そうだった、刀はさっきの受付に預けたんだ。 左手を所在なさげに動かした後、ヒロオミは思い出す。 自分の心臓の音が聞こえる。緊張しているのがわかる。
「こちらです。」 ヒロオミとレジェの前を歩いていた少年が、古く大きなドアの前で立ち止まる。 3人は、教会の回廊を黙々と歩いてここまで来た。
中庭に面した回廊は、窓がいくつも連なっていて、外の風景を楽しみながら歩くことができるようになっている。窓と窓の間には陶器や彫刻、絵画など、見るからに古くからあるものが並べられている。もっとも、ヒロオミにはどれも目に入っていない。 「ありがとう。あなたに神のご加護を。」 レジェが柔らかな笑顔で少年に礼を言う。少年はぺこり、と頭を下げて、回廊を走って戻っていく。 「ヒロオミ。そんなに緊張しないでください。」 「う、うん。」 返事が、既に緊張で上の空状態である。まぁ、緊張する気持ちはわかるので、しょうがないかなと苦笑しながら、ドアを叩く。 「失礼いたします。クレール卿、レジェが参りました。」 「入りなさい。」 穏やかだが、重く低い声。いよいよヒロオミの緊張が高まる。レジェは1回、ヒロオミの腰をぽんとはたいてから、ゆっくりとドアを開く。 「よく来た。そちらが手紙にあった青年かな?」 「ご無沙汰していました。クレール卿。そうです、ヒロオミです。」 レジェが室内に入るので、軽く礼をしてからヒロオミも部屋へと進む。
中は、思いの他簡素な部屋だった。執務室のようで、大きな机、背後に壁に埋め込まれている高い書棚。執務机の前には応接のためかソファーとテーブルが置いてある。壁際には暖炉。他に、なんら余計な飾りつけも何もされていない。もちろん、机もソファーも高そうなものだが、もっと豪華絢爛な部屋を予想していただけに、ヒロオミは意外な印象をもった。 ヒロオミが目線だけで部屋を見渡している間に、レジェはクレール卿の前に進み出た。軽く膝を降り、祈りを捧げる姿勢になってから、クレール卿の手の平に唇を当て、そして立ち上がる。クレール卿は優しげな笑みを浮かべたままで、立ち上がったレジェを抱き寄せる。 「元気そうだな。あちらでは相変わらずか?」 「はい、クレール卿もお変わりなく。」 「よしなさい、改まった呼び方は。」 レジェも抱擁を返して、にっこりと笑う。 「そうも参りません、他の方が驚いてしまいます。」 レジェが労わるようにクレール卿に手を添える。クレール卿はさらに1歩進み出て、ヒロオミに声をかける。 「はじめまして、ヒロオミ。私が”司祭様”です。」 「お、お初にお目にかかります。私はヒロオミ、ヤマで兵隊をしていました。」 「もう、相変わらずですね」 ”司祭様”と聞いて、レジェがクレール卿に苦笑いをする。クレール卿は豊かな声で笑う。 「ははは、そうかしこまらずに。さ、こちらへ来なさい。」 ヒロオミは手招きを受けて、進み出る。この国の礼儀も教会の礼儀もわからないので、兵隊の頃にそうしていたように、敬意を払うために胸に手を当てて、軽く膝を降り頭を下げる。 「そうかしこまらずともよい。君は私の息子の友人だ、つまり私の息子同然ということだよ。さぁ、2人とも、今お茶が運ばれてくる。そちらに座りなさい。」 クレール卿はやはり豊かな声で優しげにヒロオミに語りかけた。
ローブの上に、金糸で模様が縫いこまれた紫色のケープを纏っている。髪は真っ白で、瞳はブルーの入った灰色。老いを隠せない顔だが、様々な思慮を刻み込んだようなしわが反って威厳を感じさせる。ヒロオミはまっすぐと枢機卿を見ながら、内心で観察していた。 「ふむ。まっすぐで綺麗な目をしているね。」 クレール卿の言う通り、程なくお茶が運ばれてきた。レジェとヒロオミが並んで、クレール卿は反対側に、それぞれソファーへ座ってじっとしている。クレール卿はしばらくヒロオミを見た後、豊かな声でヒロオミについて感想を述べた。 