Episode:7 好悪
男――兄、幸彦はボロボロのブルゾンにジャージのズボン、髪と髭は伸ばしたまま、というまるで浮浪者のような身なりだった。言葉もどもりがちでうまく喋る事ができず、何日もお風呂に入っていないのか、かなりの異臭を漂わせていた。 少なくとも、あの日記を書いていた頃はそれなりの教育を受けていたはずだ。 長い年月の中、人と会話を交わすことがなかったのか、言葉をうまく発することが出来なくなってしまったのだろう。 そうなるまでの壮絶な人生は聞かずとも幸彦の姿が物語っていた。 幸彦と美幸は小さな民家の前にいた。 それは民家というより廃屋に近いもので今にも崩れ落ちそうな壁や割られている窓ガラスからは、ほんの十年前にここに人が住んでいたなんて、とても思えなかった。 「ここ……ボクの家……ミユキとの思い出ノ…場所」 幸彦は抱きかかえていた美幸をそっと地面に降ろして、その廃屋を指差す。 「ここに住んでるの?」 幸彦は無邪気な笑顔をみせ家の中へ入っていく。 美幸も幸彦の後ろに続き中へ入った。 床が抜けないよう、足元に気をつけながら幸彦の後をついていく。 玄関やキッチン、部屋の所々に見覚えがある。 パズルのピースを合わせるように記憶が少しずく蘇ってくる。 美幸は廊下の角にあった小さい物置の前で立ち止まった。 小さい頃の自分が、そこで泣いている――――――。
(ひっく、ぅっうえぇっ…ふぅうぇえん) まだ幼くて泣いてばかりだった――私。 (泣くな、美幸……) お兄ちゃんの心配そうな顔。 お母さんを殴るお父さん。 お父さんは、泣きじゃくる私を殴る。 物置に私を入れて守ってくれるお兄ちゃん。 暗闇の中で怯えながら、じっと待つ。 事が終わった後は、青痣だらけのお兄ちゃんが優しく抱きしめてくれる。 いつものおまじない。 (ぃたいのいたいの、とんでけ〜) 何度も何度も繰り返す私に、お兄ちゃんは(もう、痛くないよ)と優しい笑顔で答えてくれる。 (大丈夫だよ、美幸はお兄ちゃんが守るから…ずっとそばにいるよ……) お兄ちゃんのその言葉に安心して眠る私。 大好きだった――――――お兄ちゃん。
「ここ…」 「――――――うん、こんなに狭かったかな……」 小さな物置が広く感じたあの頃。 私にはお兄ちゃんが全てだった。 「こ、こっち……」 幸彦が指差したその場所は、ほんの畳三帖程しかない部屋。 小さなタンスと卓栿台(ちゃぶだい)があるだけ。 でも、この家で唯一人が住んでいる痕跡が残っている部屋だった。 幸彦は部屋にあるランプに火を灯すと、壁際に腰を下ろし美幸を呼び寄せる。 美幸はそっと幸彦の隣に腰を下ろした。 「一人で?」 美幸の言葉に幸彦はコクンと頷く。 「と…父さん死ンダ……ボク一人…」 「お父さんは……なんで…」 美幸の言葉に幸彦の顔色が変わる。 「言いたくないのなら…」と言いかける美幸に幸彦は首を横に振った。 「…ジコ……車ニ……押したノボク」 「――――――そう」 確かめたかっただけかもしれないと、美幸は思った。 あの人が、生きているのか、死んでいるのか―――どんな死に方をしたのか。 もはや、顔も覚えていない父親に悲しみなど感じるはずもなく、美幸はただ兄の言葉に納得した。 しょうがないと納得してしまえる自分もまた、兄と同じ穴の狢なのだと思えた。 たが、疑問は残る。 「お母さんは迎えに来なかったの?」 幸彦は首を振り答えた。 「母さん…ボク…し、死んだと思ってる…」 「――――――なんで…」 兄の言うように、幸彦は死んだと母は思っているに違いない。 隠すようにあった幸彦の日記や衣料は遺品のつもりだったのであろう。 「母さん……知らないヒト…一緒…ミユキ……ソノ人、パパ…呼んでタ…」 「今のお父さんだね?」 母と父は再婚だったのだ。 嘘のつけない母が父を騙す事なんて出来るわけがない。 優しい父の事だ―――全てを知りながら私達親子を受け入れ、愛してくれたのだろう。 「お母さんを恨んでいるの?だから、死んだ事に?」 美幸の言葉に幸彦は悲しそうな顔で頭(かぶり)を振る。 「…………ミユキ…ボクの事…わ、忘れテタ……悲しい事も……全部」 「え?」 「デモ…ミユキ笑ってた……幸せそうな顔…ダカラ…」 「私の為?」 兄の優しい笑顔は昔のままだった。 「時々…ミユキ、会いにイッタ…アトは……夢」 「――――――夢?」 「夢のナカ……ミユキ…いつも一緒……」 いつもの夢。 兄の想いが自分にあの夢を見させていたのか―――いや、それこそが兄と自分を繋げる絆なのかもしれない。 切ることの出来ない絆。 「お兄ちゃん…、どこまでも一緒だよ」 「……一緒……どこまでも――――――」 幸彦は美幸の顔を見て微笑む。 