これまでの捜査から、囚人伊野の独房内死亡事件の捜査は、不慮の中毒死でほぼ固まった。そもそも、刑務所という閉鎖空間で更に独房内という二重の閉鎖空間で殺人事件が発生することは無いに等しい。しかしながら、可能性はゼロではない。常識を覆すのが殺人犯の先天性のようなものなので、常識外の視点を持つ必要が刑事にはある。だが、今回の状況からしてその線に思考を持っていく必要は無いようだ。 当日のモニターチェックは全て済んだ。5時半の夕食トレイ配膳時と6時半の夕食トレイ回収時に看守が、生きていた伊野の居た128号独房の前を通った以外、一切の人影は無かった。また窓の外、こちらは15秒ごとに自動で切り替わる監視カメラの映像だが、人の姿は無かった。機能上、伊野の独房の窓の外が映らない時間が15秒〜45秒あるが、外部の人間や囚人がその変則周期を知ることはできないうえ、鉄条網付きの金網フェンスを乗り越えて敷地内に入ることからして困難だ。 鉄中毒が直接の死因になったと医学的証明は難しいが、刑務所に野菜を納めている農家の土や水から一定量以上の鉄分が検出されたことから考えて、洗浄し切れなかった野菜に付着していた土が夕食に紛れ込み、それがたまたま伊野の口に入った推測することはできる。常人であれば問題ない量だが、鉄中毒の“持病”があった伊野には影響があったのだろう。鉄分は人間に必要な成分でもあり、毒とは言い難い。青酸カリのような電撃卒中死を引き起こすことは無い。しかし、蓄積や一時的過剰摂取で重度の中毒症状を起こす例は少ないがある。おそらく蓄積だろうが、伊野はそれで死んだ。
事件から4日後の5月2日、北原刑事と内藤刑事はある病室を訪れている。 ベッドの上には、事件当夜に心的ストレスで倒れた班長の坂本が横になっている。彼は体の活力がまだ戻らず、入院したままになっていたのだ。 坂本は落ち着いた様子だ。 事件翌日に刑事が事情聴取に訪れたとき、坂本は「許してくれ」とパニックを起こした。医師が素早く鎮静剤を投与して落ち着いたが、やっとのことで生還した遭難者のように憔悴(しょうすい)していた。仕方なく刑事らは医師に事件の説明をして、坂本が冷静に戻るよう取り計らってもらうことにした。死亡事件に遭遇した者は負の感情に覆われて、言われ無き罪の意識を持つことがある。刑事らはその辺を経験として知っていて、また責任者の負の心理を察して、第三者の医師に調整役を頼んだのだ。この負の心理は時として自殺を呼ぶ。気をつけなければいけない。 そして今日、坂本の状態が良くなったので刑事は再度事情聴取に来た。 坂本は声に力こそ無いものの、受け答えは正確で、先日の錯乱状態を引きずっている様子は見られない。死亡事件に遭遇した者に度々見られる“記憶の食い違い”も無いようで、部下の看守たちの話とほぼ同じだ。 北原刑事が話す。 「……大体分かりました。それでは、ひとつ確認をします。これはあなたにとって尋ねられたくない内容かもしれませんが、どうか落ち着いて答えてください。あなたの立場を追い詰める目的で尋ねるものではありません。先に申し上げますが、この事件は不慮の中毒死の線が固く、また看守の皆さんの過失も無いものと考えています。……では、伊野を殺したいと思ったことはありますか? 伊野が死んでくれればいいと思ったことはありますか?」 坂本の表情が少し険しくなる。 しかし、取り乱す素振りはしない。 20秒ほど間をおいて、坂本が口を開く。 「殺したいと思ったことはありません。……けれども、死んでくれればいいと思ったことはあります。伊野の生活行動には手を焼いていました。他の囚人にいちゃもんをつけて絡むことはしょっちゅうでした。……緊急信号のボタンを押したことも何度かあり、あの夜も同じものだと、……油断がありました。それに私は伊野の死体……死んだばかりだろう伊野の顔を見て、気が動転しました。寺川君はすぐさま人工呼吸に入り、私は無線連絡やAEDの準備をしたのですが、……遅かった、と思います。マニュアルどおりではありましたが、訓練どおりに迅速さを発揮できなかった。もし過失を問われても、弁解はしません」 北原刑事と内藤刑事は黙って聞いている。 