アキラは震える指で携帯の「切」ボタンを押すと、当惑した自分をなだめるようにゆっくりと息を吐き出した。 (……なんだよこれ。おかしい。オレはおかしい。) 頬が熱かった。ふと気づけば、頬だけでなく全身が熱く脈打っていた。身体の内を、夏の野をゆく猛々しい野生の馬のようなエネルギーの塊が、縦横無尽に駆け巡っていた。 アキラはそんな自分を、まるで別の生き物でも目にしたかのように、不思議な思いで観察していた。 (なんだこれは。なんなんだ、これは。)
理性で感情を抑えることは、得意なはずだった。 「お前、踏み外さないよな」 『踏み外す』ことがある種のステータスである高校三年生男子の中で、淡々と日々を送るアキラに、友人たちはどこか見下すように、あるいは賞賛するようにそんな言葉をかけた。優等生でもなく、劣等性でもない。スポーツでスターになれるわけでもなければ、みんなに好かれる愛嬌があるわけでもない。そんな中で、アキラは自分の、いわば爬虫類的な体温の低さ、情熱の欠如をどこかで誇ってもいた。自分は、すぐ熱くなる子供っぽい友人たちとは違う、そう思うことで自己を保っても来たはずだった。 それなのに。 「こんなはずじゃなかった」 掠れた声で口に出せば、ますますその言葉は実感を伴って迫ってきた。
それは、エリコのせいだった。 エリコの耳から顎なのだった。 エリコの耳から顎にかけてのまろやかな線が、あるいはそのしっとりとした頬が、アキラの血を沸騰させたのだった。
かつてエリコは、アキラにとってただの「勉強のよくできる同級生」であり、友人と呼ぶほどの親しさもそこには存在しなかった。 それどころか、自分より成績のよいエリコに対し、嫉妬と羨望の入り混じった、どちらかといえば歓迎しがたい気持ちすら抱いて、 「あの女、怖えよ」 そんな言葉を、口にしてみたこともあった。
けれど。 その秋の夕暮れ、エリコは教室で本を読んでいたのだった。 エリコはあの秋の放課後、夕陽のまっすぐに差し込む西向きの三年二組の教室で、窓際の席で、文庫本に水色の布のカバーをかけて、熱心に活字を追っていたのだった。 そうしてエリコはふと目を窓の外に泳がせ、窓のすぐそこをゆったりと流れてゆく雲が、夕陽に映し出されてピンク色に輝くのを、うっとりと眺めていたのだった。 エリコは二度と戻らないその輝かしい景色を一生忘れまいとでもするように、本と、夕陽と、雲とを、その瞬間の中に没入して愛していた。
その時だった。 教室のすぐ横の渡り廊下を通りかかったアキラは、そのエリコの至福の横顔に、その愉悦の輝きに、いちどきに引き込まれてしまったのだった。 エリコはその瞬間、完全に幸福であるように見えた。 だからそれを見つめるアキラもまた、完全な幸福に包まれてしまった。
完全な幸福は、傍観者をも幸福にする。 完全な愛は、傍観者をも愛に引き入れる。
アキラはそんなことを、頭で考えたわけではなかったけれど。 ただエリコの耳から顎にかけての柔らかなキャンバスが、雲と同じように夕陽を映し出して淡いピンクにそまっている様子に、ただ我を忘れてのめりこんだ。体がふわふわと浮き上がって、自分という存在の輪郭がすっかり溶けてしまった。
そしてその瞬間から、エリコのほんの少し低すぎる鼻も、薄い唇も、アキラにとっては完全な美となった。まして柔らかな茶色の長い髪がひるがえってエリコの首にさらりとまとわりつくさまや、色素の薄い、仔犬のような瞳に至っては、地球上の男たち全てからそれを隠してしまいたいような、狂信的で暴力的な衝動さえ感じていた。
エリコの美しさに、誰も気づかないといい。そう思う一方で、エリコに感じる驚嘆を他の誰かと共有したい、そう思ってもいた。だがアキラの思いをよそに、同級生の男の誰一人として、アキラがエリコの中に見ている女神的な輝きに、目を止めるものはないまま、秋は終わり、冬を迎えた。
卒業式は、来週に迫っていた。 そしてエリコは卒業式を待たず、明日、イギリスに留学してゆくことになっていた。 だからアキラは、ありったけの勇気をかき集めて、すっかり日の暮れた放課後の教室にエリコを呼び出したのだった。
