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作品名:闇も光も −額田女王と有間皇子− 作者:立夏

最終回   1
「……額田。ここを開けて」
 コツコツと戸を叩く音と柔らかな若い男の声が、まどろんでいた額田女王の耳に届いた。額田は夢と現との境を行きつ戻りつしながら、その甘く心地よい声を頼りに、記憶の海をゆらゆらと漂っていた。
(いったいどなただろう。このお声。大海人皇子さま?……まさか。もうお会いしなくなってから随分になる。それでは、中大兄皇子さま?いいえ、違う。中大兄さまのお声はもっと、鋭く低い。)

「眠っているの?僕だ。……有間だ」
 その名に、額田は、急激に現実へと引き戻された。脳裏に、数年前、額田を姉とも呼んで慕った、少女のように可愛らしい少年、有間皇子の面影が浮かんだ。
(有間さまが、急に、なぜ。ここ数年は、もうお歌のやりとりばかりしか、していなかったのに。)

 時の権力者、中大兄との関係が公然たるものとなっている額田の元へ、夜の闇をくぐってやって来るということがどれほどのことか、有間自身知らぬはずもなかった。
(ともかくひと目についてはまずい。有間さまのお命すら危ない。)
 額田はそう思った。

「有間さま、お待ちくださいませ」
 よく通る声でそう言うと、額田は鏡を引き寄せた。映る肌は抜けるように白く、瞳は黒く深く、濡れたように輝いている。わずかにほつれた髪を手早く手ぐしで整える額田の身体の中心を、何かある、という予感が貫いた。

 中大兄への反逆者たり得ると言われて久しい、若く賢い有間皇子が、何の理由もなく、危険を冒してやってくるはずもなかった。神の声を聴く者として磨きぬかれた額田の直感が、急を告げていた。
 額田は一度大きく息を吐き出すと、背を伸ばし、強いて落ち着いた風を装ってから、ひと息に戸を引いた。

「久しぶりだね、額田」
 額田は、思わず目をみひらいた。そこにいたのは、かつて、額田と共に野原を駆けて遊んだ少年有間では、もはやなかった。見上げるほどに身長が伸び、ひょろりと細かった骨は太くなり、肩も胸も厚みを増した、まるで見知らぬ男であった。
「大きく、なられましたのね」
「大きく……か。ああ、そうだな」
 有間は苦笑した。
「どうなさいましたの。このような夜更けに」
 そのとき、雲が月光を遮り、部屋が闇に覆われた。
「……れの」
「え?」
「今日は、あなたとの、別れの日となるかも知れない」
 額田は息を飲んだ。
「……有間さま。今、なんと」

 突然、有間は額田の細く白い両の手首を捉えると、強引に壁に押し付けた。有間の指は、夜の空気にさらされて、すっかり冷え切っていた。
「僕は」
 言葉を探す唇は微かに震え、その瞳の奥では、溢れる熱とそれを抑えようとする理知的な光が、激しく争っていた。
「額田。僕のものになってはくれないか」
 有間は小さく震えていた。
「あなたのことをずっと思っていた。少年の日、野の花の中で微笑むあなたを初めて見た、あの日から、ずっと。あなたが中大兄皇子の何であるか、わかっている。それでも」
 有間の純粋で真直ぐな眼差しが、額田の心の隙間にふと入り込んだ。そうして額田の瞳が揺れた。

 額田は、有間の腕に抱かれる自らの姿を、ほんの一瞬、思い描いた。
(わたくしは……この有間さまの、夢の女でいることができるだろうか?天女のように。或いは母のように。強く揺るぎなく、それでいてたおやかな女を演じきることが?)
 その思いは、額田の胸を熱くした。

(中大兄さまの、並み居る妃たちと寵を争うこともなく。大海人さまの、身勝手な情熱を待ち焦がれながら身をかわすようなこともなく。この真直ぐな年若い皇子と、どこかでひっそりと暮らす。そんなことが、私の身に起こり得るのだろうか?)

 束の間の夢を描いた額田の心に、中大兄の冷酷な声が蘇る。
『額田。お前を生かすことができるのは、私だけだ。
 他の男を愛するならば、そうするがいい。
 だが、お前は、私に成り代わり神の声を聴く女。
 お前がお前として生きることができるのは、私の前だけである。
 それを、ゆめ忘れるな』

 額田は小さく息を吐き出した。

 一匹の虫の澄んだ歌声が庭を浮遊して、闇の静謐に飲み込まれた。そしてゆっくりと雲は晴れ、窓から差し込むほの白い月光が、額田の内から放たれる神々しいまでの光を慕うように、寄り添った。

「……有間さまは、ご立派になられました」
 落ち着き払った額田の声に、ふと怯えたように有間は目を伏せた。少年の丸みを失い始めた有間の頬骨に、額田はその温かな掌をそっと添えた。まるで母か姉がそうするように。
「ほんとうに、ご立派になられたこと」
 額田は、有間の頬を二度三度と優しく撫でた。そうして蘭のごとく、清く妖艶な笑みが、額田の顔にゆっくりと拡がった。

「あなたさまは、神のちからをこの身ひとつにおさめかね、狂うたように暴れるわたくしを、抱きとめることがお出来になりましょうか。私は、神の声を聴く女でございます。神の声を聴く女には、神をも恐れぬ、鬼のこころをもった、強い男のみが、触れることをゆるされるのでございます」

「だめなのか。どうしても。僕の命をかけての頼みであると言っても」
「額田は額田のものでございます。どなたのお命も、頂きませぬ。そうしてどなたにも、額田をさしあげることは、致しませぬ」
 額田の凛とした言葉に、有間は、ぎゅっと瞼を閉じた。

「では、これが、あなたに会う最後の夜となる」
 搾り出すように言って、有間は力の限り額田を抱きしめた。
「あなたは、……生きよ」
 有間は微かな声で囁くと身を翻し、部屋の外の夜に紛れて消えた。
「有間さま!」
 ほどなく軽やかな蹄の音が、夜更けの静けさの中に響いた。
 それが、有間の最後の気配であった。

 その翌朝。
 有間が謀反を図ったとの罪で捕らえられたとの噂が、都を駆け抜けた。そして誰もが驚くほどの迅速さで、その処刑が決定された。

 有間は言った。
『天と、赤兄と知る。我、全ら知らず』
(中大兄皇子と、その腹心、赤兄のみが真実を知ることである。私は、無実である。)

(有間さまを陥れる、中大兄さまの、罠であった。)
 額田は、直感した。凍えるような冷気が背筋を走った。
(昨夜、有間さまはすでに、ご自分の身に何が起こるかご存知だったのだ。だからああして、危険を冒して私のもとへいらっしゃったのだ。)

 額田には、中大兄の腹の底に響く低い声が、聞こえたように思われた。
『弱く純粋なものは、負ける。強きものが、勝つのである。
 そうして勝つことはすなわち、正しいこととなるのである』

 額田は震え、小さく首を横に振った。
 このようにして、闇をも味方につけて生きてゆく男を、自分は選んだのだと思った。真直ぐな、ただ純粋なだけの、壊れやすい正しさという類のものとは、二度と手を取り合うことはないのだと。
 額田の奥深いところで、何かがさらさらと崩れ落ち、大きな渦に飲み込まれて消えていった。後には、ただ空虚の中に「生きる」ということのみが、はっきりとまた毒々しく浮かび上がっていた。

 涙の雫が静かに額田の頬を伝った。だが、その表情はぴくりとも動かず、しんと凍りついたままだった。


(終)


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