レジェは、はっと目が覚めた。 いつの間にか、青年の傍でうたた寝をしていたようだ。 しかし、そんな事はどうでもよかった。
目が覚めたのは、青年の指が動いた気がしたからだ。
意識が急に眠りから引き戻されて、頭の中が冴え渡る。 「兵隊さん!?」 椅子から腰を浮かす。顔をのぞき込む。青年の表情に変化はない。けれど、手の中で、今も確かに、青年の指が一瞬動いた。きっと意識が戻ろうとしているのだ、根拠もないが、レジェは強く思う。 「兵隊さん!頑張って!」 指がまた動いた。 「兵隊さん!」 空いている手で兵隊の頬を撫でる。顔を近づけて強く呼びかける。 目の前で、青年の唇が動いた。 声は全くしないけど何かをしゃべるような動き。 「兵隊さん!ここに居ますよ、頑張って!」 手の中で、指が大きく動いた。 弱いけれど、はっきりとレジェの指を掴む。 青年の呼吸が少し乱れる。 「兵隊さん!」 「た……し…」 青年は、酷く掠れた声を出した。何を言ったのかよく聞き取れない。レジェは、何度も何度も呼びかける。やがて、青年のまぶたが、ぴくりと震えた。頬を撫でて刺激を与える。 「もうすぐです!もう少し!兵隊さん!」
まぶたがもう一度震えた。うっすらと、目が開く。
「兵隊さん!わかりますか!?」 「……」 僅かに開いた目の奥で、黒い瞳が焦点の合わない様子でじっとしている。青年はもう一度指に力を入れた。レジェはしっかりと青年の指を握る。 「たは……し、…か…」 「兵隊さん!」 青年は、何を見ているのかわからない瞳をそのままに、唇を動かした。何かを言おうとしている。レジェは、唇をじっと見る。 「どうしました!?頑張って、もう1回言って下さい!」 「あ…てん…し、です…か…」 聞き取れた?…天使?
青年は、本当に僅かに唇の端を曲げた。そして、左手を力なくゆっくりと持ち上げた。レジェがじっとしていると、大きな手のひらがレジェの頬に触れた。思わず、その手に自分の手を重ねる。 「…天使って言いましたか…?」 つぶやくと、もう一度、青年の唇の端が僅かに曲がった。今度は、レジェにも伝わった。青年は、僅かに微笑んだのだ。青年はレジェの頬を撫でながら、もう一度繰り返した。 「あ、なた…は…天使…です、か?」
青年にかけられたシーツを少しだけよけて、肩に当てた布をゆっくりと剥がす。 青年は特に痛そうな表情も見せずに、少し頭を傾けて、レジェの手元を見ている。レジェはここのところ毎日そうしていたように、手際よく肩の傷に薬を塗りつけて新しい布を当てる。 「痛みはどうですか?」 「…あ…いや、それほど、今は感じません…。」 青年の声は、低く穏やかな声だった。今は力が隠っていないが、もしも普通の状態で声を聞けるとしたら、恐らく「心地よく思える」声に違いない。 「俺は…どれくらい、眠っていましたか?」 「戦争の日からは、8日間ですね。戦争は1日で終わったようですよ。」 「8日…」 レジェは、薬瓶の蓋を閉めながら答える。 「ここは…?」 「ここは教会です。ティアガラードの東の端にある、辺境の村の。ここから半日も歩けば、隣のヤマに入れる程の端っこですね。」 「そう、ですか…。」 「…あ」 青年に呼びかけようとして、レジェは大切なことを聞き忘れていたことを思い出す。 「あの、お名前を聞いてもいいですか?」 「俺、ですか?…俺は、ヒロオミと言います。」 「ヒロオミさん、ですね。私は、レジェといいます。」 「レジェさん…」 「それで、ヒロオミさん。少しつらいと思いますが、起き上がって欲しいのです。ずっと同じ姿勢だと背中が痛んでしまいますし、それに薬湯と、ほんの少しだけでも食事を。」 「あ、あぁ…もちろんです…」 ヒロオミは、起き上がろうというそぶりを見せる。慌ててレジェは制止した。 「あぁ無理はしないで、今手伝います、ひとりでは肩がきっと痛みます。」 「い、いえ、なんとか…。…っ!」 「ほらほら、だめですよ。」 レジェは、ヒロオミの肩に手を回した。ヒロオミの鼻先に、ほんの微かにレジェがつけている香水か何かの匂いがする。とても落ち着く匂いだな、と瞬間的に意識がそちらへ無垢が、それよりも今は起き上がることだと意識を戻す。なるべくレジェに負担をかけないように、左手を使ってゆっくりと上半身を起こしていく。思ったよりも遙かに重労働で、左腕が細かく震えるのを感じる。 「大丈夫です、ちゃんと支えますから…ゆっくりと。」 「すみ、ません…」 大げさな時間を費やして、ようやくヒロオミは座る姿勢になることができた。レジェは、ヒロオミの背中の辺りに引いてあった布を取り払って、ベッドの下から新しい布を拡げて、キレイに敷き直す。 「腰の後ろに枕を置いておきます。すみませんが、そのままの姿勢で少し待っていて下さいね。今、薬湯の支度をしてきますから。」 レジェの作業は、本当に手際がいい。「止まる瞬間」というものがない。まるで流れ作業のようにスムーズに次々と仕事をこなしていく。ヒロオミの、まだ少しぼんやりした頭では、今何をしてもらっているのか理解が追いつかない程だ。あっという間にヒロオミのベッドを整え終えて、ヒロオミの肩にショールをかけ、テーブルの上の薬瓶や古い布をまとめて手にすると、部屋を出て行こうとする。なぜだか突然気持ちが焦って、ヒロオミはレジェに声をかけてしまう。 「あ、あの、…レジェさん」 「?どうしました?」 レジェがドアノブに手をかけたまま、くるりと振り返る。 「あ、いや…その、ありがとう、ございます。」 にっこりと。レジェが微笑んだ。まるで花が咲いた瞬間のようだ。 「いいえ。気にしないで下さい。大丈夫、すぐに戻りますね。」
レジェは部屋を出て行った。
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