美幸も悲しげな笑みを浮かべながら、そのまま幸彦の肩へもたれかかり瞳を閉じた。 「今日は疲れたね……」 「……ミユキ…疲れた……ボクと一緒…寝る…」 「――――――うん…」 美幸の隣で幸彦が眠りについた頃、美幸は一人瞳を開いた。 しばらくの間、幸彦の寝息を確認し眠りが深くなった頃を見計らってゆっくりと立ち上がる。 「お兄ちゃん――――――もしも、ううん、もしもなんてない……私達はこうなる運命だったんだね」 美幸はポケットの中からナイフを取り出す。 「私は……、お兄ちゃんの罪を許す事は出来ない」 「…………」 「でも、お兄ちゃんを一人にさせないよ……」 「…………」 「だから……、私と一緒に逝こう…」 「…………」 「……一緒に罪をつぐなおう…」 美幸はゆっくりと幸彦の方へナイフを近づけていく。 寝ている幸彦に向かってナイフを振りかざそうとした時、美幸の手が止まった。 幸彦の瞳がしっかり開かれ美幸を見つめていたのだ。 「ミユキ……」 「――――――お兄ちゃん」 幸彦は自分に向いているナイフを退ける事もなく、ただ、じっと美幸を見つめている。 「なんで、逃げないの?」 「…………」 「私は、お兄ちゃんを殺そうとしてるんだよ」 「ミユキも一緒……」 幸彦はナイフを持っている美幸の手を掴み自分の胸の手前にやった。 「……ここ……」 幸彦の顔はとても穏やかで、優しい眼(まなこ)で美幸を見つめている。 それは、昔の『お兄ちゃん』の顔。 美幸はそのまま、ゆっくりと幸彦の胸へナイフを近づけていく。 「美幸ちゃん!」 その時、叫び声と共に美幸の手は部屋に入ってきた少年によって止められた。 「だめだよ!これじゃ何も解決しない!」 「――――――なんでここに…」 そこに現れたのはジュン。そして、もう一人―――、 美幸の背後に現れたのは美紗子であった。 「美幸!」 「お母さん!」 「ごめん―――、俺が知らせたんだ。おばさんに事情を説明して、二人の後をつけた」 美紗子は美幸と幸彦の方へと近付く。 「………か…あ…さん……」 幸彦は少し震えながら小さく呟いた。 ジュンは美幸の手からナイフを取ると美幸から幸彦を引き離した。 「――――――幸彦……ごめんね、ひとりぼっちにして……ごめんね…」 美紗子は幸彦の体をそつと抱きしめる。 「……モウ…一人……ない…ミユキ……一緒…」 「うん―――、母さんもここにいるから…」 「…み…んな…一緒?…」 「そう―――、昔のように……家族が一緒に…」 美紗子の瞳から一筋の涙が流れる。 しかし、幸彦は美紗子の腕を払い除けた。 「幸彦?」 「―――みんな…一緒……無理……昔…戻れナイ」 そう言って、幸彦は部屋を灯していたランプを手に取り部屋の隅に投げつけた。 「きゃあ!」 美紗子の小さな悲鳴と共に壁が物凄い勢いで燃え上がる。火の粉は古くなった畳に飛び散り、瞬く間に幸彦を取り囲んだ。 「きゃああ!お兄ちゃんっ!」 美幸は幸彦の方へ近づこうとするが、火の勢いが強く前に進む事ができない。 「幸彦―――」 美紗子は炎に包まれている息子の顔を見つめている。 「ジュン君、美幸をお願い…」 美紗子はそういって炎の中へ進み始めた。 「お母さん!」 「おばさん!」 美幸とジュンの止める声も空しく美紗子は炎に包まれていった。 「きゃあああ!」 美幸はあまりの光景に絶叫する。 美紗子の姿が炎の中へ消えたと思ったとき、炎の中から何かが投げ出された。 それが美紗子と気づいたジュンは慌てて火の粉をはらい美紗子の息を確認する。 火傷を負っているものの、意識はあるようだ。 「お兄ちゃん!」 美幸は炎に包まれていく兄を呼び続けるが、すでに体の半分が火に覆われていた。 幸彦は妹と母を見つめながら逃げることはおろか、救いさえ求めようとしない。 ただ、優しく微笑んでいる。 「美幸ちゃん!もう―――ここも、もたない!」 ジュンは美紗子を背に担ぎ、兄から離れられないでいる美幸の腕を掴む。 「…………」 美幸は炎に消えて行く兄の顔を見ながら小さく頷きその場を離れていく。 部屋を出るとそこはすでに煙火に包まれており、50p先が見えなくなっている。 ジュンはコートを脱ぎ、美幸の口を塞ぐよう指示をすると美紗子の口に手を当て自分は息を止めて廊下を走りぬけた。 美幸もジュンの後に続き、玄関口まで手探りで歩いていく。 外に出ると、ジュンはすでに携帯から消防と救急に連絡していた。 美幸は母の元に走り寄る。 「お母さん!」 心配そうな娘の言葉に母は小さく頷く。 二人は炎に包まれた昔の『我が家』を、 言葉なく、ただ見つめていた。
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