枯木 田島正理著 第一章
私は今年、協議離婚をしました。私が唯一、世の中と繋がっていた家族を取り上げられてしまったのです。時はまだ寒さが肌身に凍みる1月の事でした。
元は、家族4人で住んでいた市営住宅から私一人が追い出されて、家賃が3万円という洗濯機も設置する場所もなく、システムバス付きのボロアパートに追いやられました。
精神病院に入退院を三回ほど繰り返し、私の回りにいた友人や知人は、皆次々と疎遠になりました。おまけに精神病院だからだと思われますが、入院中に誰一人として面会に訪れてくれる人もなく、人間社会に躓いた人達の中で私はとても孤独を感じていました。
私には何が正常で何が異常なのかが、さっぱり解らないのです。
病名「リタリン中毒」(中枢神経興奮剤)と言うことで、このリタリンという薬は化学式が極めて覚醒剤に近いと言われ、合法的覚醒剤とも呼ばれている薬です。しかしこの薬は違法ではなく、医師の処方箋があれば薬局で容易に入手できるものなのです。 私が定められた処方量以上に服用してしまったのが発端で、「リタリン中毒」というレッテルを貼られてしまい強制入院させられました。病院側の治療方法としては、徐々にリタリンの服用数を減らしていくという全く持って低レベルの治療法でした。 私は病院のベッドでもがき苦しみ、のたうち回る程の(決してリタリンの禁断症状ではなく、飲まなくても本物の覚醒剤のように幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたり、そんな症状は全く無いのですが)苦痛を味わいました。 私が苦しんだ大きな理由は、厳重に鍵のかかった閉鎖病棟。窓には鉄格子、人間として扱いさえも受けることが出来ず、社会から完全に隔離されたその事実にベッドの中で枕を濡らした夜も少なくありません。
私の苦悩が十個あるとすれば、その一個でも他人様に譲ったならば、おそらくその方はきっと発狂するか、自殺する事になるでしょう。それ程までに人間として生きる事に狼狽していました。
私の苦悩と災いは、今回の精神病院に入院するよりも、ずっとずっと前から身に付き纏い、 それは、それは辛い思いをしてきました。
私は昭和37年生まれで俗に言う厄年に中ります。この文章を書き綴っているのは44歳の誕生日を過ぎて、後厄を通り越しました。
私には兄弟もない一人っ子で、ごくごく平凡なサラリーマン家庭に生まれ育ちました。両親は共働きで、父は工場の工員で、夜勤の交代制があり、とても不規則な生活リズムで、父とは殆ど顔を合わせることはありませんでしたし、母は繊維会社の経理をしていて、ひどくお酒が好きで毎日帰宅する時間が遅く、兄弟も身内も居ない私は一人遊びすることが多く、独りぼっちの時間がとても多くて、親子の触れ合いなど殆ど無く、所謂「鍵っ子」でした。この孤独から漸く脱出出来たのは高校時代になってからと記憶しています。
母は高齢出産だった為、「マーくん」「マーくん」と呼ばれ、溺愛され、物にも不自由せずオモチャも沢山買い与えられ、とても過保護で、カゴの中の鳥のような、表面的には幸運を装って居ながらも、その奥底に潜む悪魔には、誰も気が付かない環境の中で育ちました。
しかし、毎日が寂しさの連続で、学校から帰って来ても、当然のように家には誰も居なくて、母の酒好きが原因で帰宅時間が10時を廻る事など当たり前で、そんな母の帰宅を窓から顔を覗かせて、帰りを待つのが私の毎日の習慣になっていました。(幼稚園児の私には10時は深夜です) 休日になると、母は私を連れて街へ出掛けて行ってデパートに行き、好きなオモチャをウンザリするほど買い与えられました。欲しくもない物までも「これはどお?」と言われ、そういわれると私は嫌という勇気もなく 「うん。欲しい」と言って、 オモチャが山のような荷物となって自宅へ帰ってくるのでした。 今になって考えると、母にとっては唯一の罪滅ぼしだったのでしょう。私が欲しい物ならば多少高額でも買ってくれました。 しかし、オモチャがどれだけ沢山あっても、私が感じる毎日の心の寂しさの隙間を埋めることは出来ませんでした。(お蔭でオモチャでの一人遊びが得意でした。) 父が、画用紙を数百枚買ってきて、画材も与えられたので、私はオモチャよりも絵を描く事が唯一の逃避で、時を紛らわす事ができました。このお蔭で、将来画家として名誉ある賞に入選したりしました。しかし、学校での通信簿では、図画の成績は最も悪かったのが不思議でたまりませんでしたが、中学3年になって、その意味が明白になりました。教師が私に向かって、こう言いました。 「点数稼ぎの道化の作品ばかりだな。」 と言われ、私は心の底から激怒しました。一生懸命描いた写生や絵画も、教師の目から見ると、単なる道化に写っていたのです。高校時代に入って漸く、私の創造物を認めてくれる教師に出逢い、美術部に所属した私は、与えられた課題を意図も容易くこなし、美術部のレベルの低さにはたはた困り果てていました。当然のように高校での美術の評価は最高点でした。 絵だけに止まらず、読書感想文も高評価を得ることが出来ました。作文では賞も頂いたくらいです。全ては一人遊びの産物だったのでしょう。
話をもどすことにしましょう。 学校から帰ってきて「お帰り」といって家族の者に出迎えてくれる家庭に憧ました。母の温もりが欲しくてたまらず、一般の家庭を羨ましくさえ感じていました。 私の家庭は時間的にも家族全員がバラバラのリズムですので一家揃っての団欒とした夕食などというものには全く縁がなく、皆それぞれ自分のペースで生活をしていました。
私は幼稚園の頃はとても泣き虫で友人に虐められると直ぐに泣きじゃくり、とてもひ弱な子供でした。 内弁慶と言うのでしょうか?家庭の中では泣くことは殆ど有りませんでした。しかし、唯一、夫婦喧嘩が始まると何故だか悲しくて、おいおいと泣きました。何が原因かは解りませんが夫婦喧嘩の多い両親でした。(父の死後に解ったことですが、「もっと私と触れ合う時間を作れ」というのが父の言い分で、「家計を豊かにするために仕事は辞められない」という母の意見の衝突だったそうです。) そんな幼児期を過ぎ、小学校へ入学する頃には、他人に意地悪されても泣くことを堪える力が付きました。ただ、学校の給食を全部食べることが出来ずに毎日泣きべそをかいていました。学校の行事の中でも一番の苦痛が給食でした。 給食さえなければ、何の苦痛も無いのですが、驚くべき事に当時の私は卵焼きしか食べることが出来なかったのです。 小学校も2年3年と上級していくうちに、私は登校拒否(今では不登校と言うらしいですが)を覚えました。嫌な授業や、体育の授業のマラソン。嫌いな給食の献立、等理由は様々でしたが、私は前日に「明日は学校を休もう」と心に決めると、翌朝、頭が痛いだの、腹が痛いだのと、なんだかんだと言って学校を休みました。ある時には、帽子が無いと言って欠席しようと目論見ましたが、隠しておいた帽子をいとも簡単に見つけられ、泣く泣く登校した記憶があります。
母も仕事があるので、朝の仕度には時間的余裕が無く、私のことなど気にも止めず、さっさと学校の担任教師に電話して欠席することを告げてそそくさと仕事に出掛けていきました。 その電話一本で私の心は晴れ晴れとして自由を勝ち取ったかの如くのびのびとした心持ちになりました。時には仮病だろうといって、母に言い詰められましたが、如何にも苦しそうに演技をして母を騙しました。(母も騙された振りをしていたのだと思います。)勿論病院に行っても薬も処方されず、仮病であることを医師は知っていました。母は 「熱がないと学校には行きなさい」 と説教するのですが、そんな話には聞く耳持たずの私でした。