アキラはゴクリと喉を鳴らして、唾液を飲み込んだ。手にはじっとりと汗をかいていた。 (オレは……いったい何をやってるんだ。) この期に及んで、アキラは自分が何をしようとしているのか、見当もつかなかった。 (あいつはイギリスに行く。オレは日本で大学に行く。それだけじゃないか。その先になにもあるわけないじゃないか。) アキラの理性が、暴走する自分の感情を嘲笑するかのように語りかけるが、もう一人のアキラ、感情の部分は、全く聴く耳を持たなかった。 理性は、このままエリコを行かせてしまうべきだ、と断言していた。けれど感情は、どうしても最後にひと目だけエリコに会いたいと叫び、暴れまわっていた。 (……まるで、動物だよなあ、まったく。) アキラはひとり声をたてて笑った。
その時、静かな気配と共に、セーラー服のシルエットが教室のドアに映し出された。 「アキラくん?」 落ち着いた、よく通る低い声に、アキラの心臓は跳ね上がった。体中の筋肉は、岩のようにこわばり身動きも取れなかった。 「……あ」 どうにか声を絞りだしたものの、口は中途半端に開かれたままなのに気づき、あわてて口を閉じた。 (みっともねえな。) アキラは苦笑した。 突然、教室の電灯が消えた。 アキラは再びあっと声を上げた。 「アキラくん?」 今度の声は、アキラのすぐ右隣から聞こえてきた。いつのまにか、セーラー服のシルエットが忍び寄っていた。 「ねえ、見て」 しっとりとしたエリコの声に促されて窓の外に目をやると、幾千もの星々がまるで零れ落ちそうなほどに、新月の空を埋め尽くしていた。 「……田舎に生まれて、いやだなあって思ったことは何度もあるけど、きっとこういうことだけは私、一生愛し続けると思う」 「ああ」 「みんなそこにあって、それだけで何も主張しないでしょう。よく見せようとか、反対に謙遜しようとか、何もないでしょう。自分の道は自分で決めるとか、言いはしないでしょう。ただ始まって、終わってゆく。終わるまで続いてゆく」 「ああ」 その瞬間、アキラは理解した。激流に飲み込まれるようにエリコに惹かれた訳を、全身で理解した。 「それは、……すごいことだよな」 アキラの言葉に、エリコのシルエットはこくりと頷いた。 「そうなの。すごいことなの」 そうしてエリコは黙った。アキラも黙った。 この上、何も言うべきことはないように、アキラには思えた。どんな言葉も不足であり、また過剰であった。ただ溢れる星空に目をあてていた。二人は調和の中にあった。
アキラは、不意に柔らかな何かが自分の掌に触れるのを感じた。自分と等しい温度の、ほんの少し湿り気を含んだそれは、エリコの手だった。アキラは躊躇わずその細い指に自分の指を絡めた。ほんの数分前までの暴れ馬のような衝動も、緊張も、どこかに消えていた。ゆるやかな時間が、のびたり縮んだりした。
二人はその調和が永続しないことを知っていた。 アキラもエリコも、あまりにも流れの速い別々の風のなかにいて、ほんのひととき手を取り合っただけだった。雲が風に逆らわぬように、二人もまた吹き乱され、かき消えてしまうことを受け入れるしかないと知っていた。そのために、互いの心にどんな楔も打ち込まぬよう、注意深く言葉を選んだ。
「……明日、飛行機、何時?」 「四時半、成田。見送りに来る、なんて言わないでね」 「言わねえよ」 「待ってるから、なんて言わないでね」 「……わねえよ」 「また、十年後とかに会えたらいいね、なんて言わないでね」 アキラは答えなかった。 現れたときと同じく突然に、エリコの手はするりとアキラから逃げ出した。
のびたり縮んだりする時間の流れからようやく抜け出してアキラが我に返ったとき、教室には他に誰の気配も感じられなかった。 そうして耳をすませば、階段を駆け下りる軽やかな足音が、遠く響いていた。
(終)
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