「はい?」
その声は、聞いたこともないほどの大きな声で、ヒロオミはびっくりして顔を上げた。見たこともないような驚いた表情のレジェと、聞いたこともないような、驚きの声。 「え、今、なんですって?」 「えっ?」 「今、なんていいました?」 レジェが、今までの憂鬱なんか忘れてしまったかのように、恐ろしく機敏な動作でヒロオミに歩み寄る。「うっすらと解っている」と答えたレジェの、その余りにも驚く表情に、ヒロオミは魂を抜かれたように動揺する。 「そ、その…結婚…」 レジェはヒロオミの両肩を掴んだ。 「誰と?」 「…お、俺と。」 「誰が?」 「……レジェ。」 レジェは目を大きく開いて、ヒロオミを凝視している。本当に見たこともないようなレジェばかりで、ヒロオミは何が起こったのか理解できず、呆然としている。
しばらく、そのままで2人とも固まっていたが、突然、レジェが腰を抜かしたようにヒロオミの肩を掴んだままで、足元にへなへなとへたり込んだ。 「あ、あの…」 何が起こっているのか未だに理解ができなくて、ヒロオミはオロオロとレジェの腕を掴む。 「はは…はは…」 うつむいたレジェ。そして、乾いた笑い声。 この声は誰が出しているんだ、とヒロオミはぎょっとする。いや、自分じゃなければレジェだろう、瞬間的に回答が頭に浮かぶけど、おおよそレジェには似合わない笑い声だ。 「け、結婚…。」 「レジェ…?」 「そ、そうですよね…。私、考えもしませんでした…。」 「え?」 「結婚したら、一生傍に居てくれますね…全然、思いもつかなかった…」 「あ、あの?レジェ?いったい…?」 ようやく、レジェが予想していたことは、自分が言いたかったことと違うのではないかとヒロオミは感づき始める。 「ヒロオミ。私、あなたがここを出て行きたいのだと思っていました。」 レジェが顔を上げた。笑っているような、力が抜けたような表情。この表情も、ヒロオミには初めて。 「い、いや。そんなこと、考えてもなかった…。」 「そう、なんですね…。私、あなたに居て欲しいと思ってましたけど、でも、そんな、結婚…。」 レジェが泣き笑いの表情になる。 「結婚なんて…思いつきもしませんでした。」 「え、じゃぁ…。」 「確かに、そうですよね。結婚…ははは…」 「う、受けてくれる?」 レジェの様子がおかしいけれど、否定されてないようだ。ヒロオミの心に少しだけ希望が湧いてきて、思わず聞いてしまった。レジェは、突然、真剣な表情になる。 「無理なんです。ごめんなさい。」 「え?」 「無理です。結婚は。」 「えっ?」 「結婚できません。無理ですから。」 ヒロオミの希望は一瞬で消し飛ぶ。レジェの真剣な表情と声。これは、完全否定だ。これ以上ない明快で、明確で、きっぱりとした「ノー」だ。 「…やっぱり…結婚は、できないのか…」 レジェの表情は、真剣そのまま。 「いいえ。教会の規律には、”神官は結婚してはいけない”なんてないですよ?」 「えっ」 今度は、ヒロオミが一気に憂鬱な表情になった。つまり「無理じゃなくて、断られた」?頭の中で大きな石が割れたようなショックに襲われる。 「ただ、あえていうなら…。」 「あえて、いうなら…?」 レジェは、真顔で、ヒロオミの顔を見つめている。ヒロオミは、次の言葉を待っている。
突然、レジェの手がヒロオミの肩から動いた。自分の腕を掴むヒロオミの手をひらりと掴み返す。ヒロオミは、その余りに唐突な動きに、されるがままにレジェに引っ張られる。バランスを崩して、レジェの胸に手をついた。一瞬、ヒロオミの顔が真っ赤になる。そして、掌の感覚が脳に伝わった次の瞬間、顔に昇った血の気が一気に引き上げて真っ青になる。 「…男同士の結婚は、書くまでもなく禁止だと思うのです。」 レジェは、淡々と次の言葉を継げた。 ヒロオミは、貧血を起こして、そのまま意識を失った。