先ず、月曜日は必ずと言って良いくらい欠席です、挙げ句の果ては一週間、一ヶ月と欠席する間隔が長くなっていきました。当たり前のことですが、クラスメイトとの学力の差や、久しぶりに登校してみても授業の内容はまるでチンプンカンプンで、ただ阿呆のように授業を受けて、何も身につく事はありませんでした。しかし何故だか通信簿や成績が(図工以外は)他の生徒よりも良かったのが今になっても不思議でなりません。 中学生になると、勉強のペースも速くなり、一日欠席すると、その日の授業内容は取り戻すことが出来なくなってしまうのですが、それでもお構いなしに私は学校を欠席しました。欠席した日は独りで家に居てNHKの幼児番組を見るのが癖になっていました。そしてついに、中学2年は1年間全て欠席してしまいました。寒い、暑い、という自然の摂理にも対応する精神力がありませんでした。 あるとき母は突然、そんな私に「一緒に死のうか」と言いました。私は気も狂わんばかりのショックで、居ても立っても居られないくらいの一言でした。中学生の私には「死」と言うものに現実味が無く、絵空事のような事でしたので、私が学校を欠席するのが、母にとっては行き詰まりだったのでしょう。 しかし私の登校拒否は治るどころか、ますますエスカレートしていったのです。 ところが中学3年になると、今までの登校拒否が嘘のようにパッタリと止まり、毎日休まず登校しました。何故私が途端にこのような変貌を遂げたのかは未だ持って皆目見当も付きません。毎日規則正しく朝食を摂り、夕食も時間通りに食べて、体からストレスという者が「スーッ」と抜けていく感じがしてとても充実した日々をおくることができました。両親から小言を言われなくなったのも快感でした。 中学2年時代を1日も登校していないので学力の差は歴然としていて授業の内容もさっぱり解りませんでしたが、私は登校しているということだけに満足感が一杯で、休み時間には友人と気さくに会話や遊びができました。流行の漫画の模写を描いてプレゼントすると、皆大喜びしてくれました。 私は当時から親友と言う言葉が信じられず、あくまでも友人は友人。親友などという大それた交友関係を持つことに怯えていました。他人の事が全く信じられなかったのです。
そんな私のような阿呆な人間にでも色恋沙汰には何故か縁があり、幾多の女性が私の上を滑り抜けていきました。背が低いのが難点でしたが、3枚目のピエロの体裁で女性にウケが良かった様子です。
私は社会人になっても会社を休む癖は抜けませんでした。そんなことで会社も転々と変わり1年として1つの会社に所属することが不可能でした。決して悪ふざけしているのではありません。私は大真面目なのですが、小学校から培った癖なのでしょうか?他人と関わることが嫌い。友人らしき人物も居ない。友情を知らない…まるで、形は人間ですが、中身は空洞の張りぼて人間になっていました。そんな自分が恥ずかしくて成人式にも行きませんでした。勿論同窓会などがあっても、とても自分が恥ずかしく出掛けることは一度もありませんでした。社会のゴミ同然でした。
私が丁度24歳の頃に母が他界し、母に頼り切っていた父親は路頭に迷い、私は散々酷い目に遭いました。もうその頃から私は家には帰る事はなく、自動車の中で寝泊まりをして生活していました。定職もなく・住所もなく・勿論当時の事ですから携帯電話など有るはずもありません。死のうと思いました。そんな阿鼻叫喚の時に幸いにも心を癒してくれる女性がおりましたので、命辛々彼女のおかげで助かりました。それでも私は独占欲が強いのか、寂しがりなのかは解りませんが、その彼女と一緒に暮らしたくて、一緒に東京で暮らそうと話を持ち出し、彼女はそれに同意してくれて、駆け落ちみたいな真似事をしました。そんな訳で東京に辿り着いた所までは良かったのですが、家財道具も何もない。ボストンバッグ2個程の荷物を抱えて、2人でこの先どうするのかということを決してお互い口には出しませんでしたが、切迫した大問題でした。上京した時の軽自動車を売って取りあえず風呂もトイレさえも無い、ボロアパートに入居する事が出来ましたが、寝る布団さえ持っていませんでしたので、不動産屋さんに頭を下げて中古の寝具を譲ってもらいました。彼女はキャバレーに勤め、私は日雇いの仕事をしました。勤務時間のすれ違いで、私たちは会話することさえ出来なくなってしまいました。そんなコミュニケーションの無い同棲生活が長続きする筈がありません。 ある日、私が日雇いから帰ってくると、部屋の中には彼女の私物は一切無く、「ごめんなさい」とメモに走り書きがあり、4万円程だったと記憶していますが、そのメモと一緒に部屋の真ん中に置かれていました。背筋が凍る思いでした。そうして彼女との連絡も取る術もなく頼る知人も居ない私は半狂乱になりました。すれ違いの毎日の生活で、家庭らしきものが著しく欠落していたので当然と言えば当然の終末なのだと感じました。
私はもう東京には未練が無く地元の岐阜県に帰ることを決意しました。知人も誰一人として居ない東京での孤独に私は耐える気力さえ失っていました。そしてフラフラと新幹線に乗り、岐阜に帰ってきました。その時の私の所持品はボストンバッグ1個と傘1本だけでした。当然自動車も無く移動手段が無いので、高校時代の友人に電話をして、今までの経緯を話して何とか駅まで向かえに来てくれる事になりました。しばらくはその友人の家に居候させてもらい、私は一生懸命に職を探しました。 名前は忘れましたが電気の配線板を制作する会社が見つかり、自分の事情を話すと、そこの社長は私に部屋を与えてくれました。敷金や礼金で20万円程だったと記憶しています。しかし、会社と自宅との距離がかなり遠くて、路上で無断拝借した自転車では通勤が不可能になってしまい、その会社とは自然消滅のようにもう通わなくなりました。丁度その頃の事、知人から原付バイクを譲ってもらいました。自転車よりも行動範囲は広がりますが雨の日が苦痛でたまりませんでした。そして、自転車でも通勤可能な位置にある会社に就職する事ができました。お菓子の問屋さんで、仕事の内容はお菓子をスーパー等の小売店に配達するという単純な仕事でしたが、元々体力の無い私にとっては、仕事に慣れるまでかなり時間がかかりました。 電気屋さんに借りて頂いた部屋には裸電球一個しかなく、冬の寒さに耐えかねて、ドライヤーを上着の中に入れて暖を取ったこともありました。ストーブさえ買うお金がなかったのです。しかしお菓子屋の仕事も順調にサイクルが決まってくると、炊飯器やストーブその他自炊の為の道具も僅かながらではありますが徐々に揃えていく事ができて、何とか一般の人間らしい環境が揃い始めた頃、勤務先のお菓子屋さんの事務の女性と恋仲になり、またしても同棲らしきことを始めました。その女性のお蔭で立派なオーディオ製品を購入し、電話回線も引くことが出来ましたし、自動車も持っていましたので終末には遠出などをして戯れておりました。 お菓子屋さんの月給だけでは満足が出来なかったので、私はファミリーレストランで深夜の仕事をしました。事務の女性の月給と私の給料とバイト代を合わせるとかなりの額になりました。今までお金もなく家も無く、何もなかった私が自動車(マイカー)を買うことが出来ました。 お菓子屋さんとバイトの肉体労働には悉く疲れ果てておりましたので、私は予てからの念願であったデザインの仕事を探し当て、就職する事になりました。低賃金でしたが、まるで水を得た魚のように仕事に没頭しました。絵を描くことが得意な私はその天性を遺憾なく発揮し、会社での評価もまずまずでした。デザイナーは天職だと感じて、もうがむしゃらでした。 それから2年程経ってお菓子屋の事務の女性と婚姻届を出しました。