周辺の村人は穀物の収穫が終わると同時に川の治水工事へとかり出された。今年も決壊するとしても、その可能性を出来る限り減らしたい、そんな一縷の望みを抱きながら、村人たちは祈るように土を掘り、土嚢を積み上げていく。 やがて太陽がその日差しを弱め始める季節に、毎年と同じように嵐がやってきた。皆、震えるように川の様子を見守ったが、川の中で暴れる水は、人々に恐怖を与えただけで、決して被害を与えることはなかった。
嵐が過ぎた後、人々は歓喜の声をあげた。
皆、手を取り合って喜んだ。 川は未だ水量が多めながらもまた静かな流れを取り戻し、そして誰も命を落とすことなく、その流れを見つめることができたのだ。
その朗報を聞いて、ハヤセはエザリムに笑顔満面で報告をした。エザリムは相変わらずマイペースな生活をしていたが、それでも嬉しそうなハヤセに「おめでとう」と心から言った。 ハヤセは、エザリムを今ではすっかり、心から頼っていた。 彼女は神の名前を名乗り、何者にもなびかない、本当に変わった女性だったが、その見識は驚くばかりだった。治水ばかりか、法律、税、その他ありとあらゆることに精通し、理解が早く、的確な説明ができる。既にハヤセには愛する妻がいたのと、余りに歳が離れていたために恋心を抱く心境にはならなかったが、傍に居ることは強く望まずにはいられない。
しかし、そんなハヤセの気持ちをさしおいて、エザリムは実にあっさりと、タケルに述べた。 「タケル。今まで、ちゃんとハルを捜してくれてありがとう。でも、残念だけどこの国にハルはいないみたい。」 タケルはエザリムのことを、今ではすっかり好きなようにさせていた。ハヤセの手伝いをしてくれているだけでありがたかったし、もとより自分の後宮に治めようなどとは露ほどにも考えていなかった。その博識を知ってからはむしろ尊敬し、報いるためにきちんと探し続けていたのである。 「うむ。いないようだ。手は尽くしたが、すまない。」 「ううん。ありがとう。気持ちだけで十分よ。」 エザリムはにっこりと微笑む。素直な微笑みは、エザリムが今まで飾らず、取り繕わずに生きてきたからこそできるのだろうなとタケルは思う。 「それで、そろそろ私は別の場所に行こうと思うの。」 「うむ、しょうがないな。」 タケルが讃えられるひとつの理由は、彼のこの「欲張らない」姿勢にもある。彼は決して多くを望まず、そして欲を張らない。この辺りは「父親譲り」である。 「タケルは許してくれる?」 「もちろんだ、約束だからな。…ん?」 全く裏心なく答える。が、エザリムの言葉が引っかかった。 「世”は”?」 「ハヤセは、さっきお願いしたのだけど、強く反対されてしまって…。」 エザリムは、少し憂鬱そうな表情でため息混じりに答える。 「む、そうか。後程言い聞かせておこう。ハヤセにしては、珍しいな…。まぁ、それでいつ旅立つのだ?」 「今から、許してもらえるのなら。」 「ん?許すに決まっているが、支度しなくてはならんだろう?世も必要なものを揃えるのは協力するが?」 「ううん。いらない。」 エザリムは座っていたが、王の許しを聞いて立ち上がる。 「ハヤセには、私からも謝ってたって伝えてくれる?タケルが許してくれてうれしかったわ。ありがとう。」 いやいやいや。タケルは心で慌てる。いくらなんでもその格好のまま行くのだろうか。まるで近所に買い物にでも行こうという口調だ。 「それじゃ、行くわ。」 「エザリム?本当に行くのか?」 うん、とエザリムはにっこり笑って、首を縦に振った。そして目を閉じる。王は唖然としながら、エザリムを見守る。
不意に。王は、頬に風を感じた。 その風は生暖かい。不快な感じはしないが、僅かにそよぐような微かな風なのに、強い威圧感を感じる。エザリムは、静かに目を閉じてじっとしている。 風はエザリムから吹いている。タケルは直感で感じる。
突然、思い出した。 世界を創世した主たる女神、エザリム。 彼女は、時と空間、そして風を操る神ではなかったか?
エザリムの周囲には、確かに静かで強い空気の流れが出来上がっていた。王は次第に、無意識に体に力を込める。こうでもしないと、吹き飛ばされるような恐怖を感じたのだ。緩やかな風はその威力を増して、徐々に何かの形を作っていく。空気のように透明な、それでいて確かな存在感を持つ何か。 王の頭の中いっぱいに、直接閃光が走った。思わず目を閉じる。 真っ白な光。実際には部屋の中で何かが光ったわけではないのだが、確かに王は頭の中でそれを感じた。
空気がしん、と唐突に静まりかえる。 王は、おそるおそるまぶたを開く。
既に、そこにエザリムはいなかった。
ハヤセは怒り狂い、父王タケルを王宮の一室に軟禁した。タケルはハヤセの反応に酷く驚き何度もたしなめたが、ハヤセはエザリムの突然の失踪を全く受け入れる気配を見せず、父が極秘裏に逃がしたのだと決めつけてしまったのだ。その様子は周囲の人間が見ても、とても思慮深い王太子ではなく、誰もがハヤセを狂ってしまったのだと思った。 しかしながら、怒り狂う権力者に逆らえる者などいるはずもなく、また、余命いくばくもないタケルに手を貸そうとするものもいなかった。タケルはあっとう間にハヤセによって廃位され、強制的に余生を一室で過ごす羽目になってしまった。タケルは悲しく思いながらも、息子がマトモに戻ることだけを祈り、世の中に争乱がおこることを避けて大人しく従った。
冬になる一歩手前の季節。 ヤマの国王は、こうやって交代したのだ。
タケルは軟禁された部屋で不自由なく過ごしたが、ぼんやりと考え込む時間が増えた。どこで道を誤ってしまったのだろうか。そもそも、道は誤っていたのだろうか。 傾国の美女、という言葉が頭に浮かぶ。 今まで、傾国の美女と呼ばれる女は、王に、もしくは王に成りうる者に媚を売って近寄り、堕落させ、政治を崩壊させていくものだと思っていた。しかし、エザリムはどうだ。彼女は何もしなかった。自分に何も望まず、自由に生きていたはずだ。なのに、やはりハヤセはこうして自分を幽閉してしまった。
いつまでもいつまでも、タケルは考え続けた。 エザリムの、あの素直な微笑みを思い出しながら。
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