「剣で生きてこられたと、レジェの手紙にはあったが。」 「は。ヤマで侯爵に仕えていました。先の戦争で怪我を負いまして、レジェ…さんに助けていただいたのです。」 「いつも通り呼べばよい。」 クレール卿はにっこりと笑って言う。 「私も、今は枢機卿だが、レジェを育てている間はずっと司祭だったからな。司祭様で一向に構わぬ。」 「クレール卿…。」 レジェが困った顔をする。ヒロオミはようやく少し緊張が溶けて、ははは、と軽く笑いながら、お茶に手を伸ばす。 「先の戦争…あれは、本当にふって湧いた災難のようなものだ。どちらの国にもいいことは何一つなかった。私たち評議会も驚いたくらいでな…せめて、君が助かっただけでも、よかったと思う。」 「は、お心使い、ありがとうございます。」 クレール卿が軽く手を合わせて祈る。しばしの沈黙。
「まぁ、さておきだ。是非、普段のレジェの生活を教えてくれたまえ。」 突然、クレール卿は声と笑顔の質を変えた。穏やかな笑みが、少しいたずら心を含んだ笑みになる。 「な、何をおっしゃいますか、クレール卿。」 「レジェ司教。私はそちらの青年に聞いているのだよ?」 ヒロオミがびっくりしていると、レジェが素早く横合いから声をあげる。しかし、クレール卿はもう明らかに興味を隠さない笑みを浮かべて、レジェを穏やかに諭す。 「っ…。」 「え、普段の生活…ですか?」 「うむ。仮にも神に仕える者、誤った生活など送っておらぬと信じているが。レジェ司教は、清く正しく、」 そこでクレール卿はヒロオミをじっとみて、言葉を一旦区切る。ヒロオミは、ごくりとツバを飲み込む。 「…酒などたしなまずに、きちんと勤めを果たしているかな?」 「司祭様!」 レジェの顔がみるみる赤くなる。いまいち、クレール卿の変貌についていけなくて、ヒロオミは戸惑いながら、枢機卿の顔とレジェの顔を交互に見る。 「ヒ、ヒロオミ…。」 レジェが目で必死に何かを訴えかけてくる。枢機卿はにこにこと笑顔を浮かべている。 「そ、それはですね…。」 ようやく、なんとなく雰囲気がつかめてきたぞ。ヒロオミは、心の中で思う。 「続けてくれたまえ?」 咳払いを軽くした後、ヒロオミは真面目な表情で述べる。 「レジェ司教は、普段、もちろん、一滴の酒も飲まれてはおりません。」 レジェがうんうんと大きく頷いた。クレール卿はアゴに生えた立派な髭を撫でながら、身を乗り出すように笑顔でヒロオミを見ている。 「枢機卿は、ご子息のことでもあり、とても心配をされているようですが…」 「うむ、そなたの言う通りだ。」 「決して。秋に採れた豊作のぶどうから作ったワインを飲んだり、村人がくださったからと蒸留酒をたしなんだり、村の祭だからと酒豪レースに参加したり、ましてやそのレースに優勝したり。」 枢機卿の目が喜びに輝くのをヒロオミは見逃さない。もちろん、レジェが絶望的な表情になるのも。 「そんなことは、決してありません。ご安心ください。」 「そうか、そうか。」 にっこりとヒロオミが笑顔を見せると、枢機卿もにっこりと笑顔を返した。 「それを聞いて安心した。私のかわいい息子は、村のワインを飲んだり、いただいた蒸留酒を飲んだり、ましてや村祭で酒豪レースに参加して優勝したりはしてないというのだね?」 「はい。誓っておっしゃる通りです。」 枢機卿は満足そうに、ソファーにふんぞり返る。レジェは、がっくりと肩を落とす。 「ふむふむ。」 嬉しそうだなぁ、と、暴露しておきながら他人事のようにヒロオミはその様子を見る。 「レジェ司教。変わらず勤めを果たしているようで、私は大変嬉しく思うよ?」 「…あ、ありがとうございます…。」 「是非復活祭が終わったら、ヒロオミ君、君も一緒に、簡単な食事会をやろう。」 「は、光栄です。」 「もちろん、教会の外の、樽が置いてある店でな?」 はははは、枢機卿は大きな笑い声を上げる。ヒロオミも笑う。レジェだけは、そんなヒロオミと枢機卿を、交互に見ながら、涙混じりの怒り顔をしている。