結婚式も披露宴も何もない密やかな結婚でした。家庭内では穏便な日々が続き、仕事にも慣れて来た頃、デザイン事務所にコピー機の販売をしているセールスの女性と知り合いになりました。結婚して半年も経っていないというのに、不倫。私は自分の家には帰らずにセールスの女性の部屋に入り浸りになりました。毎日スナックへ出掛けては泥酔する有様で完全に私の家庭は僅か半年で壊滅したのでした。前妻が包丁をもって、セールスの女性の部屋に殴り込んで来たこともあります。結局今まで血みどろになって貯めた400万円程度の貯金と自動車を手切れ金として離婚が成立しました。 又しても私はボストンバック1個の丸裸になってしまいました。しかし新しい恋仲の女性との間に子供を授かりました。由緒正しいこの女性と結婚することになったのですが、女性の両親に、「何処の馬の骨かも解らない奴」と罵倒され、私には親や親戚は居ないも同然なので、言い返す言葉さえ見つかりませんでした。しかし結婚式と披露宴を準備して頂いて、通常の人間らしい結婚が無事終わりました。披露宴では、私の身内は誰一人として列席せず、知り合いや友人ばかりを招待しました。まるで回りを見回すと敵ばかりと言った印象で、肩身が狭く私の存在は邪魔者の珍客といった体裁で、これでも結婚式か?と痛いほど感じていました。 そして間もなく長男がこの世に生を受けました。私は血の繋がった人間がこの世に現れたという現実を目の当たりにして涙があふれ出して止まりませんでした。それから3年後、長女を授かりました。家族4人で決して裕福ではありませんが、私が喉の奥から手が出るほど欲しかった家族を手に入れることが出来たのです。 しかし私には幸福には縁が無いようで、ある日突然「突発性難聴」という病気になりました。強烈な耳鳴りがして気が狂いそうになったのです。この病気のせいで、就職先のデザイン会社から解雇通知を突きつけられて無職になってしまいました。 1ヶ月もすると症状は治まってきましたので、私は自営でデザイン業を始めようと決意しました。口コミや、紹介で少しずつ仕事も増えてきて従業員を雇える程まで、会社は成長しました。私はデザイン以外でもコンピューターグラフィックで作家として絵を描いていて、全国規模のコンテストに受賞しました。 自動車は私はベンツ。家内はミニクーパーと外車を乗り回し社会的な地位も僅かながらでは有りますが確立するかと思った矢先に、遂に凶悪な悪魔が眼前に現れました。猛烈な目眩に襲われ、パニック状態に陥ってしまいました。歩くことも座ることも何もできず、脂汗が溢れ出してきました。自分で「119番」で救急車を呼んで病院に担ぎ込まれました。この事が原因で私は鬱病になってしまいました。精神科の医師は「境界例」という病名で、精神障害者2級の手帳を交付され、仕事も手に付かないので生活保護を受給することになってしまいました。保護費の限られた僅かな金額で細々と生活をしていましたが、私の鬱状態は一向に改善する兆しも無く、社会的地位は没落の一途を辿ることになったのです。 何の切掛けだか忘れましたが、ある本で「リタリン」と言う薬が有ることを知り、精神科の主治医に申し出たところ処方していただけました。この薬を飲むと鬱など完全に吹っ飛んで躁状態になり、自分がスーパーマンにでもなったかのような錯覚を覚えて、自分には必要不可欠なる薬となってしまったのでした。しかしこれが邪悪で、人間を崩壊させる悪魔の薬とは気が付きませんでした。「リタリン」さえ飲めばどんな仕事も陽気に軽くこなすことが出来て、2,3日の徹夜で仕事をする事さえ可能になったのです。 「リタリン」を飲むと気が大きくなって高額品を後先考えずに購入してしまい。挙げ句の果てには家内のクレジットカードを盗んで買いまくりました。当然借金は膨大な額になり、返済は不可能な状態で、どのクレジットカード会社からも、解約通知が送られてきてカードの使用が停止させられました。又、病院からの「リタリン」の処方量では満足できなくなりインターネットで検索をして「リタリン」を1錠600円という高値で購入して服用する事になってしまいました。「リタリン」を買うためにサラ金業者からも借金をして、もう完全に返済不可能な状態にまで陥りました。 当然のように家内は請求書が配達される度に激怒し、私を罵倒しました。「生活保護を受給した時点で夫として感じていなかった」とか「リタリンを買ったら離婚する」という誓約書さえも書かされました。家内は泣きじゃくり激怒し、完全に私を嫌っている事は明白でした。離婚!離婚!離婚!と毎日のように、離婚届にサインをするように催促の嵐でした。 それでも私は「リタリン」の魔の手から逃れることが出来ませんでした。協議離婚ということで離婚届に、遂にサインをしてしまいました。又一文無しのボストンバッグ1個で家から放り出されました。 自動車もありません。又昔のように自転車だけが移動手段です。生活保護の限られた金額では、私の遣り繰りが下手なせいもあって、1ヶ月の間保護費では生活出来ないのです。ポカリスエット1本プリン1個 いなり寿司3個・・・これが私の一日の食事です。ガス代が勿体ないので風呂にはほとんど入りません。洗濯(コインランドリー)の200円が勿体なくて一ヶ月に1回しか洗濯しません。不衛生極まりない毎日です。部屋は散らかって整頓が出来ず。これが私の本当の姿(正体)なのかもしれません。生活保護費の前借りも幾度となく頼んでいるので、ついにその「つなぎ資金」の貸し出し停止となり、毎日家計簿を付けるように義務付けられています。お金が無くて断食することもあります。空腹の辛さ、空腹で睡眠も出来ないのです。 誰も私の部屋へ訪れる人は居ません。誰も私を人間として扱ってくれません。生きている価値さえ無く、たとえ餓死したとしても「へぇ」で終わり。かといって死ぬ勇気も無く、ただ阿呆のように毎日同じ事を繰り返し、毎晩眠る前に明日の朝こそ目覚めることなく死んでいますように・・・と祈って床に入ります。 44歳の誕生日も断食でした。私の誕生日など誰も気にしていません。もしかすると、説明は不可能ですが、私の今、この現状が至上の幸福なのかも知れません。
今手元に、私が精神病院に入院していた時に長女から届いた一通の手紙があります。
毎日がんばっているお父さんへ 調子はどうですか?入院はくるしくて、イヤだと思うけど、私のお父さんとして 元気な顔で帰ってきて下さい。学校は楽しいけれど、つまらない時やかなしい時は お父さんのようにがんばります。 H小学校4年 小梅
涙が込み上げてきて泣いても、泣いても、涙を止められませんでした。人に見つからないように泣きました。悲しくて恋しくて、手紙の文字を指でなぞったら大粒の涙が手紙を濡らしました。家庭内の事情も知らぬ子が一心不乱に書き綴った一通の手紙。この子達に一点も恥じることのない生活をおくりたい。心が締め付けられるようです。前妻は私に子供達を私に逢わせようとしない事は、胸を引き裂かれんばかりの辛い思いをしているのです。