「私は今日までにいろいろなことを考えて、自分の過失についてある程度の覚悟を決めました。事件直後は保身ばかりを考えていたと思います。家族もいますし……。しかし、責任者としての誇りを考えて、社会や部下に対する示しを考えて、覚悟を決めました。しかし、過失は問わないと?」 「ああ。そうです」 北原刑事は言った。 「それはとてもうれしい」 坂本はどこか力の無い笑みを浮かべた、 「家族と別れなくてすむのは、とてもうれしい……」 その後、いくらか和んだ雰囲気で事情聴取は続いた。 そして、刑事二人が病室から出ようとしたとき、 「あ ちょっと、関係ないことかもしれませんが」 と、坂本は上半身を起こして声を出し、刑事を呼び止めた。 「なにか?」 「伊野を殺したいほど憎んでいる人がいます。榎本月子という名前の女性で、伊野の強姦犯罪の被害者です」 「被害者は誰でも犯人を憎むものでしょうが、殺しに来るとは限らない」 「そうなんですが……、面会に来ているのです、わざわざ。そして、面会室で怒りをぶつけているのです。被害者が犯人に面会に来ることは滅多に無いのですが、彼女は頻繁に来ていました。私は一度だけ伊野の付添い人として彼女との面会に立ち会ったことがありますが、執念を感じました、異常なほどに。それと、どういうわけか、タバコの差し入れをしていました」 「差し入れだ?」 刑事はベッドの脇に戻ってくる。 「はい。なんでも前回来たときの約束で、「タバコがあれば謝罪する」とかいう約束だったと思います」 「会話記録は?」 「はい。残っています」 二人の刑事の頭に、タバコに何らかの毒物が含まれていたのでは、という考えが風船のように浮かんだ。しかし、検案書では鉄中毒以外の毒物反応は見られなかったことを思い出し、毒殺の可能性は急にしぼむ。 内藤刑事が言う。 「あのお、坂本さん。こういった情報はプライバシーの侵害になるのではありませんか? 捜査協力をしていただくのは助かりますが、刑務所の規約ではどういった……?」 「あぁ、そうでした。失念していました」 そう言って、坂本は口をつぐむ。 二人の刑事は捜査のもう一方の線について小声で話し合う。 坂本は黙って見守る。 「坂本さん。その女性は何度ほど面会に来たのですか?」 北原刑事が言った。 「えと……5回か6回だったか、ちょっとわかりません。記録は残っているはずですが、面会に立ち会う看守は不特定でして、全部を把握していないのです。書類記録の開示要求をしていただければ、確実かと思います」 「そうですか……わかりました。捜査にご協力いただいて感謝します」 「あ はい。ご苦労様です」 二人の刑事は病室を出た。 少し歩いてから廊下で話す。 「その女性、調べますか?」 「どうかな。仮に犯人だとして、どうやって伊野を殺したか」 「毒殺では?」 「ないだろう。検案書でもその辺りは疑いないと書いてあった」 「いえ、鉄分で毒殺ですよ。タバコに鉄分を入れて毒殺です」 「タバコに鉄分? 可能なのか」 「わかりません。ですが、面会の記録だけでも調べる必要はあると思います」 「ふむ。書類の開示要求だけはしておくか」 「はい。殺人の線を追いますか?」 「それはどうかと思うがな。確認だけになるだろう、不慮の中毒死の裏づけになるだろうさ」 「そうか……。それが妥当ですね」 二人は刑務所へ向った。
刑務所の受付で書類開示要求の旨を説明すると、看守の田所が笑顔で出てきて、二人の刑事を事務所に案内した。 そこで刑事が榎本月子の名前を出す。 すると田所は、「あの 彼女が犯人なのですか?」と臆面もなく言った。過失を問われないとわかったからか、ご機嫌なのだろう。 北原刑事は反対に機嫌を悪くして眉をひそめる。 「榎本月子を見知っているような言い方だが……」 内藤刑事が言った。 「はい知っています。彼女のことは看守仲間で話題に上りましたから。被害者が面会に来て謝罪要求をすることは珍しいことですから。応援していましたよ」 「応援とは?」 「伊野が悪行を悔い改めて謝罪する日が来るように応援していたのです」 ほう、と内藤は口だけで笑う。 北原刑事は不機嫌のまま口を閉じている。 北原刑事の様子を横目に、目の前の不謹慎人物を戒めることを内藤刑事は考え始める。