目が覚めた時、ヒロオミはベッドの上だった。 まるで悪魔に追い掛け回された悪夢でも見たような気分で、頭が随分と重い。 ランタンの灯りに照らされた天井を見ながら、眼を瞬く。 「…大丈夫ですか?」 ぎくっとした。怪我で寝込んでいた時のように、レジェは椅子に座ってじっとしていた。 「あぁ…なんか、すごい…」 「悪夢でも?でも、さっきの話は、夢じゃないですよ?」 「…。」 悪夢を見たような気がする、と続けようとしたが、レジェがすかさず言葉を遮る。同時に、さっきの出来事は事実だったのだと、心に重く重くのしかかってくる。一気に、取り返しのつかない失態、という気持ちで胸がかーっと熱くなる。
「ローブ、着ていますしね。」 不意に、レジェが言った。 「料理、しますしね。」 呆然と見つめるヒロオミに、レジェは少し不貞腐れたような声で、続ける。 「あなたより体はずっと小さいし、肌の色は白いし、手も細いし。いっそ、女性だったらどれだけ楽だろうと、今まで何度か思いました。ここに来る前に、結婚を申し込まれたことだって、一度や二度じゃないですし。」 「あ、あの…。」 「ここに最初来た時、村の人にだって女性だと思われてました。よく考えたら、一緒にお風呂に誘っても、あなたは頑として断ってきたし。この間亡くなった、羊飼いのお爺さんも、会う度に「嫁ぎ先は決まったか?」なんて言ってくるし、とうとう最期の時も「早く婿をみつけるんだぞ」なんて言われて。」 「あ、あの〜…。」 「そうですよね。いっそ、本当に女性ならよかったな。そしたら、今頃結婚して幸せな家庭で暮らしていたかもしれないし、あなたが帰るんじゃないかと憂鬱にならなくても済んだし。」 不貞腐れた声は、徐々に苛立ちが混じってくる。 「レ、レジェ…ご、ごめ…」 「そうです。女性なら、あなたをさっさと誘って、既成事実を作って、憂鬱の種をばっさりと切り落とせたんだし。あぁ、もう、本当に、女性ならよかった。」 ヒロオミは、思わず起き上がる。 「レジェ、本当に、心から謝る。ごめん、悪気はなかった」 レジェは、横を向いている。 「女性じゃないんです。」 「う、うん。本当に、本当に、すまない」 「でも、傍にいて欲しいです。」 「えっ…。」 「結婚はお断りします!」 レジェは、怒りを含めた声で、振り返る。思わず、ヒロオミの体がのけぞる。 「う、うん、お、俺も撤回します…。」 「女性じゃないし、いたらない神官です。…それでも、私はあなたと一緒にいたいです。」 怒りの含まれた声。 ヒロオミはびっくりしたまま、のけぞりだけ戻して、レジェを見る。 レジェの瞳に、うっすらと涙が浮かんでいる。 「…だめですか?」 さっきまでの怒りが消えた、心細そうな声。
ヒロオミは思わず、手が伸びた。 ヒロオミの、鍛冶屋でまた増えた怪我の跡だらけの指が、レジェの目尻を撫でる。 レジェは、怒りとも我慢とも取れる表情で、瞬きもせずにヒロオミを見つめている。 「…すまなかった。」 「いえ。怒ってなんかいません。」 静かなヒロオミの声と、張り詰めたレジェの声。 「悪気はなかった。本当に、その、許して欲しい。」 「怒ってなんかいないです。私も、気がつかなかったんですから。」 「俺は、結婚できなくてもいいと思ってたよ。」 「…。」 「その、こんな理由は想像しなかったけれど。本当にそう思ってた。」 自分の心に問いかけながら、ヒロオミは言葉を考える。自分が望んでいたのはなんだろう。
ようやく、舞い上がった気分が消えて心が澄んでくるような気がする。 色々と考えていたことが削ぎ落ちて、本当に自分が望んでいたこと。