大地に根を張る大木とあれども、根が枯れて大地に存在する多種多様な栄養を吸収することも出来ない、人間の形をしていても中身は空っぽ。枯木。まさに今までの私の生涯は枯木の体裁でした。実がなることもなく、葉が紅葉する事も無く、斧で叩けば意図も簡単に朽ち果ててしまう枯木です。過去にも枝に果実があり、葉も洋々と生い茂った事も全ては幻だったのです。他人や社会を恐怖する。人間界においてたった一つ真理らしくおもわれたのは、たったそれだけでした。 法華経に「逢うは別れの初め」という「会者定離(えしゃじょうり)」と言う言葉がありますが、私にはどうしても納得がいかなくて、胸が苦しくなる言葉です。こんなネガティブな方程式はこの世から消え去って欲しいとさえおもうのです。「別れは出会いの切掛け」とでも思えば、少しは気が休まります。万物には初めがあり、必ず終わりがあることは否定できない事実でありますが、生物、物、道具には必ず「寿命」というものがあります。私の拙い認識ですが、それら万物の寿命を全うするまで、どれだけ愛情を持って接することが出来たか?が問題なのだと今更ながら思っています。人には大切な宝物の一つや二つはあると思います。宝物は物でも、人でも宗教や思想でも構いません、その所謂宝物との関わりで自分が幸福で平和な気持ちになることができるのならばなお幸せなのだと思います。 「現状に満足している者は、敗北者である。」ガリレオ ガリレイ あとがき この手記は、行きつけのバーの店長に見せてもらい拝借したのだが、この狂人は、酒も飲まず、ギャンブルもせず、ただタバコが唯一の道楽であったようだ。もちろん彼とは直接対面したことも、ましてや話をしたことも無いが、一般から見れば、ただの腑抜けた男と捉えられるだろう。しかし、文面の隙間に籠もった怨念とでも言おうか執念とでも言えばよいのか、それこそ恐ろしい手記である。かなり簡潔に生涯を省略して書き綴ってあると読めるが、その省略せざるを得ない阿鼻叫喚の地獄図が裏側にべっとりと貼り付いているのを感じる。こんな人間なら仕方がない、自分で自分の首を絞めているだけだ、と言ってしまえばそれまでだろう。だが、どうしても邪悪なる天命が、彼の周辺に付きまとって、どうしても拭い去れない「運」を感じられずにはいれない。自らを枯木と呼び、人間社会に背を向けて自分の殻に閉じ籠もっている様子は、確かに精神医学的には「鬱」であることには間違いのない事実であると感じさせられるが、彼にはそういった単純に枠組みの出来ない致命的な幼少時代の経歴による悪癖が生涯を波瀾万丈なものにさせているのではないだろうか? 今頃、彼は死んでいるのか、生きているのかさえも、店長も知らない。 「あいつは甘えん坊なんですよ」 「世渡りが上手く出来ない不虞者だから」と店長は言う。 「リタリンの虜になってしまったから、もうダメでしょう。あの薬さえ飲まなければキリッとした紳士ですよ。」 グラスを拭きながらバーの店長はこう言って背を向けた。何故このような手記を手に入れることが出来たのかと尋ねると、 「リタリンを100錠ばかり飲んで、一晩で書き綴り、突然持ってきて、それっきり…」とのことで、 「初めにリタリンを処方した医者の責任だよな。」 と言いながらタンブラーの氷を入れ替えて、差し出しながらマスターが言うのです。 「私には一蓮托生する物も気力もないのだ。生者必滅なんて縁がないんだよ。」 とバーの店長がこの言葉をくどいほど聞かされたそうだ。 「愛する物や人から離れ離れになることは誰しも苦痛を感じることだが、ましてや愛している人に憎悪される事ほど寂しい物はないだろう。マスターはどう思う」 と聞くと。 「彼は世の中と繋がっている細い細い糸で命辛々生きている様子だったよ。それに自分からその細い糸を断ち切るような言動をするからねえ・・・これじゃあいけない。人様には腰を低くして気取らず、自慢せず、高ぶらないように言って聞かせましたどうやら彼には馬耳東風の様子で、目先の快楽を手に入れることが必死なんですよ」 続けて店長は、 「私は枯木なんですよ。葉も実も無い根が腐った枯木なんです。誰も援護してくれる人など誰も居ないんですよ」 と言っていたらしいのだ。自滅の一途を辿る彼に回復のチャンスは訪れるのだろうか? 住所も連絡先も解らないので対面することは不可能だがこの凶人に一目でも逢って見たい衝動に駆られ四方八方手を尽くしてみたものの、行方は全く不明。もしも神様が居るのならば彼の命だけは奪わないでもらいたい。きっと再起の時が来るのをジッと我慢強く待つのが彼の一生涯掛けての役割だからである。お子さんも二人いらっしゃるようなので、 せめて血の繋がった子供にだけは、悲しい思いをさせぬようにするべきだ。 マスターに、 「枯木も何時かは実や葉を付ける事だってできるじゃあないか。」 「大きな快楽を求めなければ、自然と大きな悲しみもやってこない。枯木のままでもいきていれさえすれば、幸運は必ず訪れる」 もしも彼が現れたらこの言葉を伝えて欲しいと頼んだ。 「聞く耳持ちますかねぇ」 とマスターが言うので、とにかく告げるだけでいいからと言って店を出た。 まだ10月半ばだというのに自棄に寒さが身に染みた。
偽善失愛 第二章 私は罪深い男です。どうか許してください。 私は勤務していた会社の酷く、醜い男には縁の無さそうな女性を誘惑しました。 当時の私はひどく貧乏でしたので、自宅には固定電話がありませんでしたから、その女性に電話番号を教えてくれというメモを渡しました。 その女性は直ぐさま、電話番号を教えてくれました。私はボロアパートの前にある公衆電話で毎日のように電話を掛けて、必死の思いで彼女を誘惑したのです。 彼女は私のことを「白馬の天使」と思ったそうです。彼女のそんな気持ちと裏腹に私は一人暮らしの寂しさ故の必死の決意での求愛でした。 彼女のルックスはお世辞にも良いとは言えず、話をしていてもボキャブラリーの少ない、所謂「知識の薄い」人でした。 私の理想とする女性とは懸け離れた存在で、少し難解な言葉で会話しても、彼女にはチンプンカンプンで、私は自分の言った言葉に更に解説を加えないといけないような、とても手間のかかるありさまでした。 しかし、とても純粋で無垢、そして無邪気で裏表のない性格に、いつの間にか私も情が沸いてきました。真に純粋で、仕事だけは見事にそつなくこなすのです。 会社の中では事務員の中でもリーダー的存在の地位を獲得していました。 例え知識が薄くても、社会にはとても溶け込み、与えられた仕事を完璧なまでにこなす姿は、私が電話で話している彼女とはまるで別人でした。 社会という恐ろしい場所では決して博学でなくとも、勉強が出来ずとも、人間性の良さと純粋で真正面に仕事に向かう姿勢さえあれば、一流の社会人として確たる地位を獲得し得ると思い、裏腹に、空恐ろしい思いでした。 私は電話で毎夜、毎夜話をしました。話の内容は他愛もない会社の愚痴話と人間評価が主な話題で、思想や人間についての、深層部分の会話はまるで通じなかったのですが、それでも二人の関係は日々確実に接近していきました。 そうしている間に彼女は私の部屋に遊びに来るようになりました。 一部屋に二人きりで居ても、私は全く性欲さえ感じさせない不思議な女性でした。 とにかく純白・純粋で悪を知らず、悪を憎み、善と常識。辛抱強くて気さくな人。 私は今までこんなに真っ白い女性に出逢った事はありませんでした。私の寂しさ紛らわしとしての醜い考えには、とても勿体なく、私は自分の罪深さを嫌と言うほど感じていましたが、私のような変人に対しても、一心不乱に愛情を直向きに傾ける姿勢に、自分の罪深ささえも何時しか消え去っていました。 彼女は母子家庭に育ち、家庭環境が非常に複雑で、とても哀れみを私は感じていました。しかし、当時の私は社会的信用が無く、ショッピングローンさえ通らなかったのですが、彼女の名義を借りて、立派なオーディオ機器を購入し、電話回線も手に入れることが出来たのでした。 まるでこれでは、実にだらしのないヒモのような体裁でしたが、独りぼっちの孤独感も寂しさも彼女のお蔭で随分癒されました。 そして何時の間にやら同棲生活の真似事のような事を初め、肉体関係を持ちました。 日常の彼女は天真爛漫で、とても朗らかな態度で私に接してきますが、その彼女の最大限の愛情表現を素直に受け止めてあげることが私にはできませんでした。 私は元々独占欲の強い人間ですが、彼女に関しては全くと言って良いほど感情が高揚する事はなく、友達とお酒を飲みに行ってくると言われても何の躊躇もなく 「いってらっしゃい」 と送り出し、何事に対しても彼女に限って、嫉妬することもありませんでした。