しかし、昨今では注意されるとただムキになる性格の人間が増えてきたことを考慮して、聴取に無駄な注意を避けることにする。 「一緒に話をしていた看守は誰ですか?」 「結構いろんな人たちが話をしていましたから。たくさんですね」 「そうですか。どういった話の内容ですか?」 「それは……」 田所は口を濁す。 そこで内藤刑事はすぐに、 「伊野に対する文句でしょう。生活態度が悪かったと、これまでの調べでわかっています。看守の皆さんの不満もさぞさぞあったでしょう。“あいつなんて死んでしまってもいい”と、話題にしていたのでしょう?」 と、厳しい口調で迫った。 刑事の凄味に田所はびくりとする。そして、自分が浮かれていたことに気づき、 「いえ あの はい。そういう話題のときもありました」 と、神妙に答えた。 「も 文句も言いましたが、彼女の行動に同情して伊野の改心を話題にもしました」 田所は補足説明した。 「彼女の面会がきっかけで伊野の心理に変化は見られたか?」 「……いえ。看守の私が言うのもなんですが、ああゆう人間は反省をしません。だからといって、伊野にぞんざいな態度をとっていたわけではありません。他の囚人と隔てなく接していました」 ご機嫌具合から一転して、田所は目を泳がしている。 内藤刑事は思う――田所の言うことには一理ある。犯罪者は二通りだ。反省する者と反省しない者。刑務所に入ろうが入るまいが、反省しないやつは反省しない。刑務所制度の限界を感じることは多々ある。再犯を何度も目の当たりにしてきたからな。 「その点は、今は気にしません。榎本月子の面会記録を見せてください。これは、ただの確認捜査です。他の疑わしい点を排除するための確認です」 「は はい。わかりました」 田所はあわてた様子で記録物を取りに行く。 北原刑事は変わらずしかめっ面。 「北原さん」 「ああ わかっているよ」 白髪交じりの北原はさっとネクタイを締めなおした……が、不快な汗でべとついていたので逆に緩めた。更年期だろうか……、彼は時折情緒不安定になり沈黙し、暑くもないのに発汗することがある。このことは相棒の内藤刑事にも言っていない。考えられるものとして更年期障害があるが、これは女性特有の病気で、ホルモンバランスの変化からくるものだから、彼には関係ないと言える。他に鬱(うつ)などの気分障害が考えられるが、北原刑事は単なる老化現象だと、たかをくくっている。それに、今の場合はちょっとムカついただけだろう。 田所が記録物を持ってきた。 それに二人の刑事が目を通してゆく。 面会の女性――榎本月子の行動は異常と言っても構わないほどのものだった。強姦被害者の女性が加害者の前に来て謝罪を求めることからして尋常ではなく、また話の内容も狂気を感じさせるものだった。伊野の言葉も彼女の精神を逆なでするもので、読んでいるだけで憎しみが込み上げそうになってくる、と内藤刑事は思った。 内藤刑事は幼い部分を残していて、気に入らないことに対して苛立ちを隠せないことがある。それは刑事として好ましくない。しかし、それは捜査の原動力ともなっている。自分自身の苛立ちを解消させるために捜査をしてはいけない、と彼は自身に言い聞かせている。良い意味で正義感が強いとも言えるが、正義だけに情緒を持っていくと早死にする――そんなロマンチックな台詞が生死の現場では実際に悲劇を引き起こす。 目を通し始めて30分ほどしたとき、看守がひとり事務室に入ってきて刑事におずおずと話しかける。 「あの 刑事さん。冗談かもしれませんが、いちおうお伝えしておこうと思いまして」 北原刑事は手を止め、どうぞ、と看守の言葉を促す。 「129号室の**が、「伊野を殺したのは自分です」と申し出てきたのです」 内藤刑事は垂らしていた首をバネのように上げ、北原刑事と見合う。 ふたりの目は途端に鋭くなる。 ここまで刑事らは、たいした事件ではないと踏み、漂う空気の悪さにただ不快感だけを募らせていたのだが、一変して引き締まる。刑事の血が騒ぎ出したのだ。 「下澤に会いましょう」 事件が動き出す。 [5〆]
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