この何もない生活を、レジェと過ごしたい。 そのために、結婚もしたかった。 でもそれは、一緒にいられる「何か」絆が欲しかったのだ。
レジェは、じっと次の言葉を待っている。 不意に、ヒロオミの心にひとつのことが思いついた。 レジェから手を離して、部屋の隅に立てかけてあった刀を掴むために、ベッドから降りる。 「ヒロオミ…?」 レジェは、不安そうに、ヒロオミが剣を掴むのをじっと見守っている。 ヒロオミは刀をベッドの上に置いた。 「レジェ、立ち上がってくれ。」 「え…はい。」 素直に立ち上がったレジェを、自分の方へと向ける。 「前に雪の国の話をしたことがあるかな?」 「え…。はい。聞いたことがあります。1年中、雪に閉ざされている国の…」 唐突なヒロオミの言葉に、レジェは気をそらされたように素直に答える。 「そこには、代々続いている王族がいるんだよ。」 「はい…」 「そして、俺がいたときは女王だったんだけど、女王を守るための騎士団がいる。」 「うん…」 「騎士団は、どんな時でも女王を守るのが仕事で、高い誇りを持った人たちだ。」 「…うん…」 「俺が国を訪れた時、ちょうど、騎士団に新しい兵士が入るための儀式をしていた。王宮の庭、誰でも見れる場所で、騎士団に入るために、彼らは女王に誓いを立てるんだよ。」 ヒロオミは、レジェの前でしゃがんで、肩膝をついた。ベッドの上から刀を取り上げて、自分の目の前にトン、音を立てて床に立てる。 「こうやって。まぁ、彼らはもっと立派な格好をしてて、剣ももっと大きいけどさ。」 「はい…。」 「新しい騎士団員は、女王の前で首を垂れて、女王に誓いの言葉を述べるんだ。女王はそれを聞いた後、女王の髪の毛を1本、その場で、彼の剣の持ち手に結びつける。」 「うん」 「しよう。ここは庭じゃないし、俺は立派な騎士でもない、誓いのちゃんとした言葉だって覚えてない。レジェだって女王じゃないけれど。でも、同じくらい厳かに。」 「…はい。」 レジェは、素直に従う。ヒロオミは上げていた顔を下げて、首を垂れる。思わず、レジェの背筋が伸びた。じっとヒロオミの頭を見つめる。
ランタンの灯りが揺れて、静かな時間が訪れる。
「…私は、今日、ここに、誓います。」 やがて、ヒロオミがゆっくりと声を出した。 「この剣と共に…」 レジェは、低く静かに響く声を、無心に聞く。見たこともない騎士の姿が、目の前にいるヒロオミに重なって見えた。 「…あなたをお守りし、尽くし、いかなる時も傍に在り、共に生き、決してこの誓いに違わぬことを…自らの命の続く限り。」 ヒロオミの声が、空気に溶けて消えていく。 レジェは、ゆっくりと手を動かした。自分の手が、少し震えている。洗ったばかりの髪を手でたぐり、1本抜き取る。そして、ヒロオミの剣の柄あたりに巻きつけて、結び目を作る。 その間、ヒロオミは刀を捧げたまま、じっとしている。やがて、レジェが髪を固く結び終え、髪の毛から手を離すと、すっと顔を上げて、片手でレジェの手を取った。そのまま、自然にレジェの手の甲に、軽く唇を押し当てる。そして手を離すと、目線を上にあげて、レジェの視線と合わせた。 「…これで、ずっと一緒だ。きっと、誓いは守るよ。」
レジェは、膝を折った。しゃがんで、ヒロオミの剣ごとヒロオミの首に抱きつく。肩に顔を埋めて、嗚咽を漏らした。ヒロオミは、レジェの肩に手を置いて、受け止める。 「ヒロオミ…」 「うん」 「…結婚の方が、よっぽど恥ずかしくなかったかもって思ってます…」 「…う、うるさいよ」 「ありがとう…」 「おう。よろしくな。」
熱く、静かな夜。静かな誓いと、変わらない約束が、ゆっくりと闇に染みていった。
(第1章終わり)
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