お互いに自分の好きなように時を過ごし、一切束縛する事もなく、自由奔放な同棲生活の日々をおくっていました。 自然の摂理の如く、彼女との間に子供を授かりました。私はどうしても、彼女と自分の間に生まれてくる子供を受け入れる事が出来ませんでした。 それは単に、容姿の問題が大きな壁となって私は困惑しました。その結果 「まだ私たちには経済力も無いので子供は諦めてくれないか?」 と必死に中絶手術を懇願しました。彼女はこんな時にもとても素直に私の口先三寸嘘八百の願いを聞き入れて、堕胎することになったのです。 私は大きな罪を犯したのでした。彼女を傷つけ、この世に生を受ける筈の子供を殺してしまったのです。仮にどんな理由が有るにせよ、一人の人間として最も恥ずべき行為です。 彼女は持ち前の明るい性格は、こんな一大事をひたすら堪え忍び、何事も無かったかの如く私に接するのです。平常心を保つ懐の深さに、私は地獄の烈火を浴びるような気持ちでした。 どれほど辛く悲しい思いをさせてしまった事に己の我が儘を素直に受け止めてくれた彼女の底力を感じると同時に、驚異しました。 当時の私はひどくお金に執着心を持っていましたので、仕事以外にもファミリーレストランで深夜のバイトをしていましたので、彼女の収入と私の稼ぎを合計すると、充分過ぎるほどの経済状況でしたが、決して彼女は贅沢もせず、家庭の経済の安定に対しては必死でした。 これだけの収入があれば、衣類や装飾品を欲しがるのが女性の性とも言える事柄なのに、決して無駄遣いをしない人でした。無駄遣いだけには留まらず、節約の遣り繰りの上手さには流石に舌を巻きました。 天真爛漫、世渡り上手。一直線な彼女と、腹黒く、短気で、神経質、世間が嫌いな私・・・まるっきり天と地、月と鼈。住んでいる世界が違う2人が一緒に暮らしているトンチンカンなカップルです。 しかし、こんな狡い私に対してとても献身的に身の回りの世話をそつなくこなし、不平も一言も言わずにせっせと働く姿に、私は仏を見ました。
私たちはお互いの行動に口を挟まず、一切はボロアパートに同居しているだけであり、何の目的もなく、何のコミュニケーションも無いのですが、不思議な、ぬるま湯に漬かっている面持ちでした。 当時の私の手帳を見ると、こう記してありました。 「微温湯で自分を見失うな。自我を取り戻せ」 私は幸福だったのでしょう。そんな至福の状態と時間の狭間をのんびりと漫ろ歩きしていました。自分自信を見失うほど、ゆっくりと時が過ぎていきました。 他人様には「仲良しだね」と背中が痒くなるようなお世辞を言われ、喧嘩の一つもしない私たちも、2年程の同棲生活に終止符を打つべく婚姻届を出しました。立派な結婚式も披露宴も無いとても静粛な入籍でした。 所謂、書面上だけの結婚でしたが、彼女はひたすら歓喜し、反面私は惰弱となり下がっていました。 私には幸福と言うものさえ難解で迷宮入り。 「すべて有り様に従わん。」 美醜にも拘らず、形振り構わずノホホン顔で白雉に一点の紅の痕もなく正義を重んじ、悪を許さない人間になって仕舞いました。 私が間違えを起こした夜でも、布団の上に丁寧にパジャマが畳んで置いて有り、私の罪を意図も容易く言許す事が出来る人でした。 どれだけ心労が重なろうとも、一筋にこんな腑抜けの此方を信じて疑わない赤心な見目姿に幾度となく私は心を刃に賦したことでしょう。 仏の顔も三度までと言いますが、彼女の透き徹るような頑強なる生き様を演じきれる女性を私は知りません。
母の温もりにも似た清純な包容力は、一体全体何所で会得し得たのでしょうか? 箸にも棒にもかからない堕落の一途を辿る私の人生の切れ端の中で、世の師表と仰がれる女性でありました。
光陰矢の如し、彼女との終結の刻が眼前に迫り来る時にも、微動だにせず、最後の最後まで私と言う愚かで阿呆な人間を信じて疑わない人でした。
ある日久しぶりにアパートに戻ったときのことです。 ポットに湯を沸かし、私の好物の玄米茶を直ぐに飲めるように用意して、 「暖かい間に飲んでね」 と、書き置きされたメモを残していった彼女の散り際の潔さに、私は心の底からはらはらと落涙しました。 神は正直の頭(こうべ)に宿るとは、正に的を射た一句でしょう。私の生涯は一杯のお茶を機に撲滅の一途を辿る事に為るとは想いも及びませんでした。決して失ってはいけない人であった事を知るには遅疑でした。
「この人を留まりにとも思ひとどめ侍らず」 源氏(帚木)
Aphorism 第三章 【愚痴】 「こうすれば良い」「ああすれば良い」 「あなたに比べれば私の苦労の方が…」「世の中と言うもの…」 皆、人の愚痴など聞きたくもないようだ。 万人に起こりえるトラブルの解決策は、あきらめと自己満足。 なぐさめの連続にのみに存在する。仕事の悩みなど常に実利が付きまとうゆえ 混乱と困惑が入り交じり混迷を呈する。金が全てかと、毎度の事のように頭を垂れる。
やさしさは、いつのまにか自分に「辛さ」として返ってくる。 他人を思いやる事を疎ましく感じているのではない。 その「辛さ」に疲れているだけである。
何と言う事だろう。仕事といえば全てが許され、正当化される。 金、金と言えば「せこい奴」と一笑するくせに、仕事といえば 何故それ程までに簡単に済ませることが出来るのか。 それは病気と死との関係に似ている。
誰とでも我慢して上手に付き合うのが人間としての器の大きさ。 何でもかんでも飲み込めることが、懐が深い証拠。度量が広いことはすばらしいこと。 こんな戯言、いつ迄聞かなければならないのだろう。 そんなものは、馬鹿な大人が作ったお伽話、 子供に憧れる大人が大人ぶっている浅ましい作り話に過ぎない。 所謂それらが大きかったり、深かったり、広いと何がどうゆうふうによいのか。 「金儲けの為の芝居」とでも自白したまえ。自分の醜い金銭欲を体裁良く飾らないでほしい。
私は何も人と争いたいわけでは無い。 出来れば皆と仲良くやっていきたい。心からそう思っている。 でも「あなた」のその一言が私に「もう誰とも仲良くしたくない」と思わせる。
【芸術家1】 死を目前にしても手を止めようとしない人。
【芸術家2】 自身の死より創作そのものの方に主気を感じる事のできる精神状態。
【芸術家3】 創作が最後の逃避の現場であること。
【誇り】 誇りとは決して他から与えられるものでは無い。 誇り高く生きていくということは、 自分の中にある倫理に反せず生きているという事である。
【病】 人間が生物である以上、病気は避けて通れない道なのかも知れません。 仮にそれが「死」を招く病であったとしても、死にゆく人間にとっては病原菌は敵ですが、生きようとする病原菌にとってみれば抗生物質などの薬物は天敵中の天敵なのでしょう。算数の初歩のような話です。
【本音と建て前】 「あなたの本音が聞きたい」馬鹿な、なんと馬鹿な質問でしょう。 自分の本音をひた隠しに隠している人にかぎってそんなことを言うもんです。 「本音で付き合おう」そんな事を言う人に限って他人の失敗に対してとやかく口を出す。 A:「私は嘘をつきません」 B:「其の言葉が嘘だ」 こんな話、今時小学生でも知っている昔話、大の大人が偉そうに言わないでほしい。 確かに私は回りくどい言い方をしているかも知れません。 其の通りです。素直に認めましょう。そこまで私の言うことを注意して聞いていてくださるのなら、 何故私が「貴方のことが嫌いだ」と言っていることに気が付いてくれないのですか?
