…。」 ヒロオミの答えを聞いて、老人は再び声を出し、今度は意外そうな表情を少しだけ見せて、ヒロオミを見た。 「…ところで。」 しかし、それもすぐに表情から消えてしまう。 「セタ侯爵は急いでおられるようだが、この村に立ち寄ったのはなぜだ?」 「はい。実は、刀の刃をいただきたいと思いました。恐らく侯爵の元へ向かった後では余計に時間がかかると思ったため、こうして先に来た次第です。」 カタナ?剣のことをこの村ではそう呼んでいるのだろうか。レジェは内心で首を傾げる。 「刀の刃?しかしそこにあるのは刀ではないか?それには刃はないとでも言うのか?」 「いえ。元々村を出る前に戴いた刀は、残念ですが戦場で失ってしまいました。これは、レジェの村で火を借りて私が作ったものです。」 「お前が?見せてみなさい。」 ヒロオミは剣を持ち上げた。ヒロオミの兄がすっと立ち上がり、ヒロオミの傍に寄り、ヒロオミから剣を受け取る。ヒロオミの兄は老人に刀を手渡す。老人は受け取って、鞘を持ち、色々な角度から剣を見つめる。 「ふむ、確かに造りが荒いな…だが、使えない程ではない。…ん。」 老人は柄を握り、ふと手を止めた。じっと柄を見つめている。それからヒロオミをちらりと見て、さらにレジェをちらりと見た。ヒロオミは、背後から見ている限り、じっとしている。どんな表情かはわからない。老人は何事もなかったかのように、手に力を篭めて剣を鞘から引き抜く。 すらり、と音を立てて剣は鞘から滑るようにでてきた。レジェはよく考えてみると、ヒロオミの剣をちゃんと見るのは初めてだな、と思いながら、その刀身をじっと観察する。剣は片刃で、刃は光を受けて波立つようなラインを描いている。緩やかにカーブしていて、素直に美しい。 老人は刃をじっと見つめた。やはり方向を変えながら何度も吟味をする。 「…確かに、見真似にしてはよく出来ているが、鉄が粗い。打ちが足りてもいない。これでは長くは持たないだろう。」 ぽつりと言って、鞘に剣を戻す。そして、ヒロオミの兄に手渡す。そのままヒロオミの兄に言う。 「確か、先日何本か刃を打ったものがまだ残っているな?」 「はい。」 「一番いいのをこの柄につけるように。柄は大事だ。くれぐれも丁寧に扱え。」 「わかりました。」 ヒロオミの兄は軽く頭を下げる。 「それでよいな?ヒロオミ。」 「はい。ありがとうございます。」 ヒロオミがすっと頭を下げる。老人は立ち上がる。ヒロオミの兄も立ち上がる。 「さて、ワシは少しでかけねばならん。レジェ殿。夕食の際には、ゆるりとおつきあいくだされ。」 「はい、ありがとうございます。」 「ヒロオミ。明日中には仕上げておくよ。」 「兄さん、頼みます。」 入ってきた時と同じように、ヒロオミの兄が襖を開け、入ってきた時と同じように老人は退出していった。 「そうだ。」 ヒロオミの兄も出て行こうとして、思いついたようにヒロオミに声をかける。 「ヒロオミ。道場は休みなんだが、さっきユキトが来てたから、お前が行くって伝えてあるよ。」 「ありがとう、兄さん。顔を出してみる。」 ヒロオミの兄はにこりと笑って、部屋を出て行く。
レジェは、肩の力が抜けるのを感じた。初めて、自分が酷く緊張していたことに気がついた。
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