和やかな雰囲気の中で雑談をひとしきり交わした後、夕食まで時間があるから、と、先に客用の寝室へと通された。部屋に入るなり、レジェがヒロオミに掴みかかる。 「もう!もう!!」 「え?なになに?」 いまや、すっかりヒロオミは笑顔を浮かべ、リラックスしている。 「司祭様はお酒好きなんですから!ばらしちゃだめじゃないですか!」 「えー。俺はちゃんと「やってません」って言ったのに…。」 「どの口でそんな言い訳を!」 レジェの手がヒロオミの頬を掴んで、横に引っ張る。 「いへいへ、やへふぉって」 「もう!この口がっ!」 両手を抑えてようやくやめさせる。レジェは怒りが収まらぬ様子で、荷物を漁り始める。 「でもさぁ、クレール卿ってすごくいい方だな。もっと厳格で怖い方かと思ってたよ。」 「私の育ての親ですから!」 「…何気にすごい発言をするなぁ、おい」 ヒロオミは笑いながら、部屋に備え付けの水差しから水をコップに注ぎ、一口飲む。 「もう、やっぱり口止めしておけばよかった!」 「ははは」 レジェは荷物からローブと綺麗に折りたたまれたケープを取り出す。 「ん、それ、教会の人たちが着てる服だ。」 「そうです!私だって不心得でも!教会の人なんです!」 レジェは着替えを始める。怒ってるのに手際がいいなぁ、とヒロオミは感心する。 「ん、それ、初めて見るな。」 ローブを着終わり、ケープを広げて肩にかける。金糸が縫いこまれた緑色のケープ。さっき、枢機卿がつけていたのは紫色だ。他の調度や、服装に比べると、これだけ微妙に豪華だったのが実はヒロオミの心に残っていた。 「枢機卿がつけてたのは紫だよね?」 「…。」 「それ緑だな。何か意味あるの?」 レジェはきちっと着こなすと、幾分か気分が変わったようで、怒りから恨みがましさに表情を変えてヒロオミを見る。 「…これはですね、教会の中での位を表しているんです。」 「へぇ。」 「赤色のものがあって、それは1人だけがつけています。教会のトップに立つ人で、ガーディアンって呼ばれています。」 「ふむ、つまり王様か。」 「そうです。もっとも、王は普段は別の服を着ているので、赤色のケープを見ることはきっと稀だと思います。次に紫色、クレール卿のつけてたあれ。あれはこの大陸で50人くらいの方々がつけているはずです、枢機卿ですね。それから、薄い青色のケープ。これはそれなりの人数の人がつけています。大司教と呼ばれる方々です。それで、この緑色のが司教。」 「ふむふむ。」 「…お酒を飲まない敬虔な人たちがつけてます。」 「い、いや。悪かったってば。」 思わず話が戻って、ヒロオミは危うくコップを取り落としそうになる。テーブルに置いて、レジェの頭をぽんぽんと撫でる。 「もう、いいです。どうせ私はできの悪い司教です。」 「い、いやぁ。そんなことないって。」 「ワインも蒸留酒も飲むし、レースでは優勝したし…。」 「…。帰ったら鍛冶屋のおっさんにもらった美味い酒を飲ませるから…。」 「やっぱり隠してたんですね。約束ですよ。」 「…。」 「それから、赤いケープは司教です。後は白いケープ。これは神官であればつけるべきものですね。」 レジェはにっこりと笑う。騙された、とヒロオミはつぶやく。 「クレール卿は、最近では一番最後に枢機卿になられました。本当に穏やかな方で、私は感謝してるし、何より尊敬している方です。」 「うん、すごく人間味に溢れる方だったね。」 「ヒロオミはずるい大人の言い方をするのですね。」 「なんでだよ!」 「さぁ、そろそろ夕食だと思いますよ。」 レジェが笑顔を取り戻して、ヒロオミに言う。同時に、中庭の方から鐘の音が聞こえた。 「あれが合図です。行きましょう。」 「おう。」 2人は部屋を出る。
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