【友人】 忘れかけている感情と感覚が蘇ってくるような響きを讃えた言葉だ。 昔住んでいた家の近くに行ってみた。その時、自分の周りにいた人達の顔が浮かんできた。 昔に押し戻される自分を感じた。そして、世の中、自分の思わぬ方向へ転がるもんだと つくづく感じながら、その辺りの空気を感じていた。そこには昔と変わらない空気があったし、 時間があった。
【夢】 私は今、夢の中。夢の中の自分が居る。目を覚ましても夢の中、恐怖である。 目覚めることが無い夢なのだ、地獄である。又、悪魔の手が忍び寄ってきている。私には、その足音が聞こえるのだ。夢の中の自分が夢から覚めようと必死でもがき苦しんでいる。「夢から覚めることが出来れば・・・」いや、この夢は決して覚めることのない夢なのだ。夢の中で夢を見ること事さえ苦痛なのだ。悪魔が来る!すぐそこに来ている!私には分かるのだ! この感覚。この感触。間違いない!私は目覚めている時でさえ夢を見ることが出来るのだ。
【暗闇の中】 暗闇の中を私は歩いた。暗闇の中から時々「フッ」と色々な人が顔を出しては消えていった。どうしようもなく落ち込んだ時、誰かに相談を持ちかけても、皆暗闇の中に逃げ込むように私の前から姿を消した。それでも苦しくてたまらないので後を追いかけ呼び止めると、その人達は決まって憤慨した。 私は暗闇の中を走っていた。歩いていたときのように色々な人は現れなかった。私は走っているのにも関わらず疲れてはいなかった。でも時折、走っている私を呼び止める人達が現れた。私は立ち止まりその人達の話に耳を傾けた。その人の話は私にとって、何の意味もなくただただ退屈な話ばかりだった。 私は暗闇の中で立ち止まった。暗闇はじっと動かなかった。
【無欲】 なにをきれい事を・・・・無欲=無知なのではないのか? 欲の塊のなかにこそ、無欲が存在できるのでは無いのか? 欲して、欲して、とことんまで欲して、自分の無能さに気づく事が出来たときにこそ、 無欲を讃えようと心に誓う。
【商才】 商才とは、その人間の実力か?偶然か?あまりにも醜く惨たらしい人間に、そんな商才と 言うものの存在を発見することがあります。口べたで、あまえんぼう、優柔不断で決断力無し、 そんな人間にも商才はあるのです。商売、金儲け。人間は全く不可解で厄介な問題を 抱え込んでいるものだと感じます。
【才能1】 才能は努力が嫌いです。努力は才能が邪魔です。
【才能2】 自分の創作物を振り返ったとき本当に才能のある人はどう感じるのでしょう? その点、私など、さっき作ったものでさえ既に古くさく感じられ嫌で仕方がありません。 仕上げた瞬間のみ至福の喜びを感じ得ます。きっとこれは私に才能の無い証拠なのでしょう。 これだけは間違い無いことのようです。
【道】 ここに一本の道があるとします。その道の両脇には幾つもの出店が並んでいるとします。 自分には不必要なその店々も道を歩くうえで十分な退屈しのぎになりますが 道草の大きな原因にもなります。道草に大きなチャンスが含まれることもあるでしょうが、 単に時間を無駄にすることの方が多いかも知れません。しかし道草も道を歩くうえでの 大切な要素です。
【価値観】 人それぞれの多種多様な価値観があると思います。大いに結構。それだから社会の システムが成り立っているんでしょう。他人の価値観を批評しながら自分自身優越感に 浸る行為も人間にとっては必要なことなのでしょう。
【至福】 生まれつき裕福な家庭に育った者は幸せです。不幸を味わえる機会があるからです。 生まれつき貧困な家庭に育ったものは不幸です。多少のお金を握っただけで傲慢に なるからです。
【時は金なり】 もしかすると「金は時なり」なのかも知れません。 時間があればお金儲けも多少楽に出来ると言うことかも知れません。人物が限定されますが。
【コンピューター】 それは確かに便利な道具である。数年前までは、パソコンには全く縁の無かったアナログ人間 の私でさえ、今では、キーボードを使わないと文章を書く気が起こらない程である。 道具が道具たる所以をかんじるが、それと同時にあくまでそれは道具にしか過ぎないのだ。 大工が玄翁のみで家を建てた話しなど聞いたことがない。
【確率】 生きていること事態、死ぬ可能性をはらんでいるといっても決して言い過ぎではない。 それは外出しただけでも確実に何パーセントか上がるのである。
【金】 私の近くに二言目には「金」の話をする人間がいた。 私はその人にこう言った。 「勝手にして下さい。」 そしたらその人はまた「金」の話をし始めた。私は思った。 「彼には金と人に縁がないのだろうな。」と。
【常識】 「あなたは常識から外れている。」私は何度この言葉を耳にしたことだろう。 「常識という言葉を借りて他人を批判しないで欲しい。その常識とやらは、あなたの尺度でしょ? 私は自分の中に他人に比べて恐ろしく欠落している部分を幾つも発見して、 当惑に明け暮れることがよくあります。 体の皮膚そのものが神経と化しているかのごときの「神経症」の症状や、 睡眠中でさえ五感は働き続け、得体の知れない「恐怖」に対して恐れおののいている自分。 これこそが私の正真正銘の正体なのです。些細なことにくよくよして、気にし過ぎる傾向。 そして、何時もその自分に自分が押し切られている状態。 自己嫌悪の感情がやってくる前に、自分自身の精神が自分を叩きのめしている始末。 冷静に自己の判断・診断・観察ができるのは一日の中でも極々限られた時間しかないのです。 私自身を客観視できる時間は私の一生のうちで非常に限られているのです。
【夢】 時折夢の中で子供の頃の純真無垢な感覚を取り戻す時がある。 そんな時の目覚めは決まって憂鬱で重苦しいものとなる。 子供の頃のそれは、もう二度と取り戻すことが出来ないのか? もし取り戻すことが出来るのなら、私はどんな苦労も惜しまないかもしれない。 しかし、果たしてそれが叶ったとしても私が幸福を感じられるかどうかは甚だ疑問である。
【許し】 「一時でも構わないから、自分を自分で許してやったらどうだい?」 そうすれば悩み事の一つや二つは末梢されるかも知れない。 自分に厳しくするから、必ず追い詰められて逃げ場が無くなるのだ。
陰脳困惑 第四章 二十年前に決別した女性から突然電子メールが届きました。 「永田と言いま。昔の友人です。わかりますか?」 私は永田と言う知人が数人いたので、 「フルネームで教えてくれないとどちらの永田さんかわからない。」 と一行のメールを送信しました。 「ゴメンナサイ永田成子です。お話しがあってメール差し上げましたが、ご都合はよろしいでしょうか?」 とのことで、 「ああ成子ちゃんなの?元気にしている?メールは何時でも見られるから大丈夫だよ」 と返信しました。 「どうしても納得がいかないことがあるのでお話しできれば・・・」 と言うことで私は携帯電話の番号を知らせました。 「納得いかない事って何?」 電話口で彼女は錯乱状態でした。 「性的な問題なのだけど、」 と話し始めました 「当時あなたは私に目隠しをして、セックスした覚えがあるでしょ?」 二十年も前の話なので私も記憶が薄らいでいましたが、多分したかも知れないと思い、 「ああ、もしかするとそんなことも有ったかも知れない」 と生半可な返事をしました。続けて彼女は 「その時貴方は目隠しをしたまま、部屋を出て行き、誰か他の人が私体の中へ入ってくるのを感じて、一体事実はどうなの」 と唐突に話を持ちかけられました。勿論私にはそんな記憶は全くなく、愛する人を他人に性行為をさせるなどとは全く記憶にありませんでしたので、 「冗談じゃないそんなことあり得るはずがない。誓っても良い」 と返事をしたところ、彼女は全く私の言葉を信用せずに、 「絶対貴方では無い人が私を犯した」 の一点張りで私の言うことに耳を傾ける事さえしませんでした。 私は本当にそのような非常識極まりない行為は一切した記憶がなかったので、電話でも、 「神に誓ってそのようなことはない」 と言い続けました結果、漸く彼女も納得してくれた様子で、その後はメールでのやり取りがメインになりました。二十年の間この事で悩んでいた彼女のメールには、私に対する恨み事の羅列でした。 「私があなたと付き合っていた時どれ程苦労させられたと思っているの?」 で始まり、挙げ句の果ては、 「本当に頭にきています。 具合悪い上こんな事で頭にこなきゃならないなんて、本当に悲しいです。 連絡さえとらなきゃこんな事にはならなかった事にものすごく後悔している。 あなたから逃げてからいつ見つけ出されて殺されるのではないかとビクビクしながら何年も暮らしていた。 何年かたって目黒の私の部屋に尋ねてきたとわかりすごくショックだった。ずっと接触しないままでいたかったから。あの接触さえなかったら今回連絡を取る事もなかっただろうに… 20代前半にバイクで交通事故に遭った。車におかまをほられて骨折、打撲… 治療には長い時間がかかったし、後遺障害の認定を受けるほど当時は辛かった。 でもなぜ今、その加害者を思い出して頭にこないかわかる?それはまあ納得のいく慰謝料をもらったから。最初は納得がいかなかったし、加害者の誠意をみじんも感じられなかったから、結局弁護士に相談して解決してもらった。金には人を癒す力があると思うよ。あなたの言うとおり、誠意はお金に換算されるね。 あなたとの昔の事で辛かった事、本当にたくさん覚えている。そんな自分が嫌になる。殴られたり脅されたり、音楽をやめろ、と言われたり(私に音楽やめろと強要する割に自分はやる気満々だったのがよくわからなかったけど)とにかくどんどん出てきてしまう。去年連絡を取るまではここまで思い出して頭にきていなかったけど、特に最近腹が立ってしょうがない、怒りが怒りをよんでしまうマイナスの相乗効果。体調にもすごく影響している。だからもう接触するのは、やめにした方がいいと思う。そうしませんか? 前にも書いたけど、ツケを払いたければ、口座に振込んでくれればいいですし。 連絡取らない方がいいと思うので、そうしませんか。」 とこの有り様の内容のメール。そして最終回というタイトルで、 「言いたい事は山ほどあるけど、私の思いをぶつけても受け止めてもらえないみたいだから、もう連絡取るのをやめます。 腹が立つのはお互い様?よくそんな事言えたな。暇つぶしでこんなメールやりとりする気ないし、じっくり考えた。もう終わりです。 (ちなみに私、色々事情があって日本を離れる事になりました。体調も悪いしすごく悩んだけど決心しました。このメルアドはこの先私が死んでもそのまま残ってしまうけど、もう返事出さないで!!!!) ×××××さようなら」 だそうだ。 余命を宣告されて日本を離れると言う意味も難解であるし、子宮癌の治療費は誰がバックアップしているのか? 何故幾度となく引っ越しをするのか? 住所も電話番号も知らせずに、心の底からお悔やみ申す気持ちもない。男女の関係には必ずと言って良いほどお金が付き纏、恐るべき記憶力を駆使して、有りもしないことや、誤解や勘違いの連続で、困惑するにも甚だしい定性で、自分は癌で、余命幾許も無く、日本を離れるという、希少天涯な生活を送っている彼女には、同情の欠片もなくなりました。 それと同時に何故だかとても胸が詰まるような哀れみを感じましたが、仮に50万円の現金があっても彼女に手渡すことは無いでしょう。お金で解決するよりも以前の問題で、 私はこう言いました。 「まずは、仲良しになろう。話はそれから」 と書き綴りました。啀み合っていては何も生まれないし前進しないとおもったからです。 人を憎むことの愚かさ、憎まれることの悲しさ、これほど人間界に置いて醜い事はありません。過去の罪をお金で精算したところで何が生まれるというのでしょうか? しかも50万円という金額で20年間の重荷を精算できるのでしょうか? 女性は怖い、とんでもなく怖い。次にお金という物も怖い、どうしようもなく恐怖を感じてしまうのです。 しかし、これも私の身から出た錆びなのでしょう。きっと、そうに、違い有りません。 ああ、どうして私という人間は、自分でも知らぬ間に他人様を傷つけ、憎悪させてしまうのでしょうか。 癌という、極限状態でありながらも、私に対して、牙を剥き出しにしてくるということは、その恨み辛みの重さが指し計らえます。逆に、癌患者であるが故に、過去を許せず、気になるのでしょうか?
「成子ちゃんは打てば響く、私にとっては希な人物なのだよ。」 「あら、そうなの?そう言われるとそんな気がするわ」 「昔、毎日長電話で、私の裏の裏まで話したよね。だから、私という人間を世界で、一番理解しているのは成子ちゃんだけだと信じていたのだけれど・・・」 「そうね、昔は長電話が多くて、毎日逢っていたものね。」 こんな他愛もない電話での会話もしていましたし、まさか彼女の心に秘めたる50万円の慰謝料請求の前奏曲とは思いも寄りませんでした。 恐ろしい。恐ろしい。その計画を知ったとき、女とはこれ程までにも執着深く、私が過去に話をした、一言一句までも、記憶している有り様には背筋に冷水を浴びせられたかのような思いをしました。女の執念とは、底知れず深く怨念めいたものを感じさせたれました。
それからも、幾度となく50万円の請求するメールが頻繁に送られてきました。
癌の治療費か? いやいや違う。きっと何か負債でもあるのかと思いました。 何の負債かは計り知れませんが、彼女ららしからぬ、行動で困惑しています。
「50万円で、過去を清算する」 という言葉に説得力が無く、持てる人からなら奪い取れ、とでも解釈させられました。 当然私は50万円を支払うことなく、教えてもらった銀行口座もどこかに紛れ込んで解らなくなりました。
もうメールは出さないからということで、しかしメールボックスは存続しているようです。私は
「ご苦労様」
と一言書き記して終幕を向かえました。 彼女はまだ生きているのか、日本に居るのかさえ解りません。住所も電話番号さえ知らないのですから、手も足もでません。 私がなまじっか優雅な生活を送っている様をメールで書き綴ったのが、彼女の心を揺るがした原因かもしれません。
しかし何があろうとも20年年間のツケは支払いたい気持ちの灯火があります。 「陰脳困惑」ノイローゼになるような話です。
子宮癌でお亡くなりになった人を数多く見てきましたので、抗ガン剤の副作用の強烈さには言葉に出来ない程の苦しみがあることでしょう。
私は彼女専用のホットラインとして携帯電話を一台専用に購入しましたが、今となっては糸の切れた凧のようで、電話機を見る度に回想に耽るのでした。
家族 第五章 私はなんて愚かな人間なのでしょう。いつからこんな有り様になってしまったのでしょうか? 子供のお年玉まで手を出して、遊び呆けています。家内の隠し金も必死で探して、 使いたい放題使いまくって、家内には 「知らないよ、何のこと?」 と、間抜け顔で対応するのです。何時の間にか物事の良し悪しが、見当が付かなくなってしまったのです。
家内は幾度となく子供を連れて家を出ようと突発的に行動をします。 「ちょっとまってくれないか」 と私は説得力が著しく欠けた言葉を投げて引き止めます。これでも家族なのでしょうか?
家族旅行らしきものさえも一度もしませんでした。 その理由というのも、結婚前に私が家内を旅行に誘ったときに、 「仕事があるから無理だわ」 と言ったことを根に持ってワザと旅行に行くことをしませんでした。発想が、まるで子供です。
子供とのコミュニケーションやふれ合いも極度に少なく、一家団欒の会話さえもしない家庭でした。 しかし、私は長女が風呂に入っているときに鼻歌を歌っているのがたまらなく好きでした。 ピアノも習っていましたので音感も良く、凍り付いた家庭を和ませる名役者でした。 長男は、勉学や学力は人一倍擢んでているのですが、絵を描くのが特別苦手な様子で、絵を描く事が好きな私の血統を引き継いで居ない子でした。テストの答案用紙はいつも100点で、通信簿もとても優秀な成績でしたが、私との接点が余りにも少ないので、親子という印象はありませんでした。 「ただいま」「おかえり」 の挨拶さえも我が家にはありませんでしたし、子供達の友人が我が家に遊びに来ると、私は、まるでウジ虫でもあるかのように部屋に監禁され、子供の友人と逢わないようにさせられました。睡眠薬などを飲んで、朦朧としている姿を人様に見られたくなかったのでしょう。 家族という船の中で私は、船底に追い遣られて他人様に接点を持たせないようになっていました。 精神障害者2級の手帳を所持しており、極々普通の、所謂「お父さん」とは違ったのです。 家庭内での違法行為に止まらず、詐欺の真似事みたいなこともして、人間として最低の位置に 値する阿呆でした。 風呂が嫌いで、一ヶ月に一度程度しか入りませんので不衛生極まりない有り様で、(鬱病のせいで風呂に入るのが、何故だか怖いのです。)歯も磨かず朝、顔も洗わない汚い人間でしたから、子供の友人には、逢わせないことが習慣になっていました。それはそれで、私は余分なエネルギーを使わないので重宝していましたが、これがどれだけ重要な事かは随分後になって解りました。家族崩壊・家庭内別居などと世間では言いますが、我が家はそれ以上の異常さで、夫として家内は認めず、子供さえ 「お父さん」 と言って話しかけてくることなど殆どありませんでした。 長女の小学校4年生の娘は手先も器用で、絵も上手に書いていました。ある日、ミニカーを組み立ててプレゼントしてくれました。小学校4年生では難解な微細なパーツで構成されているミニカーでしたので、私は悦喜しました。今でもそのミニカーは大切に保管してあります。 長男は中学1年で、野球狂なのです。私は野球やゴルフなどのスポーツに関心が無かったので 野球の話はもっぱら家内の方が通説していて、家内と長男は野球の話題で花を咲かせていました。私の趣味・趣向は完全に家族には無視され、また家族の温もりも、存在価値も徐々に無くなって行って、私は家庭内において邪魔者扱いをされて、とても孤独感を味わいました。
精神安定剤の副作用で性欲が全くなくなり、家内との交わりも5年回程、1度も無かった状態ですから、夫婦生活にも支障を来した原因かも知れません。どうやら性交渉が無いと、男女は自然と心が離れていくようです。
希に夕食を共にするときでも、テーブルに真っ直ぐに座らない私を見て、家内は 「真っ直ぐしなさい」 と必ず強い口調で言います。 子供達にとっては、父の存在は皆無で、母の権力・意向が重んじられていましたので、私が子供に何かプレゼントをする時にも、 「お母さんに聞いてくる」 といって、家内の承諾を得るという有り様で、一家の主としての権力などこれっぽっちも、ありませんでした。家内もこんな私に献身的に勤めてくれていましたが、何時の間にか、他人に接するような態度になっていきました。
そんな家内を見ていても、不満も言わず、暴力もふるわず、自業自得と思い、自殺を考えていました。死ぬのなら「首吊り」と決めてロープも買いました。でも私には自殺する勇気さえも無いのです。
「死ぬ気があれば何でも出来る」
というのは嘘です。世間が作ったお伽噺だと思います。 薬物中毒・浪費・不衛生、これらが私たち夫婦の絆を切り裂いていきました。憎悪を剥き出しにしてくる家内には、一切返す言葉もなく頭を垂れて時間が過ぎるのを待つことになりました。 私は物を購入する悪癖があって、なんでも一流品でないと気が済まない気性で、ライターは クロムハーツ 時計はロレックス 筆記具はモンブランという感じで、クロムハーツに関しては ブレスレット(37万円相当)も持っていました。ロレックスは50万強。モンブランは8万円程度 1世代前だと 時計ならオメガ ライターはダンヒル 筆記具はパーカーといったところですが、 最近はクロムハーツ・ロレックス・モンブランと言うのが通り相場のようです。
それ以外にも私はGUNマニアでしたので、特別仕様のフルカスタム銃を何丁も持っていました。 法律では規制されているのですが、プラスチックの本体を金属に変更し、更にブラックアルマイト 処理を施し、正しく実銃さながらのモデルガンを買い浚いました。
エアーガンの世界では、最強とも言える銃を自作しました。近距離で撃つと10円玉を貫通するほどの威力で、充分に殺傷能力のあるものを作っていました。10円玉貫通とは、簡単に聞こえますが、実銃並のパワーなのです。
それ以外にも古書蒐集という趣味もあって、日本純文学の初版本を大阪や神戸、東京まで足を運び、異常なまでに執着心をもって彷徨していました。希少な本ですと50万円以上は当たり前で、更に200万300万と価格に上限はありません。当然そんな高価な物は買えないので5万円未満の本を蒐集していました。
どれだけ買い物をしても、私はこれっぽっちも満足感は得られず、それらの品に愛情を感じませんでした。結局、我が家には毎日のように宅配便が届き、不必要なものも含めて、ダンボールが山のように溜まっていきました。
溜まっていったのはダンボールだけでなく、クレジット会社からの請求書の山です。
我が家の家計が崩壊を初めて、夫婦関係の亀裂も深まるばかりした。何故そこまでして、無駄買いを繰り返したのかは、今の今でも皆目見当が付きません。家計を顧みず高額商品の中でも、私の家庭内での孤独感を癒すことは不可能でした。
実際の私は、家族の主でありながらも、家族の者からさえも敬遠され、無視されていることに、とてつもない孤独感を感じていたのです。もう右も左も解らない迷宮に潜り込んでしまった自分を感じていました。
こんな有り様ですので半年も経たない間に破産宣告の手続きをすることになったのは、必然と言えば道理に叶った成り行きでしょう。
弁護士の先生にも、負債の内容について詳しく聞かれましたが、生活苦であったとか、子供の少年野球団の援助だとか、舌先三寸ではぐらかして、裁判所で免責が通るように嘘八百を並べ立てました。まるでピエロの体裁そのものの、必死の崖っ淵すれすれの演技でした。
浅学非才で半死半生の私の悪癖とでもいいましょうか、持って生まれた性格とでもいえる、この事実を微かながら感じ始めたのは母の死後からだと思います。多事多難な人生をおくってきた自滅一途の人生の大きくて、いつも頭から拭い去れない重大なテーマでもあるのです。
「起きて半畳寝て一畳、裸一貫、一文無しの男一匹、侍」
と粋がっていた20代の私が、自分に誇りを持って社会という怪物と闘っているのは、但の見栄の張り子の虎だったのです。この歳になって化けの皮が剥がされたとでも表現すればよいのでしょうか。
愛するものから離れ離れになることは誰でも苦痛を感じることでしょう。ましてや愛している人物に憎悪されることほど寂しいものはありません。
私という人間は世の中と細い糸で繋がって、何時でも切断可能な脆い糸は、どんなに順風満帆な生活をおくっていても、これは一時のまやかしだとしか思えず、孤独は好きな癖に自分が誰からも愛されていないという孤独には耐える事ができません。
コンビニで買ってきた生温いペットボトルのお茶などでは無く、鱈腹愛情がこもった一杯のお茶を沸かして飲ませて下さい。
それは私にとって、どんな薬にも勝る妙薬となることでしょう。
こんな地獄図での生活で;死を眼前にすると、生きた証を残したくなるもすのです。
完
どれだけ追憶にひたりとも、前進する兆し無し。それどころか、後退の一途を辿り、光り輝く兆し なし。この文章は、私のことを罵倒し、中傷した人達への下剋上であり、またわが愛する2人の 子供達へ捧げる事にしようと思っています。そして一時の間でも私を愛してくれた女性に 感謝の意を込めたいと思っています。
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